ラルシェ挿絵
ラルシェの挿絵
このページでは、ロレダン・ラルシェ『フランスの古いことわざ』(1886)を取り上げます。
この本は、19世紀後半のロレダン・ラルシェが、主に16世紀の古いことわざ集から拾い上げた多数のことわざに随筆風の文章を添え、たまたまデッサンが趣味だったために挿絵まで自分で描いてできた本です(最終的にはプロのイラストレーターに手直ししてもらったと、序文に書かれています)。
ことわざに関するフランス語の本で、同じ作者が本文も書き、挿絵も描いているというのは、おそらくこの本だけだと思われます。
主に古いことわざを取り上げた本なので、今でもよく使われることわざと、もう今では使われないことわざが混じっています。そのため、両者を区別して並べました。
- 今でもよく使われることわざ
- 今では使われないことわざ
- 画像中(挿絵の下)のフランス語は昔の綴りの場合がありますが、項目や解説中では現代表記に直しました。
今でもよく使われることわざ
Il n'y a que le premier pas qui coûte.
【逐語訳】 「大変なのは最初の一歩だけだ」
軍隊式の、膝を曲げない歩き方を習っているところが描かれています。
ぎこちなく、大変そうですが、何事も「大変なのは最初の一歩だけ」です。
La force prime le droit.
【逐語訳】 「力は正義にまさる」
- primer は他動詞で「~にまさる」。「droit」は「正義、権利、法」の意味があり、どの意味に取ることもできます(文脈による)。次の挿絵では、昔の形で Force passe droit. と書かれています(passer も他動詞で「~にまさる」)。
この言葉は、ビスマルクの言葉とされることがあります。
先の尖ったヘルメットはドイツ軍のものです。ここに描かれているのは、特徴に欠けた顔なのでわかりにくく、立派な頬ひげを生やしているので「白髯王」と呼ばれた当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム 1世かとも勘ぐってみましたが、服装に無理があるので、ここに立っているのもビスマルクと取るのが妥当のようです。
積まれた砲弾の下には TRAITE DE FRANCFORT(フランクフルト講和条約)と書かれています。1870年に始まった普仏戦争でプロイセン(普)がフランス(仏)に勝利し、翌年にドイツとフランスの間で結ばれた条約です。
この本の作者ラルシェを含む当時のフランス人から見れば、「力」(=ドイツ)が「正義」(=フランス)に勝った瞬間です。
- フランスがドイツに負けたことで、アルザス地方の大部分とロレーヌ地方(メスを含む)の一部はドイツの領土となりますが、このページで取り上げている本の作者ラルシェはロレーヌ地方メスの生まれだったので、「1871年の敗戦と生まれ故郷のドイツ領への併合に非常に心を痛めた」 (Vartier (1985), p.64) ようです。ちなみに、第一次大戦後にアルザス・ロレーヌはフランスに復帰しますが、ラルシェは「メスの地で再び三色旗がひるがえるのを目にするという幸運に恵まれることなく」 (Ibid, p.65)、1902年に没しています。
L'habitude est une seconde nature.
【逐語訳】 「習慣は第二の天性である」
- 次の絵には、昔よく使われていた形で Coutume est une autre nature. と書かれています。
この絵をぱっと見たとき、なぜ屋根にのぼって煙草を吸っているのが「習慣は第二の天性」を表しているのか、よくわかりませんでしたが、この本の作者ラルシェによる次のような解説を読んで納得しました。
- 私は、この真実を突いた、よく知られていることわざについて、何とかしてデッサンを描きたいと思っていたが、実行に移すのは難しかった。長い間、どう描いたらよいかわからず、あまり期待も持たなくなっていたある日のこと、屋根の樋(とい)の上に座ってパイプをふかしている二人の屋根葺(ふ)き職人を見かけた。彼らの冷静さは、習慣の力をとても雄弁に物語っていたので、私は家に帰ってきてスケッチを描いた。
つまり、危険な高所でも、「習慣」によって慣れてしまえば怖くなくなる(平然として煙草を吹かしていられるようになる)、という意味でした。
Tout passe, tout casse, tout lasse.
