「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 III

少し珍しい諺

このページでは、使われる頻度が比較的低い諺や、文化的に興味深く、捨てるには惜しい諺などを取り上げます。

À laver la tête d'un âne, on perd sa lessive.

【逐語訳】 「ろばの顔を洗っても洗剤の無駄だ」

【諺の意味】 生まれつき頭の悪い者や、性格の悪い者に対して、いくら教えたり矯正しようとしたりしても無駄だ。

【背景】 ろばの顔は一部分を除いて黒いのが特徴です。
また、人について使うと「間抜け、馬鹿」という意味になります(ろばは馬鹿の代名詞)。

この諺は、「ろばの黒い顔を洗っても白くはできない」という文字通りの意味に、「馬鹿に教え込んだり善意を寄せたりしても無駄だ」という比喩的な意味が掛けられており、実際は(ろばではなく)人について使います。

【似た諺】 「馬鹿につける薬はない」

【単語の意味と文法】 à の大文字 À は、アクサン・グラーヴを省略して A と書かれることもあります
辞書で à を引くと、後ろのほうに「不定詞を伴って」使う用法が記載されていますが、ここでは「仮定」や「条件」を示す「~すれば、~すると」という意味。
「laver」は他動詞で「洗う」。
「tête」は女性名詞で「頭」ですが、首から上の部分(頭部)を指し、むしろ「顔」という感じに近い場合もよくあります。
「âne」は男性名詞で、動物の「ろば」。

「On」は漠然と「人は」。多くの場合、最終的には訳さないほうが自然になります。
「perd」は他動詞 perdre (失う)の現在(3人称単数)。
「sa (彼の)」は「On」を指し、「その人の」という意味です。
「lessive」は女性名詞で「洗剤」。ただし、化学製品ができる以前は、下着を洗って白くするために、木の灰や植物の根などを水に浸して取った液体のことを意味したようです。

直訳すると「人は洗剤を失う」。つまり、「洗剤を失うだけだ」「洗剤の無駄だ」という意味です。

【他のバージョン】 「âne」の代わりに、「maure」(ムーア人)を使うこともあります。

  • A laver la tête d'un maure, on perd sa lessive.
    ムーア人の顔を洗っても洗剤の無駄だ。
    ムーア人とは、モロッコやモーリタニアなどに住むイスラム教徒のことで、フランス人にとっては一番身近な「黒人」でした。昔は more と綴る場合もありました。

また、「nègre」(黒人)を使うこともあります。

  • À laver la tête d'un nègre, on perd sa lessive.
    黒人の顔を洗っても洗剤の無駄だ。
    「nègre」(黒人)は差別的なニュアンスが含まれるため、この言葉自体、現代ではあまり使われなくなっているようです。

古代ギリシアにさかのぼると、もとは「ろば」ではなく「黒人」だったようです。

【由来(古代)】 古代ギリシアのイソップ物語に、「本性は変えられぬということを示す」次のような短い話があります(中務哲郎訳『イソップ寓話集』、岩波文庫、p.293)。

  • 色が黒いのは以前の持ち主が世話をしなかったためだと考えて、エチオピア人奴隷を買った男がいた。家へ連れ帰ると、ありとあらゆる洗剤をかけ、白くするためにあらゆる洗い方を試したけれども、肌の色を変えられなかったばかりか、やりすぎて病気にしてしまった。
    この話はエラスムス『格言集』 I, IV, 50 (350) でも、「エチオピア人を洗う」という表現に関して紹介されています。ちなみに、『格言集』のこの前後では、「しても無駄」であることを意味する成句表現として、「波の数を数える」、「水の上に文字を書く」、「網で水を汲む」などが取り上げられています。

また、ギリシアの哲学者ディオゲネスが、悪事を働いた人(ギリシア人)を叱っていたところ、何をしているのかと尋ねられ、「私は白くしようと思ってエチオピア人の顔を洗っているのだ」と答えたという逸話があり(Quitard (1842) で引用)、「矯正できないものを矯正しようと無駄な努力を払う」ことを意味する表現として、古代から存在していたようです。

【由来(フランス語)】 フランス語では、中世から存在します。

15 世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.66, CXIV)には、次のようにして出てきます。

  • 礼儀を尽くしてはならない、
    それを消し去り、無にするような人に対しては。
    なぜなら、洗剤の無駄だからだ、
    ろばの頭を洗うことは。

エラスムス『格言集』 III, III, 39 (2239) でも、「ろばの顔を洗うな」という表現が取り上げられており、「卑しい作業のためにお金や苦労を浪費するな」という意味だと解説されています。

16 世紀のラブレー『第五之書』では、「エチオピア人」と「ろば」の両方を踏まえた表現が出てきます。

  • その後、私は(...)エチオピヤ人たちを真白にしてしまうのを見た。(...)
    他の人々は、洗い水を無駄にせずに、驢馬の頭を洗ってやっていた。
    渡辺一夫訳、岩波文庫、p.100 による。

1605 年に初版が出たセザール・ウーダンによるスペイン語の諺集では、 Lavar la cabeça del asno, perdimiento de xabon. (ろばの頭を洗うのは、石鹸の無駄)というスペイン語の諺が収録され、1659 年版(p.94)では「フランス人は石鹸の代わりに洗剤と言う」と注記されています。

17 世紀中頃の J. ラニエの版画にもこの諺が描かれています。

アカデミーフランセーズ辞典』でも、第 1 版(1694)からコンスタントに収録されていますが、最新の第 9 版(1992)には収録されていません。

なお、この諺と関連して、

  vouloir blanchir un nègre (黒人を白くしようとする)

という表現があり、「無駄な努力をする」ことを意味します。

【備考】 特に「黒人」を使ったバージョンは、現在ではあまり使われなくなっています。それもそのはず、うっかり使ったら人種差別で訴えられる可能性があります。
フランスでは刑法 225 条(Code pénal, article 225)において差別が犯罪として規定されており、不用意な差別発言によって罰金や損害賠償(あるいは解雇などの社会的制裁)が科せられるケースが後を絶ちません。

Chantez à l'âne, il vous fera des pets.

【逐語訳】 「ろばに歌を歌え、そうすればろばはあなたに屁をするだろう」

【諺の意味】 辞典類には次のように書かれています。

  • 「教養のない粗野な人にお世辞や心地よい言葉を投げかけても、汚い言葉や不快な態度しか返ってこないものだ」(『アカデミー辞典』 1842 年『補遺』)
  • 「愚かな人や無作法な人に助言をしたり恩を施したりしても、不愉快な結果に終わる」(Rat (2009), p.21)
  • 「(ろばに歌ってやってみろ、鼻先でおならをされるぞ→)愚者は恩をあだで返す」(『小学館ロベール仏和大辞典』)

【似た諺】 とすると、次の諺と似ていることになります。

しかし、発想は日本の「猫に小判」、「馬の耳に念仏」、「馬耳東風」と似ており、西洋でもむしろこうした意味で使われていたようにも思われます(下記)。

【単語の意味と文法】 「Chantez」は自動詞 chanter (歌を歌う)の直説法現在(2人称複数)と同じ形ですが、ここでは命令形
「à」は前置詞で「~に」。
「âne」は男性名詞で「ろば(驢馬)」。耳が長く、鼻と目の周囲と腹部が白いのが特徴です(Google 画像検索を参照)。日本では馴染みが薄い動物ですが、欧州・フランスでは荷物や人の運搬、あるいは農作業に使われてきました。また、辞書を引くと載っているように「馬鹿・間抜け」の代名詞としてもよく使われます。

「il」は「l'âne (ろば)」を指します。
「vous」は人称代名詞で、主語・直接目的・間接目的・強勢形のいずれも「vous」です。ここでは(主語ではなく、「強勢形の用法」のいずれにも該当しないので)、直接目的か間接目的のどちらかということになりますが、どちらかを決めるのは後回しにします(他のものを確定してから、消去法で決めます)。
「fera」は他動詞 faire (する)の単純未来(3人称単数)。
「des」は不定冠詞の複数(「いくつかの」)。
「pets」は男性名詞 pet (屁、おなら)の複数形。
この「des pets (屁を)」が「fera (するだろう)」の直接目的となっているので、「vous」は消去法で間接目的(「あなたに」)ということになります。

この諺は「Chantez à l'âne」という命令文と「il vous fera des pets」という平叙文を重ねた「重文」になっています。この場合、2 つの文は「そうすれば」という仮定の意味でつながります。

【由来 1 (竪琴)】 古代ギリシア・ローマでは「竪琴にろば」 (asinus ad lyram) という表現がありました(野津 (2010), p.29)。
エラスムス『格言集』 I, iv, 35 (335) でも多くの用例に言及されています。

ボエティウス(5-6世紀)の『哲学の慰め』第1部4 にも「私の言ったことがわかったか、(...)それがお前の胸にとっくりと落ちたか。それともお前は『立琴を聞く驢馬』に過ぎないのか」(畠山尚志訳、岩波文庫p.21)という言葉が出てきます。これを見ると、「馬耳東風」という言葉が浮かびます。

フランスの中世でもこの表現はそのまま受け継がれ、例えば 12 世紀中頃の『テーベ物語』の冒頭には次のような言葉が出てきます。

  • 学のある人や騎士でなければ
    このことには口をつぐむように、
    なぜならほかの人はこれを聞いても
    ロバが竪琴を聞くようなものなのだから。
    訳は P.-Y.バデル『フランス中世の文学生活』原野昇訳 p.243 による。

【由来 2 (歌と屁)】 「ろばに歌を歌え、そうすればろばはあなたに屁をするだろう」という表題の諺は、15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°141)に、ほぼ同じ形で収録されています(Morawski, N°340)。

  • その他、16世紀初頭の詩人ギヨーム・クレタン(1460?-1525)の詩にも出てきます(原文は例えば Les poésies (1723) のp.72で閲覧可能。Maloux (2009), p.239で引用)。

Baïf (1581) には「Chante à l'asne, il te rend des pets. (ろばに歌を歌え、ろばはおまえに屁を返す)」と書かれています。

昔はこの表現はもっと即物的な意味で理解されていたこともあったようで、1611 年のコットグレーヴの仏英辞典asne の項目)では、この諺は「教養のない人は音楽も美術も軽蔑する」という意味だと書かれ、1640 年のウーダン『フランス奇言集』(p. 19)では「教養のない人は音楽をまったく好まない」という意味だと書かれています。

仏仏辞典では、フュルチエール(1690)と『トレヴーの辞典』(1704-1771)には収録されていますが、謹厳なる『アカデミーフランセーズ辞典』では、わずかに 1842 年の第 6 版『補遺』にのみ収録されているようです。

【余談】 ろばと屁に関しては、次のような成句表現もあります。

  • vouloir tirer des pets d'un âne mort
    死んだろばから屁を引き出そうとする

これは「不可能なことを望む」(Rat (2009), p.22)、「不可能なことを試みる」(リトレ)という意味です。16 世紀のラブレーにも、次のように繰り返し出てきます(岩波文庫、渡辺一夫訳による)。

  • 死んだ驢馬のおならほどにも、うんともすんとも言わせることができなかった。
    (『ガルガンチュワ』、第 15 章、p.89)
  • 死んだ驢馬に屁をひらせようとするのと同じことだて。
    (『第三之書』、第 36 章、p.211)
  • 秘術を振るって、死んだ驢馬に何発も屁(おなら)をさせ、
    (『第五之書』、第 22 章、p.100)

En amour trop n'est même pas assez.

