「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 II-2

少し難しい諺 2 ( I ~ M )

Il n'est pire eau que l'eau qui dort.

【逐語訳】「眠っている水(よどんだ水)ほど悪い水はない」

【諺の意味】一見おとなしそうな人ほど油断のならない人はいない。静かにしている人のほうが危険だ。

あるいは、「見かけ上は攻撃的ではない人を、最も警戒する必要があることが多い」(Petit Larousse 2013

【単語の意味と文法】 文頭の Il は「後出の名詞を指す仮主語の il」で、Il est ~ は Il y a ~ と同じ意味になるため、「Il n'est ~」は「Il n'y a ~」と同じ意味です。
事実、この諺も次のように言うこともあります。

  • Il n'y a pire eau que l'eau qui dort.

「n'」は「ne の単独使用」で、ne だけで否定を表します。
ここは ne... que ~ (~しか... ない)というつながりではありません。
この que は比較の対象を表す que 〔英語の than 〕です。
「pire」は形容詞 mauvais(悪い)の比較級
「pire... que ~」で「~よりも悪い...」 〔英語 worse... than ~ 〕。

「eau」は女性名詞で「水」。
「qui」は関係代名詞で、先行詞は「l'eau」。
「dort」は自動詞 dormir(眠る)の現在3人称単数。
「l'eau qui dort」で逐語訳すると「眠っている水」となります。「(流れずに)よどんだ水」という感じです。

【他のバージョン】 現代では、次のように言うことの方が多いかもしれません。

【由来】 3世紀頃にラテン語で書かれたカトーの二行詩(IV, 31)に次のような言葉が出てきます(試訳)

  • Demissos animo et tacitos vitare memento;
    Quod flumen placidum est, forsan latet altius unda.
    心 陰鬱で沈黙した人を避けるように心がけなさい
    川が静かなときは おそらくもっと深い流れが隠れている

フランス語では、13世紀末の写本と 1317年頃の写本に、古い言葉で次のように書かれています(それぞれ Morawski, N°720, 941 による)

  • Eve coie ne la croie.
    静かな水を信じるな。
  • Il n'est si perillouse yaue com la coie.
    静かな水ほど危険な水はない。

1531年のボヴェルの諺集では、次のようなかなり現代に近い形になっています。

  • Il n'y a point d'eau plus dangereuse que celle qui dort.
    眠っている水ほど危険な水はない。
    原文はHathiTrustで閲覧可能。

1611 年のコットグレーヴの仏英辞典にも、次のような古い形で収録されています。

  • Il n'y a pire eau que la quoye.
    静かな水ほど悪い水はない。

諺の意味として、英語で「最も静かな水(および気質)が最も悪い」と説明されています。表面上は「水」について言いながら、比喩的に「気質(humor)」つまり人の性格について使われていたことがわかります。

1664年のモリエール『タルチュフ』第 1 幕第 1 景では、見出しに掲げたのと同じ形で出てきます(鈴木力衛訳『タルチュフ』、岩波文庫、p.6 から引用。下線引用者)

  • おまえさんはね、お嬢ちゃん、いかにも控え目で、よけいな口出しはしない。
    (...) だけど、眠っている水ほど悪い水はないって言うじゃないか。
    こっそりなにかたくらんでいるだろう。
    原文はWikisourceSite-Molière.comなどで閲覧可能。

【似ている諺】「静かにしている人の方が危険」の反対で、「騒ぎ立てる人は恐れるにたりない」という意味では、次の諺があります。

また、一般に「見かけを信用してはならない」という点では、次のような諺と通じるところがあります(Cf. Visetti/Cadiot (2006), p.330)

Il n'est si bon cheval qui ne bronche.

【逐語訳】「躓(つまづ)かない名馬はない」

一番直訳に近づけると「躓かないような、それほどまでに良い馬は存在しない」。

【諺の意味】「躓かない馬はない、どんなに良い馬でも躓くこともある」というところから、「どんなに賢い人や器用な人でも、間違いを犯すことはある」。

ひと言でいうなら、

  • Nul n'est parfait.
    誰も完璧ではない。
    Rey/Chantreau, p.181 の説明による)

または、

  • Tout le monde peut se tromper.
    誰でも間違えることはある。
    TLFi の説明による)

【日本の諺】「猿も木から落ちる」、「弘法も筆の誤り」、「上手の手から水が漏る」、「河童の川流れ」

【単語の意味と文法】 古い諺によく見られる次のような表現が使われています。

  • Il n'est si 形容詞 + 名詞 qui ne...
  • Il n'y a si 形容詞 + 名詞 qui ne...
    ...しないような、それほどまでに〔形容詞〕な〔名詞〕は存在しない
    ...しないほど〔形容詞〕な〔名詞〕は存在しない

この表現について、以下で解説してみます。

文頭の Il は「後出の名詞を指す仮主語の il」です。
この仮主語の il を使った Il est ~ は Il y a ~ と同じ意味 になります。
つまり、Il n'est ~ は Il n'y a ~ と言っても同じです。
そのため、この諺の場合は、次のように言うこともあります。

  • Il n'y a si bon cheval qui ne bronche.

Il の次の「n'」は「ne の単独使用」で、ne だけで否定を表します(ne だけで否定を表すという、古い語法の名残り)。

「si」は、同等比較の否定で使う si (英語の so )に似ていますが、辞書で si を引くと、形容詞を強調する「副詞」として「それほどまでに」「それほど」というような意味が載っているはずです。

「qui」は関係代名詞。
その後ろの「ne」は、さきほどと同様に「ne の単独使用」で、ne だけで否定を表します。これは、主節が否定文・疑問文の場合は、関係詞節内では ne だけで否定になるという規則によるものです(辞書で「ne」を引いても載っています)。

この関係代名詞 qui の後ろの動詞は、接続法になります。これは、主節が否定文・疑問文の場合は、関係詞節内の動詞は接続法になるという規則があるからです。
この諺でも、「bronche」は自動詞 broncher (〔馬が〕躓(つまづ)く)の接続法現在3人称単数です(直説法現在3人称単数とまったく同じ形ですが)。

「bon」は形容詞で「良い」。
「cheval」は男性名詞で「馬」。

この諺の構文は、「読解編」で取り上げている Il n'est pas de ~ qui ne... という表現に似ています。これを使うと、次のような文ができます。

  • Il n'est pas de cheval qui ne bronche.
    躓かないような馬は存在しない。
    この表現を使う場合は、このように「si bon」は抜かしたほうが意味的に自然になります。その結果、この諺とは若干ニュアンスが違ったものになります。

【エピソード】 プロテスタントへの風当たりが非常に強かった 1762 年、カトリックに改宗しようとした息子を殺害した罪で、プロテスタントだった商人ジャン・カラス(Jean Calas)が極刑に処せられるという事件が起きました(カラス事件)。
これが冤罪であることを知った啓蒙思想家ヴォルテールは、『寛容論』(1763)を書くなどして 3 年がかりでキャンペーンを展開し、裁判所に誤審を認めさせました。
このとき、世間の非難にさらされていた役人が、「どんに優れた裁判官でも間違えることはある」という意味で、「どんなに良い馬でも躓くこともある」というこの諺を引き合いに出して弁解しました。
この話を聞いたある大臣は、次のように叫んだといわれています。

  • Passe pour un cheval, mais toute une écurie !
    一頭の馬だけならまだしも、馬小屋全体が躓くとはなあ!
    「馬小屋全体」というのは「馬小屋にいるすべての馬」という意味で、「裁判官全員」の比喩。
    このエピソードは昔から知られており、キタール『フランス語ことわざ研究』 p.255 などにも記載されています。

【由来】見出しに掲げたのとほぼ同じ形は、1640年のウーダンの諺集『フランス奇言集』に記載されており(初版原文は Gallica, p.95 で閲覧可能、Le Roux de Lincy (1842) で引用)、「何らかの過ちを犯さないような賢い人はいない」という意味だと書かれています。

仏仏辞典『アカデミー辞典』でも、第 1 版(1694)から第 9 版(1992)まで、(「Il n'est...」または「Il n'y a...」の形で)一貫して収録されています。

【似た諺】 フランス語の似た諺で、もっと古くから存在するのは次の諺です。

  • Il n'est si bon charretier qui ne verse.
    荷馬車をひっくり返さないような、それほどまでに良い荷馬車引きは存在しない。
    (どんなに上手な荷馬車引きでも荷馬車をひっくり返すこともある)
    「charretier」は「荷馬車を引く人」。「verse」は他動詞 verser (ひっくり返す)の現在3人称単数。他動詞なのに例外的に直接目的が省略されているので、「荷馬車を」という言葉を補って訳す必要があります。

この諺は 15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°335)に記載されており(Morawski, N°934 にも採録)、『アカデミー辞典』でも第 1 版(1694)から第 9 版(1992)までコンスタントに収録されています。

ただし、現代では「荷馬車」というものが実際には見られなくなったからか、この項目で取り上げた諺のほうがよく使われます。

【図版】 17 世紀中頃の J. ラニエの版画に描かれています。
版画の下には、次のように 2 つの諺をつなげた文が書かれています。

  • Il n'est si bon chartier qui ne verse, ni si bon cheval qui ne bronche.
    どんなに上手な荷馬車引きでも荷馬車をひっくり返すこともあるし、どんなに良い馬でも躓くこともある。

【英語の諺】 英語にも似たような諺があります。

ただし、この英語はそれほど使われないようで、詳しい諺辞典でないと載っていません。むしろ、古代ローマのホラーティウスの言葉に由来する次の諺のほうが、はるかによく使われるようです。

  • Even Homer sometimes nods.
    ホメロスでさえも時々居眠りをする。
    「nod」は「うなづく」、「(座ったまま)こっくりする、居眠りをする」。「居眠りをして書いたかのような、つまらない文章を書く」という意味のようです。

Il n'est si méchant pot qui ne trouve son couvercle.

