「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-4

やさしい諺(ことわざ) 4 ( Les ~ Lo )


Les absents ont toujours tort.

【逐語訳】「欠席者はつねに間違っている」

仏和辞典では、たいてい次のように書かれています。

  • 「いない者はいつも悪者、欠席裁判」(小学館ロベール仏和大辞典)
  • 「いない者の損、いないが悪い」(ディコ仏和辞典)

【諺の意味】 仏仏辞典等によると、

  • 「その場にいない人の権利や立場は守られない」アカデミー辞典第9版)
  • 「自分の利益を守るためには、その場にいる必要がある」(Rey/Chantreau, p.4)

【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵を見ると、もう少し使い方がわかります。

【単語の意味と文法】「absent」はもともと「欠席している、その場にいない」という意味の形容詞。
ここでは冠詞がついて名詞化されており、「欠席している人、欠席者、その場にいない人」。
「ont」は avoir(持っている)の現在 3人称複数。
「toujours」は副詞で「いつも、つねに」。
「tort」は男性名詞で「間違い」。無冠詞なのは熟語だからで、「avoir tort」で「間違っている」。

「toujours」を抜かして Les absents ont tort. ということもあります。

Les amis de nos amis sont nos amis.

【逐語訳】「友達の友達は友達だ」

直訳すると、「私達の友達の友達は私達の友達だ」。

【単語の意味と文法】「ami」は男性名詞で「友達」。
女の友達なら e をつけて amie となりますが、複数で男女入り混じっている場合は男性複数の amis とします。
「nos」は所有形容詞で「私達の」。直後の「amis」に合わせて複数形によっています。
「sont」は être(~である)の現在3人称複数。

【派生したバージョン】 よく知られていることわざなので、ennemi(敵)という言葉を使って、ひねりを加えた次のような表現もよく使われます。
この場合、「ami」は「友達」というよりも「味方」という意味に近くなります。

  • Les amis de nos ennemis sont nos ennemis.
    敵の味方は敵だ(私達の敵の友達は私達の敵だ)

  • Les ennemis de nos amis sont nos ennemis.
    味方の敵は敵だ(私達の友達の敵は私達の敵だ)

  • Les ennemis de nos ennemis sont nos amis.
    敵の敵は味方だ(私達の敵の敵は私達の友達だ)

この3つの中では、最後の表現が一番よく使われます。
英語では次のように言います。

  • The enemy of my enemy is my friend.
    敵の敵は味方だ(私の敵の敵は私の友達だ)

【映画】「カイエ・デュ・シネマ」誌の編集長も務めた映画監督エリック・ロメールは、Comédies et proverbes(喜劇と諺劇)シリーズの第6弾として、1987年にこの諺をもとにした L'Ami de mon amie(友だちの恋人)という映画を作っています。

Les chiens aboient, la caravane passe.

【逐語訳】 「犬が吠え、隊商は通る」
(犬は吠えるがキャラバンは進む)

【単語の意味】「chiens」は男性名詞 chien(犬)の複数形。
「aboient」は自動詞 aboyer(〔犬が〕吠える。nettoyer(掃除する)などと同じ活用をする不規則動詞)の現在3人称複数。
「caravane」は女性名詞で「キャラバン、隊商」。もともとアラブの諺なので、駱駝(らくだ)に荷物を載せたキャラバンがイメージされます。
「passe」は自動詞 passer(通る、通過する)の現在3人称複数。
文が2つ積み重なった「重文」です。

【他のバージョン】「犬」を単数形にして言うこともあります。

  • Le chien aboie, la caravane passe.

【諺の意味】「脇から批判・中傷する人々のことは気にせずに、自信を持って自分の道を歩め」「言いたい奴には言わせておけ」。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【英語の諺】 英語では次のように言います。

  • The dogs bark, but the caravan goes on.

【逸話】「ティファニーで朝食を」の原作者、アメリカのトルーマン・カポーティ(1924-1984)の逸話が有名です。シチリア島でフランスの文豪アンドレ・ジッド(1869-1951)と一緒にいたカポーティが、自分の本について批判的な記事を読んで心を痛めていたとき、ジッドがこの諺を教えました。「評論家の言うことなど気にするな」という意味です。これがきっかけで、カポーティは自分の本に The Dogs Bark(犬が吠える、1973)という題名をつけたということです。

Quitard (1842) では、「Chien qui aboie ne mord pas. (吠える犬は噛まない)」という諺に関連して、「トルコ人は Le chien aboie, mais la caravane passe. と言う」として、この諺が紹介されています。

『遊牧民族の知恵 - トルコの諺』という本によれば(p.49)、「犬が吠えても隊商は進む」というこの諺は、「トルコだけでなく、イランやアフガニスタンなど、現旧遊牧民の国々にひろがっている諺」だそうです。

ラルースの諺辞典では「軽蔑」という項目に、ペルシアの諺として紹介されています(Maloux (2009), p.124、日本語訳は『ラルース世界ことわざ名言辞典』, p.138)。

Les conseilleurs ne sont pas les payeurs.

【逐語訳】「忠告者は支払う人ではない」

【諺の意味】「支払う」の意味の取り方によって、2 つに分けて考えることができます。

  • 1. 「忠告する人は、実際に行為の代償を支払う(責任を取る)わけではない」
  • 2. 「忠告する人は、お金を出すわけではない」(口は出すが、お金は出さない)

本来は 2 の「お金を支払う」という意味ではなく、むしろ 1 の「代償を払う」つまり「報いを受ける」、結果についての「責任を取る」という意味です。

仏仏辞典には、例えば次のように書かれています。

  • 「忠告を与える人は、忠告する事柄について責任を持つわけではない」(リトレ
  • 「行為を勧める人々に用心する必要がある。彼らはその行為の責任を共有するわけではなく、また結果を引き受けるわけでもない」(アカデミー第9版

とはいえ、言葉は生き物ということもあって、辞典に載っている意味でのみ使われるわけではなく、やはり「お金を払う」というイメージが強いので、実際には 2 の意味で(つまりお金を払うかどうかという文脈で)使われることもよくあります。

【使用例】最近、アメリカのオバマ大統領が、欧州の経済問題について EU に政策を提言したとき、ドイツ政府の閣僚の一人が「ああだこうだと脇から色々言うのは簡単だけれども、実際に政策を実行してその責任を取るのは私たちなのだ」という趣旨の発言をし、そのことを伝えるフランスの新聞記事のタイトルにこの諺が使われていました。
それと同時に、アメリカが金融支援をしてくれるわけではない、という意味も込められていたようです。

【単語の意味と文法】「conseilleur」は名詞で「忠告・助言する人、忠告者・助言者」。
もともと他動詞 conseiller(忠告する、勧める)から来ています。
このように -eur という語尾は、他動詞を「~する人」という意味の名詞に変える働きがあります。例えば、

  instruire(教える) → instructeur(教える人)
  donner(与える) → donneur(与える人)

それぞれ英語の instructor(インストラクター), donor(ドナー、臓器提供者)に対応しています。

「sont」は être(~である)の現在3人称複数。
ne... pas で否定
「payeur」は名詞で「お金を支払う人」。
これも他動詞 payer (支払う)に -eur という語尾がついてできた言葉。
payer には「(金銭を)支払う」という意味のほかに、比喩的に「(自分で行った行為)の代償を払う(報いを受ける)」という意味もあり、むしろこの諺では本来はこちらの意味です(フランス語から英語に入った pay も似たような意味があります)。

【由来】1568年刊のことわざ集 Trésor de sentences (金言宝典)に見えるのが初出のようです(Maloux (2009), 106 で引用。1581年版 p.46 で確認可能)。

Les cordonniers sont les plus mal chaussés.