【逐語訳】 「愛においては、たとえ多すぎたとしても十分ではない」
(どんなにたくさん愛しても、愛しすぎということはない)
(どんなに愛されても十分な気がしない)

【単語の意味】 「En」は 3 種類ある en のうち、名詞の直前にあるので前置詞の en です。ここでは、「~において(は)」という意味。
「amour」は男性名詞で「愛」。前置詞 en の後ろでは無冠詞になりやすいので、ここも無冠詞になっています。

「trop」は普通は副詞で「あまりにも(~しすぎる)」という意味〔英語 too 〕ですが、ここでは名詞で「多すぎること」。これが主語になっています。
「est」は être の現在(3人称単数)。ne... pas で否定
「assez」は「十分な」。

ちなみに、量を表す基本的な副詞を多い順に並べると、次のようになります。

  trop あまりにも (名詞だと「多すぎること」)
  très とても
  assez 十分に
  un peu 少し
  peu ほとんど~ない

「même」は副詞「~さえ」(英語の even)で、逐語訳すると「多すぎることさえも十分ではない」。あるいは、辞書で même を引くと、「(たとえ)~としても」という訳も載っているので、それを使うと、「たとえ多すぎたとしても十分ではない」。

【他のバージョン】 même を省いて次のように言うこともあります。

  En amour trop n'est pas assez. (愛においては、多すぎることは十分ではない)

こうすると、trop と assez を使った言葉遊びのような感じが強くなり、むしろ文意は取りにくくなります。

【由来】 ボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』第 4 幕第 1 場に出てきます。

  • フィガロ 「じゃ、ちったあ惚れてくれたか?」
    シュザンヌ「たんとだよ。」
    フィガロ 「それだけじゃ足りねえ。」
    シュザンヌ「どうしてさ?」
    フィガロ 「好いた仲なら、ねえおい、過ぎてもまだ足りねえ。」

    辰野隆訳、岩波文庫、p.142

「過ぎてもまだ足りねえ」というところに、この諺が使われています。「どんなに愛されても十分な気がしない」という感じです。原文は Wikisource などで閲覧可能です。
ちなみに、英語では次のように訳されているようです。

  Where love is concerned, too much is not even enough.

Il n'y a point de belles prisons ni de laides amours.

【逐語訳】 「美しい牢獄も、醜い恋も存在しない」

2つの別々のことわざ(「美しい牢獄は存在しない」と「醜い恋は存在しない」)が組み合わさってできたことわざです。

「美しい」「醜い」という反対語を介して、本来まったく関係のない「牢獄」と「恋」という2つの言葉が組み合わさることで、意図せぬ効果が生まれている気がします。

  • おそらく、字義通りの意味とは別に、「恋」と「牢獄」の間に類比(アナロジー)が働くからかもしれません(「恋は牢獄のようなものだ(不自由だ)」とか、「恋は束縛に縛られている」といった具合に)。たとえば、プルースト『失われた時を求めて』の「囚われの女」の巻 La prisonnière が連想されます。

どちらか片方だけなら、わりと当たり前のことがらなので、それほど気に留めないで通り過ぎてしまいそうですが、2つが組み合わさることで、妙に記憶に残ることわざとなっている気がします。

【意味】 前半の「美しい牢獄は存在しない」は、文字どおりの意味。あえて言えば、「自由がなければどんな場所でも快適とはいえない」 (下記 ニコの仏仏辞典による定義)

後半の「恋」は内容的には「恋人」という意味で、「恋をすると醜い相手でも美しく見える」。日本の「あばたもえくぼ」と同様で、「恋は盲目」に通じます。

前後の順序は入れ替えてもよく、どちらか片方だけ言う場合もあります。

【単語の意味と文法】 「Il y a ~」は「~がある、存在する」
「ne... point」は「(まったく)... ない」
2回出てくる「de」は、どちらも否定の冠詞
「belles」は形容詞 beau (美しい)の女性複数形。
「prison」は女性名詞で「牢獄、牢屋」。
近代的な監獄・刑務所が整備される以前から存在することわざなので、昔は簡素な「牢屋」がイメージされていたと思われます。
「ni」は「...もない」
「laides」は形容詞 laid (醜い)の女性複数形。
「amour」は男性名詞で「愛」。ただし、ここでは女性名詞扱いされています。

  • amour (愛)という単語は、16世紀までは女性名詞とされており、16~17世紀に(ラテン語にならって)男性名詞に変更されたために、男性扱いとすべきか女性扱いとすべきか、混乱が生じています(Cf. 朝倉『新フランス文法事典』 p.42右)。現代でも、特に詩や文学などでは、例えば premières amours 「初恋」のような女性複数の形を使った表現がよく用いられます(Cf. 「人はつねに初恋に戻るものだ」)。

【由来 1 】 前半の「美しい牢獄は存在しない」については、14世紀前半、ジャンヌ・ダルクと同時代に生きた「囚われの詩人」ジャン・レニエが自分の境遇を嘆いて作った長い自伝的な詩の中に、「誰もが言い、語る。美しい牢獄はない、と。」という言葉が出てきます。これが「美しい牢獄は存在しない」という諺の一番古い用例のようですTPMA, Fangen, 6.6 による)

  • ジャン・レニエは1392年フランス中央部ブルゴーニュ地方オセール生まれ。ブルゴーニュ公フィリップ善良公に仕え、オセールの代官(バイイ)に任ぜられます。1432年、フィリップ善良公と対立していたジャンヌ・ダルク側の者に捕えられ、北仏ピカルディ地方ボーヴェで身代金目的で幽閉されます。このときに自分の境遇を嘆いて長い自伝的な詩を作っており、その中に出てきます。文学史に名を残すほどの人ではありませんが、初めてこの諺を使った作品を書き、しかも実際に牢屋に入れられながら作品を書いたという点で、永く記憶されるべきかもしれません。
    原文は Aussi chascun dit et racompte / Qu'il n'est nulle belle prison となっています(インターネット上では Challe, « Jehan Regnier, Poëte Auxerrois du XVe siècle » in Annuaire historique du departement de l'Yonne, 1843, p.279 (IA) などで閲覧可能)。

1528年の Gringore のことわざ集 (f°46, v.5) や、1531年のボヴェルのことわざ集 (HathiTrust) にも「美しい牢獄は存在しない」という諺が収録されています。

変わったところでは、ジャン・カルヴァンによる旧約聖書「エゼキエル書」の注釈書でも、「バビロン捕囚」に関連して、「わたしたちは一般に『美しい牢獄は存在しない』と言うが、同様に、イスラエルの人々にとってこの囚われの状態は忌まわしいものと思われないはずはなかった」と書かれています。

【由来 2 】 後半の「恋をすると醜い相手でも美しく見える」というテーマは、しばしば「恋は盲目」というテーマと結びつき、古代ギリシア・ローマから存在します。

たとえば、紀元前3世紀のテオクリトスの『牧歌』(第6歌 18-19行目)。

  • だってポリュペモスよ、恋する者には、
    美しくない者も美しく見えることがよくあるのだから。
    訳は古澤ゆう子訳『テオクリトス 牧歌』京都大学出版会(2004年)p.61 による。

あるいは、紀元前 1世紀ローマのルクレティウス『事物の本性について』 De rerum natura (第4巻)。唯物論の本とされていますが、次のような一節もあります。

  • 色欲に盲目になると(...)女が実際は持っていない美点を、持っているもののように思い込んでしまう(...)。であるから、多くの点で歪(ゆが)んだ醜い女が可愛らしいと思われたり(...)している(...)。
    訳は樋口勝彦訳ルクレーティウス『物の本質について』岩波文庫p.204 による。

この一節は、17世紀にモリエールが『人間嫌い(ル・ミザントロープ)』(1666年初演)で敷衍しており、恋する人にとっては「あばたもえくぼ」に見え、欠点にも美化した(「身びいきな」)名前がつけられる例を列挙しています。たとえば次のような具合です。

  • いったんのぼせあがれば、好きなひとの悪いところなど、なにひとつ目につかず、なんでもかんでもよく見えるものですわ。欠点も完全なものとしてうつり、それに身びいきな名前をつけるものよ。蒼白い顔の女性には、まっ白なジャスミンと見まごうばかり、ぞっとするほど色が黒くても、それは魅力ある褐色の肌。(...)背の高い女性は女神のように見え、小柄な女は天然の美の縮図ということになりますわ。(...)おしゃべり女が陽気なら、無口なのは純粋可憐。(...)
    訳は鈴木力衛訳、『モリエール全集4』、中央公論社 p.189 による(第2幕第5景)。この一節は Quitard (1861/1878) でも引用されています。

【由来 3 】 前半と後半が合わさった早い例としては、1568年に初版が出たムーリエのことわざ集に、「醜い恋も、美しい牢獄も存在しない」 (Il n'est nulles laides amours ni belle prison.) が収録されています(1581年版 p.100)
ジャン・ル・ボンのことわざ集でも、ほぼ同じ形で収録されています。

1606年のジャン・ニコの仏仏辞典の付録のことわざ集では、「醜い恋は存在しない」 (Il n'est nulle laides amours.) の次に、「対比のために次のように付け加える」として「美しい牢獄は存在しない」 (Il n'est nulle belle prison.) が収録されており、このことわざについて次のように解説されています。

  • あらゆる人間にとって、自由は非常に好ましいものなので、自由がなければどんな場所でも快適とはいえない。たとえ黄金でできた建物であっても、それが牢獄であるならば。

1611年のコットグレーヴの仏英辞典にも、Prison(牢獄)とAmour(愛)の両方の項目に、次のように書かれています。

  • Oncques n'y eut laides amours, ny belle prison.
    醜い恋も、美しい牢獄も、決して存在したためしはない。
    「Oncques」はJamaisと同じ意味の古語。非人称のilは省略。時制は単純過去。

17世紀中頃のラニエの版画集でも、この諺を題材にした絵が描かれています。

アカデミー辞典』でも初版(1694)から第 9版(1992)までコンスタントに収録されています。

グランヴィルの『百のことわざ』にも、このことわざを描いた絵があります。

Il vaut mieux aller au boulanger qu'au médecin.