【逐語訳】 「すべては過ぎる、すべては壊れる、すべては飽きられる」
- 次の絵では、少し順序が違って Tout lasse, tout passe, tout casse. (すべては飽きられる、すべては過ぎる、すべては壊れる)と書かれています。
ここで描かれているのは国会らしく、投票箱には「内閣信任投票」と書かれています。
- 「内閣信任投票」を意味する question de cabinet は、現在では普通 question de confiance といいます。
この絵について、ラルシェは次のように解説しています。
- これは恋愛でも見られるように、内閣でも見られる。必然の法則である。人々は色あせるし、状況は変化するし、内閣は瓦解する。そして、またやり直される。
さしづめ、「栄枯盛衰は世の習い」、「諸行無常」といったところでしょうか。
- 余談ですが、個人的には、このフランス語のことわざを聞くと、それほど教養のあるわけでもなかった祖母があるときつぶやいた「形あるものはいつかは壊れる」という言葉を思い出します。
Tout vient à point à qui sait attendre.
たしかに、忍耐が必要だと説くこのことわざには、釣の絵がぴったりです。
Tel maître, tel valet.
【逐語訳】 「この主人にしてこの召使いあり」
- 次の絵では、ムーリエ (1568) に載っている昔の形で Tel seigneur, tel page et serviteur. (この主君にして、この小姓および従僕あり)と書かれています。
この馬車は「ティルビュリ」 (Tilbury) と呼ばれるタイプの簡素な二人乗りの二輪馬車のようです。「主人」みずから手綱を握って操っています。
この絵について、作者ラルシェは次のように書いています。
- 二人の見た目を似せるためには、この召使いは腕組みしていないところを描いたほうがよかったかもしれない。しかし、主人が誇らしく握っている鞭は、〔王の持つ〕笏杖(しゃくじょう)のように〔権威あるものに〕なっているのだ。
つまり、召使いも偉そうに腕組みしていたほうが、主人の鞭と釣り合いが取れて良い、ということのようです。
Va où tu peux, meurs où tu dois.
【逐語訳】 「行けるところまで行き、死ぬべきところで死ね」
- 「Va」は aller (行く)の命令形。 2回出てくる「où」は là où の là の省略。「peux」(pouvoir の現在 2人称単数)の後ろに aller (行く)を補って解釈します。「meurs」は mourir (死ぬ)の命令形。「dois」(devoir の現在 2人称単数)の後ろに mourir を補って解釈します。
ラルシェはこのことわざについて次のように書いています。
- 私はこれ以上に雄々しく、誇りに満ちた調子のことわざを知らない。フランス軍の軍旗に書かれているのを見てみたいものだ。わずか 8 語ですべてを言い尽くしている。突撃を告げる言葉だ。
今では使われないことわざ
今では使われないことわざのほうが、むしろ興味深いといえるかもしれません。
Achète maison faite.
【逐語訳】 「できている家を買え」
作者ラルシェは、この絵に次のような会話をつけています。
- 訪問客「素敵ですね、あなたの別荘は。」
所有者「値段は『素敵』ではありませんがね。建築家は、2万5千フランの見積もりを持ってきたのに、実際に建てたのは5万フランの家だったんですから。」
À la presse vont les fous.
【訳】 「野次馬は人の集まるところに集まる」
- 「presse」は「雑踏、人込み、群集」。 fou は「気違い、馬鹿」。倒置になっており、直訳すると「馬鹿達は人込みに行く」。
ラルシェは次のように書いています。
- これはパリの河岸や橋で毎日見られる光景だ。私は犬を泳がせているのを見るために押しあっている群集を描いたが、けっして誇張していないことを断言する。
天気のいい日には、こうした人だかりに出会わずに河岸を歩くことはできないだろう。木の切れっ端を追いかけて泳ぎ、それを主人のもとに持ってくる犬を見るために、河岸と橋はあふれかえっているのだ。(...)
