「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 II-3

少し難しい諺 3 ( N ~ Z )

Ne fais pas à autrui ce que tu ne voudrais pas qu'on te fît.

【訳】「人にされたくないことを他人にするな」

一番直訳に近づけると、「人が君にするのを君が望まないようなことを、他人にするな」。

論語の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」に似ています。

【由来】聖書の『マタイによる福音書』第7章12節にイエス・キリストの次のような言葉が出てきます。

  • 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
    (新共同訳)

これを裏返してできた言葉のようです。

【単語の意味と文法】「fais」は他動詞 faire(する)の現在2人称単数と同じ形ですが、主語がないので命令形。
これを ne... pas の否定で挟み、否定命令文で「禁止」の意味になっています(「~するな」)。
前置詞「à ~」(~に)は、ここでは「~に対して」という感じです。
「autrui」は「他人」。
「ce que」の「que」は関係代名詞で、「ce」が先行詞になると、「...なこと・もの」という意味

「voudrais」は vouloir(~したい、望む)の条件法現在2人称単数。
条件法は「非現実の仮定」を表しますが、ここもその一種で、「実際には望むはずがない」「まさか望みはしないだろう」という感じで条件法になっているといえるかと思います。

これを ne... pas で挟んで否定文になっています。
その後ろの que は、接続詞の que 〔英語の that〕で、「vouloir que... (...であることを望む)」〔英語の want that...〕というつながりです。「vouloir que...」の後ろは自動的に接続法になります
「on」は漠然と「人は」

「fît」は他動詞 faire(する)の接続法半過去3人称単数。
主節の動詞(voudrais)が条件法なので、主節が条件法だと「主節が過去」の場合と同様主節と同時のことを言おうとしても接続法半過去を使用します。

ちなみに、この文を関係代名詞を使わずに 2 つの文に分けると次のようになります(先行詞 ce は、関係代名詞を使わずに 2 つの文に分けると cela になります)。

  • Ne fais pas à autrui cela. (他人にそのことをするな)
  • Tu ne voudrais pas qu'on te fît cela. (君は人が君にそうすることを望まないだろう)
    このように、「ce」(2 つの文に分けた場合は cela)は「fît」(他動詞 faire が活用した形)の直接目的になっており、先行詞が直接目的(OD)になっているから関係代名詞は que を使用しているわけです。

【他のバージョン】 日常会話や平易な文では、「接続法半過去」は「接続法現在」で代用されるため、接続法半過去「fît」の代わりに faire の接続法現在「fasse」を使って、次のように言うこともあります。

  • Ne fais pas à autrui ce que tu ne voudrais pas qu'on te fasse.

また、tu ではなく vous を使って言うこともあります。 vous にすると「fais」が「faites」に変わり、「voudrais」(2人称単数)が「voudriez」(2人称複数)に変わります。

  • Ne faites pas à autrui ce que vous ne voudriez pas qu'on vous fît.
    (Ne faites pas à autrui ce que vous ne voudriez pas qu'on vous fasse.)

Nul n'est censé ignorer la loi.

【逐語訳】 「何人(なんぴと)も法を知らないとは見なされない」

【諺の意味】 「そういう法律が存在するとは知らなかったということを言い訳にして、その法律の適用を免れることはできない」

【単語の意味と文法】 「Nul ne...」で「いかなる人も...ない」「何人(なんぴと)も...ない」という意味
「est」は être の現在(3人称単数)。

「censé」は、少しフランス語ができる人なら、語尾が er で終わる第1群規則動詞の過去分詞の形で、 être + p.p. で受動態だと勘が働くと思います。
これは、もともと

  • censer A B (A を B だと見なす)

という使い方をする、第 6 文型をとる動詞のはずです。この A の部分が直接目的、 B の部分が属詞であり、直接目的語しか受動態の主語にはなれないため、 A を主語にして

  • A est censé B. (A は B だと見なされる)

となったと考えるのが自然です。

ただし、censer という語は、大辞典の語源欄に古語として載っている以外は辞書には載っておらず、ふつうは censé で「~と見なされている」という意味の形容詞だと記載されています。つまり、この動詞は censé という形しか存在せず、実を言うと、これを「動詞」と呼ぶことも本当は正しくないのかもしれません。
しかし、少なくとも論理的には、これは supposer A B (A を B だと想定する・見なす)などと同じ使い方をする動詞(ただし、受動態でしか使われない動詞)であり、上のように「censer A B(A を B だと見なす)」が受動態になって「A est censé B.(A は B だと見なされる)」に変わったものだと説明することができます。

「ignorer」は他動詞で「知らない、無視する」。
英語だと ignore は通常は「無視する」の意味しかありませんが、フランス語では普通は「知らない」の意味で使います。
「loi」は女性名詞で「法律、法則」。

【英語バージョン】英語では次のように言います。

  • Ignorance of the law excuses no man.
  • Ignorance of the law is no excuse.
  • Ignorance of law is no excuse.

これらは次のラテン語の諺の英語訳だとされています。

  • Ignorantia juris neminem excusat.
    (法律の不知は何人をも免責しない)

【由来】表題のフランス語の諺は、次のラテン語の諺をフランス語に忠実に訳したものだとされています。

  • Nemo censetur ignorare legem.

その他、ラテン語では次のような言い方もするようです。

  • Nemo censetur legem ignorare.
  • Nemo legem ignorare censetur.
  • Nemo jus ignorare censetur.

Oignez vilain, il vous poindra ; poignez vilain, il vous oindra.

【意訳】「百姓は 下手(したて)に出れば つけあがり 威圧をすれば 媚びへつらう」

【逐語訳】「百姓を撫でろ、(そうすれば)百姓はあなたを刺すだろう。百姓を刺せ、(そうすれば)百姓はあなたを撫でるだろう」。

または、「百姓にお世辞を言え、(そうすれば)百姓はあなたを痛めつけるだろう。百姓を痛めつけろ、(そうすれば)百姓はあなたにお世辞を言うだろう」

少し長いので、状況に応じて前半または後半だけを取り出して使うこともできます。特に、前半だけを取り出し、次のように言います。

  • Oignez vilain, il vous poindra.
    百姓は 下手(したて)に出れば つけあがる。

【単語の意味と文法】この諺は中世にさかのぼるため、poindre と oindre という単語も、昔の意味で理解する必要があります(ただし、古フランス語の知識がないフランス人でも、諺の意味は知っています)。

「vilain」は現代では主に「卑しい」「醜い」といった意味の形容詞で使われますが、古くは「農民」という意味の名詞でした。
ただし、次第に「田舎者」「下賎な者」という否定的なイメージが加わったので、むしろ「百姓」に近いといえます(現在普通に「農民」という場合は paysan または agriculteur を使用)。
古くからある諺なので無冠詞になっています。

前半の「Oignez」と後半の「oindra」の元の形 oindre は、 joindre と同じ活用をする不規則動詞です( j を省いた形)。
「Oignez」は oindre の現在2人称複数と同じ形ですが、ここは vous に対する命令形。「oindra」は oindre の単純未来3人称単数。
oindre は、通常は「聖油(香油)を塗る」という意味。フランス語訳聖書では、マグダラのマリア(と同一視されることが多いベタニアのマリア)がイエスに香油をかける場面でこの動詞が使われるので(『ヨハネによる福音書』第12章3節)、そのイメージが強い気がします。
ただし、古くはこの意味の他に「撫(な)でる」、「お世辞を言う」という意味もありました(古語辞典 Godefroy 等による。以下同)。

「poindra」は poindre の単純未来3人称単数。後半の「poignez」は poindre の現在2人称複数と同じ形ですが、ここは vous に対する命令形
poindre も joindre と同じ活用をする不規則動詞( j を p に置き換えた形)。
poindre は現代では主に自動詞で「現れる」という意味で使われますが(語源は恐らく「点」を意味する point に関連)、古いフランス語では「突き刺す」、「傷つける」、「苦しめる」という意味だったようです(語源は「拳(こぶし)」を意味する poing に関連)。

現代の主な意味古フランス語特有の意味
oindre   聖油(香油)を塗る 撫(な)でる、お世辞を言う
poindre   現れる 刺す、痛めつける、苦しめる

このように、oindre と poindre は、綴り(発音)は p があるかないかの違いですが、昔は意味が正反対だったため、2 つの言葉を対比して使った用例が複数確認されます(Godefroy による)。

【図版】17世紀中頃の J. ラニエの版画に描かれています。
真ん中に座っている人が、向かって左側の頭に香油をかけている人には刺され、向かって右側の刺している人には頭に香油をかけてもらっています。
(この版画の作者は、oindre を「香油をかける」という意味に取っています)。

【由来 1(中世)】1180年頃の『百姓の諺』 N°247 には、次のような形で記載されています。

  • Oigniez a mastin le cul, il vous chiera en la paume.
    下賎な者の尻を撫でろ、彼はあなたの手のひらに雲古をするだろう。
    この形は Morawski, N°1430 にも収録されています。chier は英語の shit に相当する言葉。当て字にしました。古い綴り・語法を含む(以下同)。

14世紀の写本にも以下のような形で確認されます(順に Morawski, N°1432, 1431, 725, 834 による)。

  • Oigni lo vilain, il te chiera an la main. (14世紀初頭)
    百姓を撫でろ、彼はあなたの手の中に雲古をするだろう。

  • Oingnez le vilain la paume, il vous chi[e]ra ens. (1317年頃)
    百姓を手のひらで撫でろ、彼はその中に雲古をするだろう。