【逐語訳】 「医者に行くよりもパン屋に行くほうがいい」

【諺の意味】 「食事代をけちって、十分な栄養を摂らずに病気になって医者に行くよりは、きちんとパンを食べて健康でいたほうがいい(そのほうが結局はお金がかからず、経済的だ)」。

つまり、「病気のほうが食費よりも高くつく」(プチ・ラルース)。あるいは、「同じお金なら、医者代に使うよりも、食事代に使ったほうがいい」。

【使い方】 きちんと栄養ある食事を摂らない人や、食費が高いことを嘆く人に対して使われる(リトレ)。

【単語の意味と文法】 「Il vaut mieux A que B.」は「B するより A するほうがいい」
「A」に相当するのが「aller au boulanger」、「B」に相当するのが「au médecin」。「B」の「au médecin」の前に「aller」が省略されていると考えるとわかりやすくなります。

「aller」は自動詞で「行く」。
「au」は à と le の縮約形。この前置詞「à ~」は「~に」
「boulanger」は男性名詞で「パン屋」。
「médecin」は男性名詞で「医者」。

Il vaut mieux A que B. = Mieux vaut A que B. なので、次のように言うことも可能。

  • Mieux vaut aller au boulanger qu'au médecin.

また、前置詞 à の代わりに chez (~の店に)を使うこともあります。

著名な文法学者グレヴィスは、この諺を例に取り、「医者に行く」「パン屋に行く」というときに à を使って aller au médecin, aller au boulanger と言うのは会話調であり、書き言葉では chez を使って aller chez le médecin, aller chez le boulanger と言う、と述べています(Maurice Grevisse, Le Français correct, N°1079)。

【由来】 いかにも田舎の民衆の知恵から生まれた感じがして、proverbe というよりも dicton(ディクトン)と呼ぶにふさわしい気もしますが、文献上は、例えば 1752 年版のトレヴーの辞典(moulinの項)に次の形で収録されています。

  • Il vaut mieux aller au moulin qu'au médecin.
    医者に行くよりも粉ひき小屋に行ったほうがいい。
    「moulin」は「粉ひき小屋」。
    ちなみに、ロベールの諺辞典 F771では、この形はシャンパーニュ地方の諺として掲載されています。

昔は、農民は自分で食べるパンは自分で製粉し、かまどで焼くのが一般的だったので、「パン屋に行く」という代わりに「粉ひき小屋に行く」という表現がされています(詳しくは他の諺「かまどと粉ひき小屋に同時にいることはできない」の解説を参照)。

粉ひき小屋(実際には水車小屋または風車小屋のこと)で小麦を挽くと、使用料(税金、年貢)として12分の1 ~ 24分の1(時代・地域により異なる)の小麦(のちには規定の金銭)を徴収されたそうですが、医者代よりは安くつく、というわけです。

19 世紀後半のユイスマンスの小説『世帯』では、おいしい食事にありついて、おかわりをする場面で、登場人物の口から次のような言葉が発せられます。

  • Il vaut mieux aller chez le boulanger que chez le pharmacien.
    薬剤師のところに行くよりもパン屋に行くほうがいい。
    J.-K. Huysmans, En ménage, 1881, p.315
    「医者」の代わりに「薬剤師」になっています。

同じお金なら、薬代に使うよりも、食事代に使ったほうがいい、というわけです。

この諺は、現在はそれほど広く使われるわけではありませんが、フランスで最もポピュラーな辞書の一つである『プチ・ラルース』には収録されています。むしろ、ここに収録されているがゆえに、いまだに人々に知られ続けている諺であるといえるかもしれません。

【余談】 あるフランス人は、この諺について次のように言っていました。

  • 「変なことわざ! 病気になったときにパン屋に行ってもしょうがないじゃないの!」

もちろん、病気になってしまったら、医者に行くしかありません。

病気にならないように十分にパンを食べよう、という意味の諺です。

【似た諺】 「パンは健康のもと」といった内容のものとしては、次のような諺が知られています。

  • Pain tant qu'il dure,
    Mais vin à mesure.
    パンはあるだけくうべし、
    だが、ぶどう酒は加減してのめ。
    日本語は田辺貞之助訳ジャック・ピノー『フランスのことわざ』 p.105による。直訳すると「パンは続く限り、しかしワインは節度を持って」。1568年のムーリエ『金言宝典』(1581年版p.61)以来、いくつかの諺集に収録されています。

  • Pain et beurre et bon fromage,
    Contre la mort est la vraie targe.
    パンとバターと良いチーズは
    死に対する真の盾である。
    こちらも1568年のムーリエ『金言宝典』(1581年版p.163)等に収録されています。

Il vaut mieux être le premier dans son village que le second à Rome.

【逐語訳】 「ローマで二番でいるよりも、自分の村で一番でいるほうがいい」

「寧(むし)ろ鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」に相当する諺です(後述)。

【単語の意味と文法】 次の熟語表現が使われています。

  Il vaut mieux A que B (B するより A するほうがいい)

「A」に相当するのが「être le premier dans son village」、「B」に相当するのが「le second à Rome」です。
「le premier dans son village」と「le second à Rome」が並列で、どちらも「属詞」になっています。
あるいは、上の「B」の部分(queの後ろ)が本来は「être le second à Rome」となるべきところ、重複しているのでêtreが省略されていると言うこともできます。

「être」は「~である」(英語のbe動詞)。
「premier」は形容詞で「最初の、一番の」ですが、ここは名詞化されていて「最初のもの、一番の人」。
「village」は男性名詞で「村」。
「second」は形容詞で「二番目の」ですが、ここは名詞化されていて「二番目のもの、二番目の人」。
「Rome」は女性名詞ですが、都市名なので無冠詞です。

【由来】 古代ローマ時代のギリシア人プルタルコスの『対比列伝』(『英雄伝』、仏語題名 Vies parallèles des hommes illustres )のカエサル伝に出てくる話に由来します。

  • さて、伝えによれば、カエサルがアルプスを越えて、人もごく僅かしか住んでいない荒涼とした蛮族の一寒村を通りすぎたとき、側近の供の者たちが笑いながら冗談に、「一体、こんなようなところでも、官職をめぐっての名誉欲とか、第一人者たろうとする競争とか、有力者相互間の嫉視といったようなものがあるのだろうか?」といったところ、カエサルは真面目になって、彼らに「自分はといえば、ローマ人の間で第二位を占めるよりは、むしろここの人たちの間での第一人者となりたい」と答えた、といわれている。
    ちくま学芸文庫『プルタルコス英雄伝』下巻「カエサル」(長谷川博隆訳)p.187から引用。

プルタルコスの『対比列伝』は、1559年にジャック・アミヨによって美しいフランス語に翻訳され、モンテーニュをはじめ多くの人々に愛読されました。
アミヨの訳では、このカエサルの言葉は次のようなフランス語になっています(現代の綴りに直して引用します)。

ただし、フランス語で表題のような形になったのは19世紀以降のようです。

諺というよりも、名言というべきかもしれません。

『プチ・ラルース 2013』の「ピンクのページ」には、諺の部ではなく「mots historiques」(歴史上の言葉)の部に、プルタルコスが伝えるカエサルの言葉として、次の形で収録されています。

  • J'aimerais mieux être le premier dans ce village que le second à Rome.
    私はローマで二番目であるよりも、この村で一番目でありたい。

【似た諺】 司馬遷『史記』に書かれている次の言葉が有名です。

  • 寧(むし)ろ鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ
    (寧為鶏口勿為牛後)

司馬遷(紀元前2~1世紀)とプルタルコス(紀元後1~2世紀)で、発想が似ているのが面白いところです。

ちなみに、この東洋の諺は Grandville (1845), p.133 では次のようなフランス語に訳されています。

  • Mieux vaut marcher devant une poule que derrière un bœuf.
    逐語訳:「牛の後ろよりも、雌鶏(めんどり)の前を歩いたほうがいい」

『史記』原典には「歩く」という意味はないはずですが、ひと昔前にフランス語に訳された東洋の諺は、このように少し変わった解釈がまぎれこんでいる場合が少なくないようです。 (⇒ この諺を描いた挿絵

L'amour des parents descend et ne remonte pas.

【逐語訳】 「親の愛は下に下りる、そして遡らない」

【諺の意味】 「親子の愛は、親から子への一方通行だ」(上の世代から下の世代に「下りる」のみで「遡らない」という比喩)。
あるいは、「両親が子供に抱く愛情は、子供が両親に抱く愛情を上回る」(Quitard (1861), p.281 ; Maloux, p.386)。

【日本の諺】 「親の心 子知らず」、「親の恩は子で送る」

【単語の意味】 「amour」は男性名詞で「愛、愛情」。
「des」は de と les の縮約形(英語の of the に相当)。
「parent」は男性名詞で「親」。両親なら複数形にします。ただし、ここは代々の「親たち」全員を指すのかもしれません。

「descend」は自動詞 descendre (下りる)の現在(3 人称単数)。これは rendre と同じ活用をする動詞です。
接続詞「et (そして)」を挟んで、「descend」と「ne remonte pas」が並列の関係にあります。
「remonte」は自動詞 remonter (遡る)の現在(3 人称単数)。
これが ne... pas で挟まれて否定になっています。

【由来】 18世紀の啓蒙思想家クロード=アドリアン・エルヴェシウス(Claude-Adrien Helvétius, 1715-1771)が『人間論』(死後刊)第8章の脚注で、「だからこそ、諺にも言うように...」という形でこの表現を取り上げているのが早い用例のようです(原文は 1776 年版, p. 165 などで閲覧可能)。
ただし、Quitard (1861) が言うように、エルヴェシウスは「この諺について非常に極端な解釈をしている」ので、あまり参考になりません。

Menez un âne à La Mecque, vous n'en ramènerez jamais qu'un âne.