【逐語訳】「靴屋が一番悪い靴を履いている」

【諺の意味】職業柄、簡単に入手・実行できるはずなのに、自分自身のことについては、なおざりにすることが多い。

【日本の諺】「医者の不養生」

  • その他、「坊主の不信心」、「学者の不身持ち」、「易者(えきしゃ)身の上知らず」、「駕籠かき駕籠に乗らず」、「餅屋 餅食わず」、「髪結いの乱れ髪」、「紺屋の白袴」、「大工の掘っ建て」、「左官の粗壁(あらかべ)」、「鍛冶屋の竹火箸」などの表現がある(あった)ようです。

【単語の意味と文法】「cordonnier」は昔は「靴屋」という意味でしたが、現代では「靴の修理屋」という意味でしか使われません(現代では「靴屋」のことは chausseur または bottier といいます)。ただ、昔からある諺なので、ここでは「靴屋」の意味です。
もともと皮革製品で有名だったスペイン南部の街コルドバ(仏語 Cordoue)に由来し、柔らかい皮革の材質名「コードバン」(仏語 cordouan、英語 cordovan)と同じ語源のようです。

「cordonnier(靴屋)」の前には定冠詞の複数形「Les」がついていますが、これは「靴屋というものは」というように「概念化」し、一般に靴屋全員について言っているため。

「sont」は être(~である)の現在3人称複数。
「les plus」は最上級。
「mal」は副詞で「悪く」、「よく... ない」。
「chaussés」は他動詞 chausser (〔人に〕靴を履かせる)の過去分詞 chaussé に男性単数を示す s がついた形。
ここは「sont chaussé」が受動態になっており、être + p.p. の場合は主語に性数を一致するので、「cordonniers」(男性複数)にあわせて s がついています。
直訳すると「悪く靴を履かせられている」ですが、要するに「悪い(粗末な)靴を履いている」という意味。
もしくは、「chaussé」は完全に形容詞化して、「履いている」という意味だともいえます。

「つねに、いつも、いつでも」という言葉 toujours を入れて言うこともあります。

  • Les cordonniers sont toujours les plus mal chaussés.
    いつでも靴屋が一番悪い靴を履いている

【英語の諺】 The shoemaker's son always goes barefoot.
  (靴屋の息子はつねに裸足で歩く)

【由来】 16世紀のモンテーニュの『エセー』第1巻第25章(版によっては第24章)に次のように書かれています。

  • われわれは悪い靴を履いている人を見ても、それが靴屋なら、驚くには当たらないと言う。それと同じように、経験上、しばしばきわめて不養生な医者や、心の改まらない神学者や、無能な学者がいるように思われる。
    日本語訳は原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫 p.266 による)

原文は「Quand nous voyons un homme mal chaussé, nous disons que ce n'est pas merveille, s'il est chaussetier.」となっていて、表題の形とは異なり、あまり諺らしい凝縮された表現になっていません(当時流布していた諺を踏まえ、わざとそのような表現にしたのかもしれません)。

1640年の諺集『フランス奇言集』(初版 p.121)には、「Il n'y a que les cordonniers de mal chaussez」(悪い靴を履いた靴屋しかいない)と書かれています(原文は Gallica で閲覧可能)。
1690年のフュルチエールの辞典でも、これとほぼ同じ「Il n'y a que les cordonniers mal chaussés」(悪い靴を履いた靴屋しかいない)という形で収録されています。

アカデミーフランセーズ辞典』第1版(1694) では、表題とほぼ同じ「Les cordonniers sont tousjours les plus mal chaussez.」(いつでも靴屋が一番悪い靴を履いている)という形で収録され、第2版(1718) で「いつでも」が取れて(古い綴りを除けば)表題と同じ形になっています。
諺の意味の説明は、どの辞典でも大差ありません。

Les extrêmes se touchent.

【逐語訳】「両極端は触れ合う」
(両極端は相通ず)

【単語の意味と文法】「extrême」はもともと「最も端にある」「極端な」という形容詞ですが、ここでは名詞で「極端なもの」。
イメージとしては、紐の左右の端などです。
複数形なので、(左右の)「両極端」と訳すことができます。
「touchent」は他動詞 toucher (触る、タッチする)の現在3人称複数。
「se」は再帰代名詞で「自分」。ここでは他動詞「touchent」の直接目的になっています。意味的には相互的(互いを~しあう)なので、直訳すると「互いを触る」、つまり「触れ合う」。

【図版】この諺を描いた絵葉書があります。

【使い方】たとえば、政治的な「極右」(最右翼、l'extrême droite)と「極左」(最左翼、l'extrême gauche)が、どちらも暴力に訴える場合があるという点で共通する、など。

【英語の諺】Extremes meet.

Les jours se suivent et ne se ressemblent pas.

【逐語訳】「日々は続くが、互いに似ることはいない」

漢詩の「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」(劉希夷「代悲白頭翁」)を思わせる諺です。

これを踏まえて、少し漢文調で訳すなら、「日々は続けど互いに似たらず」。

【単語の意味と文法】「jour」は男性名詞で「日」。
「suivent」は他動詞 suivre (~の後を追う)〔英語 follow〕の現在3人称複数。この動詞に再帰代名詞「se」がつくと「相互的」な意味になり、「互いに~の後を追う」→「(次々に)続く」という意味になります。

接続詞「et(そして)」を挟んで、「se suivent」と「ne se ressemblent pas」が並列になっています。「ne... pas」は否定

「ressemblent」は ressembler (似ている)の現在3人称複数。この動詞は à と一緒に使ういわゆる間接他動詞で、「ressembler à ~」で「~に似ている」。
ただし、「前置詞 à + 人」は、代名詞に置き換わると間接目的一語になり、à は消えるため、「à ~(~に)」の部分が「se(互いに)」となり、「à」はいわば「se」に吸収されて消えています。

この文で2回出てくる「se」は、どちらも「相互的」な意味ですが、最初の「se」は直接目的で、2 回目の「se」は間接目的です。

【他のバージョン】接続詞「et」〔英語の and〕の代わりに、「mais」〔英語の but〕を使うこともあります。

  • Les jours se suivent mais ne se ressemblent pas.

ただ、辞書で「et」を引けば逆接(対比・対立)の意味も載っており、ここでも「そして」というよりも、「しかも」「しかし」という意味で「et」を使っています。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

Les loups ne se mangent pas entre eux.

【逐語訳】「狼は共喰いしない」

【意味】悪人同士は互いに攻撃はしないものだ。

たとえば、違う組のやくざが縄張りを守って互いに手を出すことはせず、むしろ融通をきかせて、それとなく助け合っているようなイメージ。

あるいは、テレビの「水戸黄門」で、わいろを受け取った悪代官が「備前屋、おぬしも悪よのう」「いえいえ、お代官様ほどでは...」と言いあっているイメージが浮かびます。

日本の「同じ穴のむじな」に近いかもしれません。

【単語の意味】「loup」は男性名詞で「狼(おおかみ)」。
「mangent」は manger(食べる)の現在3人称複数。
「se」は再帰代名詞。ここでは「相互的」で「互いに」の意味。「mangent」の直接目的になっています。
「entre」は前置詞で「~の間で」。
「eux」は人称代名詞の強勢形で3人称複数男性。ここでは「loups」を指します。
一番直訳に近づけると、「狼たちは彼らの間でお互いを食べない」。

【由来】15世紀のフランスの諺集 Proverbes communs (1495) に、次の形で収録されているようですLe Roux de Lincy (1842), t.1, p.118 による)

  • Ung loup ne mange point l'autre.
    ある狼が他の狼を食べることはない
    (「Ung」は「Un」の古い綴り)

【英語】英語では次の諺が同じような意味のようです。

  • Dog does not eat dog.
    犬は犬を食わない

【図版】19世紀のグランヴィルによる版画があります。


Les murs ont des oreilles.