【逐語訳】 「蓋が見つからないほど粗末な壺は存在しない」

  • 裏を返せば、「どんなに粗末な壺でも、それにふさわしい(ぴったりとはまる)蓋が見つかる」というのが文字通りの意味です。

【諺の意味】 どんなに醜い女でも、お似合いの男が見つかる(結婚できる)ものだ。

ラルースの諺辞典では「女性と結婚」という項目に分類されています(Maloux (2009), p.198)。

精神分析学的に言って「壺」が子宮のイメージで女性を表すとすると、他方の「蓋」は男ということになります。

【似た諺】 日本の次の諺と、発想も意味も似ています。

  • 「破(わ)れ鍋に綴(と)じ蓋」
    時田 (2000), p.651によると、「『破鍋(われなべ)』は、二つに割れてしまった鍋ではなく、縁が欠けた程度でまだ使える鍋、『綴蓋』は蓋そのものではなく、修理した蓋のこと。鍋と蓋の双方に欠陥があることで互いの傷は容認され、ことがうまく運ぶということなのであろう」と書かれています。
    また同書には、江戸前期の狂歌「つらかりしそなたの尻もわれ鍋にわがかけぶたの逢ふぞうれしき」が引かれており、この狂歌でも「そなたの尻」が「われ鍋」に見立てられ、それに覆いかぶさる話者が「かけぶた」に喩えられています。

【単語の意味と文法】 前出の諺 Il n'est si bon cheval qui ne bronche.(躓かない名馬はない)で使われているのと同じ、次の表現が使われています(詳しくはこの諺の【単語の意味と文法】を参照)。

  • Il n'est si 形容詞 + 名詞 qui ne...
    ...しないほど〔形容詞〕な〔名詞〕は存在しない

「自分の蓋を見つけないような、それほどまでに粗末な壺は存在しない」というのが元のフランス語の感じです。

「méchant」は形容詞で、現代では「意地悪な」という意味ですが、昔は「価値がない、つまらない、取るに足らない、粗末な、みすぼらしい、くだらない」などの意味でした。この諺でも、この少し古風な意味で使われています。この意味は現代の仏和辞典にも「文」または「古」として載っており、「名詞の前で使う」と記載されているはずです。

「pot」は男性名詞で「壺」。
ただし、詳しい辞書をよく見ると、

  • 「〔古〕鍋(今日では以下のような表現で用いる)poule au pot〔料理〕チキンのポトフ」(ロワイヤル仏和中辞典)
  • 「〔料理〕〔古〕(ゆで物や煮物に用いる)深鍋、煮込み料理」(小学館ロベール仏和大辞典)

と書かれているように、この諺の pot は、本来は小さな壺 (bocal) ではなく大きな鍋 (marmite) の意味でした。しかし、現在では「鍋」という意味は忘れられ、「壺」の意味だと思われているようです (Brunet (2011), p.106)

「trouve」は他動詞 trouver (見つける)の接続法現在3人称単数。直説法でも同じ形ですが、上記の表現の後ろでは接続法になると決まっています。

「son」は所有形容詞で「その、自分の」。
「couvercle」は男性名詞で「蓋(ふた)」。語源的には couvrir (覆う)と関連のある言葉です。

【他のバージョン】 もっと簡潔な、次のような表現もあります。

また、現代では次のような表現もよく使われるようです。

  • Chaque pot a son couvercle.
    どの壺も自分の蓋を持っている。
    この「a」は、もちろん他動詞 avoir(持っている)の現在3人称単数。
    発音上は、上の表現の「À」と「chaque pot」を入れ替えたのと同じになります。

現代では、このシンプルな言い方が広まっているようです。

【由来】 似た内容の諺としては、15 世紀の諺集の写本に次のような諺が収録されています(Morawski, N°915)。

  • Il n'est nul si meschant qui ne treuve sa meschante.
    つまらない女を見つけられないような、つまらない男はいない。
    裏を返せば、「どんなにつまらない男でも、つまらない女を見つけられる」。
    「男が女を見つける」という視点になっています。

15 世紀末の『諺詩集』には、次のような諺が収録されています(Frank/Miner (1937), p.42, XVIII)。

  • Il n'est sy bossu en parroche
    Qui ne treuve bien sa bossue.
    小教区の中で、せむし女を
    見つけないような せむし男はいない
    「せむし」(bossu)は背骨が瘤(こぶ、bosse)のように異常に変形する「くる病」の一種で、文学・映画では「ノートルダムのせむし男」が有名です。現代では栄養の改善などによって(少なくとも重症の形では)見られなくなっているようです。
    「parroche」は現代の綴りでは paroisse で、小教区つまり「村」に近い意味。

以上までは、「壺」と「蓋」の比喩は出てきません。

壺と蓋の比喩を使ったものとしては、16世紀前半のラブレー『ガルガンチュワ』に、「似たもの同士」のような意味で、次のような表現が出てきます(渡辺一夫訳、岩波文庫、p.21、下線引用者)。

  • (...)自分と同じくらいの阿呆、つまりは、(格言で言う)ぴたりと釜に嵌まる蓋と覚しき相手に、たまたま出会った(...)
    原文は couvercle digne du chaudron(鍋にふさわしい蓋)となっています。

ただし、(少なくともこのラブレーの文章では)男女間の話(結婚相手という意味)ではないので、除外しておきます。

見出しに掲げた諺の直接の元になった表現は、1568 年に初版が出たムーリエ『金言宝典』(1581 年版 p.102)の中に、次の形で出てきます。

  • Il n'y a si laid pot qui ne trouve son couvercle.
    蓋が見つからないほど醜い壺は存在しない。
    1610年刊グルテルス『詞華選』の「フランスの諺」の部(初版付録 p.215)でもまったく同じ形で収録されています。

同じムーリエの本には、簡潔な次の形も収録されています(1581 年版 p.11)

  • A chacun pot son couvercle.
    この「chacun」は古語法で、現代なら chaque を使います。
    ちなみに同書p.220には Tel pot, tel couvercle.(このような壺、このような蓋)という形も収録されています。Tel maître, tel valet.(この主人にしてこの召使いあり)に似た訳にすると、「この鍋にしてこの蓋あり」となります。

1640年のA.ウーダン『フランス奇言集』(初版 p.444)では、見出しに掲げたのとほとんど同じ(「Il n'est」と同じ意味の「Il n'y a」を使った)次の形で収録されており、「どんなに不幸で醜い娘でも結婚相手を見つけられる」という意味だと解説されています。

  • Il n'y a si méchant pot qui ne trouve son couvercle.
    ちなみに、現代のラルースの諺辞典(Maloux (2009), p.198)では、「pot」の代わりに間違って「marmite」として引用されています。

歴代の『アカデミー辞典』には、この諺は(ほとんど)収録されておらず、わずかに第6版補遺(1842)に、上記のウーダンの形で記載されています。

現代のロベールの表現辞典TLFi、『小学館ロベール仏和大辞典』、『ロワイヤル仏和中辞典』などでは、見出しに掲げたのと同じ形で収録されています。
ただし、辞書によっては「古風」などと書かれていることがあります。
現在一番よく使われるのは、上記【他のバージョン】で取り上げた Chaque pot a son couvercle. のようです。

Il n'y a que la foi qui sauve.