【逐語訳】 「ろばをメッカに連れていけ、あなたはそこから決してろばしか連れ戻さないだろう」
(ろばをメッカに連れていっても、戻ってくるときはやっぱりろばだ)

【諺の意味】 「馬鹿はいつまでも馬鹿でしかない」(吉岡 (1976) )。

【日本の似た諺】 「馬鹿につける薬はない」、「馬鹿は死ななきゃ直らない」

【単語の意味と文法】 「Menez」は他動詞 mener (連れて行く)の現在(2人称複数)と同じ形ですが、ここは主語がないので命令形です。
「âne」は男性名詞で「ろば」。フランス語で「ろば」は「馬鹿」の代名詞(ないし同義語)です。辞書を引くと「間抜け、馬鹿」という意味も載っています。
「à」は場所・時間を表す前置詞で「~に」。
ただし、ここでは動詞 mener とのつながりで、

  mener A à B 「A を B に連れて行く」

という使い方をする動詞(第 5 文型をとる直接他動詞(2)のタイプの動詞)の à だと捉えたほうが適切かもしれません。
「Mecque」は女性名詞で「メッカ」。イスラム教の聖地です。大文字にして定冠詞をつけ、通常は定冠詞も大文字にして La Mecque と表記します。
ここまでで一旦、文が完結しており、「ろばをメッカに連れていけ」となります。

後半は、ne... jamais (決して... ない)という強い否定と、ne... que ~ (~しか ...ない)が組み合わさった形で、 ne... jamais que ~ で「決して~しか ...ない」という意味です。
「en」は 3 種類の en のうち、動詞の直前にあるので中性代名詞の en です。ここでは「de + 場所」に代わる en で、「そこから」という意味です。
「ramènerez」は ramener (連れ戻す)の単純未来(2人称複数)。
この動詞は、典型的には

  ramener A de B 「A を B から連れ戻す」

という使い方をします。この「de B (B から)」の部分が中性代名詞の en に置き換わっているわけです。
この諺はコンマを挟んで命令文と平叙文を重ねた重文になっています。この場合、普通は 2 つの文は「そうすれば」という仮定の意味でつながりますが、ここでは「譲歩」の意味が付け加わり、「(たとえ)そうだとしても」という感じでつながっています。

【由来】 昔のフランス人が巡礼でメッカに行くはずはないので、もとはイスラム文化圏の諺だったはずです。それがフランス(またはヨーロッパ)に伝えられたのだと思われます(表題の形は Dictionary of European Proverbs p.998 にフランス語の諺として収録されています)。

古くは、1757 年刊の『フランス語に訳されたデンマークの諺の辞典』 p. 146 に、デンマーク語の諺のフランス語訳として、次のように記載されています。

  • On peut mener un Ane à la Mecque ; Et il ne sera qu'un Ane à son retour.
    人はろばをメッカに連れて行くことができるが、ろばは戻ってくるときはろばでしかないだろう。
    「Ane」は âne と同じ。「sera」は être の単純未来(3人称単数)。n'est que ~ で「~でしかない」。「à son retour」は熟語で「帰ると、戻るとき」。

1828 年の『諺の総合史』では、ペルシアの諺として次のような諺が収録されています(第 2 巻 p.122)。

  • Si l'on mène un âne à Jérusalem et à la Mecque, il retourne toujours un âne, sans avoir gagné les pardons.
    もし人がろばをエルサレムやメッカに連れて行っても、恩寵を受けることなく、つねにろばが戻ってくる。
    この il は「後出の名詞を指す仮主語の il」で、意味上の主語は後ろの「un âne」。

また、フランス語の百科事典『十九世紀ラルース』の loin の項目には、次の形で収録されています。

  • Si vous menez un âne loin, et même à La Mecque, il n'en reviendra jamais qu'un âne.
    ろばを遠くへ、たとえメッカへ連れていこうとも、そこからは決してろばしか戻ってこないだろう。
    この il も「後出の名詞を指す仮主語の il」で、意味上の主語は後ろの「un âne」。

現代のフランス語の定番の諺辞典であるラルースの諺辞典では、アラブの諺として次の諺が収録されています(p.364)。

  • L'âne peut aller à La Mecque, il n'en reviendra pas pèlerin.
    ろばはメッカに行っても、巡礼者になって戻ってくるわけではない。
    この「il」を「後出の名詞を指す仮主語の il」だと解釈すると、意味上の主語になる「pèlerin (巡礼者)」が無冠詞であることの説明がつきません。「il」は「L'âne」を指し、「pèlerin」は「主語と同格」だと取るべきです(通常は同格になる名詞は無冠詞になります)。

ちなみに、トルコには「ろば」の代わりに「ラクダ」を使った同じような諺があります。『遊牧民族の知恵 - トルコの諺』という本(p.54)から引用してみます。

  • 「ラクダはメッカに行っても、ハジになれない」という諺もある。イスラム教徒は、すくなくとも一生に一度は聖地巡礼をおこなうことが義務であり、巡礼を終えると「ハジ」という称号を名のれる。

上記ラルースの諺辞典に見られる「pèlerin (巡礼者)」というフランス語も、この「ハジ」を訳したものなのではないでしょうか。

以上、いずれも「ろば(馬鹿)がメッカに行っても、ろば(馬鹿)のまま帰ってくる」という内容となっています。

【フランス語の似た諺】 「メッカ」ではなく「ローマ」を使った諺もあります。

【英語の似た諺】 英語では次のような諺があります(他の項目で取り上げます)。

ちなみに、前掲の『遊牧民族の知恵 - トルコの諺』 p.56 では、「ろばの耳を切っても馬になれない」というトルコの諺が紹介されています。

Mieux vaut rouiller que dérouiller.

【逐語訳】 「錆を落とす(殴られる)よりは、錆びついた(腕が鈍った)ほうがいい」

これは「rouiller (錆びつく)」と「dérouiller (錆を落とす)」という反対語をベースにした表現なので、日本語に直すと面白みが半減してしまいます。
また、後述のように映画の主人公が即興で作った諺なので、本当の意味での諺とは呼べません。

【単語の意味】 この諺では、次の熟語表現が使われています。

  Mieux vaut A que B. (B するより A するほうがいい、B より A のほうがいい)

A の部分に相当する「rouiller」は、もともと女性名詞 rouille (錆)からきており、自動詞で「錆(さ)びる」という意味のほか、他動詞で「錆びさせる」という意味もあり、再帰代名詞を伴うと se rouiller で「錆びつく、(会話で)腕が鈍る」などの意味にもなります。本来は、内容的には se を入れて次のように言うべきところです。

  Mieux vaut se rouiller que dérouiller.

rouiller の反対語「dérouiller」は、「否定・離脱」を意味する接頭語 dé がついているので、もとは「錆(さび)を落とす」という意味ですが、(会話では)自動詞で「殴られる」という意味もあります。

表面上の意味内容的な意味
(se) rouiller錆びる、錆びつく腕が鈍る
dérouiller錆を落とす殴られる


【出典】 J.-L.ゴダールの映画「勝手にしやがれ」の一場面で、悪事から足を洗って時間が経つ登場人物(トルマチョフ)が、「もう錆びついて(腕が鈍って)しまったよ」と言ったのに対し、主人公が rouiller / dérouiller の反対語をベースに、即興でこの言葉を発します。「錆を落とす(殴られる)よりはいいだろう」という意味です。

これは特に名ぜりふというわけではなく、広く知られているわけでもありません。多くの人が知っているものでないと諺とは呼べないので、本当はこれは諺とは呼べませんが、

  Mieux vaut A que B.Il vaut mieux A que B. (B より A のほうがいい)

という表現(諺でよく見られる表現)を使えば、いくらでも即興で諺(らしき表現)を作ることができるということの例として、このせりふを取り上げました。

【諺の自作】 自作する場合、A と B の部分には同じ品詞の言葉を入れるように(あるいは並列になるように)します。動詞の不定形か副詞を入れると作りやすいと思います。

動詞の不定形を使った場合、例えば次のような表現が考えられます。

  Il vaut mieux aimer qu'être aimé. (愛されるより愛したほうがいい)

「aimer (愛する)」と受動態の「être aimé (愛される)」を対比させた表現です。もちろん「Il vaut mieux」の代わりに「Mieux vaut」を使ってもかまいません。

あるいは、

  Mieux vaut être aimé qu'admiré. (尊敬されるより愛されたほうがいい)

これは「être aimé (愛される)」と「admiré」(「être admiré (尊敬される)」の être の省略)を対比させた表現です。

副詞を使った場合の例としては、例えば次のような表現が可能です。

  Mieux vaut trop tôt que trop tard. (遅すぎるよりは早すぎるほうがいい)

これは、有名な諺「Mieux vaut tard que jamais.」を多少意識した表現です。

On a tant crié Noël qu'à la fin il est venu.

【逐語訳】「たくさんクリスマスと叫んだので、ついにクリスマスがやって来た」

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」。もともと漠然とした言葉で、「人々は」と訳すこともでき、また訳さなくても構いません。
「tant ~ que...」は「とても(多く・激しく)~ ので...」
「a」は助動詞 avoir の現在 3人称単数。
「crié」は他動詞 crier(叫ぶ)の過去分詞。
「a crié」は avoir + p.p. で複合過去
「Noël」は「クリスマス」。普通は無冠詞・大文字で使われます。もともとの語源は「誕生」。もちろんイエス・キリストの誕生を意味します。
「à la fin」は熟語で「ついに」。
「il(それ)」は「Noël(クリスマス)」を指します。
「est」は助動詞 être の現在3人称単数。
「venu」は自動詞 venir(来る)の過去分詞
venir(来る)は「場所の移動を表す自動詞」なので、être + p.p. で複合過去になっています。

【他のバージョン】 crier(叫ぶ)の代わりに chanter(歌う)を使うこともあります。

  • On a tant chanté Noël qu'à la fin il est venu.
    (人々はたくさんクリスマスを歌ったので、ついにクリスマスがやって来た)

【諺の意味】「前から話題にしていた事柄や、待ち望んでいた事柄が、ついにやってきた」(Quitard (1842))。
「強く待ち望み、しばしば話題にしたあとでやってきた事柄について比喩的に用いる」(『アカデミー辞典』)。

【背景】 少し長くなりますが、Quitard (1842) を訳して引用してみます。

  • この諺は昔、キリスト降誕祭の前の二週間の間、人々が街中で「ノエル」と叫び、教会で「ノエル」と呼ばれる賛歌を歌っていた風習から生まれた。
    ノエルはまた、晴れの舞台で人々が発する喜びの叫びでもあった。アラン・シャルチエ〔15世紀前半の詩人〕とアンドレ・デュシェンヌ〔17世紀前半の歴史家〕が伝えるところによると、シャルル 7 世〔ジャンヌ・ダルクの力を借りて百年戦争を終結させた王、在位:1422~1461年〕の洗礼式の時、あるいはこの王がイギリス軍を撃退して首都に凱旋した時に、人々は「大喜びしてノエルと叫んだ」。この凱旋時の出来事について、マルシアル・ド・パリ〔15世紀後半の詩人〕は次のように書いている。
      ついで子供達はひざまずくのであった、
      いつまでもノエル、ノエルと叫びながら。

ちなみに、『ロワイヤル仏和中辞典』で Noël を引くと、一番最後に「《古》万歳(*皇太子誕生を祝う歓声)」という意味も載っています。
ただ、この諺では、Noël は文字通り「クリスマス」の意味です。

【由来】 15 世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの « Ballade des Proverbes » で繰り返し出てきます。ヴィヨンの詩では、ほぼ次のような形で出てきます。

上の佐藤輝夫訳はほぼ「五七五」になっており(「降誕祭」を「クリスマス」と読めば完全な「五七五」)、日本の「早く来い来い、お正月」という歌を連想させる名訳です。

実際には、ヴィヨンよりも少し前、15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°723)にも確認されます。

仏仏辞典『アカデミーフランセーズ辞典』では、この諺は第1版 (1694)~第7版 (1878) には載っていますが、第8版 (1932-1935) と第9版 (1992) には採録されていません。単純にこれだけで見ると、19世紀までは使われていたが、20世紀には使われなくなった諺だということになります。

Patience passe science.