【逐語訳】「壁は耳を持っている」
(壁に耳あり)

【単語の意味】「murs」は男性名詞 mur(壁)の複数形。
「ont」は avoir (持っている)の現在3人称複数。
「oreilles」は女性名詞 oreille(耳)の複数形。
その前の「des」は不定冠詞の複数単に「いくつかの」と複数を意味しているとも取れますが、「いくつもの」つまり「多くの」という意味だとも取れます。
その場合は、「色々な人が聞き耳を立てている」という感じになります。

【日本の諺】「壁に耳あり、障子に目あり」

【英語の諺】 Walls have ears. (壁は耳を持っている、壁には耳がある)
Pitchers have ears. (水差しには耳がある、水差しには耳〔取っ手〕が付いている)

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【由来】 この諺は、ラルースの諺辞典ではユダヤ教の聖典『タルムード』(5 世紀)に見えるヘブライ語の諺(のフランス語訳)として載っています(Maloux (2009), p.138)。

ただ、「壁に耳あり、障子に目あり」に類する諺は各国に存在するようです。時田 (2000), p.177 には次のように書かれています。

  • 「草原に目あり茂みに耳あり」(ヒンディー語)、「窓に耳ありドアに眼あり」(ラオス)、「小道に耳あり」(アフリカ・アシャンテ族)など同じ発想のものが多く見られるので、人類に共通する心理として、それぞれ独自に起り伝承されたと見るのが妥当かと思われる。

フランス語の古い用例としては、13世紀の写本に次のような諺が収録されており、現代の諺とはだいぶ違った、プリミティブな雰囲気が感じられます。

  • Bois a orelles et plain a eus.
    森は耳を持ち、野原は目を持つ。
    Morawski, N°269 による。15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°379)にも、語順を逆にした Le champ a yeux et le boys a oreilles.(野原は目を持ち、森は耳を持つ)という諺が収録されています。

1531年のラテン語で書かれたシャルル・ド・ボヴェルの諺の本では、この部分だけフランス語で次のように記載されています(HathiTrust で閲覧可能)。

  • Les paroys ont aureilles.
    壁は耳を持っている。
    Núñez (1555) にも収録されています。

1557年のフランス語で書かれたシャルル・ド・ボヴェルの諺の本には次の形で収録されています(Gallica 版 p. 101/112 で閲覧可能)。

  • Parois a oreille, qui toujours veille.
    壁はつねに研ぎ澄ませている耳を持っている。
    これとほぼ同じ形は、1568年のムーリエ『金言宝典』にも収録されています(1581年版p.156で確認可能、Le Roux de Lincy (1859), t.2, p.368で引用)。

1610年刊のグルテルス『詞華選』(初版付録 p.221)には、表題とほぼ同じ次の形で確認されます(Le Roux de Lincy (1842), t.1, p.182 で引用)。

  • Les murailles ont oreilles.
    壁に耳あり。
    「muraille」も「壁」。

『アカデミー辞典』では、第1版(1694) から第5版(1798) までは、これに冠詞をつけた「Les murailles ont des oreilles.」という形で収録されています。
第6版(1835) と第7版(1878) では、この形と並んで murailles の代わりに murs を使った表題と同じバージョンも併記され(oreille の項)、「静かな声で話そう。壁に耳ありだ」という例文が載っています(mur の項)。
第8版(1932-1935) からは murailles は消え、murs だけになっています。
第9版(1992) によると、「第一次・第二次世界大戦中は、いたるところに敵のスパイがひそんでいるということに注意をうながすため、広くこの表現が使われた」そうです。

Les petits ruisseaux font les grandes rivières.

【逐語訳】「小さな流れが大きな川をつくる」
(小さな流れも大きな川になる)

諺らしくうまく訳すと、「細流集って大河となる」(今井白郎『俚諺百話』)。

【諺のイメージ】この諺を描いた絵葉書に見事に表現されています。

【諺の意味】次の 2 つの意味があります(主に 2 の意味で使われます)。
1. 「塵も積もれば山となる」
2. 「小銭も集まれば大金になる」、「倹約して貯蓄をすれば大きな財産ができる」

多くの仏和辞典では、ruisseau を引くとこの諺が載っており、「塵も積もれば山となる」という訳が当てられています。しかし、実際はこのフランス語の諺は、主に金銭関係について(上記 2 の意味で)使われます。

例えば、仏仏辞典リトレでは、次のように金銭関係の意味しか書かれていません。

『アカデミー辞典』でも、次のように金銭関係の意味しか書かれていません。

  • 「小さな額でもたくさん集まれば大きな額となる」
       (第1版~第8版 ruisseau, rivière の項)
  • 「ささやかな利益の積み重ねが、ついには大きな額になる」
       (第9版 petit の項)

現代の最も詳しい仏仏辞典 TLFi (ruisseau の項)では、この『アカデミー辞典』第8版の定義を引用し、「小さな額でもたくさん集まれば大きな額となる」という意味で使われることが多い、と注記しつつ、一般に「小さな物事の積み重ねでも、ついには大きなまとまりになることもある」(つまり「塵も積もれば山となる」)という意味だと書かれています。そしてこの一般的な意味での用例として、次のような例文が挙げられています。

  • この世の中には、取るに足りないものは何ひとつ存在しない。すべてのものの中に、すべてがある。小さな流れが大きな川を作るのだし、短い音節が詩を作るわけだし、山だって砂粒でできているのだ。
    Henry Murger, Scènes de la vie de bohème, 1851, p.130。下線引用者。

次のような古い例でも、金銭的な意味とは関係なく使われています。

  • 一杯一杯は少量だったが、何杯も飲まなければならなかったので、「小さな流れが大きな川を作る」とか「頻繁に触れば鉄でさえすり減る」と言うとおり、気がつくと私は頭が朦朧としかけていた。
    Jean Barclay, La Satyre d'Euphormion, 1640, p.539。下線引用者。

しかし、やはり金銭的なイメージが強いようで、現代のラルースの諺辞典でも、この諺は économie (倹約)という項目に分類されています(Maloux (2009), p.147、日本語訳は『ラルース世界ことわざ名言辞典』 p.263 の「節約」の項目)。

【似た諺】 Un sou est un sou.(1 スーは 1 スーだ)

【単語の意味と文法】「petits」は形容詞 petit(小さい)の男性複数の形。次の名詞に合わせています。
「ruisseaux」は男性名詞 ruisseau(小川、流れ)の複数形。
「font」は他動詞 faire(作る)の現在3人称複数。
「grandes」は形容詞 grand(大きい)の女性複数の形。これも次の名詞に合わせています。
「rivières」は女性名詞 rivière(川)の複数形。
ちなみに、もっと大きな「大河」は le fleuve を使います。

【発音】 ラルース仏英辞典の ruisseau の項目に載っているこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。

【由来】 古くは1610年のグルテルス『詞華選』(初版 p.221)に収録されています(Le Roux de Lincy (1842), t.1, p.56 で引用)。

翌1611年のコットグレーヴの仏英辞典(grand の項)では、次のように英訳されています(ただし、こういう英語の諺が存在するわけではなさそうです)。

  • Narrow brookes make navigable rivers.
    (狭い小川が航行できる川を作る)

1640年のウーダン『フランス奇言集』では、この諺は次のように説明されています(初版原文は Gallica p. 490 で閲覧可能)。

  • 小さな額が大きな額になる、小さな倹約や小さなもうけによって金持ちになる。

【背景】田辺貞之助『フランス故事ことわざ辞典』 p.46 では、この諺について次のように解説されています。

  • フランス人は昔から勤倹貯蓄の精神がつよく、若いときにせっせと貯金をして、老後は年金によって楽に暮らすのを理想としている。

Les paroles s'envolent, les écrits restent.