【逐語訳】 「救うものは信仰しかない」

【諺の意味】 「ただひたすらに信ずることによって救いは得られる」(渡辺・田中)。

【使い方】 もともと、「信仰を絶対視したプロテスタントの文句」(吉岡)でしたが、「現在では、たいていの場合、(...) 盲目的な確信をからかうのに用いられている」(調・ルールム)ようです。
日本語でも「信じる者は救われる」という言葉が、文字通りの意味から逸脱して、「客観的な証拠は何一つない」ことの裏返しとして使われることが多いのに似ています。

【似た諺】 「信じる者は救われる」、「鰯の頭も信心から」

【単語の意味と文法】 この諺では次の表現が使われています。

  Il n'y a que ~ qui... (...するのは~しかない、...するのは~だけだ)

「foi」は女性名詞で「信仰」。
「sauve」は他動詞 sauver (救う)の直説法現在とまったく同じ形ですが、Il n'y a que ~ qui... の後ろは接続法現在になるので、ここも接続法現在(3人称単数)です。
sauver (救う)は他動詞ですが、例外的に直接目的が省略されています。

Il n'y a que la vérité qui blesse.

【逐語訳】「傷つけるのは本当のことだけだ」

【諺の意味】「人から非難を受けた時、本当に胸にこたえるのは、それが的を射たものである時だ」(渡辺・田中)。

【使い方】日常会話では、相手が腹を立てたときに、さらに相手をやり込めるために、「本当のことを言われたから腹が立ったんでしょう?」「腹が立つってことは、図星なんだね?」という意味で使われることがあります。

【単語の意味と文法】この諺では次の表現が使われています。

  Il n'y a que ~ qui... (...するのは~しかない、...するのは~だけだ)

「vérité」は女性名詞で「真実、本当のこと」。
「blesse」は他動詞 blesser(傷つける)の直説法現在とまったく同じ形ですが、Il n'y a que ~ qui... の後ろは接続法現在になるので、ここも接続法現在3人称単数。
blesser は肉体的に「傷つける、負傷させる」という意味のほかに、精神的に「傷つける、不快感を与える、感情を害する」という意味があります。

【英語の諺】The truth hurts.

【他のバージョン】blesser と似た offenser を使うこともあります。

  Il n'y a que la vérité qui offense.

offenser も他動詞で「(心理的に)傷つける、気分を害する」という意味。

【似た諺】「忠言耳に逆らう」

また、「真実は皆を殴って殺す棍棒だ」という言葉に通じる部分もあります。

Il n'y a que le premier pas qui coûte.

【逐語訳】「大変なのは最初の一歩だけだ」

【意味】良い意味でも悪い意味でも使われます。
たとえば、『アカデミー辞典』第6版(1835)では次のように書かれています。

  • 何事につけても、一番難しいのは始めることだ。または、最初の過ちを犯したあとは、もっと容易に他の過ちを犯すようになるものだ。

好循環・悪循環どちらのきっかけにもなるわけです。

【使い方】良い意味で使った場合、日本の「案ずるより産むが易し」に似たところがあり、人を励ますために使われることもあります。

この諺を題材にした絵葉書を見ると、なんとなく使い方がわかります。

どちらかというと悪い意味に取った場合の例としては、たとえば18世紀に出たラ・ロシュフーコーの注釈書で、ラ・ロシュフーコーの「色恋沙汰をまったく経験したことがない女性を見つけることはできる。しかし、色恋沙汰を一度しか経験したことがない女性を見つけることは稀である。」という格言に関する注釈として、次のように書かれています。

【単語の意味と文法】 この諺では次の表現が使われています。

  Il n'y a que ~ qui... (...するのは~しかない、...するのは~だけだ)

「premier」は形容詞で「最初の」。
「pas」は名詞で「歩み、一歩」。

「coûte」は coûter (値段がかかる、つらい)の接続法現在(3人称単数)。第 1 群動詞の場合、接続法現在の 3 人称単数は直説法現在とまったく同じ形になるので、形の上では直説法現在と区別がつきませんが、Il n'y a que ~ qui... の後ろなので接続法現在だとわかります。
coûter は英語に入ると cost となり、名詞だと「コスト(費用)」、動詞だと「コストがかかる」という意味になります。フランス語の coûter は、辞書によって分類が異なりますが、おおむね次のような意味になります。

  自動詞 「値段〔費用〕が~かかる」
  間接他動詞 (前置詞 à を伴って) 「~に費用がかかる、つらい」
  直接他動詞 「(苦痛・代償などを)与える」

ここでは間接他動詞の「つらい」(=大変だ)の意味で、他動詞なのに「à + 間接目的語」が例外的に省略されていると説明することができます。

  • この諺は『ロワイヤル仏和中辞典』だと coûter の自動詞の項目の熟語欄に記載されていますが、『新スタンダード仏和辞典』だと前置詞 à を伴う意味の例文に記載されており、ここでは後者に基づいて説明しました。

Il vaut mieux être seul que mal accompagné.

【逐語訳】 「悪く付き添われているよりも一人でいるほうがよい」
(悪い仲間〔伴侶〕といるよりも一人でいる方がよい)

【使い方】 夫婦やカップルが別れるような状況で(例えば、もう別れたほうがいいと自分に言い聞かせるため、または別れたことを正当化するために)もよく使われるようです。

【単語の意味】 この諺では、次の熟語表現が使われています。

  Il vaut mieux A que B (B するより A するほうがいい)

「A」に相当するのが「être seul」で、「B」に相当するのが「mal accompagné」です。
「être」は英語の be 動詞。「seul」は形容詞で「一つの、一人の」。
「mal」は副詞で、「悪く」または「良く...ない」(= ne pas bien)。
「accompagné」は他動詞 accompagner (付き添う)の過去分詞。もともと直接目的に「人」がくる動詞です。
この文では「être seul」と「(être) mal accompagné」が対比されており、2 つ目の être が省略されています。または、「seul」と「mal accompagné」が並列になって、どちらも「être」に掛かっているとも説明できます。
ベースには、例えば次のような表現があると考えられます(主語は誰でもよいのですが、例えば「私」にしてみます)。

  Je suis seul. (私は一人だ)
  Je suis mal accompagné. (私は悪く付き添われている)

「悪く付き添われている」というのは直訳で、要するに「いい人に付き添われていない」つまり「パートナー(相棒、仲間、道連れ、伴侶)がいい人ではない」または「パートナーとの相性や関係がよくない」というような意味です。

【他のバージョン】 「que」の後ろで、「mal accompagné」の代わりに「en mauvaise compagnie」と言うこともあります。

  Il vaut mieux être seul qu'en mauvaise compagnie.

もともと「accompagner」(付き添う)という動詞は次のような名詞と関連があります。
付きやすい冠詞を付けると、

  un compagnon 男性のパートナー(相棒、仲間、道連れ、伴侶)
  une compagne 女性のパートナー(相棒、仲間、道連れ、伴侶)
  la compagnie (抽象的に)同伴、一緒にいること、会社

この最後の「compagnie」は、前置詞 en と使われることが多く、

  en bonne compagnie (仲間と楽しく、よい仲間と一緒に)
  en mauvaise compagnie (仲間と楽しくなく、悪い仲間と一緒に)

この下の表現が諺のこのバージョンで使われています。

また、Il vaut mieux A que B. = Mieux vaut A que B. なので、それぞれ次のように言うこともあります。

  Mieux vaut être seul que mal accompagné.

  Mieux vaut être seul qu'en mauvaise compagnie.

【英語の諺】 (It is) better be alone than in bad company.

【由来】 15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°349)に、見出しに掲げたのとほぼ同じ形で収録されています。

La critique est aisée, mais l'art est difficile.

【逐語訳】「批評は簡単だが技芸は難しい」

または、「批判はやさしいが作るのは難しい」(下記参照)。

【諺の意味】人のことを批判するのは簡単だが、実際に自分でやるのは難しい。

あるいは、「批判をするのは簡単だ(だが作り、行うのは難しい)」Rey/Chantreau (2003), p.272)

【似た諺】「言うは易く、行うは難し」、「岡目八目」

【単語の意味】「critique」は女性名詞で「批評、批判」。
この諺の意味を、出典に近づけて「作者と批評家」という文脈でとらえるなら(芸術としての)「批評」となりますが、現在使われている諺の意味に即して訳せば「批判」(否定的に論評すること)となります。

「est」は être の現在3人称単数。「aisé」は形容詞で「容易な、簡単な」。主語に合わせて女性単数の e がついています。「mais」は接続詞で「しかし」。
「difficile」は形容詞で「難しい」。

「art」は男性名詞で「芸術」。ただし、この諺ができた当時(1732年)は近代的な「芸術」という概念は存在していなかったということも可能性であり、「art」を「芸術」と訳すのは少し違和感があります。
また、もとの出典では、たしかに芸術作品という意味で使われていますが(後述)、「art」には、より一般的に「(行う)術(すべ)」という意味や、nature(自然)に対する概念として「作為的に行うこと、人為、人工」という意味もあるので、「作ること」「行うこと」の意味に取ることも可能。
とりあえず「技芸」としておきます。

日本の諺辞典や仏和辞典では、この諺は「批評は容易だが芸術は難しい」と訳したものが多数を占めますが、『ディコ仏和辞典』では「批判するのはやさしいが、作り出すのはむずかしい」と訳されています。

【他のバージョン】接続詞「mais(しかし)」の代わりに「et(そして)」を使ったり、接続詞を使わないで「重文」にすることもあります。

  • La critique est aisée, et l'art est difficile.
  • La critique est aisée, l'art est difficile.