【逐語訳】 「我慢は知識にまさる」

「Patience」と「passe science」は、ほとんど発音が同じです。
そのため、あたかも次のように言っているように聞こえます。

  Patience, patience. (我慢、我慢)

キタール『フランス語ことわざ研究』 p.178 では、すぐれた言葉遊びの例として取り上げられています。

【単語の意味と文法】 「Patience」は女性名詞で「我慢、忍耐、辛抱、根気」。
諺なので無冠詞になっています。

「passe」は passer の現在(3人称単数)。 passer は、普通は自動詞で「通る、通過する」という意味ですが、ここは他動詞で「~にまさる、~を凌駕する」。

  A passe B. (A は B にまさる)

というのは、諺によく見られる典型的な表現の一つです。

「science」は女性名詞で、普通は「学問、科学」という意味ですが、ほかにも「学識、知識」や「技量、巧みさ、技巧」などの意味もあります。

仏和辞典・諺辞典を見ると、以下の 3 種類に分かれるようです(下線引用者)。

(1)「science」を「学識、知識」の意味に解釈しているもの

  • 「根気は学識に勝る」 (新スタンダード仏和辞典)
  • 「頑張りはに克つ」 (吉岡 (1976)
  • 「『粘り強さ、たゆまぬ意思は、知識よりも多くの結果をもたらす』。これと似た考え方は Le génie est une longue patience (天才は長い忍耐である)という表現に見出される」(Rey/Chantreau (2003), p.688)

(2)「science」を「技量、巧みさ、技巧」の意味に解釈しているもの

  • 「忍耐は技量をしのぐ」 (小学館ロベール仏和大辞典)
  • 「忍耐は器用にまさる」 (ディコ仏和辞典)
  • 「辛抱強さは技巧(habileté)よりも貴重である」(Dournon (1986), p.314)

(3)上の 2 つを併せた意味に解釈しているもの

  • 仏仏辞典 TLFi で science を引くと、「ある行為に特有の規則・技法についての深い知識、およびこの知識から得られる実践的な器用さ・巧みさ・能力。同義語:ノウハウ(savoir-faire)」という意味があり、例文としてこの諺が載っています。
    そして、Rey/Chantreau (2003) の旧版の定義を引用して、この諺は「我慢は技巧 (habileté)や知識(connaissance)よりも多くの結果を生み出す」という意味だと書かれています。

ここでは、上の(2)の意味もあることを承知の上で、とりあえず「知識」と訳しておきます。

【由来】 古くは、ボナヴァンチュール・デ・ペリエ(Bonaventure Des Périers, 1510頃-1543頃)の『笑話集』(Les Nouvelles récréations et joyeux devis, 死後刊)の第 62 話に、次のように出てきます(原文は 1561 年版 p.237 などで閲覧可能。少し言葉を補いながら訳してみます。下線引用者)。

  • 〔世の中には〕さまざまな夫がいる。〔妻の浮気を〕知りながら、知らないふりをする者もいる。そうした人々は、〔妻を寝取られた夫の頭に生えるとされる〕角(つの)を、頭の上に生やすよりも、心の中に生やすことを好むのだ。あるいは〔妻の浮気を〕知って復讐する、気違いじみた悪い〔行為に走る〕危険な者もいる。また、〔妻の浮気を〕知って苦しみつつ、我慢は知識にまさると考える哀れな者もいる。

ここなどは、「我慢、我慢と考える哀れな者もいる」と言い換えられそうです。

1568 年のムーリエの諺集『金言宝典』(1581 年版 p.156)には次のように書かれています(Le Roux de Lincy (1842), t. 2, p.280 で不正確に引用)。

  • Patience passe science,
    et qui ne l'a n'a pas science.
    我慢は知識にまさる。
    そして我慢を持たない者は知識を持たない。
    2 行目の「qui」は「celui qui の celui の省略」。その直後の「ne」はne の単独使用(ne だけで否定を表す)。「qui ne l'a」を直訳すると「それを持たない者は」。
    こうすると「Patience」、「passe science」、「pas science」が(ほぼ)同じ発音となり、3 回「我慢、我慢、そして(...)我慢」と言っている感じになります。

現代では、この諺は知識としては知っていても、「生きた」形では使われなくなっているようです(ただし、「Patience, patience. (我慢、我慢)」という表現はよく使われます)。

【似た諺】 むしろ、次の長たらしい諺のほうがはるかによく使われます。

【反対の意味の諺】 「忍耐はろばの美徳

Plus on remue la merde, plus elle pue.

【逐語訳】 「雲古は動かせば動かすほど、ますます臭う」

【諺の意味】 『小学館ロベール仏和大辞典』には、「(糞をかき回せばますますにおう→)たたけばたたくほどほこりが出る」と書いてあります。
詳しくは下記【由来】の項目の仏仏辞典についての記述を参照してください。

【似た諺】 「叩けば叩くほど埃が出る」、「くさい物には蓋をしろ」

【単語の意味と文法】 Plus... plus... は重要な熟語で「...すればするほど、ますます...」(英語の the more..., the more...)。
「on」は漠然と「人は」という意味ですが、むしろ訳さないほうが自然になります。

「remue」は他動詞 remuer (動かす、かき混ぜる)の現在(3人称単数)。ここでは「いじくる、突っつく、ほじくり返す」という感じでしょうか。

「merde」は女性名詞で「糞(ふん、くそ)」。
間投詞的に「クソ!」(畜生!)というときに日常会話でよく使われます。下品な言葉なので、「m...」または「mer..」と略すこともあります。上の逐語訳では当て字を使いました。

「elle」は「la merde」を指します。
「pue」は自動詞 puer (臭う、悪臭がする)の現在(3人称単数)。

直訳すると、「人が雲古を動かせば動かすほど、ますます雲古は臭う」。

【由来】 中世から存在する歴史ある諺で、12 世紀後半の『百姓の諺』に表題の形とよく似た形(一部古い綴り)で「Quant plus remuet on la merde, et ele plus put」と書かれています(リトレで引用)。
15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°666)には古い語法で「Qui plus remue la merde et plus sent.」と記載され、1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集でもほぼ同じ「Qui plus remue la merde plus put.」という形で収録されています。
1606 年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録にはほぼ表題と同じ形で記載されています。

仏仏辞典では、1690 年のフュルチエールの辞典には「犯罪、堕落、不名誉が詰まった事件は、深く掘り下げてはならない」という意味だと説明されています。
アカデミーフランセーズ辞典』では第 3 版(1740)になって初めて収録され、「悪い事件を深く掘り下げれば掘り下げるほど、それに関わった人々の名誉を傷つける」という意味だと書かれています。
同様の記載が第 6 版(1835)まで引き継がれ、第 7 版(1878)からは再び姿を消しています。その頃にあまり使われなくなったのか、または下品だから削除されたのかはわかりません。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【付け足し】 くさいついでに、もっと珍しい諺を一つ。
16 世紀の詩人バイフの格言詩(1576)に、少し古い語法を交えた次のような諺が載っています。

  • A un chacun sent bon sa merde.
    誰しも自分の雲古はいい匂いがする。

モンテーニュ『エセー』(1588)第 3 巻第 8 章にも、「自分の糞は匂いがよい」という言葉がラテン語で引用され、「実に、巧みな、適切なことを言ったものである」と書かれています(岩波文庫、原二郎訳、第 5 巻、p.275)。

ちなみに、1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』 III, IV, 2 (2302) では、ラテン語で

  • 「誰しも自分のおならはいい匂いがする」

という諺が紹介されています。
ただし、エラスムス先生は解説の最後で、「私は自分のおならがいい匂いだと感じる人にまだ出会ったことがない。たしかに、自分の雲古やおならよりは、他人の雲古やおならのほうが、激しく嫌悪を抱かされるものではあるが。」と付け加えています。

Qui bête va à Rome, tel en retourne.

【逐語訳】 「馬鹿としてローマに行く者は、そこから馬鹿として戻ってくる」
(馬鹿はローマに行って戻ってきても、やっぱり馬鹿だ)

【諺のイメージ】 この諺では、ローマはキリスト教の聖地(巡礼地)としてイメージされているようです。Dournon (1986), p.352 でも、「ローマに行くことで奇跡を期待するべきではなかった」と書かれています。
だとすると、この諺は「はるばるローマに巡礼に行っても、そこで奇跡が起きて馬鹿が天才になるわけではない」という意味だと思われます。

【似た諺】 イスラム文化圏では、「ローマ」の代わりに「メッカ」を使った次のような諺があります。

キリスト教でもイスラム教でも、奇跡によって頭がよくなることを期待して聖地に行く人が多かったのかもしれません。

【単語の意味と文法】 「Qui」は関係代名詞で、 celui qui (...する人)の celui の省略
「bête」は形容詞で「馬鹿な、愚かな」。または、それが名詞化して「馬鹿、愚か者」。ここでは、どちらと取ることもでき、どちらと取ったにせよ、「主語と同格」になっています(ここでは、主語は省略されている「celui」です)。
「馬鹿の状態で」、「馬鹿として」( = comme bête)という感じになります。
「va」は自動詞 aller (行く)の現在(3人称単数)。
「à」は前置詞で「~に」。
「Rome」は「ローマ」。都市名は無冠詞です。
コンマの前まで全体が大きな主語になっています。
このコンマは必須ではなく、つけなくても構いませんが、つけたほうが意味的な切れ目が明確になるので、つけているだけです。コンマの有無は結構いい加減です。
「tel」は形容詞で「そのような」ですが、代名詞にもなります。これも、いわば「主語と同格」になっており、「そのようなものとして」(comme tel)という感じです。

「en」は中性代名詞で「de + 場所」に代わり、「そこから」という意味です。
「retourne」は自動詞 retourner (戻る)の現在(3人称単数)。
「tel en retourne」は、代名詞を使わなければ、次のように書き換えられます。

  tel retourne de Rome

「Rome」は前に出てきている言葉なので、代名詞に置き換えたほうがスマートになりますが、その場合、直前に de があったら「de + 置き換えたい言葉」(ここでは「de Rome」)をひっくるめて「en」にし、動詞の直前に移動させます。