【逐語訳】「言葉は飛び去るが、書かれたものは残る」

【諺の使い方】「言葉と違って、書かれたものは残るため、あとで書かれた物が原因で厄介な事態に巻き込まれないよう、書面に残す(文字を書く)際には、よく注意する必要がある」という忠告の意味で使われます。

また、言葉で約束する相手に対して、「あなたの言うことは信じているけれど、やはりきちんと書面に残してくれませんか」ということを、相手を不快にさせずに伝えるときにも使われます。

  • ストレートに言うよりも諺を引き合いに出したほうが相手を不快にさせずに済むという効果があるのだとすれば、諺は実用的なコミュニケーションの面でも役に立つということになります。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【単語の意味と文法】コンマを挟んで短い文が2つ重なった「重文」。
「parole」は女性名詞で「(口で発せられた)言葉」。 parler(話す)という動詞に対応する名詞です。

「s'envolent」は「s'envoler(飛び立つ、飛び去る)」の現在3人称複数。
「envoler」という動詞は単独で使用することはなく、必ず再帰代名詞とセットで使用されるので、「s’」と「envoler」に分解して理解することは不可能(つまり熟語的)。

  • envoler の元になった自動詞 voler は「飛ぶ」ですが、s'envoler だと「飛び立つ」となり、いわば「状態への移行」を意味します(これは、自動詞 dormir は「眠る」なのに s'endormir だと「眠りにつく」という「状態への移行」を表すのと似ています)。

「écrit」は男性名詞で「書かれたもの」。もともと他動詞 écrire(書く)の過去分詞 écrit(書かれた)が名詞化してできた言葉。
「restent」は自動詞 rester(残る、英語 remain)の現在3人称複数。

【他のバージョン】2つの文をコンマでつなぐ代わりに、接続詞 mais(しかし)を入れることもあります。

  • Les paroles s'envolent mais les écrits restent.

もとのラテン語の諺ではコンマで区切る言い方をするため(下記)、そのほうが由緒正しい感じを受けますが、mais を入れる形もよく使われます。

また、s'envoler(飛び立つ、飛び去る)の代わりに s'en aller(立ち去る、消え去る)を使うこともあります。

  • Les paroles s'en vont, les écrits restent.

しかし、こうすると比喩的な面白さは減ってしまう気がします。

【由来】もともと次のラテン語の諺のフランス語訳です。

  • Verba volant, scripta manent.
    言葉は飛び去るが、書かれたものは残る。

これは、『プチ・ラルース』のピンクのページでは、ラテン語のままでよく使われる表現として掲載されています。

【図版】この諺を描いた絵葉書があります。

L'exception confirme la règle.

【逐語訳】「例外は規則を確固たるものにする」

「確固たるものにする」の代わりに「確認する」、「確実にする」、「確証する」、「裏づける」、「堅固にする」、「追認する」などの訳も考えられます。

  • 訳は悩むところで、「確証する」にしようと思ったこともありますが、伝統的な日本語では「確証」は「確実な証拠」という意味の名詞で、「確証する」という「サ変動詞」としては通常は使われないことを踏まえ、多少据わりが悪くなりますが「確固たるものにする」としました。

【単語の意味】「exception」は女性名詞で「例外」。
「règle」は女性名詞で「規則」。

「confirme」は他動詞 confirmer(確認する、確固たるものにする等)の現在3人称単数。この「confirme」は、上記のように色々な訳が考えられます。

法律用語では、confirmer は控訴または異議申立てがあった場合に上級審がそれを斥けて原判決を「確認・支持する」という意味や、「確証する」(符合する情報によって確認・推測・情況証拠を強化する)という意味(Cf. 山口(2002), s.v. confirmation)、あるいは「(債務を)追認する」という意味もあります。

また、キリスト教(カトリック)で「堅信の秘跡を授ける」という意味もあります。「堅信」式とは、幼児のうちに受ける「洗礼」とは異なり、物心ついてから改めて自分の意思で入信する(つまり信仰を確認し、「確固たるものにする」)儀式のこと。この儀式では、悪の力に耐えることを象徴的に表すために、司教が信徒の頬を軽く打つこともあり、そこから confirmer には俗語で「平手打ちする」という意味もあります(一見、関係なさそうにも見えますが、この語のイメージをつかむ上では役に立ちます)。

【関連する諺】次のことわざの裏返しだともいえます。

もちろん二重否定で、「どんな規則にも例外はある」という意味です。

【内容について】対応する英語の諺 The exception proves the rule. についてブルーワー, p.627 では次のように説明されています。

  • 規則がなくして例外はありえない。例外があるという事実そのものが規則を証明し、あるいは検証している。

また、対応するラテン語の諺 exceptio probat regulam について、野津 (2010), p.95 では「例外(の存在)が規則(の妥当性)を証明する」と訳され、次のように説明されています。

  • 他ならぬ例外が存在することで(つまり、例外となる諸々のケースを除外することによって)、法則はその一般的な妥当性を保証されるという意味。

少し逆説的な内容ですが、Académie de Grenoble のサイト PhiloSophieL'exception(例外)について哲学的に考察した文章でうまく説明されているので、訳しておきます。

  • 実際、例外が際立つようになるのは、規則と衝突し、規則に従わなくなる場合である。「例外こそが規則を確固たるものにする」という表現は、この意味において理解する必要がある。もちろん、これは、例外が規則であることを意味するのではない。それは不合理な(馬鹿げた)ことだ。そうではなく、例外は、規則を疑問視することなく、規則の存在を明らかにするのだ。それゆえ、規則と例外という二つの概念は、互いに他方の基盤となっている。
    規則がないところには、例外はありえない。その場合、物事を比較する対象がないからだ。しかし逆に、例外がないところには規則はない - より正確にいえば、規則を口にする必要がない。なぜなら、つねに規則が守られ、規則が自明のものであるからだ。

以上とは別に、ラテン語の法諺(法律分野の格言)にさかのぼって意味を説明した例を掲げておきますRey/Chantreau, p.387)

  • 実は、この文は exceptio firmat regulam in casibus non exceptis. つまり「明示的に例外とされていない事例においては、例外は規則を追認する(規則の適用を許容する)」という意味の法諺を借りて短くしたものだ。すなわち、ある規則と例外のリストが存在する場合、リストに列挙されていないすべての事例では、その規則が適用されねばならない、という意味である。あるいは、事前に例外として規定されている場合を除き、規則がまさる、という意味である。

変わったところでは、アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』の「例外」の項目で次のような説が唱えられています。

  • In the Latin, "Exceptio probat regulam" means that the exception tests the rule, puts it to the proof, not confirms it.
    ラテン語の "Exceptio probat regulam"(レイガイハ キソクヲ ショウメイスル)は、例外は規則をためす、つまり、吟味するのであって、確証するものではない、という意味である。
    Ambrose Bierce, The devil's dictionary, 1911, The World Publishing Company, New York [Internet Archive], p.89(訳はビアス『悪魔の辞典』、西川正身編訳、岩波文庫、1997年、p.278による。HP 作成上の理由により、同訳文の傍点を下線に変更)

これは、もともと『冷笑家用語集』The cynic's word book [IA], 1906, p.101 に収められている文章で、ビアスはこの諺の濫用や誤用に苛立って「冷笑的」(シニカル)な書き方をしているので、額面どおりには受け取りにくい部分があります。たしかにビアスの言うとおりラテン語の probo には「試す、吟味する」という意味もありますが、もちろん「証明する」や「確証する」という意味もあるので、個人的には、ビアスをもじって

  • 例外は規則をためす、つまり、吟味することによって、確証する(または確固たるものにする)のである、という意味である。

と言いたいところです。
実際、ビアスは「確証するものではない (not confirms)」と言っていますが、ラテン語 (probat) や英語 (proves) とは違って、フランス語では confirme が使われています。

(2015/9/3-7 加筆)

L'habit ne fait pas le moine.