もとの形(次に挙げるデトゥーシュの原文)では接続詞 et が使われています。

aisée の代わりに、同じ意味でより一般的な facile を使うこともあります。

  • La critique est facile, mais l'art est difficile.
  • La critique est facile, et l'art est difficile.

有名なことわざなので、前半(La critique est aisée. または La critique est facile.)だけで止めても通じます。

【出典】『詩法』(Art poétique, 1674)の著者ボワローの弟子筋にあたるデトゥーシュ(本名フィリップ・ネリコー、1680 - 1754)の喜劇 Le Glorieux (1732、『虚栄の男』)に出てきます(日本語訳なし)。この諺が出てくる前後をざっと訳すと次のようになります(登場人物の口を借りて、唐突に芸術論が語られる場面)。

  • フィラント「私は音楽はほとんど知らないし、下手な詩しか作らないが(...)
    どんな作家であれ、作家が払った努力には敬意を払うべきだと思うよ」
    リゼット「でも、批判は作者のためになるって言うじゃありませんか」
    フィラント「いや、批判するのは簡単だが、芸は難しいんだ
    人々が意地悪な批判ばかりするから、作家の才能が萎縮してしまうんじゃないか」

訳で下線をつけた「芸は難しいんだ」という部分は、「創作するのは難しいんだ」「自分で作り出すのは難しいんだ」という意味に理解できます。
原文は Google Books などで閲覧可能。

【使い方】たとえば、与党の批判ばかりしていた政党が、何かのはずみで政権を取ったものの、いざ政権の座についてみると大した成果を挙げられなかった場合には、この諺を引用することができます。

実際の日常会話での使用例については、こちらの本もご覧ください。

【余談】紀元前 5 世紀の古代ギリシアの画家ゼウクシス(Zeuxis)は、運動選手を描いた自分の絵の出来栄えに満足し、絵の下に次のような言葉を書き込んだそうです。

  • 「この絵の悪口を言うのは簡単だが、この絵を真似するのは難しいだろう」

La familiarité engendre le mépris.

【逐語訳】 「なれなれしさは軽蔑を生む」

【日本の似た諺】 「親しき仲にも礼儀あり」
ただし、フランス語の諺は、だいぶ使われ方が異なります(後述)。

【単語の意味と文法】 「familiarité」は女性名詞で「親しさ、なれなれしさ」。

「engendre」は他動詞 engendrer (生み出す)の現在3人称単数。
もともと「〔特に男が主語で〕(子供を)もうける」という意味ですが、抽象的に「生み出す、引き起こす」という意味でよく使われます。

「mépris」は男性名詞で「軽蔑」。

  • 語源的には、「mé」は「否定」を表す接頭語で、「pris」は prendre (捉える)の過去分詞と同じなので、「悪く捉えられたもの」(捉えそこねられたもの)と意識されることが多いようです。ただし歴史的には、mé (低く)+ priser (評価する) = mépriser (軽蔑する)が語源のようです。

【諺の意味】 主に以下の 3 つの意味・用法に分類できそうです。

  1. 「有難いものでも、頻繁に接していると有難みがなくなる」。(特にキリスト教関係で。下記【由来 1 】を参照)。

  2. 「(友人同士の間で、)なれなれしくしすぎると相手を軽んじることになりかねない」。日本の「親しき仲にも礼儀あり」とほぼ同じ意味です。

  3. 特に「目下の者に対して親しくしすぎると、軽く見られてしまう」。

現代のフランスでは、特にこの 3 の意味で使われることが多いようです。

フランスの諺辞典では次のように書かれています(Dournon (1986), p.142)。

  • 友人同士の間では、なれなれしくしすぎてはならない。まして、目下の者に対してはなおさらである。「主人が親しく接すると、従者はぶしつけになる」と聖ベルナールも言っている。

ロベールの諺辞典(Montreynaud et al. (1989), p.107; F1221)では、説明の代わりに次のような言葉が添えられています。

【由来 1 】 もとはラテン語の諺です。岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』 p.461 には次のように書かれています。

  • nimia familiaritas parit contemptionem.
    過度の親交は軽蔑を生ず。
    「なれ親しみすぎると軽視してしまう」と訳すことも可能です。

この言葉の由来について、以下で少し探ってみることにします。

この言葉は、古代ローマのプブリリウス・シュルスの格言集に含まれているとする説もあります(Maloux (2009), p.181)。たしかに、昔出版された本には確認されますが、現代の校本には含まれていないので、ここでは除外しておきます。

『オックスフォード諺辞典』第 5 版 p.109 には、このラテン語は 4~5 世紀のアウグスティヌスの『天国への階段』(scala paradisi )という作品に見られると書かれています。たしかに、19 世紀のフランス人司祭ミーニュが編集した『ラテン教父全集』第 40 巻(アウグスティヌスの巻)の付録にこの作品が収められており、次のように書かれています。

しかし、ミーニュによる校訂は現代の学問水準からすると不十分なことが多く、これがアウグスティヌスの手によるものだという証拠はありません。

この『天国への階段』という本は、『修道士の階段』(Scala Claustralium )とも呼ばれ、フランスでは伝統的には 12 世紀前半のクレルヴォーの聖ベルナール(ベルナルドゥス)の著とされてきました。
しかし現代では、この本の実際の作者は、アウグスティヌスでも聖ベルナールでもなく、12 世紀後半にフランスのグルノーブル近郊にあるシャルトルーズ(カルトゥジオ)修道院の第 9 代院長となったギーグ(グイゴ) 2 世が書いたとされています(TPMA, Bd.12, p.227 も Guigo II の著としています)。

  • この本の英訳は Guigo II, Ladder of Monks and Twelve Meditations, 1981, Cistercian Pubns として刊行されています。また、fisheaters.com でも閲覧可能。
    フランス語では、例えばドミニコ会修道士が編纂した『霊的教義の要約』という本(1620年刊)の中で、「『修道士の階段』(Échelle des Religieux)という小冊子にはこのように書かれている」として部分訳されており、諺の部分は「la trop grande familiarité engendre mespris」と訳されています(Abrégé de la doctrine spirituelle, 1620, p.451)。
    また、サンソン神父『地上の楽園』という本(1867年刊)でも、聖ベルナールの言葉として、この前後が長々と仏訳・引用されています(Abbé Sanson, Le Paradis de la terre, 1867, p.142)。

この『天国への階段』は、「ヘルモゲネスを探して」という稀有なブログで全文が日本語訳されているので、該当箇所を拝借・引用してみます(下線引用者)。

  • 訪れがつづくと、それはもはや恩寵とみなされず、自然本性と化してしまうことでしょうから。この恩寵はそれを欲する者が欲する時に花婿から与えられるのであって、財産のように所有されるものではないのです。俗言に、親しき仲にも礼儀あり、と言うところです。つまり執拗さは侮りを生むゆえ彼は離れ、不在は待望を呼ぶものであり、おおいに尋ね求められた後にこそ、恩寵の歓びは見出されるのです。

簡単に言うと、どれほど有難い恩寵であっても、頻繁に接していると当たり前のように感じられて有難みが薄れてしまうので、そう頻繁に訪れるものではない、というわけです。下線部分は、「なれ親しみすぎると軽視してしまう」と訳すことも可能です。

これを踏まえ、キリスト教の世界では伝統的に、「有難いものでも、頻繁に接していると有難みがなくなる」という意味で、この諺が使われてきたようです。

  • 例えば、フランスでロングセラーとなったスペインのイエズス会宣教師アロンソ・ロドリゲスの『キリスト教徒の完徳の実践』という本の仏訳では、「聖体拝領(聖体の秘跡)も頻繁に行うと有難みがなくなってしまうので、あまり頻繁にすべきではない」という文脈で、この諺が引用されています。
    出典: A. Rodriguez, Pratique de la perfection chrestienne, 1679, p.566
  • 1832年の『瞑想の方法』という本では、「神は私達に恩寵を感じさせないようにしているが、それは、どんなにおいしい肉でも頻繁に食べると厭きてしまうのと同様、有難みがなくなるからである」として、この諺が引用されています。
    出典: Abbé Courbon, Méthode de méditation, 1832, p.115