  • Faites bien le vilain et il vous fera mal. (同)
    百姓に良く振舞え、そうすれば彼はあなたに悪く振舞うだろう。

  • Gratez al vilein la coille, e il vous chiera en la palme. (14世紀)
    百姓の金玉を掻け、そうすれば彼はあなたの手のひらに雲古をするだろう。

下品といえば下品ですが、いかにも中世らしい素朴さも感じられます。
このことわざも、さまざまなバリエーションが存在したところを見ると、生き生きとした形で、中世の民衆の間で広く流布していたことが窺えます。

【似た諺】次の諺と似ています(Rat (2009), p.21 の指摘による)。

【英語の諺】フランス語ほど使われないようですが、英語でも似たような諺があります(大塚・高瀬、p.80)。

  • Claw a churl by the tail (or breech), and he will beray (or file) your hand.
    下賎な者の尻を爪で掻け、そうすれば彼はあなたの手を汚すだろう。

初出は16世紀中期だそうですが(同書による)、フランス語から入ったのかもしれません。

【由来 2(ラブレー以降)】ここで取り上げているのと同じ形は、文献上は16世紀前半のラブレー『ガルガンチュワ』第32章において初めて登場するようです。

  • それもこれも、殿が、今の今まで、やつらを優しく取り扱われ、あまりにも親しくふるまってこられたがため。要は、甘く見られているのでございます。<田舎者、優しくすればつけ上がり、手荒にすればごまをする> と、ことわざにも申すではございませんか。
    日本語訳は宮下志朗訳『ガルガンチュア』ちくま文庫 p.254による(渡辺一夫訳の岩波文庫では p.156)

下って、1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録に「Oignez vilain il vous poindra.」という前半だけの形で収録されています(原文は Gallica で閲覧可能)。

1640年のウーダン『フランス奇言集』では、現在とまったく同じ形で収録されており、「農民にお世辞を言ってはならない。そうではなく、むしろ手荒に扱う必要がある」という意味だと書かれています。

アカデミー辞典』でも、第1版(1694) から最新の第9版(1992)まで、一貫して表題とまったく同じ形で記載されています。

【日本の似た諺】意味は異なるかもしれませんが、発想は「百姓は生かさず殺さず」に似ています。

On ne sait ni qui vit ni qui meurt.

【逐語訳】「誰が生き、誰が死ぬかはわからないものだ」

【単語の意味】「On」は漠然と「人は」の意味。むしろ訳さないほうが普通ですが、諺の場合はあえて「人は(~するものだ)」と訳すとうまくいくこともあり、ここも「人は誰が生き、誰が死ぬかはわからないものだ」と訳すこともできます。

「sait」は他動詞 savoir(知っている、わかる)の現在3人称単数。

「ni A ni B ne...」は「A も B も... ない」

「vit」は自動詞 vivre(生きる)の現在(3人称単数)と他動詞 voir(見る)の単純過去(3人称単数)がまったく同じ形になるので、文脈で判断するしかありませんが、ここでは vivre(生きる)の現在3人称単数。

「meurt」は自動詞 mourir(死ぬ)の現在3人称単数。

【文法】 2 回出てくる「qui」は、どちらも関係代名詞ではありません。「qui」の前に先行詞となるべき名詞が存在しないからです(また celui qui の celui の省略だとしても意味的に変になります)。
この 2 つの「qui」は、どちらも「誰が」という疑問代名詞(間接疑問)で、この文は直接疑問を使った次の文をベースにしています。

  • Qui vit ? (誰が生きるのか?)
  • Qui meurt ? (誰が死ぬのか?)

文の要素に分けると、「On」が大きな主語、「sait」が大きな動詞、そしてこれが他動詞なので、「ni qui vit ni qui meurt」全体が大きな直接目的で、全体として第 3 文型になっています(「ne」は副詞なので文の要素にはカウントしません)。

より正確には、 「qui vit」と「qui meurt」の 2 つが大きな直接目的(OD)と取ることもできます(2 つの「ni」は接続詞なので文の要素にはカウントしません)。

大きな直接目的(OD)の中を見ると、「qui」が小さな主語(S)、「vit」が小さな動詞(V)、次の「qui」も小さな主語(S)、「meurt」が小さな動詞(V)。どちらの動詞も自動詞なので、第 1 文型が 2 つ重なる形になっています。

【他のバージョン】「ni qui vit」と「ni qui meurt」を逆にして、次のように言うこともあります。

  • On ne sait ni qui meurt ni qui vit.

また、「ni A ni B ne...」の最初の ni は省略可能なので、次のように言うこともあります。

  • On ne sait qui vit ni qui meurt.
  • On ne sait qui meurt ni qui vit.

【由来】 15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°509)に次の形で収録されているのが早い用例のようです(古い綴りを含む)。

  • On ne sçait qui meurt ou qui vit.

16世紀のJean Gilles de Noyersの諺集(1558年版 p.71)に次のように書かれています。

  • Nul ne scet qui vit ne qui meurt.
    誰が生き、誰が死ぬかは、誰も知らない。
    この諺集は1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録にも採録されており、若干綴りが変わって「Nul ne sçait qui vit, ne qui meurt.」となっています(原文はGallicaで閲覧可能)。

「meurt」と「vit」のどちらを先にもってくるかは辞書類によって異なりますが、18世紀には「meurt」が先で「vit」が後ろというのが主流だったようです(例: Furetière ; De Backer ; Le Roux ; Diderot, La religieuse の冒頭3段落目あたり, etc.)。

アカデミー辞典』では、第1版(1694)~第7版(1878)では、次のように「meurt」が先で「vit」が後ろになっています。

  • On ne sait qui meurt, ni qui vit.

第8版(1932-1935)~第9版(1992)では、逆に「vit」が先で「meurt」が後ろになっています。

  • On ne sait qui vit ni qui meurt.

【言葉遊び】 「絵葉書」のページで、この諺をもじった「諺もどき」を取り上げています。

【日本の諺】 老少不定(ろうしょうふじょう)

  • 平安時代に浄土信仰の基礎を築いた恵心僧都源信の『観心略要集』に出てくる言葉で、『平家物語』その他を通じて広まったようです(『故事俗信ことわざ大辞典』等による)。

On ne saurait faire boire un âne qui n'a pas soif.

【逐語訳】「のどが渇いていない驢馬(ろば)に水を飲ませることはできない」

【諺の意味】「頑固な人に、したくないことを無理にさせることはできない」(TLFi
「その人が必要としておらず、欲してもいないことを、させることは難しい」(『アカデミー』)
「その気がなければ押しつけてもむだだ」(『小学館ロベール仏和大辞典』)

【使用例】教師が何とかして生徒に勉強させようと思っても、生徒がその気にならないからお手上げだ、という場合に使ったりします。

【単語の意味と文法】「On」は漠然と「人は」の意味で、むしろ訳さないほうが自然
「saurait」は savoir(知っている)の条件法現在 3人称単数。
「~(すること)を知っている」→「~するすべを心得ている」→「(能力として)~できる」という意味にもなります。
さらに、辞書で savoir を引くと、最後のほうに、否定文+条件法で「~できない(だろう)」という意味が載っています。
その意味の例文を見ると、pas (またはそれに類する言葉)は使わずに、すべて ne だけで否定になっていることに気づきます。この表現の場合は、ne の単独使用(ne だけで否定を表す)が用いられます。

「faire」は普通は他動詞で「する、作る」という、英語の do と make を併せた意味ですが、ここでは後ろに不定詞がきているので、英語の make と同様に「~させる」という「使役動詞」になります。
「boire」は「飲む」。普通は他動詞ですが、ここでは「飲み物を飲む、水を飲む」という自動詞として使っています。

「âne」は男性名詞で「驢馬(ろば)」。
『ディコ仏和辞典』などに「têtu comme un âne (ろばのように頑固な)」という表現が載っているように、頑固者というイメージもあります。
「qui」は関係代名詞
「a」は avoir(持っている)の現在 3人称単数。
「ne... pas」で否定
「soif」は女性名詞で「(のどの)渇き」。無冠詞なのは熟語だからで、avoir soif で(渇きを持つ→)「のどが渇いている」という意味。

【由来 1 (昔は牛だった)】 古くは、「âne (ろば)」ではなく「bœuf (牛)」でした。
Le Roux de Lincy(1842)によると、15 世紀末の Jean de la Véprie の諺集に次のような諺が収録されています(Littré でも引用)。

これと同じ形は、
  1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集
  1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録
  1611年のコットグレーヴの仏英辞典
などにも確認されます。

【由来 2 (牛からろばへ)】 ざっと調べたところ、17 世紀に「牛」から「ろば」に変わったようです。1640 年のウーダン『フランス奇言集』には、ほぼ次の形で収録されています(現代の綴りに直して引用します)。

  • On ne saurait faire boire un âne s'il n'a soif.
    (ろばがのどが渇いていないなら、ろばを飲ませることはできないだろう)

17 世紀中頃の J. ラニエの版画では、嫌がるろばを引っ張っている絵が描かれており、版画の下に「C'est folie de faire boire un âne s'il n'a soif.」(ろばがのどが渇いていないなら、ろばを飲ませ〔ようとす〕るのは馬鹿げたことだ)と書かれています。

17 世紀末に相次いで出た仏仏辞典では、軒並み上記ウーダンと同じ形が採用され、
  1690 年のフュルチエールの辞典(asne の項目)
  1694 版のリシュレの辞典(soif の項目)
  1694 年の『アカデミーフランセーズ辞典』第 1 版
などで同じ形となっています。

アカデミー』では第 5 版までこの形が踏襲されたのち、第 6 版からは、「s'il n'a soif」を、表題と同じ「qui n'a pas soif」に変えた形も同時に収録されるようになります。
両者が並存する状態が第 8 版まで続いたのち、最新の第 9 版では「qui n'a pas soif」という形だけになっています。

【他のバージョン】 現在では、簡略化した次のような形で使われる頻度が高くなっているようです。

  • On ne fait pas boire un âne qui n'a pas soif.
    (直訳:人は、のどが渇いていないろばに水を飲ませはしない)

【英語の諺】 英語では「馬」が使われます。

Qui ne dit mot consent.

