「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

エラスムス『格言集』序文

エラスムス『格言集』序文

1500年に初版が出たエラスムスの『格言集』の序文(プロレゴメナ, Prolegomena)は、それ以後の(特に Tuet (1789) 以降の19世紀の)ことわざ論に大きな影響を与えていますが、残念ながら日本語訳がありません。

そこで、このページでは、仏訳(Les Belles Lettres 版)に基づきながら適宜ラテン語原文と英訳を参照し、ざっとこの「序文」(ラテン語原文で10ページ程度、全部で14章)の内容を要約し、簡単な注釈を加えました。要約にあたっては、なるべくエラスムスが使っている言葉をそのまま使用するようにしました。

なお、このエラスムスの本(通称 Adagia, 英訳・仏訳ではAdages )は、日本では『格言集』と訳されることが多く、ここでも一応それに従いましたが、実際にはこの本には「白鳥の歌」(死ぬまぎわに残す美しい作品のこと。I,ii,55)や「昼も夜も」(「ずっと、ひっきりなしに」の意味。I,iv,25)など、到底「格言」とは呼べない、文にすらなっていない慣用句や比喩的表現が多数収録されており、むしろ『ことわざ集』と訳すのが適当かもしれません。

  • この序文では、エラスムスは「ことわざ」を意味する言葉として、主にギリシア語に由来する paroemia を使用しており、その同義語・言い換えとしてラテン語の adagium または proverbium を使っています。この序文を読めば、エラスムスが adagium を日本語の「格言」よりも「ことわざ」に近い意味で用いていることが理解されます。
    正確に言えば、上記「白鳥の歌」などは現代のフランスでは「ことわざ」というよりもむしろ「成句」等と呼ばれます。


エラスムス『格言集』序文の要約

1. ことわざとは何か

古代ギリシア・ラテン以来、ことわざ (paroemia) について多くの定義が存在するが、過ぎたところも足りないところもないように的確にことわざの本質と性格をとらえたような定義は一つもない。
ギリシア人は、よく「人生の行動規範」と「隠喩・寓喩」を(ことわざの条件として)挙げる。しかし、行動規範とはまったく関係のないことわざや、隠喩・寓喩を用いないことわざも多い。最良のことわざは、たしかに喩えによって魅了すると同時に、有益な考えを述べたものであるといえるだろう。しかし、最良のものを示すことと、定義することとは別物である。
私はといえば、「ことわざとは、一般に広く使われる、巧緻で斬新な表現を特徴とする言葉である」と定義できると思われる。(*)

  • (*) このエラスムスによる定義では、ことわざの二大条件として、celebritas(広く行われている・通用していること、つまり皆が知っていて頻繁に口にすること)と novitas(新奇であること、つまりおやっと思わせて関心を惹くような斬新で独創的な表現であること。下記 3 を参照)が挙げられているのが注目されます(「巧緻で」については次の 2 で説明されています)。
    このエラスムスの定義を受け継いだものとしては、たとえばイギリスのジョン・レイのことわざ集 (1670) の序文では、ことわざが「a short sentence or phrase in common use, containing some trope, figure, homonymy, rhyme, or other novity of expression」(文彩、修辞、同音異義、押韻、またはその他の表現の新奇さを含む、よく使われる短い格言ないし文)と定義されています。


2. ことわざの特質と範囲

それゆえ、よく使われることと、斬新さという二つの事柄がことわざの特徴である。実際、ギリシア語の「ことわざ」 (paroemia) という言葉は「道」 (oimos) から来ており、よく通られ、使い古されていることを示す (*) 。ことわざは、人の口づてに、いたるところを旅するからである。
ただし、ことわざは、通常の話からは区別されるような、巧緻なものでなければならない。皆が口にする言葉や、斬新な言葉を、私はすべて本書に収録したわけではなく、古代性および学識という点で推奨されるものについてのみ収録した。これが私が「巧緻」と呼ぶものである。(**)
なお、ことわざの起源としては、神託や、ホメロスのような大昔の詩人の言葉に由来するものや、劇(特に喜劇)に出てくる言葉に由来するものがある。神話に基づく表現もあるし、人間や動物、物の性質を観察することで生まれたことわざもある。