【由来 2 】 フランス語の早い用例としては、1528 年刊のグランゴールの諺集に、次のように書かれています(Baïf, Les Mimes, éd. J. Vignes, 1992, p.74, note 241 で指摘)。

1530 年に初版が出たジャン・ブーシェの『愛する貴婦人の勝利』という本(1555 年版)では、「主人は召使に対してどのように振舞うべきか」について書かれた部分に、次のように出てきます。

  • car trop grande familiarité engendre contemnement & mespris
    なぜなら、過度のなれ親しみは、軽視と軽蔑を生み出すものだから。
    出典: Jean Bouchet, Les Triumphes de la noble amoureuse dame, éd. 1555
    「car」(なぜなら...だから)という言葉は、「だって諺にも言うように...なのだから」というニュアンスが感じられ、当時すでに諺として認識されていた感じを受けます。

1540 年に出たスエトニウス『ローマ皇帝伝』の仏訳では、ラテン語の原文にはこの諺は出てこないのに、仏訳では次のように訳されています。

  • car trop grande familiarité engendre méprisance.
    なぜなら、過度のなれ親しみは、軽視を生み出すものだから。
    出典: Suétone, Des faicts et gestes des douze Césars, 1540, Fo.101 v
    これは同書第3巻10 で、ティベリウス帝が突然引退を決意したのは「人々に飽きられることを嫌った」ためだろうか、と書かれた箇所(国原吉之助訳、岩波文庫(上)、p.239)に出てきます。わざと人々の前から姿を消すことで、戻ってきてほしいと人々に思われようとした、という文脈です。つまり、この諺は「頻繁に接していると有難みがなくなる」という意味で使われています。

1581 年版の諺集 『金言宝典』には次の形で収録されています。ここでは「amitié (友情)」という言葉が使われているのが注目されます。

  • Grande familiarité engendre contemnement d'amitié.
    大きななれ親しみは、友情の軽視を生み出す。
    「contemnement」は古語でラテン語の contemptio (軽視、軽蔑)に相当。

仏仏辞典『アカデミー辞典』では、第 1 版(1694)から第 8 版(1932-1935)まで、(冠詞の有無の異同はあっても)見出しに掲げたのとほぼ同じ形で収録されています(engendrer, familiarité, mépris のいずれかの項目)。

ところが、第 9 版(1992)では削除されています。日本の多くの仏和辞典にも収録されていません。
どうやら、フランスでは昔に比べて、使われる頻度が低くなったようです。
もしかすると、前述のように主人と召使の間で使われるイメージが強くなったために、使える場面が狭まってしまったからかもしれません。

【英語の諺】 同じラテン語から生まれた英語の諺は、もっと広い意味を持ち、よく使われているようです。

  • Familiarity breeds contempt.
    例えば北村・武田 (1997) p.65 には、「何度も繰り返しやっていることは、いつのまにか注意が行き届かなくなる、などの意味で、さまざまな場面で使われる」と書かれています。

【諺もどき】 『トム・ソーヤの冒険』で知られるアメリカの小説家マーク・トウェインは、この諺をもじって次のようなせりふを残しています(『イエール引用句辞典』 p.777 による)。

  • Familiarity breeds contempt - and children.
    なれ親しむと軽視が生まれる。そして子供も(生まれる)。

フランス語では次のように訳されます。

  • La familiarité engendre le mépris... et les enfants.

【言葉遊び】 「絵葉書」のページで、この諺をもじった言葉遊びを取り上げています。

La poule ne doit pas chanter devant le coq.

【逐語訳】 「雌鶏は雄鶏の前では歌ってはならない」
(雌鶏は雄鶏をさしおいて歌ってはならない)

  • 前置詞「devant」は、(空間的に)「~の前では」ではなく(時間的に)「~よりも前に」とする説もあります(後述)。

【諺の意味】 妻が夫よりも出しゃばってはならない。

「かかあ天下」ではなく「亭主関白」を勧める反フェミニズム(antiféminisme)の諺です。

【図版】 17世紀中頃のJ.ラニエの版画では、ほうきを振りかざす妻に怒られながら、夫が料理をしている図が描かれています。

19世紀の挿絵では、夫が妻に叱られ、ポケットに手を入れて「すいません」と言っているように見えます。

【単語の意味と文法】 「poule」は女性名詞で「雌鶏(めんどり)」。
会話だと、「[女性への呼びかけで]かわいい人」(『ディコ仏和辞典』)の他、「尻軽女、売春婦」などの意味もあります。ここから、比喩的に人間の女性を指す場合があることがわかります。

「doit」は devoir (~しなければならない)の現在3人称単数。
これを「ne... pas」で挟んで否定になっています。

「chanter」はここでは自動詞で「歌う」。
鳥などが「鳴く」場合にも使われ、ここでは特に、雄鶏が早朝に「コケコッコーと鳴く」(いわゆる「ときをつくる」)ことを指します。
聖書に出てくるイエスの言葉「鶏が 2 回鳴く前に」も、フランス語訳は「avant que le coq chante deux fois」となってます(「読解編」の「ペトロの否認」のページを参照)。

「devant」は前置詞で(場所的に)「~の前で」。
ただし、ここは(時間的に)「~よりも前に」と解釈する説もあります(後述)。

「coq」は男性名詞で「鶏(にわとり)」。特に「雄鶏(おんどり)」を指します。
もともと、鶏の「コ、コ、コ」という鳴き声が語源のようです。つまり onomatopée(オノマトペ、擬音語)です。

【devant について】 通常、前置詞 devant は場所的に「~の前では」を意味し、時間的に「~よりも前に」という場合は avant を使います。

しかし古語では、devant も avant と同じように時間的に「~よりも前に」という意味で使われていました。
そのため、この諺は、妻は夫よりも先に(時間的に「前に」)発言してはならない、という意味だと解釈されることもあります(Rey/Chantreau (2003), p.763)。
その場合は、「雌鶏は雄鶏よりも前に歌ってはならない」となります。

しかし、そうではなく、これは見知らぬ人々が同席しているところでは、夫の「前では」妻は夫から話す許可が与えられるまでは黙っていなければならないという昔の習慣(礼儀作法)を示している、とする説もあります(Quitard (1842), p.612)。
その場合は、「雌鶏は雄鶏の前では歌ってはならない」となります。

【余談 - ガリアの雄鶏について】 coq(雄鶏)はフランスを象徴する動物とされています。この場合の雄鶏のことを、特に coq gaulois (コック ゴーロワ、ガリアの雄鶏)と呼びます。
もとは、ラテン語の gallus が「ガリア人」(=フランス人)と「雄鶏」の両方の意味を表わしたことに基づく駄洒落です。
中世末期に、敵が馬鹿にするためにフランス王を雄鶏に喩えたのが始まりで、16世紀に入るとフランス人自らがフランス王またはフランスの象徴として coq(雄鶏)という言葉を使うようになったようです。
特にフランス革命では、フランス王朝の「白百合」のイメージに対抗して、さかんに「雄鶏」のイメージが用いられるようになりました(参考:Elysée, Institut Destrée)。

あとで取り上げるカトリーヌ・ド・メディシスを批判した諷刺詩でも、coq がフランス王を指す言葉として使われています(次の【由来】の項目を参照)。

【由来】 13世紀後半の『薔薇物語』後篇に、次のような形で出てくるとする説も昔は行われていました。

これを受け、私も『薔薇物語』全編を読み直しましたが、どうしても見つかりませんでした。
改めて調べてみると、実はこれは誰かが言い出した誤った説で、古くからまことしやかに伝えられ、フランス 19~20世紀の著名な諺辞典の作者たちも原典を確認せずに鵜呑みにしてしまったことが判明しました(Cf. TPMA, Huhn, Anm. 10)。
(以上 2013/10/6 加筆訂正)

とはいえ、古くから似た表現は存在したようです。
たとえば、15世紀の諺集には次のように書かれています(Morawski, N°737による)。

  • Femme qui parle comme homme, et géline qui chante comme coq ne sont bonnes à tenir.
    男のように話す女と、雄鶏のように歌う雌鶏を養うのはよくない。
    「géline」は古語でpoule(雌鶏)の意味。現代の綴りに直しました。

1531年のボヴェルの諺集には次のように書かれています。

1547年のBonne Response à tous propos には次の形で収録されています。

  • Povre la maison ou les gelines chantent & le coq se taist.
    雌鶏が歌い、雄鶏が沈黙する家は哀れである。
    この系列につらなる Chétive est la maison où le coq se tait et la poule chante.(同じ意味)がリシュレの辞典リトレに記載されています。