【訳】「黙っている者は同意している」
(黙っている者は同意していると見なされる)

【使い方】例えば会議などで、列席者の反応がない場合、議長(とりまとめ役)が「異論はありませんか。黙っておらるのでしたら、異論はないものと見なしますが、よろしいですか」というような意味で、この諺を引き合いに出すことがあります。

【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」
「dit」は他動詞 dire(言う)の現在3人称単数。
「mot」は男性名詞で「言葉」(英語 word に相当)。

「ne」は普通は ne... pas でセットで否定になるので、pas がないということは、虚辞の ne か、または ne の単独使用(ne だけで否定を表す)かの、どちらかです。
ここでは虚辞の ne を使う理由がないので、消去法ne の単独使用(ne だけで否定を表す)ということになります。

小学館ロベール仏和大辞典』で mot を引くと、熟語欄に次のように出ています。

  ne pas dire un mot = ne dire mot 「一言もいわない」

ただし、逐語訳とは異なる特別な意味になっているわけではないので、厳密な意味での「熟語」とは言いがたい気もします。ですから、例えば『ロワイヤル仏和中辞典』で mot を引いても、特に熟語としては載っていないのも当然だともいえます。しかし一方で、mot の前に冠詞がついておらず無冠詞になっているのは熟語だからだともいえます。
要するに、「この表現の場合は、mot を無冠詞にすると同時に、pas を省略して ne だけで否定を表して使われることも多い」ということを伝えるために、前記の辞典では熟語欄に載っているのでしょう。

なお、似た表現に、

  sans mot dire (一言も言わずに)

という熟語があり、こちらは多くの辞書に載っています。

「consent」は接頭語 con を省けば sent となりますが、これは他動詞 sentir(感じる)の現在です。接頭語 con は「一緒に」という意味なので、con (一緒に)+ sentir (感じる)で consentir は「共感する」という感じですが、辞書には「同意する」と載っています。
他動詞ですが、ここでは例外的に直接目的が省略されています。

一番直訳調に近づけると、「一言も言わない者は同意している」。

【他のバージョン】法律の分野では、逆に「明確に同意の意思を示さなければ、同意したことにはならない」という意味で、ne... pas を挟んで否定にした、次のような表現が使われます。

  • Qui ne dit mot ne consent pas. (黙っている者は同意していない)

【由来(ギリシア・ラテン語)】 紀元前5世紀のギリシアの悲劇作家エウリピデスの『オレステス』に「Le silence dit oui.」(沈黙は「そうだ」と言っている)、また『アウリスのイピゲネイア』に「Le silence est un aveu.」(沈黙は白状である)という言葉が出てきます(後者は『ギリシア・ローマ名言集』、p.48 に収録されています)。

ラテン語では、ローマ教皇ボニファティウス 8 世(在位 1294-1303 年)の言葉として有名になったようです。

【由来(フランス語)】 フランス語では、これよりもう少し早く、13世紀後半に成立した『薔薇物語』後篇に出てきます。登場人物が長々と話をしながら、話し相手が黙って自分の話に耳を傾けているのを見て、心の中で自分に言い聞かせる言葉として出てきます。

  • 「何も言わないのは同意している証拠、喜んで聞いているのだから、心配せずに何を話したってかまやしない」。
    日本語訳は篠田勝英訳、ちくま文庫『薔薇物語』下巻 p.34 による。

中世の諺集にも、次の形で確認されます(Morawski, N°140)。

  • Assez otroie qui se taist.
    黙っている者は十分に同意している。

1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本では Qui se tait est veu consentir. (「黙っている者は同意していると見なされる」。「veu」は vu に同じ)と書かれています(原文は HathiTrust で閲覧可能)。

Gilles de Noyers の諺集(1558年版 p.15)には、上記の中世の諺集とほぼ同じ Assez otroit, qui mot ne dit. という形で載っています。
この同じ諺集は、1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録にも収録されていますが、ここでは Assez consent qui ne dit mot. という形に変わっています。

1690年のフュルチエールの辞典の consentir の項目にも Qui se tait semble consentir. (黙る者は同意すると思われる)という形で収録されています。
『アカデミー辞典』 では、第1版(1694)には Qui se taist, consent. (黙る者は同意する)という形で見え、第2版(1718)になって表題と同じ Qui ne dit mot, consent. という形が登場します。第8版(1932-1935)からはコンマが取れて Qui ne dit mot consent. となっています。

【英語の諺】上記のラテン語をもとに、英語では次のように言います。

  • Silence means consent.
  • Silence gives consent.

Rien ne sert de courir, il faut partir à point.

【逐語訳】「走っても無駄だ、ちょうどよい時に出発する必要がある」

【出典】この諺は、ラ・フォンテーヌ『寓話』 第6巻第10話「うさぎと亀(Le lièvre et la tortue)」の冒頭に出てきます。これは次のような話です。

  • うさぎと亀が競走することになった。うさぎは馬鹿にして、「まだ大丈夫」と思ってすぐには出発せず、他のことに気を取られていたが、いつのまにか亀がゴール寸前に達しているのを見て、あわてて飛び出したが間に合わず、亀に負けた。
    原文は jdlf.com などで閲覧可能。この話自体はイソップに由来します(中務哲郎訳『イソップ寓話集』岩波文庫 p.174)。

いつも学校や職場に遅刻しそうになる人にとっては、耳の痛い諺かもしれません。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【使い方】もう少し抽象的に「焦っても仕方ありません。まずは着実に一歩を踏み出すことが重要です。」といった意味でよく使われます。

ロベールの表現辞典には「あわてても無駄だ(成功の条件が揃っていないのなら)」という意味だと書かれています(Rey/Chantreau, p.263)。

【単語の意味】 「Rien」は英語の nothing に相当する代名詞ですが、英語と違って否定の ne と一緒に使います。ここでは「Rien」が文の主語になっています。
「sert」は servir(役に立つ)の現在3人称単数。
「courir」は自動詞で「走る」。
「il faut」は「~する必要がある」
「partir」は自動詞で「出発する」。
「point」は男性名詞で「点」。ただし、ここでは無冠詞なので推測できるように熟語で、「à point」で「ちょうどよい時に」という意味。

【文法】この諺は、短い文が2つ積み重なった「重文」になっています。
servir は他動詞だと「仕える・奉仕する、食事を出す」などの意味です。この名詞の形が service(奉仕・サービス)で、英語にも同じ綴りで入っています。
しかしもう一つ、servir には間接他動詞として、

  • servir à ~「~に役立つ」

という意味もあり、むしろこちらの意味のほうが重要です。例えば『ロワイヤル仏和中辞典』の servir の à と一緒に使う項目から、以下に例文を 3 つ取り出してみます。

  • Ça ne sert à rien. 〔例文 1 〕
    それは何の役にも立たない。
    Ça」は漠然と「それ」。「sert」は servir の現在3人称単数。

「Ça(それ)」が具体的に指すものを明示する場合は、例えば次のように言います。

  • Il (Ça) ne sert à rien de continuer. 〔例文 2 〕
    続けても無駄だ。
    逐語訳すると「続けることは何の役にも立たない」。「continuer」は自動詞で「続ける」。「Il」(会話では Ça)は仮主語で、「de continuer」が意味上の主語。「de ~」が意味上の主語になるという点で、「Il est ~ de ~」の構文に似ています。

文章語だと、これは次のように言うこともあります。

  • Rien ne sert de continuer. 〔例文 3 〕
    続けても無駄だ。

この最後の形が、この諺の「Rien ne sert de courir」(走っても無駄だ)の部分で使われています。ちなみに、上の例文 2 の形を使うと、この部分は次のようになります。

  • Il (Ça) ne sert à rien de courir.
    走っても無駄だ(走ることは何の役にも立たない)

【似た諺】 少しずれますが、次のような諺が似ています。

【余談】 1966 年のケーリー・グラント主演のアメリカ映画 Walk, Don't Run (邦題「歩け走るな」)は、東京オリンピックを舞台にした「競歩」をテーマにした映画ですが、フランスではこの諺を使った Rien ne sert de courir (走っても無駄だ)という題名で公開されました。

Rira bien qui rira le dernier.