  • (*) 「ことわざ」を意味するギリシア語 paroemia の語源には大きく分けて2つの説があります。一つは、「道に沿って」という意味だとする説で、この説は古代ギリシアから存在し (Cf. Ieraci Bio (1984))、エラスムスはこれに従っています。もう一つは、「脇に置かれた言葉」という意味だとする説で、現代ではむしろこちらの説が支持されることが多いようです (Le Bourdellès (1984) ; Kleiber (2010) etc.)。
  • (**) この点は、エラスムスの定義することわざの3つめの条件といえるかもしれません。「巧みな、巧緻な、賢い」を意味するラテン語 scitus は、scio (知っている)に通じる言葉であり、知識や学識を意味すると、Balavoine (1984) で指摘されています。「皆が口にする言葉」といっても、それは「卑近な言葉」という意味ではなく、むしろ「高尚な言葉」だと、釘をさしている感じです。実際、エラスムスのこの本では、可能な限り古代ギリシア・ラテンの有名な作家の文章に出てくる言葉が引用されています。

3. ことわざに斬新さを与えるもの

鰐(わに)の涙」などのように物事自体が斬新さをもたらすこともあるが、文彩(言葉のあや, figure)が斬新さを与えることも多い。たとえば、隠喩、寓喩、誇張法などである。謎やほのめかしが使われることもある。語の多義性がことわざに魅力を与えることもある。
また、「酒中に真実あり」など、一見すると奇妙な表現をとることもある。実際、「酔っぱらった人は本当のことを話す」というと、ことわざという感じではなくなる。

4. ことわざとそれに類するものとの違いについて

ことわざに類似する表現もいくつかある。たとえば、ことわざ (paroemia) と格言 (sententia) や名言 (apophthegma) とは、重なる場合もあるし、はっきりと異なる場合もある。
たとえば、「貪欲な人には、持っていないものと同様に、持っているものも欠けている」 (*) は格言であるが、ことわざではない。逆に、「港に向けて航海する」はことわざだが、格言ではない。「子供に剣を与えるな」は、ことわざであると同時に格言でもある。

5. 価値から見たことわざの讃美

古来、偉大な人物がことわざに興味を持った。たとえば、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、アリストテレスは諺集を残したということである (*)
旧約聖書にも「箴言」の巻がある。イエス・キリストも話の中でことわざを多用している。古代ギリシアの神殿には「汝自身を知れ」ということわざが彫られている。
ことわざは短いものだが、それは小さな宝石のほうが巨大な岩よりも貴重であるのに似ている。

  • (*) ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第5巻第1章「アリストテレス」伝の26で、アリストテレスの著作目録の中に「金言集、一巻」(岩波文庫中巻p.38、加来彰俊訳)が挙げられていることに基づく記述。

6. ことわざを知ることの大きな効用について

ことわざには少なくとも四つの効用が認められる。
第一に、ことわざは哲学に通じる。ことわざは、太古の哲学者が真理の追究の過程で残した洞察の片鱗だといえるかもしれない。
あるいは、たとえば「友の間ではすべては共有」ということわざは、イエス・キリストの教えそのものであり、またキリスト教の教義の根幹にも通じる。

7. ことわざは説得に役立つ

第二に、アリストテレス『弁論術』クインティリアヌス『弁論家の教育』で取り上げられているように、ことわざは論拠として相手を説得する手段ともなる。
皆が口にすることわざは、長い年月を経て生き残ってきたものであり、真実のみが持つ力を備えているように思われる。