【逐語訳】「服装(修道服)が修道士を作るわけではない」

【諺の意味】「人は外見で判断してはならない」(Petit Larousse 2013
(人は見かけによらぬもの)

【諺の背景】 この諺が生まれた当時(中世)は、聖職者の地位が売買の対象となっていたこともあり、僧服を着ていても中身は欲得づくの腐敗した聖職者も多かったようです。

ここから、「修道士の格好をしていても、中身もそれにふさわしいとは限らない」という意味になりました。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【単語の意味】 「habit」は男性名詞で「衣服、服装」。辞書をよく見ると、「修道服、僧衣」という意味も載っています。
「fait」は他動詞 faire(作る)の現在3人称単数。
「moine」は男性名詞で「修道士」。
直訳すると「服装(修道服)は修道士を作らない」。

【他のバージョン】 ne と pas を省いて意味を逆にし、次のように言うこともあります。

  • L'habit fait le moine.
    服装が修道士を作る。

例えば、きちんとした身だしなみが大切だと考える人や、お洒落やファッションに興味のある人は、服装が大切だという意味で、あるいは服装も自己表現の手段だという意味で、 ne と pas を省いたバージョンを好むようです。
この場合、似た諺は「馬子にも衣裳」です。

「あなたは、『L'habit ne fait pas le moine.』(中身が大事だと思う)派ですか、それとも『L'habit fait le moine.』(外見も大事だと思う)派ですか(どちらを支持しますか)?」などということが話題になるほど、ポピュラーな諺です。

【エピソード】 1297 年にフランソワ・グリマルディ(François Grimaldi)が修道士の姿に変装してモナコの要塞を攻略したという伝説があり、これをこの諺の由来と関係づける俗説があります。
この故事にちなみ、モナコ公国では、修道服を着て剣を振りかざす姿が描かれた紋章が国章として採用されています(Wikipedia France, «Armoiries de Monaco» の図版を参照)。

しかし実際には、以下に述べるように、それよりも前からこの諺は文献上(ラテン語でもフランス語でも)確認されます。

【由来その 1 (ラテン語)】 古代ローマのことわざに次のような言葉があります(柳沼『ギリシア・ローマ名言集』 p.154)。

  • barba non facit philosophum
    鬚が哲学者を作るわけではない。
    フランス語に逐語訳すると、 La barbe ne fait pas le philosophe.

ただし、表題の諺とは直接関係はなさそうです。

「修道服が修道士を作るわけではない」という考え方は、もとをたどると 12 世紀頃に書かれた Carmen de Contemptu Mundi (世界を軽蔑することについて)という本の次の言葉に遡れるようです。

  • Non tonsura facit monachum, non horrida vestis,
    Sed virtus animi, perpetuusque rigor
    人を修道士にするのは剃髪や簡素な衣服ではなく、
    魂の徳と不断の堅固さである。
    この本は、伝統的には、フランスで活躍したのちにイギリスに渡った、神の存在証明で名高いカンタベリーのアンセルムス(1033?-1109)の著とされ、Migne版「教父全集」や『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.866 でもこの説が踏襲されています。しかし現在では、1139年に没したロジェ・ド・カーン(Roger de Caen、北仏ノルマンディーの町カーンの出身で、イギリスに渡ってからはソールズベリーのロジャー Roger of Salisbury と呼ばれた)が著したとする説が有力なようです(参考:Jean Batany, L'Église et le «mépris du monde», Annales. Économies, Sociétés, Civilisations, vol. 20, N°5, 1965, p.1007)。

1227 年にローマ教皇に即位したグレゴリウス 9 世の教令集(Lib. III Tit. XXXI Cap. XIII)にも、「どの時点で人は修道士になるのか」(修道服を着た時点ではなく、誓願を立てた時点で修道士になる)という文脈で、次のように書かれています。

  • quum monachum non faciat habitus, sed professio regularis
    なぜなら、修道服が修道士を作るわけではなく、修道生活を送るという誓願が修道士を作るのだから。
    原文は The Latin Librarygoogle books, p.459 などで閲覧可能。

こうした考え方を表わしているのが、次の中世ラテン語の諺です。

  • Cucullus non facit monachum
    頭巾が僧を作るわけではない。
    フランス語に逐語訳すると、 Le capuchon ne fait pas le moine.
    このラテン語は、シェイクスピアの喜劇『十二夜』(1601-1602 年頃。第 1 幕第 5 場)や『尺には尺を』(1603-1604 年頃。第 5 幕第 1 場)で、登場人物のせりふとしてラテン語のまま出てきます(野津 (2010), p.60 で言及)。

【由来その 2 (フランス語)】 フランス語では、聖職者の腐敗と関連して、13 世紀から確認されます。

1285 年に没した詩人リュトブフが韻文で書いた「フランシスコ会修道士ドゥニーズ坊の話」(Dit de frère Denise le cordelier)と題されるファブリオー(小話)の冒頭に、次の形でこの諺が出てきます(Maloux (2009), p.36 で引用)。

  • Li abiz ne fait pas l'ermite.
    服装(修道服)は隠遁修道士を作らない。
    「Li abiz」は L'habit に同じ。「ermite」は一人で隠遁生活を送る修道士のこと。

ちなみに、このリュトブフのファブリオー(小話)のあらすじは次の通りです。

  • あるフランシスコ会修道士が、信心深い乙女をだまし、男装させて修道士として迎え入れ、まんまと肉体関係を結んだ。しかし、二人が托鉢に回っていたときに女であることを見抜かれ、だましていた修道士は大金を払って許され、乙女はめでたく騎士と結婚した。
    この作品の仏語原文は Wikisource で閲覧可能。日本語訳は「仏語仏文学研究」第5号(1990年8月)掲載の岩本修巳訳の「ドゥニーズ坊のこと」(JAIRO) で閲覧可能。
    当時の13世紀中頃のパリでは、托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)とパリ大学教授ギヨームとの間で論争が起きており(例えば文庫クセジュ『中世フランス文学』 p.92 を参照)、リュトブフは後者を支持していたこともあって、口先ばかりの説教をするドミニコ会や、清貧とは名ばかりのフランシスコ会を批判する作品をいくつも残しています。

同じ 13 世紀後半の『薔薇物語』後篇でも、偽善的な修道士について述べた部分に出てきます(篠田勝英訳、ちくま文庫『薔薇物語』上巻、p.457 から引用)。

  • 貧しいふりをしますが、その実おいしいものを食べ、高価な酒を飲んでいます。そして貧困を説き勧めますが、自分たちは引き網や三重刺網で贅沢なものをごっそりすくいあげているのです。首をかけて言いますが、こんなことがただで済むはずがありません! (...)彼(か)の者は僧衣を纏う、故に彼は宗教家なり、というのですから。こうした論証は詭弁というべきであり、水蝋樹(いぼた)の木の〔柄の付いた〕ナイフにも値しません。「僧衣が修道僧を作るのではない」はずです。
    原文は la robe ne fet pas le moine となっています。

【英語の諺】 英語の初出は、『薔薇物語』後篇よりも約 1 世紀遅く、1387 年頃に次のような形で確認可能です(『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.64 による)。

  • habit maketh no monk
    「th」は古い英語の 3 人称単数の語尾。「monk」は「修道士」。
    これは、『薔薇物語』を英訳したチョーサーが書いたと昔は考えられていた(実際はチョーサーと親しかった T. Usk が書いた)『愛の遺言』という寓意物語に出てきます。

現代の英語では、主に次のように言います。

  • The cowl does not make the monk.
    「cowl」は「(修道士が着用するゆったりした)頭巾(ずきん)付き外套」

【日本の諺】 上の英語の諺の「cowl」を「hood」(フード、頭巾、僧帽)に置き換えた、

  • The hood does not make the monk.