【逐語訳】「最後に笑う者がよく笑う」

【諺の意味】この諺に関しては、『ディコ仏和辞典』の定義が優れています。同辞典には次の2つの意味が載っています。

  • 最後に勝つのが本当の勝者
  • 今に見ているがいい

前者は、いわば一般的・客観的な真理として第三者の立場から述べています。または、最終的な勝ち負けがついてから、全体を見通して言っている感じです。

これに対して、後者の「今に見ているがいい」というのは、まだ最終的な勝ち負けがついていない(と当事者が自分では思っている)状態で、相手から笑いものにされた場合に、いつか自分のほうが相手を笑ってやる(見返してやる)、という意味で、心の中で思ったり、つぶやいたりする形で使われます。
仏仏辞典 TLFi にも、「L'affaire aura des suites, j'aurai ma revanche.」(このままでは終わらないぞ、仕返しをしてやる)という意味だと書かれています。
「今は笑っているが、あとで思い知らせてやるぞ」というような意味です。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【図版】この諺を扱った絵葉書を見ると、使い方がわかります。

【単語の意味】2回出てくる「Rira」は、どちらも自動詞 rire (笑う)の単純未来3人称単数。
単純未来なので「笑うだろう」と訳したくなるかもしれませんが、単純未来はむしろ「だろう」をつけないで訳したほうがうまくいく場合もあります
「bien」は副詞で「よく」。
「dernier」はもともと「最後の」という意味の形容詞ですが、ここでは「最後のもの」という名詞。「le dernier」が「最後のものとして」という感じで(つまり「主語と同格」として)使われており、要するに「le dernier」で副詞的に「最後に」という意味になります。
例えば『ロワイヤル仏和中辞典』や『ディコ仏和辞典』で dernier を引くと、最後のほうの名詞の「最後のもの」という意味の例文に、「arriver le dernier 最後にやってくる」という例が載っています。これと同じ使い方です。

【文法】倒置になっています。普通の語順に直すと、

  • Qui rira le dernier rira bien.

この「Qui rira le dernier」全体が大きな主語、その後ろの「rira」が動詞、「bien」が副詞で、S + V の第1文型です。動詞に比べて主語が長い(頭でっかちである)ために倒置になっています。
「Qui」は関係代名詞で、 celui qui の celui の省略
つまり、最もわかりやすい形に直すと、

  • Celui qui rira le dernier rira bien.

このうち関係詞節(カッコに入る部分)は「qui rira le dernier」で、これが先行詞「Celui(~な人)」に掛かっています。

【英語の諺】 He who laughs last laughs best.

Si jeunesse savait, si vieillesse pouvait.

【逐語訳】 「もし若者が知っていたらなあ、もし老人ができたらなあ」
(もし若者に知力が備わっていたらなあ、もし老人に体力が備わっていたらなあ)

【諺の意味】 若者は無知や経験不足のために失敗することが多い。
年寄りは経験は豊富だが、体力が欠けているために知っていても実行できない。

【単語の意味】 「jeunesse(若者)」と「vieillesse(老人)」は、どちらも集合名詞
「savait」は savoir(知っている)の直説法半過去3人称単数。
「pouvait」は pouvoir(できる)の直説法半過去3人称単数。

【文法】 典型的な「現在の事実に反する仮定」の表現、

  「Si +直説法半過去, 条件法現在」

の前半の従属節(「もし...だったとしたら」)の部分だけ2つ並んで出てきています。

主節(「...なのになあ」)の部分は存在しませんが、Si の後ろの直説法半過去は、実質的には条件法現在を意味するので、これだけで「非現実の仮定」になります。
つまり、実際には「若者は知らない」し、「老人はできない」わけです。

「savoir(知っている)」は他動詞なのに例外的に直接目的が省略されており、「何を」知っているのかが明示されていません。
「pouvoir(できる)」はもともと準助動詞ですが、本動詞がなく、「何を(何が)」できるのかが明示されていません。ここでは、いわば pouvoir が本動詞として使われています(辞書で「pouvoir」を引くと、後ろのほうに「不定詞を伴わない」用法が載っているはずです)。

ちなみに、主節(「...なのになあ」)の部分を色々と補って言うことも可能ですが、かえって意味が狭まってつまらなくなる気がします。このままのほうが含蓄があります。
(ただ、この諺の「含蓄」を味わえたら、もう若者ではない証拠かもしれません)

【他のバージョン】「jeunesse」と「vieillesse」という 2 つの女性名詞は、古くからある諺なので無冠詞になっていますが、普通の文であれば、いずれも定冠詞 la がつくはずです。そのため、この諺も次のように言う場合もあります。

  • Si la jeunesse savait, si la vieillesse pouvait.

【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵があります。
また、 この諺を扱った絵葉書があります。

【由来】 16世紀の人文主義者アンリ・エチエンヌの『初穂』(1593刊)、p.173 に見える言葉Maloux (2009), p.291 ; Rey/Chantreau, p.520 で指摘)

ただし、アンリ・エチエンヌが言い出した言葉というわけではなく、16世紀末当時の時点で、すでに存在していたようです。この本の中で、アンリ・エチエンヌは「もし若者が知っていたら、もし老人ができたら」の後ろに、続けて「罪が増える代わりに、徳が世界を支配することだろうに」と追加されている昔の本を読んだことがある、と述べているからです。(2013/10/24追記)

Si le ciel tombait, il y aurait bien des alouettes prises.

【訳】 「もし空が落ちたとしたら、多くの雲雀(ひばり)がつかまえられるだろう」

【使い方】 ある人が「もし... だったらなあ」と馬鹿げた空想をした時に、すかさずこの諺を口にする、と各種仏仏辞典の説明に書かれています。
「それは『空が落ちたらなあ』と言うようなものだよ」「空想なら何とでも言えるさ」という感じです。

【単語の意味】 「Si」は接続詞で「もし」。
「ciel」は「空」。
「tombait」は自動詞 tomber (落ちる)の直説法半過去。
「aurait」は avoir の条件法現在
ここは典型的な「現在の事実に反する仮定」の表現である
  「Si +直説法半過去, 条件法現在」
が使われています。
「bien des ~」で「多くの~」。「beaucoup de ~」と同じ意味(bien des alouettes = beaucoup d'alouettes)。
「alouette」は女性名詞で「雲雀(ひばり)」。
「prises」は他動詞 prendre (つかまえる)の過去分詞 pris に女性複数の -es がついた形。直前の「alouettes」に一致しています。
過去分詞は典型的には「~された」と訳しますが、ここでは内容的に過去の意味は入っていないので「~される」(つかまえられる)のほうが適当です。

一番直訳調に近づけると、「もし空が落ちたとしたら、つかまえられる多くの雲雀(ひばり)がいることだろう」。

なお、雲雀は特に昔は食用として好まれたようです。

【由来】 フランス語では、16世紀ラブレーの『ガルガンチュワ』第 11章にも出てくる他、『第四之書』第 17章では次のように出てきます。

  • 噂によると、雲雀は空が崩れ落ちるのをひどく恐れているとのことであるが、つまり、空が落ちてきたら、どの雲雀も皆つかまってしまうからである。
    空の落ちるのを、皆、ライン河の近くに住むケルト人たち、即ち、気高くて、勇ましく、尚武の気風に富み、獰猛果敢な、連戦連勝のフランス人のことだが、これらの人々も恐れたものだった。(...)
    アリストテレスの『形而上学』第五巻の明記するところによれば、古代人の考えだと、天や地はアトラスの柱で、しっかりと支えられ突っかえ棒がしてあるとのことだが、もしそうでないとしたら、天も地も同じく恐ろしいものだ、と思われていたのである。

    (渡辺一夫訳)

ここでは「取り越し苦労」や「杞憂(きゆう)」がテーマとなっています。

仏仏辞典『アカデミーフランセーズ辞典』では、第 1 版(1694)~第 8 版(1932-1935)までは収録されていますが、第 9 版(1992)には収録されていません。
「非現実の仮定」の例文としては最適なのですが、現在はあまり使われなくなっているようです。

【英語の諺】 If the sky falls, we shall catch larks.
「空が落ちればヒバリがとれるであろう。棚からぼた餅は落ちて来ない。とても実現できそうにない、あるいは突拍子もない計画を提案する人に対する冷やかしの返事」(『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.1625)

【似た諺】 Avec des si, on mettrait Paris en bouteille.
(いくつもの『もし』があれば、パリだって瓶の中に入れられるだろう)


Souvent femme varie, bien fol est qui s'y fie.

【逐語訳】「しばしば女は心変わりする。女を信用する者は大馬鹿だ」

【似た諺】「女心と秋の空」

【由来】16世紀の国王フランソワ 1 世(在位:1515-1547 年)の言葉だとされています。恋の駆け引きで苦い体験を味わったフランソワ 1 世が、自分が築かせたシャンボール城(レオナルド・ダ・ヴィンチも設計に関与したとされる、ロワール渓谷最大の古城)のガラスの窓に、指輪のダイヤモンドでこの言葉を刻んだというエピソードが有名です(Maloux (2009), p.195 でも引用されています)。

このエピソードの元になったのは、フランソワ 1 世と同時代のブラントーム(Brantôme, 1540 頃-1614)の『ダーム・ギャラント』(Les Vies des dames galantes )という本です。
日本語訳では副題が「艶婦伝」(小西茂也訳)または「好色女傑伝」(鈴木豊訳)となっていて、まさに副題どおりの話を集めた本です。
この本には、著者ブラントームがシャンボール城を訪れた時に、フランソワ 1 世の部屋の窓の「脇(横)」に、

  Toute femme varie. (どの女も心変わりする)

と記されているのを見た、と書かれています(原文は projet Gutenberg で閲覧可能)。
もとは 3 語だけのシンプルな言葉で、だいぶ表題の形とは異なっています(ガラスに指輪で刻んだという話は出てきません)。

この話に尾ひれをつけたのは、1 世紀後のジャン・ベルニエという人のようです。その著書『ブロワの歴史』(Jean Bernier, Histoire de Blois, 1682 年刊。ブロワはロワール川流域の地方名)では、「愛の駆け引きで悔しさを味わったと思われる」フランソワ 1 世が、「窓ガラスに指輪のダイヤモンドで」次のように記したと書かれています(Google Books, p.85 で閲覧可能)。

  Souvent femme varie,
  Mal habil qui s'y fie.