8. ことわざは装飾として役立つ

第三に、論説の中で適切に使われることわざは、威厳や魅力を高める。夜空にちりばめられた小さな星のように、文体に輝きを添える。

9. ことわざは作家の理解に役立つ

最良の作家、すなわち大昔の作家の書いたものを理解するためには、ことわざの知識が有益であり、また不可欠である。そうした作家の書くものには、ことわざを踏まえた表現も多いので、ことわざの知識がないと、正しく理解することができないからである。

10. 難しいがゆえに尊敬を呼ぶ

下手な職人が指輪に宝石をはめ込むのが難しいように、ことわざ的な表現を適切に話の中にさし挟むのは容易なことではない。しかし、容易なことをしていては、人々の尊敬は得られない。ただし、下手にことわざを使うと、馬鹿にされかねない。

11. どこまでことわざを用いるべきか

それゆえ、アリストテレスが言うように (*)、ことわざは食料というよりも調味料として、つまり満腹になるまでではなく、心地よい程度に使用するべきである。不適切な場所に宝石を置いたら滑稽になるのと同様、ことわざは濫用すべきではない。特に、まじめな論説では、控えめに用いるべきである。

  • (*) アリストテレス『弁論術』第3巻第3章3, 1406a 18-19(岩波文庫 p.319)。
    ちなみに、このアリストテレスを踏まえたエラスムスの主張は、コルディエの『会話集』付録の諺集の前書き(1606年版 p.601)でも使われています。


12. ことわざのさまざまな使い方

同じことわざでも、異なる場面に使ったり、皮肉な意味で使ったり、一語だけを他の言葉に置き換えることで違う状況に当てはめられる場合もある。
また、本来は人に対して使われることわざを物に対して使ったり、ことわざをもじって逆の意味で使うこともできる。
全部を言わず、ことわざの一部や単語だけを口に出すような使い方も可能である。

13. ことわざの文彩(言葉のあや)

ことわざ的な表現の特徴として、もともと航海で使われる「順風満帆」や、日常動作の「歯ぎしりをする」、鍛冶屋が使っていた「たたき台に乗せる」などの言葉が、隠喩や寓喩によって一般的なことがらに用いられることも多い。
また、対比や類似に基づく表現や、同一または類似の語の反復を用いたことわざもある。
「寡黙なる雄弁」などの「謎めいた反対」も、ことわざに見られることがある。
「岩も割れんばかりに叫ぶ」などの誇張法も見られる。

(何に基づく表現であるのかによって、以下のように分類可能である。)
<事物自体による表現>
怪物のような人を「怪物」と呼ぶたぐいである。これに類するものとして、「盲目よりも目が見えない」などの比較がある。
<似た物による表現>
「蜜のように甘い」、「雪よりも白い」、「ガラスよりも壊れやすい」などである。
<動物による表現>
「うぐいすよりも音色の美しい」、「魚よりも無口な」、「亀よりも遅い」などである。
<神々による表現>
「ダイアナよりも純潔な」、「ビーナスよりも美しい」などである。
<伝説上の英雄による表現>
「オデュッセウスよりも狡猾な」、「イカロスよりも無鉄砲な」などである。
<喜劇の登場人物による表現>
(例は省略)
<歴史上の人物による表現>
「ソクラテスのように忍耐強い」などである。
<民族による表現>
「アラブ人よりも金持ちの」などである。
<職業による表現>
「兵隊よりも自慢話をする」、「暴君よりも手荒い」などである。

14. ことわざ使用時に前置きをすること

ことわざには誇張法や斬新な表現、あるいはほとんど謎に近い寓喩が含まれることがあり、意味がずれることもあるのだから、ことわざを使用するにあたっては、相手の反応を先回りして、あらかじめ訂正したり、「弁解」しながら使うとよい。
たとえば、「ことわざにも言うように」、「昔のことわざを使うなら」、「面白ろおかしく言うなら」などの言葉を添えるのである。




















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