【イタリア語の諺】 イタリア語でも、まったく同じ諺があるようです。

  • Chi bestia va a Roma, bestia ritorna.
    単語も文法もフランス語とほとんど同じです。Strauss (1994) ; Teodor Flonta, A Dictionary of English and Italian Equivalent Proverbs, 2001, N°76 等に収録。

ただし、イタリア語とフランス語のどちらが先にできたのかはわかりません(フランス語のほうが古くから確認可能なようです)。

【由来】 古くは 13 世紀の写本に、「子犬としてローマに行くと、犬となって戻って来る」という諺(Morawski, N°1869)が見えますが、これはおそらく長旅を表現したもので、直接関係はない気がします。

15 世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.61, XCVI)には次の形で収録されています。

  • Car qui va fol a Romme,
    Et fol il s'en retourne.
    なぜなら馬鹿としてローマに行く者は
    馬鹿としてそこから戻ってくるのだから。
    「fol」は fou (気違い、馬鹿)の古い形(現在では男性第二形)で、これも主語と同格

1568 年のムーリエ『金言宝典』や 1610 年のグルテルス『詞華選』 p.239 には、表題とまったく同じ形(bête を使った形)で収録されています。

1611 年のコットグレーヴの仏英辞典には次の形で収録されています。

  • Qui fol va à Rome fol en retourne.
    馬鹿としてローマに行く者は、馬鹿としてそこから戻る。

この仏英辞典では、少し古い英語で次のように説明されています。

  • Let no foole hope to become wise by travelling (at least, we use to say of some of our giddie Travellers) he is come home as verie a foole as he went.
    旅することで馬鹿が利口になるとは期待するな(少なくとも我々は愚かな旅人についてこのように言う)、馬鹿は出発した時とまったく同じ馬鹿として帰ってくる。
    「giddie」は「愚かな」。「verie」は very と同じ。

この「我々は」というのが「我々イギリス人は」という意味だとすると、当時イギリスでも travel (旅する)という言葉を使った、似たような表現があったと推測されます。
とすると、次の諺との関連が疑われます。

  • If an ass goes a-travelling, he'll not come home a horse.
    ろばが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない。
    英語の ass (ろば)にも「馬鹿」という意味があります。「a-travelling」のハイフンは、詩や諺などで優雅な書き方をする時に付け足されることがあるようです。
    この諺の初出は、『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.21 には 1732 年と書かれていますが、それより以前に原型となるような諺があったのかもしれません。なお、この諺は『故事・俗信ことわざ大辞典 第二版』 p.1467などにも収録されています。

脱線になりますが、「ろばは馬にはなれない」というモチーフは、1557年のブリューゲルの版画にも使われています。

【英語の諺】 英語では、「ローマ」を「市場(いちば)」に置き換えた諺もあります。

  • Send a fool to the market and a fool he will return.
    馬鹿を市場にやってみたまえ、彼は再び馬鹿として戻ってくるだろう。

「to the market (市場に)」の代わりに「far (遠くに)」や「to France (フランスに)」ということもあります。
「フランスに」とする場合は、次の形もよく用いられるようです。

  • Send a fool to France and he'll come back a fool.
    馬鹿をフランスにやってみたまえ、彼は馬鹿として戻ってくるだろう。

...フランスに留学する(したことがある)人には、少し耳の痛い諺かもしません。

Qui langue a, à Rome va.

【逐語訳】 「舌を持つ者はローマに行く」
(言葉が話せれば、ローマへも行ける)

【諺の意味】 言葉ができれば、道を尋ねることによって、どこへでも行くことができる。

【背景】 昔からローマはキリスト教の巡礼地として有名で、ヨーロッパ各地から巡礼者は人に道を尋ねながらローマまで歩いて旅していました。

ちなみに、有名な「すべての道はローマに通ず」の「ローマ」も、巡礼地ローマを指すと考えられます(詳しくは「すべての道はローマに通ず」の【由来】を参照)。

【単語の意味と文法】 この諺は中世に誕生し、形を変えずに使われてきたので、現代の文法から見ると、語順に無理があります。
現代の普通の語順に直すと、次のようになります。

  Qui a langue va à Rome.

「Qui」は関係代名詞で、 celui qui (...する人)の celui の省略です。
「langue」は女性名詞で「舌、言葉、言語」。諺なので無冠詞になっています。
「a」は他動詞 avoir (持っている)の現在(3人称単数)。
「Qui a langue」を逐語訳すると「舌を持つ者は」。これ全体が大きな主語になります。
「va」は自動詞 aller (行く)の現在(3人称単数)。
「à」は前置詞で「~に」。
「Rome」は女性名詞で「ローマ」。都市名は無冠詞です。

表題の形は、「Qui langue a」が 4 音節、「à Rome va」も 4 音節で、それぞれ末尾の「a」と「va」が脚韻を踏んでいます。

昔は、特に詩では、韻を踏むためにかなり自由な語順にすることができたので、ここも 2行の詩のようにして脚韻を踏むために、こうした語順にしたのだと思われます。
実際、この諺の初出は、詩の形式で書かれた作品です(次項を参照)。

【由来】 12 世紀後半の『百姓の諺』に表題とまったく同じ形で見えます(原文は Internet Archive などで閲覧可能。 ピノー, Morawski などで引用)。

15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°634)や、15 世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.50, LII)にも見えます。

1557 年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本にも収録され、次のように説明されています(Gallica 版 p. 81/112 で閲覧可能)。

  • この諺は、言葉という手段を使って道を尋ねることで、どこにでも行きたいところに行くことができるという〔意味であり〕、巡礼者についての諺である。

1568 年刊のムーリエ『金言宝典』では、表題とほぼ同じ形とともに、次のような諺も収録されています。

  • En demandant on va à Rome.
    (逐語訳:尋ねながら、人はローマに行く)
    「demandant」は demander (尋ねる)の現在分詞ジェロンディフ)。

1605 年セザール・ウーダンの『フランス語に訳されたスペイン語の諺』では、次のスペイン語の訳として、表題のフランス語が収録されています。

  • Quien lengua ha, à Roma va.
    (舌を持つ者はローマに行く)
    スペイン語ですが、文の構造はフランス語とまったく同じです。

1610 年のヨーロッパ各国の諺を集めたグルテルス『詞華選』でも、これと同じスペイン語が、表題のフランス語とともに収録されています。
スペインからも、ローマを目指して巡礼者が旅していたことが想像されます。

ちなみに、この『詞華選』には、前掲のフランス語「En demandant on va à Rome. (尋ねながら、人はローマに行く)」と並んで、それに相当するイタリア語も収録されています。

  • Dimandando si và a Roma.
    (尋ねながら、人はローマに行く)
    イタリア語ですが、文の構造はフランス語とまったく同じです。

イタリア人も、道を尋ねながらローマまで行っていた姿が目に浮かびます。

1611 年のコットグレーヴの仏英辞典(Rome の項)では、表題のフランス語の諺が次のように英語で説明されています。

  • He that can speake may travell any way.
    (話すことができる人は、どこへでも旅することができる)
    こういう英語の諺が存在したのではなく、単に英語に訳しただけかもしれません。

アカデミー辞典』(langue の項目)では、第 1 版(1694)~第 7 版(1878)までは収録されていますが、第 8 版(1932-1935)では削除されています。
ここから単純化すると、この諺は 19 世紀までは使われたが、20 世紀になって使われなくなったということができます。

近代以降は、交通網の整備等により、(言葉が話せなくてもローマに行けるようになったので)この諺は意味をなさないものとなり、このフランス語の諺は次第に使われなくなったのではないかと想像されます。

【日本の諺】 『福翁自伝』に、福沢諭吉が言った次のような言葉が出てきます。

  • 「馬鹿言うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか」
    岩波文庫 p.34 による(下線引用者)。

【ロシアの諺】 ロシアでは「キエフ」と言うようです。

  • 舌はキエフまで連れてってくれる
    北村孝一「ことわざ酒房」による(初出:朝日新聞 日曜版、2001年1月28日)。

  • 言葉がキエフまで導く
    吉岡 (1986), p.152 による。同書では次のように解説されています。「キエフは教会や僧院の多い有名な古都なので、ロシア全土から訪れてくる巡礼が多かった。そんなわけでキエフは誰でも知っており、たとえ道を知らなくとも、途中出会う人たちに道を尋ねながら行きさえすれば、そこまで行き着けるとされた」。

Qui naquit chat court après les souris.

【逐語訳】 「猫として生まれた者は鼠を追いかける」

【諺の意味】 「猫として生まれたからには、ついつい鼠を追いかけてしまう」。
つまり、「いくら教養を積んでも、化けの皮はすぐに剥がれてしまう(本性が現れてしまう)ものだ」。

【単語の意味と文法】 「Qui」は関係代名詞で、celui qui (...する人)の celui の省略です。
次のように文頭に celui を補うこともできます。

  Celui qui naquit chat court après les souris.

「naquit」は自動詞 naître (生まれる)の単純過去(3人称単数)。
「chat」は男性名詞で「猫」。
辞書で naître を引くと、次のように記載されています。

  naître + 属詞 (生まれつき~である)

逐語訳すると「~という状態で(~として)生まれる」という感じです。属詞になると名詞は基本的に無冠詞になります。
例えば『ロワイヤル仏和中辞典』には次のような例文が載っています。

  Mozart naquit musicien.

逐語訳すると「モーツァルトは音楽家という状態で(音楽家として)生まれた」ですが、要するに「モーツァルトは生まれながらの音楽家だ」、「モーツァルトは天性の音楽家だ」という意味になります。「Mozart」が主語、「naquit」が動詞、「musicien」が属詞で、第 2 文型です。名詞は属詞になると基本的に無冠詞になるので、「musicien (音楽家)」は無冠詞になっています。

この諺でも、文頭に celui を補った「Celui qui naquit chat」の部分は、「Celui」が主語、「naquit」が動詞、「chat」が属詞なので、「chat」は無冠詞になっています。
「(Celui) Qui naquit chat」で、「猫として生まれた者は」「猫に生まれついた者は」という感じです。

「court」は自動詞 courir (走る)の現在(3人称単数)。「après」は前置詞で「~の後を」。「courir après ~」で逐語訳すると「~の後ろを走る」ですが、辞書で courir を引くと熟語欄に courir après ~ で「~を追いかけ回す、~を追い求める」というような意味が載っています。
「souris」は女性名詞で「鼠」。

【由来】 ラ・フォンテーヌの『寓話』 第 2 巻第 18 話に、「人間の女に変わった牝猫」(La chatte métamorphosée en femme)という次のような話があります。

  • ある男が、飼っていた牝猫をたいへん可愛がり、人間の女に変身して欲しいと願った。その願いが叶えられ、男はその女と結婚した。しかし、鼠を見たとたんに、女は四つんばいになって鼠を追いかけ回した。
    ただし、この諺自体は、ラ・フォンテーヌの原文には出てきません。

ちなみに、この話はイソップ物語にも出てきますが、岩波文庫『イソップ寓話集』(p.58)では「猫」ではなく「鼬(いたち)」になっています。

【日本の諺】 「三つ子の魂百まで」

【似た諺】 Chassez le naturel, il revient au galop.