16世紀後半のフランスでは、歴代の王よりも権勢を振るったカトリーヌ・ド・メディシスを批判する言葉としても、この諺が使われたようです。
例えばピエール・ド・レトワールの日記の 1575 年の項には、次のような作者不明の諷刺詩(元はラテン語)が採録されています。

  • Quand une poule gouverne les coqs et un con les vits, tout crime s'aggrave pour les malheureux Français. Farouche coq, tu vaincs et domines les lions sauvages et les taureaux courageux, mais une vieille femme te gouverne.
    雌鶏が雄鶏を、女性性器が男性性器を支配するときは、不幸なるフランス人にとって、あらゆる犯罪が深刻化する。猛々しい雄鶏よ、おまえは野蛮なライオンと勇敢な雄牛を負かして圧倒しているが、しかし年老いた女によって支配されているのだ。
    出典:Pierre de L'Estoile, Journal de L'Estoile pour le règne de Henri III, Gallimard, 1943, p.96。 Baïf, Mimes, éd. J. Vignes, p.194 note で指摘
    「猛々しい雄鶏」は、フランス王アンリ3世(在位 1574-1589)を指します。「野蛮なライオン」は、当時の宗教戦争でカトリックの強硬派だったギーズ公(ライオンを紋章に採用していた)を指し、「勇敢な雄牛」はプロテスタント(ユグノー)の盟主だったナバラ王(のちのアンリ4世。ナバラ王国はスペインに近いバスク地方にあった)を指すと思われます。槍玉に挙げられている「年老いた女」とは、カトリーヌ・ド・メディシスのことです。

1672 年のモリエールの喜劇『女学者』第5幕第3景でも、見出しに掲げたのとほぼ同じ次の形で登場し、この諺が広まるのに役立ったと思われます。

  • La poule ne doit point chanter devant le coq.
    めんどりは、おんどりをさしおいて、ときをつくるもんじゃありませんだ。
    日本語訳は鈴木力衛訳『モリエール全集4』、中央公論社、p.324から引用。

『アカデミーフランセーズ辞典』では、第1版(1694)には収録されておらず、第2版(1718)~第9版(1992)に次の形で収録されています。

  • Ce n'est pas à la poule à chanter devant le coq.
    雌鶏は雄鶏の前では歌うべきではない。
    C'est à qn. à + inf. 「~が~するべきだ」。

【他のバージョン】 以上で取り上げたもののほかに、次のような形もあります。

  • Quand la poule veut chanter comme le coq, il faut lui couper la gorge.
    雌鶏が雄鶏のように歌おうとするときは、雄鶏の喉を切る必要がある。
    これは C. de Méry (1828), t.2, p.120 や Quitard (1861), p.55 などでペルシアの諺として紹介されています。

【英語】 英語では次のように言います。

  • It is a sad house where the hen crows louder than the cock.
    雄鶏よりも雌鶏の方が大声で鳴く家は悲しい家だ。
    フランス語から入ったようです(大塚・高瀬『英語ことわざ辞典』p.352)。

【背景】 ふだんはコケコッコーとは鳴かない雌鶏がそのように鳴くのは不幸の前兆だとする迷信があったようです。

例えば、『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.837 には、「雌鶏が時をつくるのは誰かが死ぬ前兆であると思われた」と書かれています。

栗原『スラヴのことわざ』 p.238 には、「雄鶏が止り木の上で黙りこみ、雌鶏が歌う家はよくない」というポーランドの諺に関して、次のように書かれています。

  • ふつう雌鶏はいわゆる「くく鳴き」をして歌わないものであるが、稀に雄鶏の真似をして時をつくることがある。日本でも「雌鶏時をつくれば変事あり」と言われたが、ヨーロッパにおいても、雌鶏が歌う家には大きな不幸がある、と信じられた。

【東洋の諺】 「書経」に由来する次の諺があります。

  • 牝鶏(ひんけい)晨(あした)す

「雌鶏(めんどり)が(コケコッコーと鳴いて)朝を告げる」という意味で、「女が権勢を振るうたとえ。国や家が衰える前兆とされる」(大辞泉)。

Le chat parti, les souris dansent.

【逐語訳】 「猫が去って鼠たちが踊る」

【使い方】 口うるさい上司や文句ばかり言う人がいなくなって、はめを外して騒ぐことができるときに使います。

【日本の諺】 「鬼のいぬ間に洗濯」。

【単語の意味と文法】 「chat」は「猫」。定冠詞がついているので特定化されており、「あの猫」という感じ。
「parti」は自動詞 partir (立ち去る)の過去分詞。
「souri」は男性名詞で「鼠(ネズミ)」(複数形)。
「dansent」は自動詞 danser (踊る)の現在 3人称複数。

文法的には、過去分詞(parti)を使った「絶対分詞構文」として説明可能です。分詞構文の意味は、上のように訳した場合は「付帯状況」、「単純接続」の感じになります。これを「猫が去ったために、鼠たちが踊る」と取るなら、「原因・理由」となります(どちらとも取れます)。
2 つの文に分けると、次のようになります。

  Le chat est parti. (猫が去った)
  Les souris dansent. (鼠たちが踊る)

「est parti」は partir (立ち去る)が場所の移動を表す自動詞なので、複合過去です。

【他のバージョン】 前半は接続詞を使って言うこともあります。

  • Quand le chat n'est pas là, les souris dansent.
    猫がいないときは鼠たちが踊る。
    être là は「(そこに)いる」。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【由来】 1022-1024 年頃のエグベール・ド・リエージュ『満載の舟』に、ラテン語で次のように書かれています(これがこの諺の全言語を通じての文献上確認可能な最古の用例のようです)。

  • Dum deerit cattus, discurrens conspicitur mus.
    猫がいなくなると、鼠が駆け回るのが見られる。
    TPMA, Katze 7.11 で引用。原文は Ernst Voigt 版 v. 35 で閲覧可能。

フランス語では、12世紀後半(1180年頃)の『百姓の諺』 N°209 に、古いフランス語で次のように書かれているのが最も早い例のようです。

  • Ou chat n'a, souriz i revelent.
    猫がいないところでは鼠がはしゃぎ回る。
    各種古語辞典によると、reveler は「大喜びする、はしゃぎ回る」の意味。
    13世紀末の諺集にも、これとほぼ同じ Ou chaz n'a soriz i revele. という形で収録されています(Morawski, N°1563による)。 15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°361)では La ou chat n'est souris reveillent. となっています。

古語辞典 Godefroy で reveler を引くと、この諺のさまざまな字句のバリエーションが載っており、中世には非常に広く流布した諺であったことがわかります。

しかし、このようにもともとは「踊る」という言葉はなく、「踊るというイメージはあとになって付け加わった」(Rey/Chantreau, p.173)ようです。

1547 年のBonne Response à tous propos では、次のように「踊る」という言葉が出てきます。

  • Quand le chat n'est pas au logis, les souris dansent.
    猫が家にいないときは、鼠たちが踊る。

1581 年のバイフの格言詩の第 2 巻では、見出しに掲げた形に近い形で出てきます。

  • Absent le chat, les souris dansent.
    猫がいないときは、鼠たちが踊る。

【英語の諺】 このフランス語の諺からできたと思われる、次の諺があります。

  • When the cat's away, the mice will play.
    猫がいないときには鼠は遊ぶ。
    『オックスフォード諺辞典』第5版 p.47 では、この英語の諺の起源として、上記【由来】の項目に記載したのとほぼ同じフランス語が最初に記載されています。

Le jeu n'en vaut pas la chandelle.