2 行の詩の形になっています(音節の数が同じで、脚韻を踏んでいます)。
「Mal habil」は古語で「頭が悪い、馬鹿な」という意味です。フランソワ 1 世の気持ちを代弁すれば、「女を信用するとは、私はなんと大馬鹿だったのだろう」という意味でしょう。
この「Mal habil」の部分が、のちに「bien fol est」に変わったようです。

19 世紀の文学作品でも、この言葉とエピソードは繰り返し取り上げられます。
なかでも、フランソワ 1 世が主要な登場人物の一人として出てくるヴィクトル・ユゴーの戯曲『王は愉しむ』(1832 年初演。ヴェルディのオペラ『リゴレット』の原作)では、フランソワ 1 世のせりふとして、表題と同じ形で合計 3 回出てきます。

また、同じユゴーの戯曲『マリー・テュドール』(1833 年初演)でも、「女心は謎めいており、これについてはフランソワ 1 世もシャンボール城のガラスに次のような言葉を書いている」として、表題と同じ形で引用されています。

その他、スタンダール『赤と黒』(1830 年)第 23 章には表題とほぼ同じ言葉が出てくるほか、アレクサンドル・デュマ『モンテクリスト伯』(1844-1846 年)第 5 巻第 8 章にも、「Souvent femme varie, a dit François Ier. (しばしば女は心変わりする、とフランソワ 1 世は言った)」という言葉が出てきます。

【単語の意味と文法】 2つの文を積み重ねた「重文」になっています。
「Souvent」は副詞で「しばしば」。
「femme」は女性名詞で「女性」。諺なので無冠詞になっています。
「varie」は自動詞 varier(変化する)の現在3人称単数。ここでは、内容的に「心変わりする」という意味に取れます。

後半部分は倒置になっており、普通の語順に直すと次のようになります。

  Qui s'y fie est bien fol.

「Qui s'y fie」全体が大きな主語になっており、短い文の中では比較的主語が長いので倒置になっています。また、「Qui s'y fie」全体が(実際に名詞節になっているので)大きなひとまとまりの名詞だと考えれば、これを文末に持ってくることで一種の体言止めの効果を狙ったために倒置になったとも考えられます。

「Qui s'y fie」から見ていくと、「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」
「fie」は他動詞 fier の現在3人称単数。この動詞は必ず再帰代名詞 se とセットで、前置詞 à を伴って使われるので、次のように一種の熟語と捉えるしかありません

  se fier à ~ (~を信用する)

ちなみに、fier は女性名詞 confiance(信頼)と語源が同じです。

この「à ~」の部分が、中性代名詞 y に置き換わっています。
通常は y は「à + 物」に置き換わりますが、人を指すこともあります。例えば『ロワイヤル仏和中辞典』で y を引くと、「文脈により人を指すことが明らかな時には y の使用も可能である」と書かれ、たまたま同じ fier を使った例文が載っています。
この諺では、「y」は「femme(女)」を指します。「y」を使わないで(上記の倒置ではない語順にした文を)書き換えると、次のようになります(わざと諺どおりに無冠詞にしておきます)。

  Qui se fie à femme est bien fol. (女を信用する者は大馬鹿だ)

「bien」は副詞で、ここでは「大いに、非常に、まったく」。

「fol」は形容詞 fou(気違いの、馬鹿な)の男性第二形(母音で始まる男性名詞の前につく時の形)ですが、古くは、これが普通の男性形でした。つまり、古くは男性単数が fol 、女性単数が folle だったのが、ある時期に男性単数の fol は fou という形に変化し、古い fol という形は男性第二形としてのみ残ったわけです。

この諺の「fol」は、(母音で始まる男性名詞の前についているわけではないので)男性第二形ではなく、単なる古語法による男性形です。
新フランス文法事典』 p.225 では、次のように説明されています。

  • 名詞古形 fol は 17 世紀に既に古くなった。諺 Souvent femme varie. Bien fol est qui s'y fie. 「女心はよく変わる。それを信じる者は大馬鹿だ」に残るほか、擬古趣味で あるいは冗談に用いられる。

ただし、この諺の「fol」は、名詞というよりも、むしろ形容詞だともいえます。いずれにせよ、現代では「fol」ではなく「fou」となるところです。

【諺もどき】日本の「女心と秋の空」という諺は、江戸時代には「男心と秋の空」の方が主流だったようですが(『故事俗信ことわざ大辞典 第二版』による)、フランス語でも、「femme(女)」の代わりに、もじって「homme (男)」とすることも可能です。

  • Souvent homme varie, bien fol est qui s'y fie.
    しばしば男は心変わりする。男を信用する者は大馬鹿だ。

その他、この「femme」の位置に他の言葉を入れれば、この諺をいじることができます。例えば、

  • Souvent Sarko varie, bien fol est qui s'y fie.
    しばしばサルコは心変わりする。サルコを信用する者は大馬鹿だ。

「Sarko(サルコ)」というのは「Sarkozy(サルコジ大統領)」の略称です。この場合、「ころころ意見を変える」という感じになります。

Tant va la cruche à l'eau qu'à la fin elle se casse.

【逐語訳】 「壺を何度も水汲みに持って行くと、ついには割れる」

【諺の意味】文字通りの意味は、「何度も壺を使っていると、いつかは不注意でぶつけて割ってしまうものだ」。
自然と磨耗して壊れるのではなく、うっかり何かの拍子でぶつけて壊すイメージです。
ここから、「あまり頻繁に危険に身をさらしていると(または何度も同じ間違いを犯していると)、ついには身を滅ぼすことになる」という意味で使われます。

【単語の意味と文法】この諺では、「呼応の表現」の「tant... que...(とても(多く・激しく)... ので...)」という表現が使われています。
「va」は自動詞 aller(行く)の現在 3人称単数。
倒置になっており、「va」の主語が「la cruche」です。

女性名詞「cruche」は「壺(つぼ)」。
本来は「甕(かめ)」と訳すべきかもしれませんが、現実に日本で「かめ」というものをあまり見かけなくなってきていることを踏まえ、広い意味での「壺」としておきます。
この諺は 12世紀から確認される古い諺なので(後述)、もとは「壺」は(陶器ができる以前の)土を焼いてできた容器を指します。

「eau」は女性名詞で「水」。
ここでは、水のある場所、つまり「水辺、水場」という感じです。

前半(l'eau まで)を、tant を除いて倒置でない語順に戻すと次のようになります。

  la cruche va à l'eau (壺が水に行く)

これは(少なくとも現代のフランス語から見ると)少し舌足らずな表現です。
しかし意味的には「壺を水汲みに持って行く」と解釈されます。

後半(à 以降)を見ると、「fin」は女性名詞で「終わり、目的」。
ここでは「à la fin」で「ついには、最後には」という意味の熟語。
「elle」は「la cruche」を指します。
「casse」は他動詞 casser(割る)の現在 3人称単数。その直接目的が再帰代名詞の「se」なので、「自分を割る→割れる」という自動詞的な意味になります。

あえて全体を直訳すると、「とても多く壺が水に行くので、ついには壺は割れる」。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【由来】 12世紀後半の諺集『百姓の諺』には 2 回出てきます(順に N°231, 216)。

  • Tant va li poz a l'iaue qu'il brise
    逐語訳:「頻繁に壺が水場に行くと、壺は割れる」
    古いフランス語で、「li」は定冠詞。「poz」は pot (壺)。「iaue」は eau(水)。
    「brise」の不定詞 briser も casser と同じ「割る」という意味。
    Morawski, N°2302 で引用されています。


  • Tant va li poz a l'iaue qu'il brise le col
    逐語訳:「頻繁に壺が水場に行くと、壺は首を割る」
    「col」は「(壺の)首の部分」。

同じ12世紀後半の『狐物語』では、悪巧みを重ねてきたルナール(狐)に対して、王様が次のような言葉をかけます。

  • お前は(...)世間の皆をだますことばかり考えてきた。運命の輪がお前に都合よく回っている間、わしらにしたい放題をしてきた。しかし世間じゃこう言っている、大喜びの後は大不幸、そよ風の後は大嵐、水甕(みずがめ)もしまいにゃ割れる、とな。さあルナール、今度はお前の甕が割れる番のようじゃなあ。
    鈴木・福本・原野訳、岩波文庫、p.216、下線引用者。
    原文は Tant va pot à l'eve que brise となっています。「eve」は eau (水)。

そのほかにも中世には多数のフランス語のバージョンがあり、非常によく使われていたことが窺われます。

15世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの「諺のバラッド」にも出てきます(鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』、岩波文庫、p.215 から引用)。

  • 壺は 水汲みに行き過ぎると 毀れ、
    原文は Tant va le pot a l'eaue qu'il brise.