Qui pisse contre le vent se rince les dents.

【逐語訳】 「風に逆らって小便をする者は自分の歯をすすぐ」

【諺の意味】 「自然の力に対抗しても無駄だ」(Pierron (2000), p.226)

【背景】 下品というよりは、むしろユーモラスで、フランス人の間でも比較的好まれている諺のように見受けられます。

よくブルターニュの諺として紹介されますが、この種の下ネタ系の諺は、適当に「ブルターニュの諺だ」と言われることもあるので、詳細は不明です(まじめな諺の本や辞典には収録されていません)。

フランス北西部のブルターニュ地方は、ケルト系の独特な文化が残り、現在でも西部ではフランス語とはまったく異なるブルトン語が少数の人々によって話されています(日本におけるアイヌ語のような位置付けです)。
また、海岸沿いなので強風で有名です。この諺もブルターニュ地方の強風を連想させます(相当に強い風です)。

【似た表現】 「天に唾す」
フランス語では「Cracher en l'air (空中につばを吐く)」と言います。

【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」という意味になります。
「pisse」は自動詞 pisser (小便をする)の現在(3人称単数)。
「contre」は前置詞で「~に反対して、~に逆らって」(英語の against に相当)。
「vent」は男性名詞で「風」。

「se」は再帰代名詞で、直接目的(「自分を」)にも間接目的(「自分に」)にもなるので、どちらなのかは、先に他のものを決めてから消去法で決める必要があります。
「rince」は他動詞 rincer (水で洗う、すすぐ)の現在(3人称単数)。
「dent」は男性名詞で「歯」。これが他動詞 rincer の直接目的としか取りようがありません。とすると、消去法で再帰代名詞 se は間接目的となります。これは「文法編」の再帰代名詞の「例文 6」のタイプに該当し、「se」は「自分の」という意味になります。

「se rincer ~」で「自分の~をすすぐ」という意味です。よく使われるのは次のような表現です。

  se rincer la bouche (自分の口をすすぐ)
  se rincer la gorge (自分の喉をすすぐ→うがいをする)

se rincer les dents (自分の歯をすすぐ)というと、例えば水道の蛇口や冷水機(足でペダルを踏むと飲み水が出てくる機械)などの水に歯を当てるようなイメージです。
この諺では、水ではありませんが...

【由来】 16 世紀前半のラブレー『ガルガンチュワ(第一之書)』第 11 章には次のような表現が出てきます。

  • pisser contre le soleil
    (太陽に向かって小便をする)
    渡辺訳 p.70 では「お天道様めがけておしっこをしたり」、宮下訳 p.100 では「お天道様におしっこをしたり」となっています。
    これとまったく同じ表現が1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本にも収録されています(HathiTrust で閲覧可能)。

1640 年のウーダン『フランス奇言集』には、「災いや損害が自分の身に降りかかるようなことをする」という意味として、次のような表現が収録されています。

  • pisser contre le vent
    (風に逆らって小便をする)

さて、表題の諺の「自分の歯をすすぐ」という部分は、もとは「自分のシャツを濡らす」だったようです。
1642 年の Giovanni Torriano, Select Italian Proverbs という諺集には、イタリア語の諺の英訳として、次のような英語が載っているそうです(『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.627 による)。

  • He who pisseth against the wind, wetteth his shirt.
    (風に逆らって小便をする者は自分のシャツを濡らす)

1670 年のジョン・レイの諺集 p.131 には、これとほぼ同じ英語が次のイタリア語の英訳として記載されています。

  • Chi piscia contra il vento si bagna la commiscia.
    現代のイタリア語だと、「contra」は「contro」、「commiscia」は「camicia」となります。

フランス語では次のように言います。

  • Qui pisse contre le vent mouille sa chemise.
    (風に逆らって小便をする者は自分のシャツを濡らす)
    「mouille」は他動詞 mouiller (濡らす)の現在(3人称単数)。
    「chemise」は女性名詞で「シャツ」。

この諺の意味は、「自然の力に対抗しようとしても無駄だ」(Pierron (2000), p.226)ということのようです。

ギヨーム・アポリネールの短編集『異端教祖株式会社』(L'hérésiaque Et Cie, 1910 年)にも、これとほぼ同じ「Celui qui pisse contre le vent se mouille la chemise.」という形で出てきます。

また、仏仏辞典 TLFi には次のような形で載っています。

  • À pisser contre le vent, on mouille sa chemise.
    (風に逆らって小便をすると、自分のシャツを濡らす)
    「À」は前置詞で、後ろに不定詞がくると「~すると」という意味です
    (辞書で à を引くと、後ろに不定詞がくる用法として記載されています)。

ただ、現在ではむしろ「自分の歯をすすぐ」のほうが有名かもしれません。

【余談】 フランス語で Manneken-Pis (マヌケンヌ ピス)と呼ばれる小便小僧の像は、ベルギーの首都ブリュッセルが発祥の地とされ、ブリュッセル市役所のホームページで写真入りで紹介されています。

Un noyé s'accroche à un brin de paille.

【逐語訳】 「溺れている者は一本の藁にもしがみつく」

「溺れる者は藁をもつかむ」のフランス語版です。
残念ながら、フランスではそれほど使われていません(下記【由来】を参照)。

【単語の意味と文法】 「noyé」は、他動詞 noyer (溺れさせる)の過去分詞 noyé が名詞化した言葉で、
  「(現在)溺れている(溺れかかけている)人」
  「溺れて死んだ人(溺死者)」
の両方の意味で使われます(ここでは前者)。

「accroche」は他動詞 accrocher (引っ掛ける)の現在 3人称単数。
語源的には、物を引っかけるための crochet (フック、かぎ)に関連します。
この動詞は、基本的には、

  accrocher A à B (A を B に引っかける)

という使い方をします。この A の部分が再帰代名詞 se に変わると、

  s'accrocher à ~ (自分を~に引っかける → ~に引っかかる)

となります。また、「~にしがみつく」という意味にもなります。

「brin」は「一本」。「paille」は「藁(わら)」。
「brin de paille」で「一本の藁」。

直訳すると、「溺れている人は一本の藁にしがみつく」。

ただし、意味的に「一本の藁」は「最もわずかなもの」の比喩であり、一般に最上級は「~さえ」という意味を伴いやすいので、ここも「一本の藁にさえ」というニュアンスです。

【由来】 この諺は、もとは英語に由来するようです。(2013/6/16加筆修正)

英語での古い用例としては、1534 年にトーマス・モアが、「溺れそうになったときに、手の近くにあるものを何でもつかむ人のように...」と書いており、英語では「藁をつかむ」というのは比喩的表現として頻繁に用いられるそうです(Oxford 5th ed. (2008), p.87 による)。

現在は、英語では主に次の形で諺として定着しています。

  • A drowning man will catch at a straw.
    溺れている人は藁をつかもうとする。
    「catch」の代わりに clutch, grasp も使われ、いずれも「つかむ」という意味。

フランス語では、「藁をつかむ」というのは比喩的表現としては一般的とはいえず、もとは「何にでも(すべてに)しがみつく」という言い方をしていたようです。
例えば、仏仏辞典アカデミー第1版(1694)には(特に諺としてではなく)次のような文例が記載されています。

  • quand on est mal dans ses affaires, on s'accroche à tout, on s'accroche à ce qu'on peut.
    物事がうまく行かないときは、人は何にでもしがみつく、〔または〕人はしがみつけるものにしがみつく。

同第2版(1718)には、「溺れる」と組み合わさった次のような文例が記載されています。

  • Quand on se noie, on s'accroche à tout ce qu'on peut.
    人は溺れたときには、しがみつけるものには何にでもしがみつく。

18 世紀の仏仏辞典 Trévoux (1743)Richelet (1759) には、もっと諺らしい形で(後者では明確に諺として)収録されています。

  • Un homme qui se noie s'accroche à tout.
    溺れる者は何にでもしがみつく。

19 世紀の有名な諺の本 Quitard (1842), p.563 では、おそらく英語の影響からか、「藁にしがみつく」という形になっています(これがフランス語で「藁」を使ったほとんど最初の用例のようです)。

  • Un noyé s'accroche à un brin de paille.
    溺れた者は一本の藁にもしがみつく。
    Dournon (1986), p.292にはこの形で記載されています。

しかし、フランスでは昔も今も、広く諺として認知されているとは言えないようです。現代のフランスの諺辞典や仏仏辞典には、ほとんど収録されていません。

【日本語の諺】 明治時代になってから日本語に翻訳され、「西洋起源のことわざのなかでも屈指の名訳」(北村 (2003), p.79)だったこともあって、日本では広く知られています。

Vent au visage rend l'homme sage.

【逐語訳】「逆風は人を賢くする」

日本の「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」の元になった諺です(後述)。

【単語の意味と文法】「Vent」は男性名詞。諺なので無冠詞になっています。
「au」は前置詞 à と定冠詞 le の縮約形。この à は「~に、~へ」ないし「~への」。
「visage」は男性名詞で「顔」。
「Vent au visage」で直訳すると「顔への風」。つまり「顔に当たる風」、順風ではなく「逆風」という意味です。

「rend」は他動詞 rendre の現在(3人称単数)。
rendre は、ここでは「返す」という意味ではなく、 rendre A B で「A を B (という状態)にする」という意味です(英語の make に相当)。 A に相当するのが「l'homme (人、人間)」。 B に相当するのが形容詞「sage (賢い)」です。

ちなみに、「Vent au visage」が 5 音節、「rend l'homme sage」も 5 音節で、「visage」と「sage」が韻(脚韻)を踏んでいるので、非常に語調に優れており、あたかも 2 行の詩のように感じられます。

【由来その 1 】「逆風は人を賢くする」という考え方は、例えば 13 世紀後半の『薔薇物語』後篇に、逆境の時には真の友人が見つかるから、逆境のほうが繁栄よりも有益だという文脈で、次のような言葉が見られます。

  • 繁栄は人々を無知のままに放置しますが、逆境は知恵を与えるのです。
    篠田勝英訳、ちくま文庫『薔薇物語』上巻 p.214 から引用(下線引用者)。原文は par aversité [ont il] science (逆境によって知恵 [を持つ] )となっており、形式上は表題の諺とはまったく似ていません。

表題の諺に近い形で、現時点で私が確認できた一番古い用例は、1557年のシャルル・ド・ボヴェル『諺と金言ならびにその解釈』 p.5 (Gallica 版 p.18/112)に収録されている次の諺です。

  • Vent au visage fait l'homme sage.
    (逆風は人を賢くする)
    「fait」は faireの現在3人称単数。このfaireは上記のrendreと同じ意味。

ボヴェルは「逆風」という言葉の意味と、この諺全体の意味について、同書で次のように解説しています。

  • 通常、誰かが「逆風を受けている」という場合、それは何らかの理由で主君や他人などの人々から疎んじられ、主人や人々からの寵愛や愛情を失ったことを意味する。しかし、それによってその人は賢くなり、慎重になるので、それ以後は前よりもいっそう自分を抑制し、制御できるようになり、結果として、失った人々のもとに戻ることが可能になる。
    全体として日本の「艱難汝を玉にす」とはだいぶニュアンスが異なっています。

1568 年のガブリエル・ムーリエ『金言宝典』では、表題とまったく同じ次の形で収録されています(1581年版 p.233による)。これが表題の形での初出です。

1611 年のコットグレーヴの仏英辞典(vent の項目の例文)では、このムーリエに収録されているのとまったく同じフランス語が取り上げられ、adversity (逆境)という抽象名詞を使って次のように英訳されています。

  • Adversities teach a man wit.
    (逆境は人に賢さを教える)

これを見れば、フランス語から英語に入ったと考えるのが自然です。

【由来その 2 (英語での変遷その他)】『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.4 には、この諺に関連した内容の古い時代の文が列挙されていますが、諺とは似ても似つかない文ばかり集められており、さらに悪いことには、上のコットグレーヴ仏英辞典について言及されていません。あたかも、フランス語から入ってきた歴史を消そうとしているかのようにさえ思われます。

同辞典では、1616年の類似の諺を挙げたあとで、1659年の Proverbs English, French, Dutch, Italian, and Spanish. という本に次のような英語が記載されていると書かれています。

  • Adversity makes men wise.
    (逆境は人を賢くする)
    この本は閲覧できていないので、どのような形で記載されているのかは未確認。

1670 年刊のジョン・レイの諺集では、Adversity makes a man wise, not rich. (逆境は人を賢くするが、金持ちにはしない)が収録され、「フランス人は Vent au visage rend un homme sage. と言う」と書かれています。

1707 年のイギリスのメープルトフトの諺集(ヨーロッパ各国語の諺に英語訳をつけた本)の French Proverbs (フランス語の諺)の部(p.89)でも表題のフランス語の諺が収録されており、 Adversity makes Men wise. という英訳が付けられています。

ドイツの哲学者ライプニッツ(1646-1716)も、このフランス語の諺を知っていたようです。これについては、フランス革命の頃に外交官として活躍したマングーリ(Michel-Ange-Bernard Mangourit, 1752-1829)の『ハノーバー旅行記』(1805 年刊)という本の中に出てきます。マングーリは、滞在先のドイツのハノーバーで、この地で死んだライプニッツの草稿を目にする機会に恵まれ、とても全部を書き写すことはできないが、「ライプニッツが集めた世界各国の諺の中から、フランスのことわざをいくつか書き抜いてみる誘惑を抑えきれない」として挙げた中に、「Vent au visage fait l'homme sage.」が出てきます(原文は Voyage en Hanovre (Google Books), p.185 で閲覧可能)。

Quitard (1842) では、英語の adversity に相当する抽象名詞を使った次の形で収録されています(英語からの逆輸入と言えるかもしれません)。

  • L'adversité rend sage.
    (逆境は賢くする)
    「adversité」は女性名詞で「逆境」。「rend」は表題の形でも出てくる「A を B (という状態)にする」という意味ですが、 A に相当する直接目的語(「人を」というような言葉)が例外的に省略されています。

【類似の諺】1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本には、「Dommage」(損害)という言葉を使った次のような諺が収録されています。

  • Après dommage chacun est sage.
    (損害のあとでは誰もが賢くなる)
    現代の綴りに直して引用。Lincy (1842), t.2, p.107 で取り上げられています。原文は HathiTrust で閲覧可能。

これは、時代が下ると次のような形に変わります。

  • Dommage rend sage.
    (損害は賢くする)
    Beauclair (1794) t.1, p.211 にはこの形で収録され、「不幸は人に学ばせ、慎重にさせる」という意味だと書かれています。Ch. Cahier (1856) N°1585 にもこの形で収録されています。

また、Baïf (1576) に出てくる次の諺も関係あるかもしれません。

  • Au sortir des plaids l'on est sage.
    (訴訟(論争、口論)のあとでは人は賢くなる)
    出典: Premier livre des Mimes, 1031, éd. J. Vignes, p.113
    Lincy (1842), t.2, p.107 で引用されています。この諺は仏仏辞典 Furetière にも収録されています。

【日本の諺】このフランス語の諺から生まれたのが、次の日本語の諺です。

  • 艱難汝を玉にす。

例えば時田 (2000) には次のように書かれています。

  • 漢語調なので、中国起源と誤解されやすいが、じつは英語からの翻訳。 Adversity makes a man wise. で、直訳すれば、逆境は人を賢くする。時代的に早いものから挙げてみると、ことわざ集では、『金言万集』(1888年)は「艱難、人を賢にす」、『英和対訳 泰西俚諺集』(1889年)は英文と訳文の「艱難は人をして賢ならしむ(仏)」(もとはフランスのことわざとしている)、『金諺一万集』(1891年)で「艱難は人を玉にす」と見出しとほとんど同じになっている。

現代のフランスでは、あまり省みられなくなった諺ですが、日本では明治時代に翻訳されて以来、その訳語が漢語調の絶妙な比喩を用いた表現であったことに加え、戦前の修身(道徳)の教科書に採用されたこともあって、本国フランスにおけるよりもはるかに有名な諺となって生き延びることになりました。

ただし、日本の「艱難汝を玉にす」の場合は、「逆境に置かれてこそ人格が向上する」という道徳的な意味合いが強くなっており、元のフランス語や英語の諺とはだいぶニュアンスが異なっています(これについては北村孝一『ことわざの謎』で詳述されています)。



Vérité est la massue qui tout le monde occit et tue.

【逐語訳】真実は皆を殴って殺す棍棒(こんぼう)だ。

【単語の意味と文法】「Vérité」は女性名詞で「真実」。「massue」は女性名詞で「棍棒(こんぼう)」。
「qui」は関係代名詞。「tout le monde」は熟語で「皆」。
「occit」は古語の他動詞 occire(殴り殺す [発音オクスィール] )の現在3人称単数。「tue」は他動詞 tuer(殺す)の現在3人称単数。

通常の語順であれば ...qui occit et tue tout le monde. となるべきところ。次に述べるように、もともと詩の形式で書かれた中世の作品に中に出てくる言葉で、maçue と tue で韻を踏ませるために語順が入れ替わっています。

なお「Vérité」(真実)が無冠詞なのは、古い語法の名残だともいえますが、ここでは「真実」という抽象名詞が中世特有の寓喩(アレゴリー)によって擬人化されており、「ヴェリテ」という名前の女の人、つまり一種の固有名詞のように捉えられているからだと説明できる可能性もあります。

【由来】13世紀前半にエルベール Herbert によってラテン語からフランス語に訳された『ドロパトス』(『七賢人物語』)の中に出てきます。
この物語のあら筋は、ざっと次のとおりです。

  • シチリアにドロパトスという名の王がいた。やっと生まれた王子は、ローマに行き、偉大な詩人ウェルギリウスのもとで学業を修めて帰ってくる。シチリアに戻った王子は、王が再婚していた若い王妃(つまり王子の義母)に恋心を寄せられるが、相手にしなかったところ、逆に恨みを買い、王子を陥れようとする王妃によって、王子に凌辱されたと王に告げ口をされる。これを信じた王は、王子を処刑しようとするが、賢人が現れ、王を説得して翻意させる。しかし再び王妃の告げ口によって王は気が変わるが、今度は違う賢人が現れてまた説得される。こうしたことが七日間繰り返され、最後に王子の師であるウェルギリウスがやってきて、最終的に王妃のたくらみが暴かれる。

この最後の場面で、ウェルギリウスが王妃を非難し、真実を暴く演説をしたあとで、次のような言葉が出てきます(写本によって字句は異なるようですが、少なくとも16世紀~19世紀には次の形で伝えられてきました)。

  • Riens tant ne grève mantéor
    A larron ne à robéor
    N'à mauvais hom, quiex qui soit,
    Com Véritez quand l'apperçoit.
    Et Véritez est la maçue
    Qui tot le mont occit et tue.

  • 嘘つきも、盗賊も泥棒も、
    またどのような悪人であれ、
    かいま見られる「真実」ほど
    彼らを苦しめるものはない。
    「真実」は、皆を打ち倒して
    殺す棍棒なのだ。

    mantéor (= menteur) は「嘘つき」。robéor (= robeur) は「泥棒」。tot le mont は tout le monde の古い綴り。これとほぼ同じ形は、16世紀の詞華集、18世紀のフォントネル、Philibert-Joseph Le Roux の諺集Le Roux de Lincy (1842) とそれを引く仏仏辞典リトレなどに出てきます(若干の綴りの異同はあります)。

各行とも8音節の詩の形式で書かれ、2行ずつ脚韻が踏まれています。

なお、『ドロパトス』の日本語訳としては、西村正身訳『ドロパトスあるいは王と七賢人の物語』(未知谷)がありますが、これはラテン語からの訳であり、上の中世フランス語訳に出てくる言葉は出てこないようです。

  • Cf. 西村正身訳『ドロパトスあるいは王と七賢人の物語』(未知谷、2000年)p.164-173 あたり  ⇒ Amazon

この諺は非常に珍しく、現在出ている日本とフランスの諺辞典や辞書類にはほとんど載っていません。むしろ「名言」と呼ぶべきかもしれませんが、昔の諺辞典や諺関連の本に収録されているのに敬意を表し、諺としておきます。

【似た諺】「傷つけるのは本当のことだけだ」(Il n'y a que la vérité qui blesse.)

【他のバージョン】Le Roux de Lincy (1842) の影響のもとで書かれたグランヴィル他『百の諺』(1845) では、現代風に直した次の形で出てきます。

  • Vérité est la massue qui chacun assomme et tue.

「chacun」は不定代名詞で「各人」。ふつうは主語で使われますが、ここでは稀な例として直接目的語として使われています。また、置く場所も通常であれば ...qui assomme et tue chacun. となりますが、ここではもとの形と同様、maçue と tue で韻を踏ませるために語順を入れ替えています。

「assomme」は他動詞 assommer(殴り倒す、叩きのめす)の現在3人称単数。本来の言葉「occit」が古いので、同義語に置き換えています。

【図版】グランヴィルが描いた版画を参照。












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