さらに群集の数を増やしているのは、多くの人は何が起きているのか知らずに立ち止まっていることである。「すみません、何かあったんですか?」 聞かれたほうも無邪気に答えるのだ、「いや、実は私もあなたと同じでね、何もわからないんですよ」。
Après la fête, on se gratte la tête.
【逐語訳】 「祭の後では頭を掻きむしる」
- 「fête」と「tête」が韻を踏んでいます。
ラルシェは次のように書いています。
- 招待された女性たちが帰りぎわに鏡をのぞいている。招待した男はというと、穴のあくほど請求書を見つめれば、金額が下がるとでも思っているのだろう。しかし、空になった瓶を前にして堂々と落ち着き払って立つ給仕係の表情と同様、金額は動かしがたいのだ。
Au malheureux est confort d'avoir un compagnon.
【逐語訳】 「不幸な者にとって相棒を持つことは慰めだ」
- 文法的には、昔(中世~16世紀)は非人称の il は抜かすのが一般的だったので、この文でも抜けています。現代の一般的なフランス語に直すと、 Il est confortable au malheureux d'avoir un compagnon.
がらくたのようなものを背負った男がベンチに座っています。
ここでの「相棒」とは、もちろん犬のことです。
- compagnon は「相棒、伴侶、道連れ、仲間」などの意味の他に、伴侶となる動物、つまり「ペット」という意味でもよく使われます。
男の隣に建っているのは、お金は臭わない (L'argent n'a pas d'odeur.) ということわざに関連して取り上げた、「ヴェスパズィエンヌ」と呼ばれる男子用の公衆便所です。
Bien n'est connu s'il n'est perdu.
【逐語訳】 「宝物は失わないとわからない」
- 文法的には ne の単独使用が 2 回出てきており、わかりやすく書き換えると Le bien n'est pas connu s'il n'est pas perdu. となります。「bien」は「財産」(宝物)という意味の名詞。
男が墓場で立ちつくし、歎いています。
ラルシェは、このことわざに関して次のような「よく耳にする会話」を記しています。
- 「なぜあの人は、奥さんを亡くして、あんなに悲しんでいるんだろう。そんなに仲よくやっていたわけでもないのに。」
失ってみて、初めてその大切さに気づく、という意味です。
Bon marché tire l'argent de la bourse.
【逐語訳】 「安物は財布からお金を引き出す」
日本の「安物買いの銭失い」のような意味です。
「在庫一掃」 (Liquidation) や「セール」 (Solde) などの文字が躍っています。
しかし、よく見ると、商品に群がっているのは女性ばかり。
少し離れたところから、一人の男があきれて眺めているようです。
Cheval courant, sépulture ouverte.
【逐語訳】 「馬が走ると墓場が開く」
- もっと直訳に近づけると、「走る馬、開いた墓」。
ラルシェは次のように書いています。
- 落馬して気を失った騎手を、人々が抱え上げている。親切な人が鞭を届けている。倒れた馬のまわりには野次馬が群がってる。シャンゼリゼ通りやクール・ラ・レーヌでは、こうした光景がよく目撃される。落馬によって命を落とした人の目録を発行したとしたら、ぶ厚い本になるだろう。
馬が路上を走ることがない現代では、昔はこうしたことが頻繁に起きていたということに、なかなか思い及びません。
オートバイや自転車の事故のようなものでしょうか。しかし、もっと多かったのかもしれません。
「乗馬は命の危険と隣り合わせ」、という意味のようです。
Chose qui plaît est à demi vendue.
【逐語訳】 「気にいった物は半分売られている」
- 最後に、「...も同然だ」といった言葉を補って理解します。似た形のことわざに、「告白された過ちは半分許されている」 (Faute avouée est à moitié pardonnée.) などがあります。
作者ラルシェは、この絵での会話のやりとりを文にしています。
- 客「こっちのほうが似合いそうね」
帽子屋の店員(ほれぼれした声を出して)「すばらしくお似合いです... (間を置いて)他の帽子もご覧になりますか?」
客「いいえ、これをいただくわ」
Espoir diminue la peine.