1665年初演のモリエールの喜劇『ドン・ジュアン』では、作品の最後のあたり(第5幕第2景)で、放蕩三昧を重ねてきたドン・ジュアンを従僕スガナレルがいさめる場面でこの諺が出てきます。

  • だんなさま、こんどというこんどは我慢がなりません、なんとしても言わしていだきます。(...)たびたび重なればなんとやら、だんなさま、だれかの書いたものに、うまい言葉があるじゃございませんか。
    鈴木力衛訳、岩波文庫、p. 91、下線引用者。達意の訳ですが、下線部分の原文は tant va la cruche à l'eau, qu'enfin elle se brise となっています。

しかし、この言葉にも行いを改めなかったドン・ジュアンは、雷に打たれて死んでしまいます。

【壺が割れる比喩】この『ドン・ジュアン』の初演と同じ1665年に刊行されたオランダの詩人ヤコプ・カッツの『古今の鑑(かがみ)』という寓意詩集の中に、この諺を用いた次のような詩があり、「壺が割れる」ことが「処女を奪われる」比喩として出てきます(森洋子『ブリューゲルの諺の世界』 p.536 から引用)。

  • わたしは何度も、幾日も幾日も
    この壺で井戸の水を汲み、運んだ。(...)
    しかし、この近辺に乱暴な腕白小僧たちが現われるようになり(...)
    わたしに向かって飛びかかってくる(...)
    そのためわたしの壺から水が漏れる
    少年はもう一度ぶつかる
    とうとうわたしの壺は壊れてしまう
    ああ、そこら中に壺の破片が散らばった。
    わたしの初めての喜びを逸することになった(何と悔しいこと!)
    こうして悲しみがわたしの魂の中を突き刺す
    その上、ああ、わたしはみんなにからかわれるのだ。

このように、この詩では少女が少年に無理やり処女を奪われることが暗に描かれており、「壺」は「処女性」の比喩として出てきます。

【絵画】18世紀フランスの画家ジャン=バティスト・グルーズの代表作「割れた壺」(La cruche cassée, 1771, Wikipédia fr. などで閲覧可能)は、この諺を意識したもので、右腕に持った割れた壺、はだけた胸、茫然とした表情などによって、「失われた純潔」を表現していると考えられています(Cf. ルーヴル美術館による解説)。

【昔の歌】このグルーズの絵にヒントを得て作ったと思われるような歌があります。
⇒ 「割れた壺を持った少女」の歌詞

【壺が満たされる比喩】18世紀フランスのボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』(第1幕第11場)では、「壺」がお腹(または子宮)のイメージと重なって、この諺が次のように出てきます。

  • バジル「(...)あの娘(こ)につらい目を見せることになるぞよ、甕(かめ)と水でもたびたび会えば!
    フィガロ「なんだ! 古めかしい諺を持ち出す阿呆もねえもんだ! 物識り顔もすさまじい、お国柄の諺のわけがわかっているのか? なんぼ甕(かめ)でもたびたび汲めば、しまいにゃ...」
    バジル「甕のお腹(なか)がふくれ出す
    フィガロ「(退場しながら)まんざら阿呆でもねえぞ、此奴(こいつ)は、まんざら阿呆でも!」
    辰野隆訳『フィガロの結婚』岩波文庫 p.45から引用(下線引用者)。ここに出てくる「お国柄の諺」については、詳しくは「諸民族の知恵」についてのページを参照。

当意即妙に諺をもじったのを、フィガロが感心しているわけですが、下線部分の原文と逐語訳は次のとおりです。

  • Tant va la cruche à l'eau qu'à la fin...
    elle s'emplit.
    壺を何度も水汲みに持って行くと、ついには...
    満たされる。
    「emplit」は他動詞 emplir(満たす)の現在 3人称単数。これに再帰代名詞 s' がついて、 s'emplir で「(容器などが液体で)満たされる」。原文は Wikisource でも閲覧可能。

諺の「割れる」の代わりに、劇のせりふでは「満たされる」となっています。
これは、詳しい辞書(『小学館ロベール大辞典』や TLFi )を引くと載っていますが、「満たされる」 (s'emplir) という言葉には俗語で「(女が)はらむ、妊娠する」という意味もあり、また「壺」には俗語で「馬鹿な女」という意味もあることを踏まえた表現で、「壺が満たされる」という表面的な意味に、「馬鹿な女が妊娠する」という裏の意味が掛けられています。

つまり全体として、「馬鹿な女(=壺)が頻繁に男性と接触している(=危険に身をさらしている)と、ついには妊娠する(=水で満たされる)破目に陥る」というような意味です。
単語を一語変えただけの、巧妙な言葉遊びです。

【英語】 英語では次のように言います。

  • The pitcher goes so often to the well that it is broken at last.
    (水差しはとても頻繁に井戸へ持っていかれるので、ついには壊れてしまう)
    『オックスフォード諺辞典』第5版p.250では、英語の諺の初出はフランス語よりも遅く1340年となっており、その起源として、上の【由来】で取り上げた『狐物語』中のフランス語とほぼ同じ形のものが最初に記載されています。

【図版】 この諺を扱った絵葉書があります。

ミシュランの「タイヤのイラスト劇場」でも、この諺が使われています。

Tel est pris qui croyait prendre.

【逐語訳】 「つかまえると思っていた者がつかまえられる」
(だますと思っていた者がだまされる)

【諺の意味】 他人を罠(わな)に陥れようと考えていた者が、逆に自分でしかけた罠に引っかかる。

【単語の意味と文法】 結論からいうと、主語が長くなるのを避けるために、通常の語順ではなくなっています。普通の語順に戻すと次のようになります。

  • Tel qui croyait prendre est pris.

「Tel qui croyait prendre」全体が大きな主語です。動詞に比べて主語が長い場合は、倒置になりやすい傾向がありますが、倒置にしなくても、関係代名詞が含まれているために主語が長くなっている場合は、先行詞と関係詞節を切り離し、関係詞節だけを後ろに置くことで、主語を短くする場合もあります。ここも、関係詞節である「qui croyait prendre」だけを後ろに持ってきたわけです。

「Tel」は「そのような」など、色々な意味がありますが、ここでは形容詞ではなく代名詞。たとえば『ロワイヤル仏和中辞典』で tel を引くと、一番最後の不定代名詞の項目に載っている「《文》 《無冠詞で》 ある人」という意味に該当します。
つまり、Tel qui は Celui qui とほぼ同じ意味です(Cf. 朝倉, p.525)。

「croyait」は他動詞 croire(思う、考える)の直説法半過去3人称単数。後ろに不定詞がくると「~だと思う」。
「prendre」は他動詞で「つかまえる」。ただし、ここでは例外的に直接目的が省略されています。
「est」は être の現在3人称単数。「pris」は他動詞 prendre の過去分詞être + p.p. で受動態

prendre は「つかまえる」が一番ふつうの意味ですが、ここは「だます」という意味だともいえます。たとえばスタンダード仏和辞典ディコ仏和辞典には明確に「だます」という意味が載っています。これに従えば、ことわざの逐語訳は「だますと思っていた者がだまされる」となります。
ただし、大辞典であっても prendre で「だます」という意味は載っていない辞書も少なくありません。こうした辞書では、おそらく「基本的には prendre は『つかまえる』という意味だが、特定の表現では比喩的・結果的・派生的に『だます』という意味になることもある」といったような考え方から、特に「だます」という項目を立てずに他の項目に含めて処理しているようです。

【由来】 ラ・フォンテーヌの『寓話』第8巻第9話「鼠と牡蠣」(1678) に出てきます。これは、世間知らずの鼠が、日向ぼっこをして口を開けている牡蠣を見つけ、うまそうだと思ってつかまえようとしたところ、口を閉じた牡蠣に挟まれてしまった、という話です。文字通り、「つかまえようと思ったら、つかまえられてしまった」という単純な話で、この諺はその最終行に出てきます(原文は jdlf.com または Wikisource などで閲覧可能)。今野一雄訳『寓話(下)』(岩波文庫)p.97 では、「してやるつもりでいた者がしてやられる」と訳されています。

なお、『寓話』第4巻第11話「蛙と鼠」(1668) も似たような話です。これは、蛙が鼠をだまして鼠を自分の体に紐で結びつけ、沼に飛び込んで鼠を溺れさせることに成功したものの、水面に浮かんだところをトンビに襲われてしまった、という話です(原文は jdlf.com または Wikisource などで閲覧可能)。この話には、「他人をだまそうと思う者は、しばしば自分自身をだます」や「最もうまく仕組んだ策略は、それを考えついた者を害する」という言葉が出てきます。

ちなみにイソップ物語では、ラ・フォンテーヌの「鼠と牡蠣」に類似する話は見つかりませんが、「蛙と鼠」はほとんど同じ話があります(岩波文庫『イソップ寓話集』、p.284)。

【似ている諺】発想は、次の日本の諺に似ています。

  • 「ミイラ取りがミイラになる」

ただし、「ミイラ取りがミイラになる」という諺は、「人を連れもどしに行った者が、自分も先方にとどまって戻らないことや、意見しようとした者が反対に説得されてしまうことなど、はじめは相手をどうにかしようと意図した者が逆に相手に同化されてしまうことのたとえ」(『故事俗信ことわざ大辞典 第二版』)として使われることがあるので、だいぶ使い方が異なります。

むしろ、次のフランス語の諺に似ているとフランスでは説明されることがあります。

とすると、日本の「上には上がある」に近いともいえます。

【図版】 この諺を扱った絵葉書があります。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

Tel qui rit vendredi, dimanche pleurera.

【逐語訳】 「金曜日に笑う人は日曜日には泣くだろう」

【単語の意味】 「Tel」は、ここでは「人」という意味。例えば『ロワイヤル仏和中辞典』で tel を引くと一番最後の不定代名詞の項目に載っている「《文》 《無冠詞で》 ある人」という意味に該当します。
「rit」は自動詞 rire(笑う)の現在3人称単数。

「vendredi」は「金曜日」。「dimanche」は「日曜日」。どちらも男性名詞ですが、時を表す名詞なので副詞(状況補語)として使われています
「qui rit vendredi(金曜日に笑う)」はカッコに入り(関係詞節になり)、その前の先行詞「Tel(人)」にかかっています。
「pleurera」は自動詞 pleurer(泣く)の単純未来3人称単数。

通常なら、次のような語順になるはずです。

  • Tel qui rit vendredi pleurera dimanche.