は、明治 21 年(1888)に「法衣は僧を作らず」と日本語に訳されました。それが変化して生まれたのが次の諺です(『岩波 ことわざ辞典』 p.258 による)。

  • 「衣ばかりで和尚はできぬ」。

L'habitude est une seconde nature.

【逐語訳】 「習慣は第二の天性」

【諺の意味】 「習慣によって慣れてしまうと、生まれつきの本能と同様になり、何の疑いもなく行動してしまう」。

あるいは、「習慣が及ぼす力は大きい」。

【用例】 この諺を描いた絵葉書を参照。

【由来 1(ギリシア・ラテン語)】もとは紀元前 5 世紀のギリシアの詩人エウエノスの言葉で、紀元前 4 世紀のアリストテレス『ニコマコス倫理学』で次のように引用されています。

  • まことに習慣が変えがたいということも、それが抜きがたい自然本性というものに似ているところからきているのであって、その点、エウエノスもいっているごとくである。 ----
      そは友よ、習いの年経(ふ)りしにて
      年経りてはついにひとの性(さが)たる
    「習い」(習慣)も、長年たつと「性(さが)」(天性)となる、というわけです。岩波文庫、高田三郎訳、下巻p.50(第7巻第10章)から引用。

同じアリストテレスの『弁論術』では、「快楽」についての論考の中で、「自然本来の状態にあるものは快い」という文脈で出てきます。

  • また、習慣も快いものである。なぜなら、習慣として身についているものは、事実上、持って生まれついたのと同じようなものになっているから。つまり、習慣は自然とどこか似たところがあるのである。というのは、「幾度となく」ということは「いつも」ということに近いが、ところが、自然はいつも起こるものに、また習慣は幾度となく起こるものに含まれるからである。
    岩波文庫、戸塚七郎訳、p.112(1, 11, 1370a, 3-9)による。これはエラスムス『格言集』 IV ix 25 (3825)でも取り上げられています。

その他、次の本に出てきます。

  • キケロー『善と悪の究極について』V, XXV, 74 (岩波書店『キケロー選集10』 p.316)
  • アウグスチヌス『音楽論』VI, vii, 19 (教文館『アウグスティヌス著作集3』 p.510)

【由来 2(フランス語)】 フランス語では、1557年のボヴェルの諺の本に次のような諺が収録されています。

  • Coustume dure, vaut nature.
    しぶとい習慣は自然に匹敵する。
    Montreynaud et al. (1989), p.158 (F1842) で指摘。

この本では、例として、「病人が長い間かけて何らかの生活方法に慣れた場合、それは病人にとっては自然と化し、医者もそうした習慣を変えさせることはできない」と書かれています。
出典: Charles de Bovelles, Proverbes et dicts sententieux, 1557, p.42 v°

1576 年のバイフの格言詩 I, 308 では「Coutume est une autre nature.」(習慣はもう一つの自然である)となっています。

1588年版のモンテーニュ『エセー』には次のように書かれています。

  • われわれ各人の習慣や環境をも自然と呼ぼうではないか。(...)習慣は第二の自然であり、自然に劣らず強力である。
    原二郎訳、岩波文庫『エセー』(六)p.18 による。原文は L'accoustumance est une seconde nature となっています。

17 世紀のパスカル(1623-1662)の『パンセ』では、この「習慣は第二の天性である」という諺を逆手に取り、むしろ「天性自体が(第一の)習慣にすぎないのではないか」として、天性というもの自体に疑いを投げかけています。

  • 父親たちは、子供の天性の愛情が消えてしまうのではないかと恐れる。しかし一体、消えてしまう天性とは何だろう。習慣は第二の天性というが、この「第二の天性」が第一の天性を壊してしまうというわけだ。しかし天性とは何だろう。どうして習慣も天性ではないといえるだろう〔※訳注〕。私は、習慣が第二の天性であるのと同様に、この天性自体が第一の習慣にすぎないのではないかと、大いに懸念している。
    〔※訳注〕パスカルは「どうして天性も習慣ではないといえるだろう」と言いたかったのではないかという気がします。全体的に、若干言葉を補って訳しました(下線引用者)。下線部分の原文は La coutume est une seconde nature となっています(ブランシュヴィック版93、ラフマ版126)。

【単語の意味と文法】 「habitude」は女性名詞で「習慣」。
「est」は être (~である)の現在 3人称単数。
「seconde」は形容詞 second(第二の)の女性形。
「nature」は女性名詞で「自然」または「天性」(生まれつきの性格)。

直訳すると、「習慣は第二の自然である」または「習慣は第二の天性である」。

【英語の諺】 英語でも同じ表現があります。

【日本の諺】 『書経』に由来する次の言葉があります。

【似た諺】 「習慣」とは関係なく、「生まれつきのものは消し去ることができない」という意味の諺としては、このホームページで取り上げた中では次のものがあります。

L'homme propose et Dieu dispose.

【逐語訳】 「人間が提案し、神が意のままにする」

【他の訳】 色々な訳があります。
「人間が提案し、神が処置する」(田邊 (1959)渡辺・田中 (1977)
「差出すのは人、並べるのは神」「人間が提起し、神が按配する」(吉岡 (1976)
「事を図るは人、事を成すは天」(小学館ロベール仏和大辞典
「事を計るは人、成否を決めるは天」(スタンダード仏和辞典)

【似た諺】 「人事を尽くして天命を待つ」

【単語の意味と文法】 「homme」は男性名詞で「人間」。

「propose」は他動詞 proposer (提案する、差し出す)の現在(3人称単数)。
ロベールの表現辞典には、この諺の proposer は former un projet (計画を練る)という意味だと書かれています(Rey/Chantreau, p.499)。
多くの仏和辞典にも、proposer の自動詞の「企てる、計画をめぐらす」という意味の例文としてこの諺が載っています(そのため「事を計る」等と訳されています)。
ただし、この意味は古語以外には使われることはないので、現代のフランス人は「提案する」という意味だと意識しているはずです。そのため、上の【逐語訳】では「提案する」の意味で訳しました。他動詞なのに例外的に直接目的が省略されていると説明することが可能です。
「Dieu」は「神」。普通はこのように無冠詞・大文字で使います。

「dispose」は disposer の現在(3人称単数)。この動詞は、普通の他動詞(直接他動詞)として使う場合と、前置詞 de を伴う間接他動詞として使う場合があります。

  直接他動詞 disposer ~ 「~を並べる、配置する」
  間接他動詞 disposer de ~ 「~を意のままにする、自由に使う、処分する」

ここでは「意のままにする」の意味が適当です。「de ~」の部分(間接目的語)は例外的に省略されています。

この動詞は英語に入ってもほぼ同じ用法・意味で使われ、 dispose で「配列する」、dispose of で「処分する」となります。

語源的には、poser は「置く」という意味で、これに

  接頭語 pro- (「前に」の意味)がつくと proposer で「前に置く」
  接頭語 dis- (ここでは「分離」の意味)がつくと disposer で「分離して置く」

というのが元の意味です。

諺では「propose」と「dispose」が韻を踏んでいます。

【英語の諺】 Man proposes, God disposes.