【逐語訳】 「希望は苦痛を和らげる」
ここに描かれているのは、乗合(のりあい)馬車です。乗合馬車とは、現代のバスの前身で、数頭の馬に引かれた大型の馬車のこと。ここに描かれているような、らせん階段のついた二階建ての乗合馬車も、パリでは一般的でした。
- 「乗合馬車」を意味するフランス語 omnibus は、例外的な発音で「オムニビュス」と発音します。
車掌のような男の頭の上あたりに COMPLET (満員)と書かれた札が出ており、あいにくこの乗合馬車に乗ることはできません。
すぐに次の乗合馬車が来るという希望があるからこそ、どしゃ降りの雨の中をずっと待っていることもできる、と作者ラルシェは書いています。
希望があるからこそ、大変なことも我慢できる、というわけです。
Fille fenêtrière, rarement ménagère.
【逐語訳】 「窓辺ですごす娘はほとんど家事をしない」
「窓辺ですごす」と訳した fenêtrière は「(好奇心から)いつも窓辺にいて、窓の外を眺めてすごしている」といった意味の形容詞。
- 普通の辞書を見ても載っていない古語ですが、「窓」 (fenêtre) という名詞から派生した形容詞の女性形であることは、形から容易に想像できます。動詞が抜けているので、直訳に近づけると、「窓辺の娘、ほとんど家事をしない(娘)」。
台所が大変なことになりかけているのに、まったく気づきません。
Grand seigneur, grand clocher, grande rivière, sont trois mauvais voisins.
【逐語訳】 「強い領主、大きな鐘楼、大きな川は、三つの悪い隣人だ」
作者ラルシェの解説によると、昔は、強い領主は弱い立場の者に対していくらでも理不尽な悪事を働くことができたので、恐れられるとともに、嫌がられていたそうです。
また、教会の鐘は今とは比較にならない「トランペットよりも大きな」音を出し、非常にうるさいものだったそうです。
それに対して、三つ目の河川の氾濫は現代でも変わらない、とラルシェは述べています。
実際、たとえば1910年にはパリでセーヌ河が氾濫し、大きな損害をもたらしたことが知られています。
Homme solitaire et seulet
Ange ou brute est.
【逐語訳】 「孤独で一人ぼっちの男は 天使か野獣だ」
- 「seulet」は seul (一人の)から派生した古語で「一人ぼっちの」。後半は、普通なら ...est ange ou brute. となるところですが、脚韻を踏むために語順が逆になっています。韻を踏んで詩のようなので、詩らしくラルシェにならって行分けして記しました。
ここに描かれているのは、もちろん「天使」のほうです。
岩山で隠遁生活を送る修道士が描かれています。
Jeu qui trop dure ne vaut rien.
【逐語訳】 「長すぎる賭け事は何の役にも立たない」
- もっと直訳に近づけると、「あまりにも続く賭け事は何の価値もない」(「vaut」は valloir の現在 3人称単数)。
賭け事は、てきぱきと短時間で勝ち負けをはっきりさせるのがよく、いつまでもだらだらとやっていても無意味だ、ということのようです。
夜遅くまで、えんえんと続けていても、疲労がたまるばかりです。
Maison sans femme, corps sans âme.
【逐語訳】 「妻のいない家、魂の抜けた体」
- もっと直訳に近づけると、「妻のない家、魂のない体」
ラルシェは次のように書いています。
- このことをよく理解するためには、貧しい農夫として人里離れた家に住み、きつい一日の仕事が終わって一人で暖炉のところにいる必要がある。頭を垂れて、額に手を当て、妻を亡くした男は、あの不吉な願いをまた呟くのだ、
家事を切り盛りする良い妻を持つなら
夫が先に墓地に行けますように
Muraille blanche, papier aux fols.
【逐語訳】 「白い壁、狂人にとっての紙」
これは、グランヴィルの『百のことわざ』の中の「白い壁、狂人の紙」の絵と比較すると興味深いところです。
Nul bien perdu.
【逐語訳】 「失われる財産はない」
「どんなに価値のない、つまらない物にも使い道はある」という意味のようです。
このことわざと絵について、ラルシェは次のように解説しています。
- 毎朝、屑(くず)拾いはこのことわざの正しさを示しているが、「シケモク拾い」も、その非常につましい専門性によって、このことをいっそうよく証明している。
「シケモク」とはパリの隠語で、吸い終わった煙草の切れっ端 -- つまり煙草を吸う人が遅かれ早かれ投げ捨てる、あの鼻をつくような臭いのする湿った切れっ端のことである。投げ捨てるタイミングは人によって異なるが、しかしいずれ投げ捨てられることに変わりはない。このゴミが地面に触れるやいなや、すぐに誰かがさっと身をかがめて拾い上げる。
その後、シケモクはどうなるのだろうか。実は、品質によって分類されるのだ。50サンチームもする煙草の「ハバナのシケモク」もあれば、わずか1スーの煙草の「粗悪なシケモク」もあるからだ。ついで、シケモクは切り刻まれ、煙草と同様に量り売りされる。シケモク煙草には専門の取引所があるのだ。(...)
19世紀のパリの風俗の一端がうかがわれます。
Nul miel sans fiel.
【逐語訳】 「胆汁なくして蜜はない」
- fiel は動物の「胆汁」のことで、「苦いもの」の代名詞。「miel」(蜜)と「fiel」(胆汁)は意味的に反対語であると同時に、音の面では韻を踏んでいます。
「苦しみなくして楽しみはない」、「とげのない薔薇はない」と似たような意味だと思われます。
よく見ると、地面にコーヒーカップとスプーンが落ちています。みつばちの巣から蜜を頂戴しようとしたところ、蜂に襲われたようです。
Quand l'hôtesse est belle, le vin est bon.
【逐語訳】 「おかみが美人だと酒がうまい」
- 「hôtesse」は、ここでは「ホステス」ではなく、古風な意味で「(旅籠や居酒屋の)おかみ」。
食堂で軍人が酒を飲んでいるところが描かれています。
Qui âne mène,
n'est pas sans peine.
【逐語訳】 「ろばを引っぱるのは、たやすいことではない」
- 「mène」と「peine」が(詩のように)韻を踏んでいます(ラルシェにならって詩らしく行分けして記しました)。韻を踏ませるために、「âne」と「mène」の語順が通常とは逆になっています。直訳すると、「ろばを導く者は、苦労なしにではない」。「sans peine」で「苦労なしに、難なく、やすやすと」。
この絵は、ラルシェの文章とセットにすると面白さが増します。
- これは山の上でも、学校でも、ビジネスにおいても、真である。
しばしば断崖絶壁も現れる。ろばは頑固だ。上手なろば引きは非常に稀だ。
フランス語の「ろば」という言葉には、「愚か者、馬鹿」という意味もあります。
「山の上で」ろばを引っぱるのが大変な苦労と危険(「断崖絶壁」)を伴うものであるのと同様、愚かな生徒や部下を引っぱっていくのは非常に難しい。しかも愚か者は概して頑固だから、なおさら始末に負えない... というように理解することができます。
Qui n'a patience, il n'a rien.
【逐語訳】 「忍耐を持たない者は何も持たない」
- 現代の語法ではこの il は不要で、Qui n'a patience n'a rien. となります。
(Cf. Grevisse, Le bon usage, 15e éd., §237)
「忍耐がなければ何も得られない」と訳すべきかもしれません。
獲物が鉄砲で仕留められる距離に近づくまで、じっと隠れて待つ必要がある、ということのようです。
Qui terre a, Guerre a.
【逐語訳】 「土地を持つ者は争いを持つ」
- 現代の通常の語順にすると Qui a terre a guerre. (冠詞は省略)。古いことわざでは、このように「a」を語順を変えて後ろに持ってきて、繰り返し使用して脚韻を踏むという技法がよく使われます(Qui langue a, à Rome va. はこの変形)。
二人の農夫が境界をめぐって喧嘩をしています。
これは中世にさかのぼることわざですが、「土地の所有が戦争の元だ」という認識は、真理をついたものだといえます。
Si ton chat est larron, ne le chasse pas de la maison.
【逐語訳】 「猫が盗みをしても家から追い払うな」
- 「Si...」は単に「もし...」というよりも、「たとえ... しても」という「譲歩」に近い意味。もっと直訳に近づけると「おまえの猫が盗っ人だとしても」。逆にもっと意訳をすれば「猫が盗み食いをしても」。
ラルシェは次のように書いています。
- 猫が台所で盗み食いをしても、食べ物を猫の届くところには置かないようにするだけで満足するべきだ。なぜなら、猫を追い払ってしまったら、他の厄介事に直面することになるのだから。
猫が家の外にいるときは
ありとあらゆる鼠がわが世を謳歌する
(Quand le chat est hors la maison
Souris et rats ont leur saison.)
最後の二行は ムーリエ (1568) に収録されている昔のことわざですが、「猫が去って鼠たちが踊る」 (Le chat parti, les souris dansent.) という現代でもよく使われることわざに似ています。
猫は昔は単なるペットではなく、家の中の鼠を追い払うという大切な役目を帯びていたことに、改めて気づかされます。
Un brochet fait plus qu'une lettre de recommandation.
【逐語訳】 「川かますは推薦状よりも効きめがある」
- 直訳すると、「川かますは推薦状よりも多くのことをする」。
ラルシェは次のように解説しています。
- しかし、なぜ他の魚ではなく、よりによって「川かます」なのだろうか。それは、昔は川かますは淡水魚の王様だと見なされていたからだ。
日本の「鯛(たい)」のようなものでしょうか。あるいは、淡水魚でいうなら「鯉(こい)」でしょうか。
いずれにせよ、「川かます」を「プレゼント」と読み替えれば、納得がいきます。
Un petit homme abat bien grand chêne.
【逐語訳】 「小さな男も大きな樫(かし)の木を倒す」
昔、このことわざを見たとき、てっきり「辛抱強くこつこつ仕事をすれば、大きな成果を挙げることができる」(雨だれ石をうがつ)という意味かと早合点しそうになりましたが、そうではなさそうです。
ラルシェは次のように解説しています。
- これは毎日のように森の中で見られる光景である。しかし、ダビデがゴリアト (*) を倒して以来、歴史の中でも目撃されてきた。だから、ことわざにも「小さな敵はいない」 (Il n'est pas de petit ennemi.) と言う。
(*) 訳注:旧約聖書「サムエル記 上」第17章
つまり、このことわざは「弱い者(=木こり)が強い者(=樫の木)を倒すこともある」という意味だったようです。
文脈によっては、「弱い敵でも、あなどるな」となるでしょう。
- ただし、これに続けて、ラルシェは「我慢は知識にまさる」 (Patience passe science.) ということわざを取り上げているので、「辛抱強さが必要だ」という意味に連想が働いたとしても、あながちまったくの的外れというわけではなさそうです。
Vieilles amours et vieux tisons
Se rallument en toutes saisons.
【逐語訳】 「古い愛と古い燃えさしは 季節を問わず再び燃え上がる」
- 「tisons」(燃えさし)と「saisons」(季節)が詩のように韻を踏んでいます。ラルシェにならって詩らしく行分けして記しました。 amours が複数形で女性名詞扱いになっていることについては、「人はつねに初恋に戻るものだ」 (On revient toujours à ses premières amours.) の解説を参照。
優しそうな表情をした男が、「ふいご」を使って風を送り、火をおこしています。
「この火は穏やかな火であり、恋愛 (amour) というよりも慈愛 (tendresse) に近い」とラルシェは書いています。
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