なぜなら、副詞(ここでは副詞として使われている名詞「dimanche」)は、単純時制の場合は、動詞の直後に置くのが一般的だからです。
しかし、この諺はもともと詩の形式で書かれた文学作品に由来しており(後述)、その作品の中で、前の行と韻を踏むために「pleurera」が後ろにきています。
ただ、そうすると「vendredi dimanche (金曜日 日曜日)」というように続いて、文の構造がわかりにくくなるので、「vendredi」の後ろにコンマがついているわけです。

【他のバージョン】 冒頭の「Tel」を省いて、次のように言うこともあります。

ただ、「Tel」をつけたほうが語呂がいい(6 音節+6 音節の「アレクサンドラン」と呼ばれる詩の形式になっている)こともあって、「Tel」をつけるほうが多いと思います。

【由来】 もともとは、「朝に笑う者は夕べに泣く」だったようです。
13世紀末の諺集には「Tels rit au matin qui au soir pleure.」と書かれており(Morawski, N°2368 による)、15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°742)でもほぼ同じ形で収録されています。

1668年のラシーヌの喜劇『裁判きちがい』Les Plaideurs )の冒頭に、表題と同じ形で出てきます(鈴木力衛・鈴木康司訳、筑摩書房、世界古典文学全集 48、p.137 から引用。下線引用者)。

  • いや、まったく、先のことほど判らんものはねえだよ。
    あしたに笑う者は、ゆうべに泣く、というやつだ
    原文は Wikisource などで閲覧可能(2 行目)。

【諺の意味と背景】 田辺『フランス故事ことわざ辞典』(p.38)には次のように解説されています。

  • 金曜日はキリストが十字架にかけられた日で、この日はカトリック教では「肉抜きの金曜日」 vendredi maigre といわれ、精進日となっている。そういう日に酒をくらい肉をたべ女を抱くような奴は、安息日の日曜に泣くような事件に見舞われるだろう。

【似た諺】「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」

Tout est bien qui finit bien.

【逐語訳】「よく終わるすべてのものはよい」

【意訳】「終わりよければすべてよし」

【使い方】最初は大変だったり、難航が予想されたのに、結果的にうまくいった場合に使います。

【英語の諺】 All's well that ends well. (終わりよければ全てよし)
この英語の諺はシェイクスピアの戯曲の題名にもなっています。

【単語の意味】「Tout」は、ここでは「すべての」という形容詞ではなく、名詞(代名詞)化されていて「すべてのもの」
「finit」は finir(終わる・終える)の現在3人称単数。ここでは目的語がないので自動詞。
2 回出てくる「bien」は英語の well に相当する言葉で、副詞にも形容詞にもなります。「finit(終わる)」の後ろの「bien(よく)」は動詞に掛かっているので副詞ですが、「est」の後ろの「bien」は属詞になっているので形容詞です。

【文法】 関係代名詞「qui」の先行詞は「Tout」で、先行詞と関係代名詞の間が離れています。つまり、「qui finit bien」は「Tout」に掛かっています。
通常の(先行詞と関係代名詞がくっついた)語順にすると次のようになります。

  Tout qui finit bien est bien.

この通常の語順に戻して見ていくと、カッコに入る(関係詞節になる)のは「qui finit bien」で、大きく見ると「Tout qui finit bien(よく終わるすべてのもの)」が主語、その後ろの「est」が動詞、「bien」が属詞となっています。
ただ、こうすると主語の部分が長く(頭でっかちで)、バランスが悪いので、先行詞と関係詞節を切り離し、関係詞節だけを後ろに置いているわけです。

【似た諺】 La fin couronne l'œuvre.

Tout vient à point à qui sait attendre.

【逐語訳】「待つことができる人には、すべてはちょうどよい時にやって来る」

【諺の意味】我慢強く(機の熟するまで)待っていれば、すべては自然と実現される。

【日本の諺】「待てば海路(かいろ)の日和(ひより)あり」(焦らずに待てばチャンスはやってくる)、「果報は寝て待て」

【文法】 「Tout」はここでは代名詞で「すべてのもの、すべて」という意味
「vient」は自動詞 venir の現在 3人称単数。
「point」は男性名詞で「点」。熟語なので無冠詞
「à point」で「ちょうどよい時に」という意味の熟語。

「qui」は celui qui の celui の省略で、「...な人」という意味。つまり、次のように celui を入れて言っても同じ意味。

  • Tout vient à point à celui qui sait attendre.

「celui」の前の「à」は前置詞で、「~に(は)」「~にとって(は)」という意味。

「sait」は他動詞 savoir(知っている)の現在3人称単数。後ろに不定詞が来ているのでわかるように、ここでは準助動詞に近い使い方をしています。「~するすべを知っている」、「~できる」という意味で、要するに pouvoir (~できる)と似たような意味(英語の know に相当)。
実際、昔は「sait」の代わりに pouvoir の現在3人称単数を使って次のように言う場合もありました。

  • Tout vient à point à qui peut attendre.

「attendre」は、ここでは自動詞で「待つ」。

【正統派バージョン】 実は、本来は「qui」の前の前置詞「à」は存在せず、次のように言います。

  • Tout vient à point, qui sait attendre.
    (待つことができるなら、すべてはちょうどよい時にやって来る)

この「qui」は 17 世紀まで使われ、現代では使われなくなった古語法で、 si on ないし si l'on と同じ意味(Cf. 『新フランス文法事典』p.463 ; Grevisse, Le bon usage, 15e éd., §1112 ; Anscombre (1994), p.96)。
つまり、現代のフランス語に直すと、次の表現と同じです。

このように、本来は à をつけないのが正しい言い方であり、 à をつけるのは現代フランス語の文法に合わせて、いわば諺を「現代化」した結果です。

日本の諺でも文語調の言いまわしが残っているように、現代でも古い語法に基づく à をつけないバージョンも使われることがあります。

【由来】 1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本に次のように書かれています。

  • A celluy qui attendre peult tout vient a temps & a son veu.
    待つことができる人には、すべてはちょうどよい時に望みどおりにやって来る。
    原文はHathiTrustで閲覧可能。古い綴りを含む。

その数年後のクレマン・マロの詩集 L'Adolescence clémentine (1532 - 1538)に収められた Chanson IV には、表題とほぼ同じ Tout vient à point, qui peult attendre. という形で諺として使われています(原文は Wikisource で閲覧可能)。

1548 年のラブレー『第四之書』第 48章にも見えます。

【英語の諺】 このフランス語の諺から英訳されたと思われる、次の諺があります。

  • All things come to those who wait.
    (すべての物事は、待っている人にやって来る)
    『オックスフォード諺辞典』第 5 版 p.5 では、この英語の諺の起源として、ほぼ表題と同じフランス語が最初に記載されています。

Un homme averti en vaut deux.

【訳】「忠告を得た人は二人に値する」

【諺の意味】「危険などについて、行動に移す前に事前に情報が得られれば、より適切に対処できる」。

辞典類には次のように書かれています。

  • 「事前に通知された人は用心するので、敵にとって2人と同じくらい手ごわいものになる」(Rey/Chantreau, p.44)
  • 「何か(危険など)を知らされた人、事前に通知された人は、二倍に用心する」(TLFi)
  • 「恐れるべきことについて知らされると、人は二倍に用心する」(Petit Larousse 2013)
  • 「恐れるべきことや行うべきことについて事前に通知されると、二倍に用心や対策を取ることが可能になる」(『アカデミー辞典』第9版)
  • 「危険をあらかじめ知る者は二倍の用心をする(二倍の強味を持つ)」(新スタンダード仏和辞典)
  • 「(予備知識のある人間は2人分の価値がある→)備えあれば憂いなし」(小学館ロベール仏和大辞典)
  • 「(あらかじめ知っていれば2人力→)備えあれば憂いなし」(白水社 仏和大辞典)

これとは別に、「averti」を形容詞の「経験を積んだ、老練な」という意味に解釈している仏和辞典もあります(最後の例は両方を併記)

  • 「老練な1人は2人分の価値がある」(プログレッシブ仏和辞典)
  • 「経験を積んだ者は2人分の力を持つ」(ロワイヤル仏和中辞典)
  • 「(経験豊かな人〔事情に通じている人〕は2人分に匹敵する→)何事も慎重にやるに越したことはない」(ディコ仏和辞典)

しかし、これは前述の仏仏辞典やフランス語の諺辞典に書かれている意味とは異なります。

【日本の似た諺】「備えあれば憂いなし」に相当するように書かれている仏和辞典もあります。この日本の諺は「日頃から準備をしておけば、不測の事態が起きた場合でも慌てることはない」というような意味ですが、しかしフランスの諺の場合は、肝心なのは「日頃から準備する」ことではなく、「(危険についての)情報を事前に得る」ことなので、かなりニュアンスが異なるように思われます。

むしろ、「情報を制する者が戦いを制する」(というような諺があるとすれば)や「敵を知り己を知れば百戦危うからず」などに近い気がします。

【使い方】実際の日常の場面では、本人が気づいていない危険について事前に知らせる場合に、忠告を聞くように相手に勧める(忠告・警告する、釘をさす)場合に使われることが多いようです。「私の忠告に耳を傾ておいたほうがいいよ」という感じです。

こうした使い方に照らしてみれば、「averti = 老練な」ではなく「avertir = 忠告(警告)する」の意味であることが理解できます。

  • ちなみに、昔は「この諺は『注意しろよ、私の忠告を聞かないと後悔することになるぞ』という意味の、脅迫の形でも使われ」た(『アカデミー辞典』第8版)そうです。

【図版】この諺を描いた絵葉書があります。

【英語の似た諺】次の諺に似ています。

  • Forewarned is forearmed.
    事前に警告されることは、事前に武装することだ

【単語の意味と文法】「homme」は男性名詞で「人、男」。
「averti」は他動詞 avertir(知らせる、忠告・警告する。第2群規則動詞)の過去分詞で「忠告(警告)された」。
前述のように、「averti」を「経験を積んだ、老練な」という形容詞として解釈している仏和辞典もありますが、それはこの諺の実際の使われ方には馴染みません。

「vaut」は他動詞 valoir(~の価値がある、~に値する)の現在3人称単数。

その直前の「en」は、後ろに「deux」(2 つ)という数詞があることからわかるように、「文法編」の「中性代名詞 en その 2:不特定の同類の名詞を指す en」「後ろに un, une または数詞が残る場合」に該当します。
en を使わないで書き換えると次のようになります。

  • Un homme averti vaut deux hommes.

この最後の「hommes」が en に置き換わって、動詞の直前に出たわけです。

【由来】1532年頃に刊行されたラブレー『パンタグリュエル』(ソーニエ版)に次のような形で出てくるのが初出のようです(Klein (2007) による)。

  • Ung homme advisé en vault deux.
    現代の綴りに直すと、 Un homme avisé en vaut deux. となります。avisé (aviser) も averti (avertir) と似たような意味です。
    なお、これは数ある『パンタグリュエル』の版の中で一番古い 1532年頃の刊本に基づくソーニエ版に見られるものであり、これとは異なる版から日本語に訳出された渡辺訳と宮下訳には出てきません。原文は Pantagruel, éd. par V. L. Saulnier, Librairie Droz, 1946, p.63, l.208 で確認可能。

アカデミー辞典』では、第1版(1694, s.v. advertir)では homme を抜かした Un averti en vaut deux.(現代の綴りに直して引用)という形で収録されています。
第2版(1718)以降は、この形と並んで、bon を入れた Un bon averti en vaut deux. という形も併記されるようになります。
両方が併記された状態が第5版(1798)まで続いたのち、第6版(1835)~第8版(1932-1935)では bon を入れた形のみが掲載されています。
最新の第9版(1992)では、bon の代わりに homme を使った、表題と同じ形で収録されています。

【諺の起源に関する珍しい説】homme を使わない Un averti en vaut deux. という形の起源については次のような説があります。

  • Un averti は Un a verti であり、a verti とはアクサン・シルコンフレクスがついた â を意味する。
    つまり、Un a verti en vaut deux. とは Un â vaut deux a.(1つの â は 2つの a に相当する)という意味である。
    実際、例えば âge(年齢)という単語は、昔は aage という綴りだった。

これは文献学者ジャコブ・ル・デュシャ(1658-1735)が唱えた説で (Jacob Le Duchat, Ducatiana, p.466)、こじつけの観がありますが、 Rey/Chantreau, p.44 でも一応言及されています。

【言葉遊び】突然ですが、現在お使いのキーボードの左上あたりをご覧ください。1行目の数字の下は、左端から順に Q, W, E, R, T, Y という配列になっているかと思います。これをフランス語で clavier QWERTY(「クラヴィエ クヴェルティ」、いわゆる「クウォーティー配列のキーボード」)といいます。
しかし、フランス語圏では A, Z, E, R, T, Y の順に並んでいるキーボードが広く使われています。これを clavier AZERTY (「クラヴィエ アゼルティ」、いわゆる「アザーティ配列のキーボード」)と呼びます。
この AZERTY(アゼルティ)が averti(アヴェルティ)に似ていることから思いつかれた、次のような言葉遊びが比較的よく知られています(このまま漫画のタイトルにもなっています)。

  • Un clavier AZERTY en vaut deux.
    AZERTY配列のキーボード1つは、キーボード2つの価値がある。

ちなみに、中性代名詞 en を使わないで書き換えると次のようになります。

  • Un clavier AZERTY vaut deux claviers.

Un tiens vaut mieux que deux tu l'auras.

【逐語訳】「2つの『いまに手に入るよ』よりも、1つの『はいどうぞ』のほうがいい」

【諺の意味】「あとで2つあげると約束されるよりも、実際に今1つもらっておいたほうがいい」。
つまり、「不確実な2つのものよりも、確実な1つのもののほうがいい」。

【日本の諺】「明日の百より今日の五十」

【英語の諺】 A bird in the hand is worth two in the bush.
  (手の中の 1 羽の鳥は、藪の中の 2 羽の鳥の価値がある)

【同じ意味の諺】よく次の諺と同じ意味だと説明されます。

【単語の意味と文法】かなりフランス語ができる人でも、事前の知識なしにこの諺の文法を理解するのは困難でしょう。かなり難しい諺です。

まず、ベースにあるのは次の表現です。

A に相当するのが「Un tiens」、 B に相当するのが「deux tu l'auras」です。
「deux」は数詞の「 2 」なので、「Un」もここでは不定冠詞ではなく、数詞の「 1 」と取るべきです。
つまり、2 つの「tu l'auras」よりも 1 つの「tiens」のほうがいい、という意味です。
「tiens」と「tu l'auras」は、どちらもいわば名詞のように扱われています。
「名詞扱い」であることをわかりやすくするため、次のように引用符に入れたり、イタリック体にしたり、大文字にして書く場合もあります。

  • Un « tiens » vaut mieux que deux « tu l'auras.»
  • Un "tiens" vaut mieux que deux "tu l'auras."
  • Un tiens vaut mieux que deux tu l'auras.
  • Un Tiens vaut mieux que deux Tu l'auras.

この「tiens」に関して、Fables (寓話)の注釈付きバージョンの一つでは、次のような注がつけられています。

  • Prends cela, je te le donne. (これを取っておきな。これを君にあげるよ)
    「Prends」は prendre(つかむ、取る)の現在 2人称単数と同じ形ですが、ここでは主語(tu)がないので、命令形。「cela」は「それ」。「donne」は donner(与える)の現在1人称単数。

この「Prends」と同様、諺の「tiens」は tenir(持つ、つかむ)の命令形だというわけです。
「tiens」は、相手に物を差し出すときに言う「ほら」「はい、どうぞ」という意味の言葉です(辞書で tenir を引くと、熟語欄または例文として載っています)。これが、いわば名詞化され、「はいどうぞ(と言われること)」というような意味で使われています。

また、「tu l'auras」の「auras」は avoir(持つ)の単純未来2人称単数なので、直訳すると「君はそれを持つだろう」ですが、「(それは)いまに手に入るよ」という感じです。これ全体が名詞扱いにされています。

逐語訳すると「2つの『いまに手に入るよ』よりも、1つの『はいどうぞ』のほうがいい」となります。

つまり「『いまに手に入るよ』と2度言われるよりも『はいどうぞ』と1度言われるほうがよい」(『小学館ロベール仏和大辞典』)という意味です。

あるいは、「2つの『君がこれから手に入れるもの』よりも、1つの『はい、と差し出されたもの』のほうがいい」という意味です。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【由来】13世紀終わりに確認される古い諺です(Morawski, N°1300 およびLe Roux de Lincy(1842)による)。
15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°450)にも収録されています。

17世紀ラ・フォンテーヌの『寓話』第5巻第3話の « Le petit Poisson et le Pêcheur » (小さな魚と釣り人)と題される話で取り上げられて有名になりました(原文はjdlf.comWikisourceなどでも閲覧可能)。これは次のような話です。

  • あるとき、釣り人が小さな鯉を釣り上げた。鯉は、「私のように小さな魚を釣っても、半口分にしかならないでしょうから、いったん放して、私が大きな鯉に成長するまで待ってください」と命乞いをしたが、聞き入れられなかった。

この話の最後に、教訓としてこの諺が出てきます。
要するに、「将来また釣れるかどうか分からないのだから、小さい魚でも釣れたときに取って食べてしまったほうがいい」という意味です。

【間違った書き方】「tiens」の s を落として、間違って「tien」と書かれる場合もあります。これは、tiens と tien の発音が同じことによる誤解だと思われます。

  • Un tien vaut mieux que deux tu l'auras.
    1つの「君のもの」のほうが、2つの「いまに手に入るよ」よりもいい。
    「tien」は所有代名詞で「君のもの」(あるいは辞書で tien を引くと名詞として「君のもの」という意味も載っています)。しかし、あくまでこれは(少なくとも現代では)間違った書き方です。

実は、17世紀末に現代の正書法(=綴り字の正しい書き方)が確立される以前は、末尾に s をつけずに tien と書かれていました。しかし、これは動詞 tenir の命令形の古い綴り方であり、あくまで現代の綴りの tiens と同じ意味で使われていたようです。

「昔は tien と書かれていたのだから、昔は『君のもの』という所有代名詞だったのだ」と説明されることもありますが、これは間違った説明のようです(Cf. Brunet (2011), p.129)。
筆者も、以前、うっかりこの説明につられて、解説を書いてしまいました。お詫びして訂正します。 (2013/9/3訂正)



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