【由来】 13 世紀後半にダンテの師匠にあたるブルネット・ラティーニ(Brunetto Latini)がフランス語で書いた Li livres dou trésor (『宝典』)に、「hom pense et Diex dispose」(古い綴り)と書かれています(原文は Gallica, p.92, 8 行目で閲覧可能。Klein, Jean René (2007) で引用)。

14 世紀初めにゴドフロワ・ド・パリ(Godefroy de Paris)ないしジョフロワ・ド・パリ(Geoffroi de Paris)(ARLIMA に解説あり)が書いた『韻律年代記』(Chronique métrique)の 3297 行目に「Car se li homme mal propose, Diex... le dispose」(人間が悪を提案したとしても、神は... それを意のままにするのだから)と書かれています(原文は Googe Books などで閲覧可能。『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.201 で引用)。

14 世紀末~ 15 世紀初めのトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』(仏語では L'Imitation de Jésus-Christ )の第 1 巻第 19 章 2 には、「Homo proponit, sed Deus disponit.」(「心に思い決めるのは人間だが、それを取り決めてゆかれるのは、神である」、大沢章/呉茂一訳、岩波文庫 p.42)と書かれています(キタール『フランス語ことわざ研究』、p.85 で引用)。

15 世紀末のフィリップ・ド・コミーヌ (Philippe de Commynes、1447 - 1511) の『回想録』(Mémoires )第 3 巻第 9 章では、表題の形で出てきます(原文は Googe Books、p. 210 や Antoine Mechelynck 氏のサイト などで閲覧可能、リトレTLFi で引用)。

【諺もどき】 ふざけて「神」を「女」に置き換えて言うこともあります。
この場合、「homme」は「人間」ではなく「男」という意味になります。

  • L'homme propose, la femme dispose.
    (男が提案し、女が意のままにする)

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

L'occasion est chauve.

【逐語訳】 「好機は禿(は)げている」
(チャンスの女神は禿げ頭)

【諺の意味】 好機(チャンス)はつかむのが難しい。チャンスが訪れたら、即座につかめ。

落語の「謎かけ」みたいな諺です。

  • チャンスとかけて、つるつるの禿げ頭と解く。
    その心は?
    つかむのが難しい。

【単語の意味】 「occasion」は女性名詞で「機会、好機、チャンス」ですが、古代神話の「好機(チャンス)の女神」という意味にもなります。
「est」は être の現在(3人称単数)。
「chauve」は形容詞で「禿げた」(男性形も女性形も同じ)。

【ギリシア神話】 もともと古代ギリシア神話では、「時」ないし「好機(チャンス)」の神カイロスは男性神で、前髪しかなく、後ろは禿げていると考えられていました。
(ギリシア語で「時」を意味する kairos は男性名詞なので、これが擬人化=神格化されると男性神となります)。

なぜ後ろが禿げているかというと、『ギリシア詞華集』(16 巻 275 番)に収められた紀元前 3 世紀の詩人ポセイディッポスの諷刺詩(エピグラム)にその理由が書かれています。仏訳(Rat (2009), p.276)をもとに一部を訳してみます。

  • 「あなたの髪は、なぜ前側についているんですか?」
    「出会った人が、私をつかめるようにするためですよ」
    「しかし、いったい全体、なぜ後ろ側は禿げているんですか?」
    「足に翼がついて進む私を、前から見てもやり過ごした人が、気持ちが変わって後ろからつかもうと思っても、つかめないようにするためですよ」

このギリシア語原文と英訳はローブ古典叢書 vol. 5, p.325 で閲覧可能です(同ページにはギリシア神話の男性神カイロスを表わす図が掲載されていますが、なぜか禿げてはいないようです)。

【ローマ神話以降】 ローマ神話では、ラテン語の fortuna (運命)が女性名詞であることもあって、「運命」の神フォルトゥーナは女神とされ、この女神が禿げていると考えられて、以後ヨーロッパでは「後頭部が禿げた運命の女神」というイメージが定着します。
(フランス語でも fortune (運命)や occasion (好機、チャンス)は女性名詞なので、女神のイメージが維持されます)。

例えば、『カトーの二行詩』 II-26 には次のような言葉が見られます。

  • Fronte capillata, post haec occasio calva.
    (好機の女神は、前はフサフサ、後ろは禿げ)

1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』(I, vii, 70 (670) )でも、上記ポセイディッポスの詩の全文が引用されてラテン語に訳されており、また上の『カトーの二行詩』もそのまま書き写されています。

1531 年に初版が出た、寓意的な図版を集めたアンドレア・アルチャートの『エンブレマタ』という本でも、上記ポセイディッポスの詩が掲載され、女神の図が添えられています。例えば、禿げた女神の図 1(1536 年版)や禿げた女神の図 2(1615 年版)を見ることができます(イギリスのグラスゴー大学のサイトの一部)。
『エンブレマタ』は初版はイタリア語ですが、フランスでも大変な好評を博し、フランス語版も多数出版されました。

1534-1535 年頃のラブレー『ガルガンチュワ』第 37 章にも次のように書かれています(岩波文庫、渡辺一夫訳、p.176)。これがフランス語の古い用例のようです。

  • 私の意見では、我が軍に事有利なるうちに追撃いたしてはいかがかと存じまする。そもそも好機の女神と申すものは、額のほうに頭髪を全部生やして居りまして、行き過ぎましたら最後、二度と呼び戻すことができませぬし、後頭のほうは禿(はげ)でございまして、決して振り返ってはくれぬのでございますから。

1605 年刊のセルバンテス『ドン・キホーテ』前編第 25 章にも、次のようにして出てきます(岩波文庫、牛島信明訳、前編(二)、p.97)。

  • 今せっかくわしの目の前にその前髪を差し出してくれている《好機》をそのまま素通りさせるいわれはないのじゃ。

1668 年に初演されたモリエールの喜劇『守銭奴』(第 1 幕第 7 景)では、滑稽なほどお金にがめつい主人公のせりふとして、次のように出てきます(鈴木力衛訳、岩波文庫、p.36、下線引用者)。

  • こんな機会は飛びつくようにつかまにゃならん。これほど有利な条件は、めったにあるものじゃない。なにしろ持参金なしに娘をもらってくれようと言うんだからな。
    下線部分の原文は C'est une occasion qu'il faut prendre vite aux cheveux.

仏仏辞典『アカデミーフランセーズ』で変遷を確認しておくと、第 1 版(1694 年)では

  • L'occasion est chauve par derriere.
    (好機は後ろ側が禿げている)

となっていますが、第 2 版(1718)からは「par derriere (後ろ側が)」がなくなり、以後、第 8 版(1932-1935)までは表題と同じ形で収録されています。

しかし最新の第 9 版(1992)ではこの諺は収録されていません。
また、TLFi ではこの諺は「vieillie(古めかしい)」と書かれ、『小学館ロベール仏和大辞典』でも「古」と書かれています。

このように、現代ではあまり使われなくなっているようですが、しかし一度見たら(読んだら)忘れられない「禿げた女神」という強烈なイメージもあって、多くのフランス人が知っているはずです。
また、次のような表現もあります。

  • saisir l'occasion par les cheveux
    (チャンスを髪でつかむ)

単に「saisir l'occasion (チャンスをつかむ)」では当たり前すぎるので、「par les cheveux (髪で)」を付け加えると面白くなるわけです。

【英語の似た諺】 Take time by the forelock. (時は前髪でつかめ)

英語でも、ローマ神話の影響(またはラテン語や他のヨーロッパ言語の影響)から、この「time」が女性扱いにされ、次のように言われることもあるようです(戸田 (2003), p.569 による)。

  • Take time by the forelock, for she is bald behind.
    (時は前髪でつかめ。彼女は後ろが禿げているのだから。)

L'occasion fait le larron.