【逐語訳】 「その賭け事は、蠟燭(ろうそく)の価値がない」
(賭けをしても蠟燭代にもならない)

【諺の意味】 労力が多い割には得られるものが少なく、割に合わない。やってみる価値がない。

【似た諺】 骨折り損のくたびれもうけ

【背景】 この諺は 16 世紀に遡ります。電気がなく、夜の明かりを蠟燭(ろうそく)に頼っていた頃の話です。
石油から作られるパラフィン製の現在の蠟燭とは違って、昔は牛や羊の脂肪を鋳型に流し込んで作られていました。燃やすと強い臭いがし、黒い煙が立ち昇りました。もっと高価なものだと、ミツバチの巣から取れる蜜蠟(みつろう)が使われました。また地方によっては、松脂(まつやに)が使われていました。

冬(農閑期)の夜などにトランプやさいころを使って賭け事やばくちをするときは、参加者が割り勘で蠟燭代を支払う風習があったようです(Duneton (1990), p.162)。あるいは、賭け事で得をした人が、そのうちの一部を明かり代として置いていったそうです(Martin (1925), p.83)。しかし、お金が少ししか集まらなかったときは、蠟燭代にもならない、というわけです。

もうひとつの説としては、昔はオペラや劇を上演するときは多数の蠟燭をともして舞台を照らしていたので、蠟燭代に莫大な費用がかかり、客の入りが悪いと入場料が蠟燭代にもならなかったことに由来する、という説もあります。

最初の説だと「jeu」は「賭け事・ばくち」の意味ですが、2 番目の説だと「jeu」は「演劇」の意味になります。

【発音】 ラルース仏英辞典の chandelle の項目でこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。

【単語の意味と文法】 この諺の「en」は、動詞の直前にあるので中性代名詞の en ですが、つける場合とつけない場合があります。
「en」があってもなくても、諺の意味は同じです。ここから、この諺の「en」はあまり意味がないことが推測されます。「en」については後回しにして、まずはそれ以外のものから見ておきます。

「jeu」は男性名詞で、英語の game や play に相当し、「遊び、(スポーツ)競技、(トランプやチェスなどの)ゲーム、賭け事・ばくち、演劇」などの意味があります。

「vaut」は valoir (~の価値がある)の現在(3人称単数)。ここでは、

という使い方をしています。 A が「Le jeu」、B が「la chandelle」です。

これを「ne... pas」で挟んで否定になっています。

「chandelle」は女性名詞で「蠟燭(ろうそく)」。ただし、前述の昔の蠟燭です(現代の「蠟燭」は bougie といいます)。英語の candle (キャンドル、蠟燭)と語源が同じです。
ちなみに、chandelle から派生した男性名詞 chandelier (燭台)は、英語に入ると同じ綴りで chandelier (シャンデリア)となります(フランス語では「シャンデリア」は男性名詞 lustre を使います)。

【 en の解釈について】 例えば『ロワイヤル仏和中辞典』で chandelle を引くと、熟語欄に「en」がついた形でこの諺が記載されていますが、同じ辞典で jeu を引くと、「賭け事、ばくち」の意味の最後の例文に、次のように「en」を省いた形で記載されています。

  • Le jeu ne vaut pas la chandelle.

おそらく 2 つの項目を担当した執筆者が異なり、あとで統一を図らなかったためだと思われますが、このように同じ辞書でも項目によってばらつきがあるほど、この諺における「en」の有無は流動的です。仏仏辞典でも、ばらつきがあります。

本によっては、この諺に en をつけるのは誤りである(Martin (1925), p.83)、または en はつけるべきではない(Dournon (1986), p.190)と書かれています。
おそらく、この en は文法的に説明が少し困難で、 en を使わずに書き換えるのは難しく (*)、 en を抜かしても基本的に意味が変わらないからだと思われます。

しかし、模範的な言葉の使い方を示した『アカデミーフランセーズ辞典』の最新版では en がついた形に変更されているように(後述)、en 入りの形が広まっているのも事実です。

この en については、ある語学論文で次のように書かれています。

  • そもそも諺や定型表現は、一般的な真理として抽象的に述べる使い方をするものと、特定の状況を受けて(個別・具体的な状況の中で)使われるものに二分されるが、後者の使い方をすることを示すために en などの代名詞を入れることがある。ただし、この場合の en は特定の名詞を受けているわけではない。
    Gross (1982), pp.163-164 の要旨。

つまり、特定の名詞を受けずに、「de + 前の文脈全体」に代わる en だということになります。

とすると、この諺とほぼ同じ意味になる次の表現に含まれる en と似たものとして捉えることができます。

  • Cela n'en vaut pas la peine.
    逐語訳:「それは、そうするに値しない」。
    「peine」は女性名詞で「苦労、労力」。valoir la peine de ~ で「~するに値する」という熟語。この「de ~」の部分が「en」に置き換わっています。
    全体として、「やってみる価値がない」という意味になります。
    この諺の説明としてよく使われる言葉です。

この表現は日常的によく使われますが、「n'en vaut pas la」という部分がここで取り上げている諺とまったく同じです。そのこともあって、諺で「en」をつける言い方が広まっているのかもしれません。

【由来】 最初期の用例としては、1588年増補版のモンテーニュ『エセー』(第2巻第17章)に出てきます(原二郎訳の岩波文庫『エセー』(四)、p.83 から引用。下線引用者)

  • 私にとっていちばんつらい状態は、切迫した事物の間に宙ぶらりんになって、不安と期待の間に揺れ動いている状態である。(...)それよりは運命の骰子(さいころ)が投げられて、ともかくもどちらかに決定したほうがせいせいする。(...)落下の恐れは落下そのものよりも私に熱を出させる。まったく割に合わぬ苦労である

最後の下線部分は、原文では次のようになっています。

  • Le jeu ne vault pas la chandelle.
    「vault」は vaut の古い綴り。

このように、もとは「en」はついていなかったようです。

1611年のコットグレーヴの仏英辞典(ieu および chandelle の項目)にも、「en」のない形で収録されています。
1640年のウーダン『フランス奇言集』でも、「en」はついていません(Antoine Oudin, Curiositez françoises, 1640, p.282)。

1643年初演のコルネイユの喜劇『嘘つき男』(生前の最終版は 1682年刊)の第1幕第1景にも、この諺が出てきます(岩瀬・井村訳『嘘つき男・舞台は夢』、岩波文庫、p.10 から引用。下線引用者)

  • あんな女ども相手ではおたのしみどころか、時間を損するばかりで、
    それこそ骨折り損のくたびれもうけ
    原文は Et le jeu, comme on dit, n'en vaut pas les chandelles. となっており、「en」が入っています。

『アカデミーフランセーズ辞典』では、「en」はついたりつかなかったり、色々です。表にまとめると次のようになります。

Académie éd.123456789
s.v. « chandelle »nenen'enn'enn'ennenenen'en
s.v. « jeu »nenenenenenenenen'en

この表に見られるように、第1版(1694)と第2版(1718)では「en」はついていませんが、第3版(1740)~第5版(1798)では項目によってばらつきのある両者併存の状態が続いたのち、第6版(1835)~第8版(1932-1935)では「en」なしに統一され、最新の第9版(1992)では逆に「en」ありの形に統一されています。

【英語訳】「en」のない形を英語に逐語訳すると、次のようになります。

【他のバージョン】 否定の ne... pas を抜かして、逆の意味にして使うこともあります。

  • Le jeu en vaut la chandelle.
    その賭け事は、蠟燭の価値がある
    →やってみる価値がある

「やってみる価値がありますよ」、「ぜひお試しください」と、人に勧める場合に使われます。

さらに、これを疑問文にした表現もよく使われます。

  • Le jeu en vaut-il vraiment la chandelle ?
    本当にやってみる価値はあるのだろうか?

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

L'enfer est pavé de bonnes intentions.

【逐語訳】「地獄は善意で敷き詰められている」

【諺の意味】もとは次の (1) の意味だったようですが、現在では主に (2) の意味で使われるようです。

  • (1)「善意を持っていても、実際に行動に移さなければ意味がない」
  • (2)「善意でしたことでも、結果的に悪事になってしまうこともある」、「人は意図せず悪事を働いてしまうこともあるものだ」(TLFi)

また、罪を犯しておきながら「悪事を働くつもりはなかった」と弁解する人に対しても、この諺が使われます。「『そうするつもりではなかった』というのは言い訳にはならない」(Rat (2009), p.216) というわけです。

言い換えれば、「地獄には、自分の罪を認めながら、元来は善意にもとづいてのことであったと主張する人間が、一都会の敷石の数ほどたくさん群がっているという意味」(田辺『ふらんすの故事と諺』)。

【単語の意味と文法】「enfer」は男性名詞で「地獄」。
「est」は être(~である)の現在3人称単数。
「pavé」は paver(敷き詰める)の過去分詞。être + p.p. で受動態

paver は次のような使い方をします(直接他動詞(2)のタイプ)。

  • paver A de B (AにBを敷き詰める)

これを受動態にすると、次のようになります。

  • A est pavé de B (AはBで敷き詰められている)

Aに相当するのが「L'enfer」、Bに相当するのが「bonnes intentions」です。
「bonnes」は形容詞 bon(良い)の女性複数の形。
「intentions」は女性名詞 intention(意図)の複数形。intention は(心の中で色々なことを考えるので)複数形で使われやすい単語です。
「bonnes intentions」で「良い意図」つまり「善意」(よかれと思う気持ち)。

【他のバージョン】19世紀前半までは「pavé」の代わりに「plein」が使われていました。

  • L'enfer est plein de bonnes intentions.
    地獄は善意で満ち溢れている。
    「plein」は形容詞で、「plein de ~」で「~で一杯の、~で満ちあふれた」。