【逐語訳】 「機会が盗人を作る」

【諺の意味】 悪事を働くのに好都合な条件が揃ってしまうと、ふだんは正しい行いをしている人でも、つい魔がさしてしてしまう(誘惑に負けてしまう)ものだ。
「魔がさす」という表現がぴったりです。

『プチ・ラルース2013』には次のように書かれています。

  • 「さまざまな条件は、人が考えてもいなかった悪事を誘発することがある」

逆に、「盗みを働いた言い訳として、この諺を使うな」として引き合いに出されることもあります。

【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵絵葉書を見るとイメージがつかめます。

【単語の意味】 「L'occasion」は女性名詞で「機会」。
「fait」は他動詞 faire (作る)の現在(3人称単数)。
「larron」は男性名詞で「盗人(ぬすっと)」。やや古風・文学的な単語です。普通は「泥棒」なら voleur を使います。

しかし、occasion (機会)と larron (盗人)が控え目ながら脚韻を踏んでいます。 larron の代わりに同じ意味の voleur (泥棒)を使うと、まったく韻を踏まなくなってしまいます。
これに関して Brunet (2011), p.95 では次のような趣旨のことが書かれています。

  • 現代では、この larron という単語は、この諺を除いては非常にわずかな表現でしか使われなくなっている。(...)しかし、この諺が今日に至るまでよく使われているのは、おそらく occasion と larron の韻が強い必然性を持っているからであり、もし larron の代わりに voleur を使っていたとしたら、この諺はこれほどの説得力は持ちえなかったことだろう。

【由来】 1175年に書かれたブノワ・ド・サント=モールの『ノルマンディー公列伝』に次の形で出てきます(リトレで引用)。

その他、13世紀末の諺集の写本に「Aise fait larron.」と書かれている他、15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°20)にも「Aise fait les larrons.」と書かれているなど、中世には多少字句が異なるさまざまなバリエーションが存在します(Morawski, N°39)。

16世紀中頃に書かれたマルグリット・ド・ナヴァール『エプタメロン』の第 30 話冒頭にも出てきます(Rey/Chantreau, p.643 で言及)。若くして未亡人となった女性が、間違いを犯さないよう、この諺を戒めとして社交界には出入りしないようにしていた、という文脈で、「elle pensait que l'occasion faisait le péché(機会は罪を作ると、彼女は考えていた)」と書かれています(Heptaméron, éd. Renja Salminen, Droz, 1999, p.280)。

1625年の D. マルタンの諺集(N°569)では、表題とまったく同じ形で確認されます。

アカデミー辞典』でも、第1版(1694)から第9版(1992)まで、まったく同じ形で収録されています。

【英語の諺】 英語にもほとんど同じ諺があります。

L'oisiveté est la mère de tous les vices.

【逐語訳】「無為はすべての悪徳の母である」
(無為は悪徳の母)

【単語の意味】「oisiveté」は、形容詞「oisif (無為の、怠惰な)」の女性形 oisive から作られた女性名詞で「無為、怠惰」。「mère」は「母」。
tous (すべての)」は少し特殊な形容詞で、このように冠詞の前に置きます。
「vice」は男性名詞で「悪徳」。反対語 la vertu (美徳)とセットにして「la vertu et le vice (美徳と悪徳)」というように覚えると効率的です。

【文法】「mère」は後ろに「de tous les vices (すべての悪の)」という、意味を狭める(限定する)言葉がついているため、特定化されると定冠詞がつきやすくなるので、定冠詞がついています。
ただし、「la mère de tous les vices」は属詞になっており、基本的に属詞の場合は無冠詞となるため、「mère」を無冠詞にして次のように言うこともあります。

  • L'oisiveté est mère de tous les vices.

【他のバージョン】「oisiveté (無為)」の代わりに「paresse (怠惰)」を使うこともあります。

  • La paresse est la mère de tous les vices.
    (怠惰はすべての悪徳の母である)

【似た諺】「小人閑居して不善をなす」(『大学』)

Loin des yeux, loin du cœur.

【逐語訳】 「目から遠くに、心から遠くに」

【似た諺】 「去る者は日々に疎し」(『文選』、『徒然草』他)

【英語の諺】 Out of sight, out of mind.

ただし、このフランス語の諺は、友情というよりも、主に恋愛関係について用いられます(下記【由来】も参照)。

【諺の意味】 愛する人が目の前からいなくなると、愛情は薄れていくものだ。

【単語の意味】 「loin」は副詞で「遠くに」ですが、ここは「loin de ~」で「~から遠くに」という熟語(前置詞句)です。
この諺は、「loin de ~」を 2 つ積み重ねただけの、主語も動詞もない不完全な文でできています。
「des」は 前置詞 de と定冠詞 les の縮約形
「yeux」は男性名詞 œil (目)の複数形(かなり不規則です)。 œ は o と e がくっついた文字です。 œil (目)という単語は、普通は複数形で使用し、体の一部を表す名詞なので基本的には定冠詞がつきますが、ことさら片方の目という場合は「片一方の、一つの」という意味で不定冠詞 un をつけます。ですから、覚えるときは、次のように単数形では不定冠詞、複数形では定冠詞をつけて覚えるとよいでしょう。

  un œil, les yeux (「アンノイユ、レズュー」と発音)

「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形。「cœur」は男性名詞で「心」。

【由来】 紀元前 1 世紀のプロペルティウスによるラテン語の詩『エレギア』(仏語表記 Properce, Élégie )第3巻21の9-10行目に次のように書かれています(remacle.org によるフランス語訳と、それに基づく重訳を掲載)。

  • Non, Cynthie, il n'est plus de remède à mon âme
    Que de porter très loin et mes yeux et ma flamme.
    いや、キュンティアよ、もはや私の心にとって治療法はないのだ。
    私の目と私の炎をはるか遠くへと運び去る以外には。
    「Cynthie」は主人公である「私」が愛する女性、キュンティア。「il est」は「il y a」と同じ意味「ne... que ~」は「~しか...ない」。この que は 2 行目の冒頭にきています。「et A et B」は「A と B」(A の前にも et をつけるのは文語調)。「flamme (炎)」は恋焦がれる情熱の比喩。
    Quitard (1861) ; Maloux (2009), p.1 ; TPMA, Auge, 7 等で引用。

フランス語では、12 世紀後半(1180 年頃)の『百姓の諺』第 40 番に次のように書かれています。

  • Ce que euz ne voit, cuer ne deut.
    目が見ないものは、心は嘆き悲しまない。
    古フランス語で「euz」は「目」。「cuer」は「心」。「deut」は古い動詞 doloir (嘆き悲しむ)の直説法現在3人称単数(TCAF に活用あり)。ピノー p.24 で引用。

愛を歌う中世トゥルバドゥールの詩人たちもこの諺を語り継いでいったようで、13 世紀前半の Peyrols (Peirol) という詩人はオック語で次のような言葉を残しています。

  • Cor oblida qu'elhs no ve.
    目が見ないものを心は忘れる。
    Quitard (1861) ; TPMA, Auge, 7 等で引用。

1531年のボヴェルの諺集では、次のように現代の形にだいぶ近づいています。

  • Qui est loin de l'œil, il est loin du cœur.
    目から遠い人は、心から遠い。
    原文はHathiTrustで閲覧可能。現代の綴りに直して引用。

【音楽】 ギリシア人デミス・ルソスが Loin des yeux, loin du cœur. という曲を歌っているのを YouTube で聴くことができます。

【他のバージョン】 後半で loin の代わりに反対語の près を使って、次のように言うこともあります。

  • Loin des yeux, près du cœur.
    目から遠くに、心の近くに。
    「près de ~」は「~の近くに」という前置詞句扱いの熟語。

「愛する人が目の前からいなくなると、いっそう恋しくなる」というような意味です。
こちらのバージョンを好む人も多いようです。

【絵葉書】 「離ればなれでも、いつもあなたのことを思い出している」という意味で、この près du cœur (心の近くに)を使った絵葉書が多数存在します。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。


















⇒ やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 2 ( F ~ J )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 3 ( La ~ Lem )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 4 ( Les ~ Lo )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 5 ( M ~ P )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 6 ( Q )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 7 ( R ~ Z )





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