【由来】12世紀前半のフランスの神学者クレルヴォーのベルナール(Bernard de Clairvaux、クレルヴォーのベルナルドゥス、1090–1153)の言葉とされていますが、文献上は確認できないようです (Cf. Maloux (2009), p.283; Shapiro (2006), p.57)

17世紀初頭、聖フランシスコ・サレジオ(François de Sales、フランソワ・ド・サル、1567–1622。ジュネーヴの司教に任ぜられながら、プロテスタントの拠点となっていたジュネーヴには入れずに、その手前のフランスの町アヌシーを拠点に活躍したカトリックの聖職者で、女子修道会「聖母訪問会」の設立者)が1604年11月21日付の「ある婦人」に宛てた書簡の中で、上記クレルヴォーのベルナールが言った「諺」として、「L'enfer est plein de bonnes volontés ou désirs」(地獄は良い意思や望みで満ち溢れている)という言葉を引用しており、これが文献上確認できる初出のようです。
この中でサレジオは「善意にも2種類あり、漠然と『できたらいいけれど』と思う程度で諦めてしまう場合は地獄に行くが、しっかりと意思を固めて強く願ったのに、力及ばずできないという場合は天国に召される」(だからご安心なさい、という文脈)というようなことを書いています(原文は Google Books などで閲覧可能)

このように、もともと聖職者が説教の中で、一種の逆説としてこの諺を使っていたようです(バルザックがある小説の中で「『地獄は善意で敷き詰められている』というのは説教師の逆説ではない」と書いているのは、その裏返しだと思われます)。

この諺はフランスが発祥の地であるにもかかわらず、フランスでは19世紀初めまでは「スペインの諺」だと意識されていたようです。
例えば1610年のグルテルス『詞華選』ではスペイン語の諺として収録されており、1690年のフュルチエールの辞典でも「l'enfer est plein de bonnes intentions.」がスペインの文豪ケベード(Quevedo)の言葉として収録されています。19世紀前半になっても、C.ド・メリー(1828)では「l'enfer est plein de bonnes intentions.」が「スペインの諺」として紹介されています。

イギリスでは、上記クレルヴォーのベルナールに端を発する諺が、当初は次のように逐語訳されていました。

  • Hell is full of good intentions.
    地獄は善意で満ち溢れている。

ついで、英語で使われていた

  • to pave the way for (to) something
    ~のために地ならしをする、下準備をする

という表現の影響によりRey/Chantreau, p.358)、「full of」が「paved with」に置き換わって、18世紀に『オックスフォード諺辞典』第5版, p.269)次のような形になったようです。

  • Hell is paved with good intentions.
    地獄は善意で敷き詰められている。

フランス語ではあまり使われなくなっていた間に、イギリスではサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson, 1709-1784)が引用するなどして使われていたようです。
それが19世紀になってからフランスに逆輸入されたようですRey/Chantreau, p. Ibid.)

事実、19世紀になるとフランス語でもこの諺が再び取り上げられるようになり、Quitard (1842) でも「ポルトガル、スペイン、フランスで使われている諺」として、「l'enfer est pavé de bonnes intentions.」が取り上げられています。ここで、「plein」が(英語の影響により)「pavé」に置き換わり、現在と同じ形になっているのが注目されます。

19世紀後半になると、仏仏辞典リトレに収録され、『アカデミーフランセーズ辞典』でも第7版(1878)から「pavé」の形で確認されます。
諺の意味は、第7版と第8版(1932-1935)では「人は多くの良い決意を抱くものだが、それを最後まで成し遂げることはない」、第9版(1992)では「善意はしばしば最悪の結果に通じる」という意味だと書かれています。

英語では、19世紀に入って文頭に「The road to ~」(~への道)という3語が加わり、次の形になりました(『オックスフォード諺辞典』第5版, p.269 および『現代英語ことわざ辞典』、p.52)。

  • The road to hell is paved with good intentions.
    地獄への道は善意で敷き詰められている。

この英語をフランス語に逐語訳すると次のようになります。

  • Le chemin de l'enfer est pavé de bonnes intentions.
    地獄への道は善意で敷き詰められている。

この表現もフランスで使われています。

ちなみに、英語では次のような言葉もあります(これを見ると、この諺の元の意味がいっそう明確になります)。

  • Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works.
    地獄は良い意図で満ち溢れているが、天国は良い行いで満ち溢れている。

良い意図を持っていたかどうかではなく、良い行いをしたかどうかが重要だ、ということになります。

【反対の表現】この諺とは正反対のものとして、次の表現があります。

  • C'est l'intention qui compte.
    重要なのは意図だ。

これは、残念な結果に終わった場合に「結果はともかく、気持ちが重要なのだ」という意味で、特に人を慰めるときに使われます。

Mieux vaut prévenir que guérir.

【逐語訳】 「治療するより予防するほうがいい」

【日本の似た諺】 「転ばぬ先の杖」

【使い方】 例えば Norton 社のホームページでは、「コンピュータウイルスに感染してから治そうとするより、アンチウイルスソフトを使いましょう」という意味で、この諺を引き合いに出しています。

【単語の意味】 この諺では、次の熟語表現が使われています。

  Mieux vaut A que B. (B するより A するほうがいい、B より A のほうがいい)

A の部分に「prévenir」、 B の部分に「guérir」がきています。

「prévenir (予防する)」も「guérir (治療する)」も他動詞ですが、例外的に直接目的が省略されています。

【他のバージョン】 Mieux vaut A que B. = Il vaut mieux A que B. なので、次のように言うこともよくあります。

  Il vaut mieux prévenir que guérir.

Mieux vaut tard que jamais.

【訳】 「遅くなってもやらないよりはましだ」

【諺の意味】 全然やらないよりは、遅くなってからでもやったほうがましだ。

【使用例】 待ち合わせの場所に遅れた場合や、すぐに返事をせずに時間が経ってから返事をする場合、または一般に遅くなってから物事を行うときに、待たせた側が言い訳としてよく使います。

また、待たされた側が、しびれを切らして「『遅くなってもやらないよりはましだ』とは言うけれどねえ...」というニュアンスで(つまり「遅かったなあ、ずいぶん待ったぞ」という意味で)使うこともあります。

昔は、この諺は一般論として「よいことをするのに遅すぎるということはない」という意味でも使われましたが、現在では、こうした意味では次の諺を使います。

  • Il n'est jamais trop tard pour bien faire.
    (善事をなすのに遅すぎるということはない)
    この諺もよく使われますが、あまり解説の必要がないので、本ホームページでは(まだ)取り上げていません。

【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「tard」は副詞で「(時期的に)遅く、遅れて」。
「jamais」も否定の副詞で、普通は ne とセットで「決して...ない」 という意味で使いますが、jamais 単独でも英語の never と同様に「全然」という強い否定を表します。

Mieux vaut A que B. は「B より A のほうがいい」
Il vaut mieux A que B. と同じなので、 Il vaut mieux tard que jamais. と言っても同じ。

一番逐語調に近づけると、「全然より、遅れたほうがいい」。

【英語の諺】 Better late than never.

【由来】 15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°352)に、 Il vault mieux tart que jamais. (古い綴りを含む)と書かれています(Morawski, N°960 にも収録)。
1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本では Mieulx tard que jamais. と書かれています(HathiTrust で閲覧可能)。

Mieux vaut tenir que courir.

【逐語訳】 「追いかけるよりも、持っていたほうがいい」

【諺の意味】 「手に入れられるかわからない大きなものを追い掛け回すよりも、小さなものでも確実につかんで持っていたほうがいい」

【日本の諺】 「明日の百より今日の五十」

【単語の意味と文法】 この諺では、次の熟語表現が使われています。

  Mieux vaut A que B. (B するより A するほうがいい、B より A のほうがいい)

A の部分に「tenir」、 B の部分に「courir」がきています。
「tenir」は他動詞で「持つ、つかむ」の意味〔英語 hold 〕。
「courir」は自動詞だと「走る」という意味ですが、ここでは他動詞で「追いかける」。
「tenir」も「courir」も他動詞なのに、例外的に直接目的が省略されています。

【他のバージョン】 Mieux vaut A que B. = Il vaut mieux A que B. なので、次のように言うこともよくあります。

  Il vaut mieux tenir que courir.

【同じ意味の諺】 次の諺とほとんど同じ意味です。

⇒ 少し難しい諺 1 ( A ~ H )
⇒ 少し難しい諺 2 ( I ~ M )
⇒ 少し難しい諺 3 ( N ~ Z )














ページトップへ
戻る

aujourd'hui : 6 visiteur(s)  hier : 1 visiteur(s)



本サイトは、北鎌フランス語講座 - 文法編の姉妹サイトです。あわせてご活用ください。





powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional