北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-1
やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
À bon chat, bon rat.
【逐語訳】 「良い猫には良い鼠」
(たいした猫には、たいした鼠)
【諺の意味】 「相手もなかなか手ごわい」、「敵もさるもの」
猫が鼠をつかまえようとしたところ、思わぬ反撃にあい、いったん攻撃を見合わせているような状況からの比喩です。
猫が強ければ、鼠も劣らず強い。猫が「したたか」なら、鼠も「したたか」。敵もさるもので、なかなかの好敵手、という意味です。
攻撃にひけを取らない反撃にあった(またはあいそうな)場合に使います。
日本語の似た表現としては、「丁丁発止」などの言葉が浮かびます。
完全に意味が重なるわけではありませんが、同じ語(丁丁、bon... bon...)が反復されている点でも似ているといえるかもしれません。
【図版】 グランヴィルの絵を見ると、この諺の使い方がよくわかります。
【単語の意味と文法】 前置詞「à」は場所・時間を表す「~に」というのが一番大きな意味ですが、ここでは「~には」「~に対しては」。
大文字 À は、前の行との行間がなくなってしまう(行間を維持しようとすると小さな大文字になってしまう)ためにアクサン・グラーヴを省略して A と書かれることもあります。
「bon」は形容詞で「良い」(英語 good)。
ただし、「良い」の他にも「巧みな、有能な、優秀な、腕のいい」、「立派な」などの意味もあり、また反語的に(むしろ悪い意味で)「ご立派な、抜け目のない」などの(場合によっては「ひどい」に通じるような)意味もあります。ひと言でいえば、「たいそうな、たいした」という感じです。
実際の文脈では、こうした反語的なニュアンスを伴って使われることが多いので、むしろ「ご立派な猫には、ご立派な鼠」、「たいした猫には、たいした鼠」などと訳したい気持ちに駆られます。
「chat」は男性名詞で「猫」。
「rat」は男性名詞で「鼠(ねずみ)」。
昔からある諺なので無冠詞になっています。
耳から聞いた場合、「bon」という同じ語の反復と、「chat」と「rat」という 1音違いの語の対比によって、語調がよい諺の代表例の一つとなっています。
【由来】 もともと中世には「悪い猫には悪い鼠」と言っていました。
また、猫と鼠を逆にして言うこともあったようです。
- A mal rat mau chat.
悪い鼠には悪い猫。
出典:Morawski, N°75 (14世紀)。「mau」は古語で mal に同じ。この諺は、むしろ À mauvais rat faut mauvais chat. (悪い鼠に対しては悪い猫が必要だ→悪者に対しては悪者として振舞う必要がある)という諺(非人称の il を使わない古語表現を使用)に近いともいえます。
これとほぼ同じ形は、フランソワ・ヴィヨンの『遺言詩集』に収められた「でっぷりマルゴーの賦(ふ)」という詩にも出てきます。「でっぷりマルゴー」と呼ばれた売春婦の「ひも」である「俺」は、次のように語ります。
- 俺こそまさに ならず者、莫連女(ばくれんをんな)が随(つ)いて来る。
どつちが凄(すげ)えか。お互いに、似たりよつたり。
相手にとつて不足はねえ。溝鼠(とぶねずみ)には 野良猫だ。
この迫力のある、少し古風な日本語訳は、鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』岩波文庫p.177 による(下線引用者)。「莫連」とは「あばずれ」のような意味。
下線部分の原文は a mau rat mau chat.
下線部分は、直訳すると「悪い鼠には悪い猫」です。
なぜ昔は「良い猫」、「良い鼠」ではなく「悪い猫」、「悪い鼠」と言ったかというと、この諺における「良い」というのは、多分に反語的なニュアンスが強く、「良い」というよりも実際には「悪い」に近い意味(「巧みな」というよりも「抜け目ない」「ずる賢い」、「立派な」というよりも「図太い」など)であり、昔はそれをストレートに表現していたからではないかと、私は想像しています。
1568 年に初版が出たムーリエ『金言宝典』(1581年版 p. 220) では、「良い」「悪い」を明示しない次のような表現が収録されています。
- Tel rat, tel chat.
このような鼠にして、こような猫あり
1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集(第2部冒頭近く)には、表題と同じ A bon chat, bon rat. (良い猫には良い鼠)という形で収録されています。
1606年のニコの『宝典』付録 p.17では、この A bon chat bon rat. という諺は、「兵士の間で使われるもう一つの諺」である次の諺とまったく同じ意味だと書かれています。
- À bon assailleur bon défendeur.
良い攻撃者(攻め手)に良い防御者(守り手)。
戦乱の絶えない時代では、なかなか手ごわい相手に対して、「敵として不足はないぞ」、「おぬしも、なかなかやるのう」、といった文脈で使われていたことが想像されます。
1610年のグルテルス『詞華選』 の付録の「フランスの諺」の部には、 Tel rat, tel chat. と A bon chat, bon rat. の両方が収録されています。
『アカデミー辞典』でも第1版(1694)から第9版(1992)までコンスタントに収録されている有名な諺です。
【似た諺】次の諺に似ているとも言えます。
- À trompeur, trompeur et demi. (だます人には、その 1.5 倍だます人)
この諺との類似性は D'Hautel (1808), p.181や A. J. D. (1885a), p.9で指摘されています。
とすると、猫よりも鼠の方が一枚上手(うわて)ということになります。
Aide-toi, le ciel t'aidera.
【逐語訳】「自らを助けなさい、そうすれば天が君を助けるだろう」
「天は自ら助くる者を助く」のもとになった諺です。
【単語の意味と文法】「Aide」は他動詞 aider(助ける)の命令形(第1群規則動詞 aider の現在形の2人称単数から s を省いた形)なので、「助けなさい」。
命令形の後ろの「-toi」は再帰代名詞なので、この「-toi」は「自分(自ら)」。他動詞「Aide」の直接目的になっているので「自分を(自らを)」。
「ciel」は男性名詞で「空」。比喩的に「天」の意味にもなります。
「aidera」は同じ aider(助ける)の単純未来3人称単数。
その前の「t'」は「aidera」の直接目的になっています。
全体として、文を2つ重ねた、いわゆる「重文」になっています。
このように、命令文の後ろに文をつけ加えて「重文」にするだけでも「そうすれば」という意味が出ますが、次のように et を補っても同じ意味になります。
- Aide-toi et le ciel t'aidera.
【由来】古代ギリシアのエウリピデスの言葉として、次のような言葉が伝えられています。
- 今は自分ができることを何かして、それから神々に呼びかけなさい。
苦労して努力する人には神も手助けするものだから。
岩波書店『ギリシア悲劇全集12 エウリーピデース断片』 432から引用。
また、同じ古代ギリシアのイソップ物語に「牛追とヘラクレス」という話があります(「牛追」(うしおい)とは牛を歩かせる人のことで、ヘラクレスは怪力で有名)。短いので全文を引用します。
- 牛追が村から荷車を引いてくる途中、車が谷の窪みに落ち込んだ。救い出さねばならぬのに、牛追はぼさっとつっ立って、ヘラクレスに助けを求めた。彼が心から崇拝し祀りもする唯一の神様だ。するとヘラクレスが現われて、言うには、
「車輪にとり付き、突き棒で牛を突け。自分でも何かしてから神頼みするがいい。さもないと、祈っても無駄だ」
中務哲郎訳『イソップ寓話集』(岩波文庫)p.219から引用(下線引用者)。
この話を17世紀後半のラ・フォンテーヌが翻案したのが『寓話』第6巻第18話「ぬかるみにはまった荷馬車」で、その末尾に表題のフランス語が記載され、有名になりました(フランス語原文は Wikisource または jdlf.com などで閲覧可能)。
ただし、もう少し前からフランス語として確認されます。例えば、
- 15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°19):「Aide toy Dieu te aidera.」 (TPMA, Helfen 5.2 によるとこれがフランス語での初出)
- 15世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.60, XC):「Ayde toy et Dieu t'aydera.」
- 15世紀末の Jean de la Véprie の諺集 (Le Roux de Lincy(1842), t. 1, p.12 による):「Ayde toi, Dieu te aydera.」
- 1532年頃のラブレー『パンタグリュエル』(第二之書)第28章(岩波文庫の渡辺一夫訳では p.198。なお、ちくま文庫の宮下志朗訳 p.309 では、元になった版が異なるため、この諺は出てきません)
- 1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集:「Ayde toy, Dieu t'aydera.」
- 1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録(原文は Gallica で閲覧可能)
- 1625年の D. マルタンの諺集(N°25)
- 16世紀末~ 17 世紀初頭の詩人マチュラン・レニエの『諷刺詩集』XIII :「Aidez-vous seulement et Dieu vous aidera」(原文は Google books 1 または Google books 2 などで閲覧可能)
- ラ・フォンテーヌよりも少し早いピエール・ミヨ(Pierre Millot)の『ギリシア語から忠実に訳されたイソップ寓話』(1656年刊):「Aide-toi et Dieu t'aidera」
- 1656年のフルリー・ド・ベランジャンの諺集 p.45 :「Aide-toi, le ciel t'aidera」
【英語の諺】フランス語よりも少し遅れて、英語でも文献上確認されるようになります(TPMA, Helfen 5.2によると英語の初出は1475年頃)。
1736年、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)が Poor Richard's Almanack (貧しいリチャードの暦)の中で次の形で記し、この形が英語では定着したようです。
- God helps them that help themselves.
1859年のサミュエル・スマイルズ(1812-1904)の Self-Help (自助論)の冒頭では、次の形で出てきます。
- Heaven helps those who help themselves.
このスマイルズの本を1871年(明治4年)に中村正直が『西国立志編』として翻訳・刊行し、その中で「天はみずから助くるものを助く」と訳したことは有名です(講談社学術文庫版サミュエル・スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』p.55)。
この翻訳本が明治時代にベストセラーとなり、教科書にも採用されたことで、日本に定着したと考えられています。
【似た諺】「人事を尽くして天命を待つ」
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
À malin, malin et demi.
【逐語訳】 「ずる賢い人には、その 1.5 倍ずる賢い人」
(ずる賢い人には、さらにその上を行くずる賢い人)
【諺の意味】 「だまし上手は、さらなるだまし上手にだまされるものだ」
【似た諺】 日本語だと、「上には上がいる」。フランス語だと、
【発音】 ラルース仏英辞典の malin の項目の末尾付近に載っているこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。
【単語の意味と文法】 前置詞「à」は場所・時間を表す「~に」というのが一番大きな意味ですが、ここでは「~には」「~に対しては」という感じです。
大文字 À は、前の行との行間がなくなってしまう(行間を維持しようとすると小さな大文字になってしまう)ためにアクサン・グラーヴを省略して A と書かれることもあります。
「malin」はもともと「ずる賢い、抜け目ない」などの意味の形容詞ですが、名詞化して「ずる賢い人、抜け目ない人」という意味にもなります。
これは、人の性格などを表す形容詞に冠詞がつくと、「~な人」という意味の名詞になるのに似ています。ただし、諺なので無冠詞になっています。
「et」は英語の and に相当する接続詞で「そして、および」ですが、ここでは「プラス」という感じです。「demi」は「半分」つまり「0.5」。
辞書で demi を引くと、「~ et demi」で「~と半分」という意味が載っています。ここでは「~プラス 0.5」。ということは「~かける 1.5」に等しく、「1.5 倍の~」という感じです。
「À ~, ~ et demi.」という形をとる諺は、他にもいくつかあります。「~」の部分に悪い人を意味する名詞(無冠詞)が入ります。よく使われるものとしては、
- À trompeur, trompeur et demi. (だます人には、その 1.5 倍だます人)
- À fripon, fripon et demi. (ぺてん師には、その 1.5 倍のぺてん師)
- À menteur, menteur et demi. (嘘つきには、その 1.5 倍の嘘つき)
- À voleur, voleur et demi. (泥棒には、その 1.5 倍の泥棒)
最後の例では、他人の財布を盗もうとしていた泥棒(スリ)が、逆に自分の財布を盗まれたような状況がイメージされます。
【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。
【由来】 表題の諺は、比較的最近、19世紀以降にできたようです。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、第8版(1932-1935)までは収録されておらず、最新の第9版(1992)になって初めて収録されています。
ただし、似たような諺は昔からあり、例えば1568年の『金言宝典』には、現在では使われなくなった次のような表現が収録されています。
- A regnard, regnard & demy (狐にはその 1.5 倍の狐)
「regnard」は「renard」の古い綴りで「狐(きつね)」。
中世の『狐物語』に見られるように、狐は狡猾で悪知恵を働かせるというイメージがあり、仏和辞典で renard を引くと「ずる賢い男」という意味が記載されています。
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
Après l'effort, le réconfort.
【逐語訳】「努力のあとで、元気づけ」
【諺の意味】「努力したあとで、自分へのご褒美として楽しむ飲食や休憩は格別だ」。
【使い方】一般に、一生懸命努力したあとで、充実感を味わいながら飲食・休憩するときに使います。
例えば、たくさん働いたあとで、おいしい料理やお酒にありついた場合に使います。「仕事のあとで飲むビールはうまいね」という感じです。
あるいは、激しい運動で汗を流したあとで、ジェットバスにつかってリラックスするときなどに使います。
【単語の意味】「Après」は前置詞で「(時間的に)~のあとで」。
「effort」は男性名詞で「努力」。
「réconfort」は男性名詞で、辞書を引くと「慰め、励まし」と出ています。ただし、もとになった動詞 réconforter は、精神的に「慰める、励ます」という意味の他に「(食事やお酒が、疲れた体に)元気・活力を与える」という意味でもよく使われるので、そのイメージが強いようです。仕事でエネルギーを消耗したあとで「充電」するという感じです。「元気づけ」としておきます。
【新しい諺】ここ数十年くらいの間にできて急速に広まった表現のようで、ことわざ辞典の類には載っていません。本当に諺と言えるかどうかも微妙なところです。ただ、
- Après A, B. (A のあとで、B)
というのは、フランス語の諺に典型的に見られる表現の一つなので、いかにも諺らしい感じを受けます。特に、内容的に「Après la pluie, le beau temps.」(雨のあとでは良い天気)という諺を連想させます。
さらに、「effort」(エフォール)と「réconfort」(レコンフォール)が韻を踏んでいるので、より諺らしくなっています。
【似た表現】「le réconfort (励まし)」の代わりに、「la récompense (ご褒美)」という言葉を使って言うこともあります。
- Après l'effort, la récompense.
努力のあとで、ご褒美。
ただ、こちらは韻を踏んでいないこともあって、多くの人によって諺だと受け止められているわけではない(それほど諺としての市民権を得ていない)ように感じられます。
今後何十年か経つと、また事情が変わるかもしれません。
Après moi le déluge !
【訳】「わがあとは洪水になれ!」
【諺の意味】「私のあとでどうなろうと関係ない」。
ラルースの諺辞典(Maloux (2009), p.153)では、「自己中心主義」(égocentrisme)という項目に分類されています。たしかに「自分だけよければいい、あとのことは知らない」という、無責任な響きがあります。
よく言えば、「未来のことは気にせずに現在を楽しむ」という感じにもなります(『アカデミー辞典』第9版)。
【日本の諺】「あとは野となれ山となれ」。
『岩波 ことわざ辞典』 p.31 には、「農耕民族である日本人の言葉であるから、『野』となり『山』となる前の地は田や畑であろう」と書かれています。とすると、田畑の手入れをせずに、雑草が伸び放題になって、野原(さらには山)になっても構わない、というのが元の意味なのかもしれません。
【単語の意味と文法】「Après」は前置詞で「~のあとで」。
「moi」は人称代名詞の強勢形。前置詞の後ろでは、必ず強勢形になります。
「déluge」は男性名詞で「大洪水」。基本的には、旧約聖書の「創世記」でノアの方舟(はこぶね)が登場するときの大洪水を指すので、そのイメージが強い言葉です。普通に「洪水」というときは女性名詞 inondation を使います。
逐語訳すると、「私のあとは大洪水!」となります。
さて、この文には動詞がなく、厳密には文になっていません。動詞を補って文らしくすると、「le déluge ! 」の部分は、例えば次のように言い換えられます。
- que le déluge vienne !
「vienne」は自動詞 venir(来る)の接続法現在3人称単数。
「vienne」の代わりに、接頭語 sur をつけた自動詞 survenir(〔事件などが〕起こる)の接続法現在3人称単数「survienne」などを使うこともできます。
元の「le déluge ! 」は、直訳すると単に「大洪水!」ですが、内容的には「大洪水になれ!」と願っているわけなので、一種の祈願文です。祈願文は、典型的には que + 接続法を使った独立節で表現されるからです。
「que le déluge vienne ! 」は直訳すると「大洪水が来ますように!」ですが、「大洪水になりますように!」、「大洪水になれ!」という感じにもなります。
ちなみに、聖書の「創世記」の冒頭に出てくる神の言葉「光あれ!」も、フランス語ではこの que + 接続法を使って Que la lumière soit ! と言います。
【他のバージョン】「moi(私)」の代わりに「nous(私達)」を使うこともあります。
- Après nous le déluge !
この「nous」も前置詞の後ろなので強勢形。
話しかけている相手も含めて「私達のあとは、どうなろうと関係ないでしょ?」という場合には「nous」を使います。
【英訳】 このフランス語の諺は、次のように英語に逐語訳されます。
- After me the deluge.
- After us the deluge.
【エピソード】ルイ 15 世(1710-1774)またはポンパドゥール夫人(1721-1764)の言葉とされています。
Bernard Klein, Les expressions qui ont fait l'histoire, (2008) p.10 でうまく解説されているので、少し長くなりますが訳してみます(下線引用者)。
- この言葉は、通常、ポンパドゥール夫人が言ったとされている。1757年、ロスバッハの戦いでプロイセン軍に敗れたルイ15世を慰めるために、ポンパドゥール夫人は次のような言葉をかけたという。「そんなに落ち込まれると、お体にさわりますよ。それに、私達のあとには、大洪水でも来ればよいのですわ」。
もう一つのバージョンでは、王が言った言葉だとされているが、もっと状況は漠然としている。重要な政務のために楽しみを邪魔された王は、次のように言ったとされる。「物事は今あるとおりに続くのだ、朕が生きている間は。朕の跡を継ぐ者が、うまく切り抜けるであろう。朕のあとには大洪水でも来ればよいのだ!」。
「大洪水」とは、聖書に出てくる、風紀の乱れによって人間が罰として神から科せられた、全世界を覆い、ノアしか生き延びることがなかった大洪水のことである。
こうしてこの言葉は、予言のように響いた。なぜなら、まもなくルイ15世の死の15年後にフランス革命が勃発し、古い王制が一掃されることになったからだ。この言葉は、典拠は疑わしいが、フランスが直面していた真の困難に対する、ルイ15世の罪深い無関心を象徴するものとなった。
「典拠は疑わしい」と書かれている通り、この言葉はポンパドゥール夫人ないしルイ15世の創作というわけではなく、実際にはそれよりも少し前から熟語表現として使われていたことが確認されます。
例えば、1749年のジャン=バプティスト=ルイ・クルヴィエ著『歴代ローマ皇帝の伝記』には次のように書かれています。
- 彼〔=邪悪な心の持ち主と考えられていたティベリウス帝〕は、私達フランス人が人類全体に対する無関心を表現するために使う諺 Après moi le déluge. に相当するギリシア語の文句〔脚注に「わが亡きあとは地球は火に包まれてしまえ」と記載〕を、しばしば口ずさんでいた。
出典: Jean-Baptiste-Louis Crevier, Histoire des empereurs romains, t. 2, p. 674
ここから、少なくとも1740年代にはフランスで諺として使われていたことがわかります。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、第4版(1762)までは収録されておらず、第5版(1798)以降に表題と同じ形で収録されています。
【補足】1742年、パリでは彗星の話題で持ちきりだったとき、フランスの天文学者モーペルチュイ(1698-1759)が「1742年の彗星について」という小冊子を刊行しています(Maupertuis, Lettre sur la comète de 1742 )。この中でモーペルチュイは、ノアの洪水を引き起こしたのは彗星の衝突(による津波)であるという説や、1682年の彗星(ハレー彗星)が1757年か1758年に戻ってくるという説を紹介し、そうなれば世界の終わりか大洪水になる可能性があると警告しています。おそらくポンパドゥール夫人は、そのことを記憶していたのだろう、と歴史家アルチュール・シュケは指摘しています(Maloux (2009), p.153 による)。
【図版】この諺を題材にした絵葉書があります。
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
À Rome, fais comme les Romains.
【逐語訳】「ローマでは、ローマ人たちのように行え(振舞え)」
【単語の意味】「à」は、ここでは場所を表す前置詞で「~で」。
à の大文字 À は、アクサン・グラーヴを省略して A と書かれることもあります。
「Rome」は「ローマ」。都市名は無冠詞です。
「fais」は faire(行う)の現在2人称単数と同じ形ですが、ここでは tu に対する命令形。
「comme」は英語の as に相当する前置詞で、ここでは「~のように」。
「Romain」は「Rome(ローマ)」の形容詞「romain(ローマの)」の名詞化で、「ローマ人」。「~人」というときは大文字にします。
【日本の諺】「郷に入っては郷に従え」
【由来】一般に、4世紀後半にミラノ司教の聖アンブロジウス(?-397)が聖アウグスティヌス(354-430)宛の書簡で述べた次の言葉に由来するとされています。
しかし、この書簡では「ローマでは、ローマ人たちのように行え」という格言の形では出てきません。
- cum fueris Romae, Romano vivito more, cum fueris alibi, vivito sicut ibi.
汝がローマに在るときはローマ式に生活せよ、他所に在るときには其処の風習に従ひて生活せよ。
と記載されていますが、出典が記載されていません。
実は、この諺は、ラテン語よりも早く、フランス語で確認されるようです。
12世紀後半~ 13世紀初頭の『ロベール・ド・ホーの教訓』に、古いフランス語で次のように書かれています。
- Fiz, quant vos a Roume sereiz,
Selun les Romeins vos vivreiz,
E quant vos resereiz aillurs,
Vos contenez selon lors murs
息子よ、おまえがローマにいるときは、
ローマ人たちにしたがって生きなさい。
そしておまえが よそに行ったときは、
その地の風習にしたがって振舞いなさい。
出典:Les Enseignements de Robert de Ho dits enseignements de Trebor, 1901, p.103, 1707-1710行目。TPMAでフランス語1例目に引用。
ラテン語での早い例としては、Romania(ガストン・パリスとポール・メイエが創設した雑誌)の第33巻(1904年)に掲載された、15世紀後半の作品の末尾部分に、次のように記されているのが確認されます。
- Cum fueris Rome, Romano vivito more,
Cum fueris alibi, more vivito loci.
ローマにいるときはローマの習慣にしたがって生きなさい。
よそにいるときは、その地の習慣にしたがって生きなさい。
出典:Romania, t.33, p.178。 TPMAでラテン語1例目に引用。
つまり、これは聖アンブロジウスが聖アウグスティヌス宛の手紙の中で書いた言葉そのままではなく、それをもとに中世になってから誰かが諺の形に仕立てあげたものであると考えるのが正しいようです。
À trompeur, trompeur et demi.
【逐語訳】「だます人には、その 1.5 倍だます人」
【似た諺】À malin, malin et demi.(ずる賢い人には、その 1.5 倍ずる賢い人)
Tel est pris qui croyait prendre.(つかまえると思っていた者がつかまえられる)
【発音】 ラルース仏英辞典の trompeur の項目の末尾に載っているこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。
【単語の意味と文法】 男性名詞「trompeur (だます人)」は他動詞 tromper (だます)から派生しています。このように動詞の語尾を -eur に変えることで「~する人」という意味になる名詞がかなりあります。
それ以外の単語については、À malin, malin et demi. の「単語の意味と文法」を参照してください。
【由来】 「À ~, ~ et demi.」という形をとる諺の中では、(現在でもよく使われる諺としては)このことわざが最も古くから存在します。
すでに 15世紀のシャルル・ドルレアンのロンドに「A trompeur, trompeur et demy」と出てきます(原文は Google books, p.267 で閲覧可能、リトレで引用)。
16 世紀後半のエチエンヌ・パーキエの『フランス研究』にも「À trompeur, trompeur & demy」と出てきます(1643年版, p.782)。
『アカデミーフランセーズ辞典』でも第1版(1694年)以降、コンスタントに収録されています。
【他のバージョン】 1568年の『金言宝典』や 1610年のグルテルス『詞華選』(p. 188)には、次のような諺が収録されています。
- Aujourd'hui trompeur, demain trompé.
(今日はだます人、明日はだまされる人)
なかなか味のある表現ですが、現在では使われなくなっています。
【ラテン語の似た諺】1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』では、表題のフランス語の諺に対応するラテン語の諺として、次の 2つが挙げられています。
- Fallacia alia aliam trudit (一つの虚偽は他の虚偽を押す(生ず))
- Ars deluditur arte (技術は技術をもって弄ばる)
この2つの訳は岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』による。
また、コルディエのラテン語の教科書(1682年版)では、表題のフランス語の諺は次のラテン語の諺の訳として記載されています。
- Dolus dolo compensatur
(詐欺は詐欺によって代償を払う)
【英語の似た諺】英語では次のような諺があります。
- The biter bit.(噛みつく者は噛みつかれる)
- The biter is sometimes bit.(噛みつく者は、時には噛みつかれる)
これで「だます者は(時には)だまされる」という意味になるようです。
Au royaume des aveugles, les borgnes sont rois.
【逐語訳】「めくらの国ではめっかちが王様だ」
【諺の意味】「たいしたことのない人々の間では、多少ましな人はもてはやされる」、「まったく無知な人々の間では、乏しい知識しか持たない人でも天才扱いされる」。
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵があります。
【日本の諺】「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」
- 「すぐれた者がいないところでは、つまらない者がわが者顔をしていばること」(『故事・俗信ことわざ大辞典 第二版』 p.986)
【単語の意味】「Au」は前置詞 à と定冠詞 le の縮約形。
à は、ここでは英語の in に相当し、場所を表します。
「royaume」は男性名詞で「王国」。上では単に「国」と訳しました。
「des」は前置詞 de と定冠詞 les の縮約形。
「aveugles」は形容詞で「盲目の」、または名詞で「盲人」。
「borgne」は形容詞「片目の、片目しか見えない」、または名詞で「片目しか見えない人」。昔は「めっかち」と言ったそうです。
「sont」は être(~である)の現在3人称複数。
「roi」は男性名詞で「王」。
短い文のほぼ最初と最後に roi と royaume という発音の似た言葉が出てきて、韻を踏んだようになっています。
【他のバージョン】 royaume の代わりに pays(国)を使うこともあります。単語が短くなるので言いやすくなりますが、韻を踏む効果は消えてしまいます(どちらも一長一短あります)。
- Au pays des aveugles, les borgnes sont rois.
【由来】ラテン語でも次のような諺が存在しました。
- Beati monoculi in regione caecorum.
盲人の国にありては片眼の者共は幸福なり。
岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』による。
1500年に初版が出たエラスムス『格言集』の III, IV, 96 (2396) では、「Inter caecos regnat strabus (盲人の間では斜視の者が支配する)」というギリシアの諺に関して、次のように書かれています。
- In regione caecorum rex est luscus
盲人の国では片眼の者が王である。
フランス語では、エラスムスよりも前の15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°231)に、「En la terre des aveugles cil qui n'a qu'un oeil est roys.」(盲人たちの土地では、片目しかない者が王である)と書かれています。
15世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.38, III)には、「En cent aveugles borgne est roy」(百人の盲人の中では片眼の者が王である)と書かれています。
1566年刊のアンリ・エチエンヌの『ヘロドトス弁護』第1巻第8章の冒頭付近には、ほぼ表題と同じ形で出てきます(原文は「le borgne est roy au pays des aveugles」。Google Books で閲覧可能)。
Autant de têtes, autant d'avis.
【逐語訳】「頭の数だけ意見がある」
【似た諺】十人十色
【単語の意味と文法】「autant」の基本的な使い方は、「autant de 名詞 que ~」で「~と同じだけの〔名詞〕」(同等比較)ですが、この諺では「que ~」に相当する言葉がありません。
しかし、「autant de 名詞」で「同じだけの(同じ数の)〔名詞〕」という意味になることに変わりはありません。辞書を引くと、「que ~」なしでの使い方も記載されているはずです。
「tête」は女性名詞で「頭」。ここでは「頭数(あたまかず)」と言うように、「人数」に近い意味で使っています。
「avis」は男性名詞で「意見」。もともと s で終わる単語ですが、ここでは意味からして複数形。
一番逐語訳に近づけると、「同じ数の頭、同じ数の意見」。
【英語の諺】 So many men, so many opinions.
【由来】 『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫)では、ローマの紀元前 2世紀のテレンティウス『ポルミオ』の「人の数だけ意見あり(quot homines, tot sententiae.)」の類例として、紀元前 1世紀のホラティウス『風刺詩』の「頭の数だけ意見あり(quot capita, tot sensus.)」が紹介されています(p.85)。
【余談】 日本で出ているどの諺辞典や仏和辞典を見ても、このフランス語の諺に対応する日本の諺として「十人十色」が挙げられていますが、明治時代に書かれた大越 (1926) では「小田原評定」(Odawara hyogui, 小田原評議)が当てられています。
なるほど、いろいろな意見があると果てしなく議論が続き、方針がまとまりません。
そうした場面で、あきらめを交えて Autant de têtes, autant d'avis. を使うこともできそうです。
Ce que femme veut, Dieu le veut.
【逐語訳】 「女が欲することは、神が欲する」
【諺の意味】 女性がああしたい、こうしたいと駄々をこねだしたら、もう止められないので、神の意思だと思って望みを叶えてやるしかない。
【使い方】 基本的に、男性が使います(例えば、ショッピングなどで)。
【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵があります。
【単語の意味と文法】 「ce que」の「que」は関係代名詞で、「ce」が先行詞になると「...なこと・もの」。
「femme」は女性名詞で「女性」。諺なので無冠詞になっています。
「veut」は vouloir(~したい)の現在3人称単数。普通は vouloir は準助動詞として使われ、後ろには不定詞が来ますが、ここでは vouloir は「欲する」という本動詞として使われています。
「Dieu」は「神」。普通はこのように無冠詞・大文字で使います。
「le」は「Ce que femme veut(女が望むこと)」全体を受けているので、「そのことを」という意味の中性代名詞の le。
つまり、これは「遊離構文」で、「Ce que femme veut(女が望むこと)」が文頭に遊離し、これを「le」で受け直す(「le」が指す)形になっています。
遊離構文ではない文に直すと、次のようになります。
- Dieu veut ce que femme veut.
(神は女が欲することを欲する)
元の形を直訳すると、「女が欲すること、神はそのことを欲する」。
【英訳】 What woman wants, God wants.
【由来】 『アカデミーフランセーズ辞典』第1版(1694)~第9版(1992)まで、コンスタントに収録されている有名な諺です。
ブリヤ=サヴァラン『美味礼讃』(1825)の冒頭にも出てきます(岩波文庫、上巻、p.25)。
【余談】 この諺を踏まえた表現として、ことわざ研究家の C. de Méry (1828) や Quitard (1861) は、18世紀前半に活躍したピエール=クロード・ニヴェル・ド・ラ・ショセの喜劇 L'École des amis (1737) 第4幕第5景に出てくる、次のせりふを引用しています。
- Ce que veut une femme est écrit dans le ciel
(女が欲することは空に書き込まれている)
「veut」と「une femme」は倒置。「écrit」は écrire(書く)の過去分詞。「est écrit」で受動態。
【諺もどき】「femme」を他の単語に置き換えれば、いくらでも新しい表現を作ることができます。「femme」の代わりに入れる名詞を無冠詞にすると、元の諺を意識した感じになって、いっそういい感じになります。
例えば「chat」(猫)に置き換えると、
- Ce que chat veut, Dieu le veut.
(猫が欲することは、神が欲する)
猫がああして欲しいという意思を示すと、飼い主の方が根負けして、猫の言いなりになったりするので...
Ce qui est amer à la bouche est doux au cœur.
【逐語訳】「口に苦いものは心に甘い」
【似た諺】「良薬は口に苦し」(『孔子家語』、『韓非子』)
【単語の意味と文法】 指示代名詞「Ce」は先行詞になると「...なこと・もの」。
「qui」は関係代名詞。
「Ce qui」で英語の what (先行詞を含む関係代名詞)に相当します。
「est」は être の現在3人称単数。
「amer」は形容詞で「苦い」。
「à」は「~に」「~にとって」という意味の前置詞。
「bouche」は女性名詞で「口」。
「doux」は形容詞で「甘い」。
「au」は à と le の縮約形。
「cœur」は男性名詞で「心」「心臓」。ただし、「胸」「胃」を指すこともあります。
ここは(口を通って胃に達するために)具体的な「胃」の意味に取り、諺全体で比喩的な意味になると取ったほうがよいかもしれません。
【諺の意味と用法】 仏仏辞典等では、次のように説明されています。
- 「薬を飲むように勧める場合に使われる」(フュルチエール)
- 「私達が嫌だと思うことは、私達にとってためになる場合が多い」(アカデミーフランセーズ辞典第8版、リトレ)
- 「味覚にとって不快なものは、健康には良い場合が多い」(Dournon)
【由来】 17世紀初頭には、キリスト教の教えを説いた本などに確認され、「苦しいことも無駄にはならない」というような文脈で出てきます。
仏仏辞典では、1690年のフュルチエールの辞典の他、『アカデミーフランセーズ辞典』には第1版(1694)から第8版(1932-1935)まで(いずれも amer の項目)収録されています。ただし、最新の第9版(1992)には収録されていません。
また、現代の諺辞典の類い(ラルースの諺辞典、ロベールの諺辞典、ロベールの表現辞典等)にも載っていません。
日本人としては「良薬口に苦し」にぴったりの表現なので、親近感を覚えてしまいますが、現在のフランスでは、あまり使われなくなっているようです。
Ce qui est écrit est écrit.
【逐語訳】「書かれているものは書かれている」
(書かれたものは書かれたものだ)
【諺の意味】いったん書かれたものは変更することはできない。
「決まったことは勝手に変えられない」(『小学館ロベール仏和大辞典』)。
【単語の意味と文法】 指示代名詞「Ce」は関係代名詞の先行詞になると、「...なもの」「...なこと」という意味。
「qui」は関係代名詞。
「est」は être の現在3人称単数。
「écrit」は他動詞 écrire(書く)の過去分詞。
「est écrit」で être + p.p. なので受動態。
「Ce qui est écrit(書かれているものは)」全体が大きな主語になり、その後ろの「est écrit(書かれている)」が動詞(受動態)になっています。
【由来】聖書の『ヨハネによる福音書』第19章22節に出てきます。
イエスが十字架につけられる前後のクライマックスの場面に出てくるので、非常に有名です。そのあたりを少し聖書から引用してみます(新共同訳による)。
- そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
(...)
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
この「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」という部分は、多くのフランス語訳聖書では、次のように訳されています。
- Ce que j'ai écrit, je l'ai écrit.
逐語訳:「私が書いたこと、私はそれを書いた」。
「Ce que j'ai écrit」の部分が文頭に遊離し、それを「l'」で受け直す形になっています。「ai écrit」は avoir + p.p. で複合過去。
各種フランス語訳聖書を比較対照できるサイト La Référence Biblique djep で検索しても、ほとんど軒並み、この「Ce que j'ai écrit, je l'ai écrit.」という形になっています。同サイトに載っていない 16世紀のカルヴァンの聖書やルーヴァンの聖書などでも(古い綴りを除けば)同じです。
ところが、サシー訳聖書(1667)だけは、表題と同じ「Ce qui est écrit, est écrit.」となっています。これだけを見ても、いかにサシー版が絶大な影響力を持っていたかが窺えます(ただし、サシー訳聖書以前にもこの表現は存在しなかったわけではありません)。
『アカデミーフランセーズ辞典』でも第1版(1694年)以降、表題の形でコンスタントに第8版(1932-1935)まで収録されていますが、最新の第9版(1992)では、なぜか収録されていないようです。
【ラテン語の諺】 各種ウルガータ訳聖書では、この部分は次のようになっています。
- quod scripsi, scripsi (クゥォド スクリプスィー スクリプスィー)
多くのフランス人(に限らずヨーロッパ人)は、このラテン語も知っているはずです。
Ce qui est fait est fait.
【逐語訳】「なされたことは、なされたことだ」(行われたことは行われたことだ)
【諺の意味】「済んだことはあれこれ言っても仕方がない」
「(通常、後悔すべき行為について話しながら)もう後戻りはできない、それについて話すのはやめよう」(TLFi )
【日本の諺】「覆水盆に返らず」、「後の祭」
【単語の意味と文法】 「Ce」は先行詞になると「...なこと・もの」。
「qui」は関係代名詞。
「Ce qui」で英語の what(先行詞を含む関係代名詞)に相当します。
「est」は être の現在3人称単数。
「fait」は他動詞 faire(する、行う)の過去分詞からできた形容詞で「なされた、行われた」。
être + p.p. で受動態と取ることもできますが、ここは「fait」は形容詞化していると取った方がすっきりします。
「Ce qui est fait」(なされたこと、行われたこと)全体が大きな主語になり、もう一度同じ「est fait」が反復されています。
「同語反復」(トートロジー)を用いた諺です。
【由来】 この諺は中世から存在し、さまざまに形を変えて多くの文学作品に登場します (Cf. TPMA, Tun, 3.1)。
12世紀後半に生まれた『狐物語』では、悪賢い狐のルナールに無理やり手ごめにされ、そのことを夫に責められて、開き直って発する妻の言葉の中に出てきます。
- 確かに辱しめられましたよ。でも仕方ないじゃないですか、どうしようもなかったんですから。こんな不愉快な話はよしましょうよ。「覆水盆に返らず」ですもの。済んだことはほっといて、もっと他のことを考えましょうよ。
訳は鈴木・福本・原野訳『狐物語』岩波文庫 p.25 による(下線引用者、以下同)。原文は Ce qui est fet n'est mie à fere. となっています。ちなみに、15世紀の写本にもこれとほぼ同じ Ce qui est fait n'est pas a fere. が出てきます(Morawski, N°335による)。
1316年に書かれた『アンジュー伯物語』では、素性の知れない女性と結婚してしまった伯爵について、人々が噂する話の中に出てきます。
- 伯爵の行いは突拍子もなく、身の振り方を誤ったと言う人々も多かった。もし同じ身分の女性と結婚していたら、立派な姻戚関係を結び、領地を拡大することもできただろうに。しかし、もう事が行われたら、やり直すことはできない。
出典:Le roman du comte d'Anjou, v. 3039-3040, éd. Mario Roques, Champion, 1931, p.93
原文は Mez quant ja est la chose fecte, / Ne puet pas bien estre desfecte となっています(Oxford 5th (2008), p.84でも引用)。
1400年前後(14世紀末~15世紀初頭)に書かれた短編集『結婚十五の歓び』には、現代とまったく同じ Ce qui est fait est fait. という形で出てきます。
その「第十一の歓び」で、未婚なのに言い寄られて妊娠してしまった娘に、母親が語りかける言葉の中に出てきます。
- 「こちらへおいで。以前話して聞かせましたね、おまえのしたようなことをしでかしたら最後、身の破滅だし、名誉も廃れてしまう、と。でも、出来てしまったことは、仕方がない。おまえが身重になったことは、わたしにはちゃんとわかっているのだから、本当のことをおっしゃい」
訳は新倉俊一訳『結婚十五の歓び』、岩波文庫 p.125 による(Pineaux (1956), p.49でも引用)。
ちなみに、この後、娘は母親に言い含められたとおりに芝居をして、すぐにもっと身分の高い他の男をたらし込んでまんまと結婚したものの、数か月たらずで子供を産んでしまい、結婚した男はだまされたことに気づいて苦悩する、という話になっています(「結婚では、だませる者はだませ」という諺もあり、それこそ「後の祭」です)。
この『結婚十五の歓び』というのは皮肉が効いた題名で、実は男にとっての「結婚十五の苦しみ」を描いた面白い作品です。
仏仏辞典『アカデミーフランセーズ』では第6版(1835)以降、最新の第9版まで収録されています。
多くの仏和辞典でも、fait(形容詞)を引くとこの諺が載っています。
【同じ意味の表現】 会話では、次の表現が多用されます(Rey/Chantreau, p.395)。
- C'est fait, c'est fait.
逐語訳:「(それは)行われた、(それは)行われた」。
この表現の前に Quand...(...ときには)、Une fois que...(ひとたび...したら)などをつけ、前半を従属節にすることもよくあります。
- Quand c'est fait, c'est fait. (行われたら、行われたんだ)。
- Une fois que c'est fait, c'est fait. (ひとたび行われたら、行われたんだ)。
「終わったことは終わったことだ」、「後悔してもしょうがない」というような文脈でよく使われるようです。
【似た諺】次の諺のほうが「覆水盆に返らず」に近い感じがあります(こちらも古くから存在し、現代でも生きています)。
- Ce qui est perdu est perdu.
失われたものは失われたものだ。
C'est bonnet blanc et blanc bonnet.
【逐語訳】「それは白い帽子と白帽子だ」
【単語の意味】「C'est ~」は「それ(これ)は~だ」。
「bonnet」は男性名詞で「縁のない帽子」(フランス語では帽子の種類に応じて異なる単語が存在します)。 "bonnet blanc" で Google 画像検索をすると、毛糸を編んだニットキャップや、女性向けのフリルのついた帽子(ボンネット)などが bonnet に含まれることがわかります。「blanc」は形容詞で「白い」。
【文法】 付加的用法の場合、形容詞は原則として名詞の後ろに置きますが、一部の短い形容詞は、名詞の前に置きます。blanc は通常は名詞の後ろに置きますが、たまに名詞の前に置く場合もあります(特に、後ろにハイフンのついた複合語で)。例えば
blanc-bec (逐語訳では「白い嘴(くちばし)」で「青二才」の意味)
などです。(ブランベックと発音)。
名詞の前に置くか後ろに置くかで意味が変わる形容詞もありますが、blanc の場合は特に意味の違いはありません。あえて言うと、名詞の前に置くと複合語(一語扱い)のようになって、「白い帽子」というよりも「白帽子」という感じかもしれません。ただ、要するに意味は同じなので、「bonnet blanc」と言っても「blanc bonnet」と言っても大差ありません。ほとんど同じです。
【諺の意味】 違う形を取っているが、似たようなものだ。実質的には同じだ。
【似た諺】五十歩百歩、大同小異
【他のバージョン】 「bonnet blanc」と「blanc bonnet」の順序を逆にして次のように言うこともあります。
- C'est blanc bonnet et bonnet blanc.
それこそ、どちらでも似たようなものです。
【エピソード】戦後フランス最大の指導者ドゴールの辞任を受けて行われた1969年のフランス大統領選挙(Élection présidentielle française de 1969)では、左派が票をまとめきれず、第2回投票(決選投票)に進出したのは、どちらも右派のジョルジュ・ポンピドゥー(Georges Pompidou)とアラン・ポエル(Alain Poher)でした。この二人について、左派フランス共産党のジャック・デュクロ(Jacques Duclos)がこの表現を用い、一躍この言いまわしが有名になったそうです。「所詮は右派同士の対決で、どちらが勝っても似たようなものだ」というような意味です。
C'est dans les vieux pots qu'on fait les meilleures soupes.
【訳】「古い鍋でこそ最良のスープは作られる」(2015/1/13加筆訂正)
- 「pot」は本来は「鍋」の意味(下記参照)。
【背景】昔は、スープを作る鍋は洗わなかったため、以前作ったスープの残りがこびりついており、たくさんこびりついて黒光りがしたような鍋ほど、風味のよいスープが作られたそうです。
継ぎ足し継ぎ足し作られる、うなぎのタレのようなものでしょうか。
【諺の意味】「年を取って経験を積んだ人は、よりよい仕事をする」。
「年齢や経験が物を言うことも多い」。
とくに「年を取った女性も捨てたものではない」という意味で使われることがあります。
現代のラルースの諺辞典でも、この諺は「女性と老い」という項目に分類されています(Maloux (2009), p.205)。
「鍋」というのは、精神分析学では「子宮」を意味するはずですが、この諺のように、そのイメージ抜きにしては語れない諺もあります。
【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。
【似た諺】「亀の甲より年の功」
【単語の意味と文法】「C'est ~ que...」は強調構文。この間に挟まれた「dans les vieux pots(古い鍋の中で)」が強調されています。
「pot」は男性名詞で、現在は普通は(保存する)「壺」という意味ですが、古くは(調理する)「鍋」という意味でした。詳しい辞書を引くと〔古〕として「鍋」という意味が載っています。現在でも、料理用語の「ポトフ」pot-au-feu(逐語訳すると「火にかけた鍋」で、煮込み料理のこと)などに「鍋」という意味が残っています。
「On」は漠然と「人は」という意味で、ここでは受身的に訳すとうまくいきます(「人はスープを作る」と訳すよりも「スープが作られる」と訳した方が自然)。
「fait」は他動詞 faire(作る)の現在3人称単数。
「meilleures」は bon(良い、おいしい)の比較級・最上級 meilleur に女性複数の es がついた形。定冠詞がついているので最上級。「最良の」とも「最もおいしい」とも訳せます。
ただし、内容的には「新しい鍋よりも、むしろ古い鍋のほうがおいしいスープができる」という意味なので、実質的には比較級に近いともいえます。
- たとえば仏和辞典で meilleur を引くと、よく Les plaisanteries les plus courtes sont les meilleures. という例文が載っていますが、これは辞書によって「冗談は一番短いものが一番良い」とも「冗談は短いほどよい」とも訳されており、ここもこれに似ています。
【他のバージョン】昔は meilleures ではなく bonnes(おいしい)を使ったようです。
- C'est dans les vieux pots qu'on fait les bonnes soupes.
(古い鍋でこそ、おいしいスープは作られる)
また、現代では pot の代わりに女性名詞 marmite(大きな鍋)や casserole(シチュー鍋)を使うこともあります。
- C'est dans les vieilles marmites qu'on fait les meilleures soupes.
(古い大鍋でこそ最良のスープは作られる)- C'est dans les vieilles casseroles qu'on fait les meilleures soupes.
(古いシチュー鍋でこそ最良のスープは作られる)
これは、前述のように pot で「鍋」を表すのは古語であり、現代では「鍋」はふつうは marmite や casserole を使うため、現代の意味にあわせて単語を入れ替えた(つまり諺を「現代化」した)結果だといえます。
現代の感覚だと、pot はまず第一に「壺」というイメージであり、「壺の中でスープを作る」というのは変だからです。
逆に、pot を「壺」の意味に取ったまま、「スープ」を「ジャム」に置き換える言葉遊びもよく見かけます。
- C'est dans les vieux pots qu'on fait les meilleures confitures.
(古い壺でこそ最良のジャムは作られる)
「壺」の中で作るものといえば、ジャムが思い浮かぶからです(ただし pot はガラス製のジャムの「瓶」も指します)。
この「ジャム」のバージョンも今では市民権を得ており、最初はユーモアを伴った言葉遊びだったはずですが、現在では(誤って)昔からある正統的な諺だと受け止められ、ふつうに(つまりユーモアの意図なく)使われることも多いようです。
もしかして、近い将来、「スープ」soupes よりも「ジャム」confitures のほうが正しいと思う人の方が多くなるかもしれません。
【発音】ラルースの仏英辞典で pot を引き、1 の意味の最後に記載されているこの諺上の単語をクリックし、出てきたスピーカーのマークをクリックすると、発音を聞くことができます(「bonnes」と「meilleures」が両方つなげて発音されています)。
【由来】1611年のコットグレーヴの仏英辞典に「Il n'y a rien tel qu'un vieil pot à faire la bonne soupe」(古い語法)という形で収録されており、英語で「No pot makes so good pottage as the old one (古い鍋ほどおいしいポタージュを作る鍋はない)」という意味だと解説されています。
1640年のウーダン『フランス奇言集』には、次の形で収録されています。
著者ウーダンは、この諺は次のような意味だと説明しています。
- これは人から「年を取っている」と言われた女性が答える言葉で、若い女と同じくらい魅力や優しさを持っているという意味である。
この解釈だと、「bonne」は「おいしい」という意味の他に、比喩的に「人柄のよい、善良な」という意味が込められている感じになります。
以上のように、昔は「bonne」が使われていたようです。
『アカデミーフランセーズ辞典』でも、第6版(1835)、第7版(1878)、第8版(1932-1935)では「On fait de bonne soupe dans un vieux pot」となっていますが(ただし意味は「古い物も役に立ち続ける」)、最新の第9版(1992)では「meilleures」を使った表題の形になっています(意味は「しばしば年齢や経験が物を言う」)。
C'est l’hôpital qui se moque de la Charité.
【逐語訳】「それは慈善病院をあざ笑う施療院だ」。
【意味】「施療院 (hôpital) にいる人が慈善病院 (Charité) にいる人をあざ笑うようなものだ」。
つまり、「みじめな境遇にいる人が、他のみじめな境遇にいる人をばかにするようなものだ」。
日本の「目くそ鼻くそを笑う」に同じ。
【単語の意味】 hôpital は男性名詞で「病院」。hospitalité(歓待、客を温かくもてなすこと)や hôtel(ホテル)と語源が共通で、中世には巡礼者を泊めたり貧者や乞食、老人などを受け入れる無料の慈善施設、つまり「施療院」を指しました。のちに純粋に「病院」という意味になっていきますが、ここでは昔の意味を踏まえておく必要があります。
charité は女性名詞で「慈善、奉仕、隣人愛」などの意味。ただし「慈善病院」という意味もあります。これは、charité にはキリスト教で主要な徳の一つとされる「愛徳」という意味もあり(ラテン語では caritas カリタス、英語では charity チャリティー)、これが Filles de la Charité(愛徳修道女会)などのように修道会の名前に取り入れられることが多く、こうした修道会が運営する病院が hôpital de la Charité(慈善病院)、略して Charité と呼ばれ、フランス各地に存在したからです。この「慈善病院」という意味では(特定の固有名詞ではなくても)通常は大文字で Charité と書きます。
つまり、hôpital も Charité も似たような意味ということになります。
moquer はいわゆる「本質的代名動詞」で、se moquer de~ で「~をあざける、あざ笑う、嘲笑する、ばかにする、からかう」。
文全体を強調構文ととることも可能で、それらしく直訳すと「慈善病院をあざ笑っているのが施療院だ」、「ほかならぬ施療院が慈善病院をあざ笑っている」。
なお、C'est... qui... を省いて L’hôpital se moque de la Charité.(施療院が慈善病院をあざ笑う)ということもあり、こちらのほうが「目くそ鼻くそを笑う」に近い感じになります。
- その他、se moquer de~ よりもくだけた se foutre de~ を使った C'est l'hôpital qui se fout de la charité. や L'hôpital se fout de la charité. なども使われます。
【由来】 19世紀のリヨンの俗語表現を集めた『グランコートのリトレ』に次のように書かれています。
- 「それは慈善病院をあざ笑う施療院だ」C'est l'hôpital qui se fiche de la Charité. これは、ある人が自分自身が持っている欠点のことで他人を非難するときに使われる。同様に「それは鍋をあざけるフライパンだ」C'est la poêle qui se gausse du chaudron. という言い方もあるが、こちらの表現はリヨン固有のものではない。
つまり、この諺はもともとリヨンないし南仏一帯の表現だったようです。実際、『グランコートのリトレ』以前には、この諺が載っている諺辞典や国語辞典は存在しません。
しかし、現在ではフランスでは誰でも知っている広く使われる諺になっています。私見によれば、この諺が全国的に有名になったのは、『プチ・ラルース』の諺リストに取り上げられたことが大きいと考えられます。
【似た諺】「それは慈善病院をあざ笑う施療院だ」に似た諺としては、上の引用文でも少し違う形で言及されていた、次の諺があります。
- C'est la poêle qui se moque du chaudron.
- C'est la poêle qui se fout du chaudron.
それは鍋をあざ笑うフライパンだ
(se moquer de~ も se foutre de~ もほぼ同じ意味)
「それは慈善病院をあざ笑う施療院だ」と並んで、「目くそ鼻くそを笑う」のフランス語バージョンの双璧といったところです。
また、少し頻度は落ちますが、次のような諺もあります。
- La pelle se moque du fourgon.
スコップが火かき棒をあざ笑う
この場合の「スコップ」は石炭用スコップを指し、スコップも火かき棒も暖炉で使用して炭(すみ)でまっ黒になるので、「まっ黒な奴がまっ黒な奴を笑う」といった感じです。
ただし、この諺は19世紀まではよく使われたようですが、現在では暖炉というもの自体あまり使われなくなっているために、pelle や fourgon といった単語も、おもに暖炉関連以外の意味で使われており、現代のフランス人には縁遠いものになっているようです。この諺の使用頻度が落ちたのは、おそらくそのためです。
この諺については、19世紀のグランヴィルの図版があります。
その他、聖書に出てくる次のイエスの言葉も似ているとされることがあります。
- Pourquoi voyez-vous une paille dans l'œil de votre frère, vous qui ne voyez pas une poutre dans votre œil ?〔読解編〕
何ゆえ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある梁木(うつはり)を認めぬのか(文語訳)
「他人の欠点は目ざとく見つけるくせに、自分の欠点は見ないのか」といった意味。
この「塵」と「梁木」の部分の訳し方は色々で、新共同訳では「おが屑」と「丸太」、フランス語(サシ訳)では paille(藁 [わら])と poutre(梁 [はり])となっています。これを踏まえ、次の表現もよく知られています。
- C'est la paille et la poutre.
それは藁(わら)と梁(はり)だ。
日本語に置き換えれば、「それは目くそと鼻くそだ」という感じでしょうか。
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
Chat échaudé craint l'eau froide.
【逐語訳】「やけどをした猫は冷たい水を恐れる」
フランスの猫も、「猫舌」のようです。
【使い方】たとえば、失恋で心の傷を負い、もう恋愛はこりごりだと思い込んで、いつまでも次の新しい恋愛に慎重になっている友人に対して、優しくからかい半分にかける言葉として使われたりします(Cf. Brunet (2011), p.30)。
【似た諺】「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」
【単語の意味と文法】「Chat」は男性名詞で「猫」。
古くからある諺なので無冠詞になっています。
「échaudé」は他動詞 échauder の過去分詞。
échauder は「熱湯をかける、やけどをさせる」という意味もありますが、例えば料理で「(トマトなどの皮をむきやすくするために)湯にくぐらせる、湯むきにする」という意味でも使われ、動物を「(毛を取ったり皮を剥ぐために)熱湯に浸ける、湯はぎをする」という意味もあります。
この諺も、もしかして、もとは「釜ゆでにされた猫は冷たい水を恐れる」というのに近い、動物たちにとっては恐ろしい残酷な意味だったのかもしれません。
煮えたぎる熱湯の中に入れられて(または熱湯をかけられて)、運良く難を逃れた猫(またはその他の動物)が、トラウマとなって冷たい水さえも恐れるようになるのも無理もありません。
「猫舌」などと悠長なことを言っている場合ではありません。
- échauder を「熱湯に浸ける、湯はぎをする」という意味に取る解釈は ProVerbes ; Francparler によるものです。普通は「熱湯をかける、やけどをさせる」という意味だと受け止められています。
「échaudé」は分詞として「やけどをさせられた→やけどをした」という意味で直前の名詞「Chat(猫)」に掛かります。
ちなみに、普通は「やけどをする」というのは他動詞 brûler(焼く)を使用し、例えば次のように言います。
- se brûler la main(手をやけどする)
この再帰代名詞 se は「自分の」という意味で、逐語訳すると「自分の手を焼く」。
「craint」は他動詞 craindre(恐れる)の現在 3人称単数。
「eau」は女性名詞で「水」。
「froide」は形容詞 froid(冷たい)の女性単数の形。
【由来】 古くは特に「猫」とは明示せずに、「やけどをした(熱湯をかけられた)者は水を恐れる」という形だったようです。
たとえば、12世紀後半の『狐物語』には次のようにして出てきます。
- 火傷した者は水を怖がると言うだろう、
俺はもうこりごりなんだ。
鈴木・福本・原野訳『狐物語』、白水社 p.339 の訳による。原文は eschaudez eve crient となっています(メオン版 第2巻 (Google books), p.222, 15594 行目)。
その他、古い用例としては次のものがあります。
- 13世紀前半の『薔薇物語』前篇:
eschaudez doit eve doter.
(Langlois版1784行目)- 13世紀末の写本(Morawski, N°710):
Eschaudez eve creint.
その他、「猫」の代わりに「犬」と言うバージョンなど、歴史的には多くのバリエーションが存在します。
Charbonnier est maître chez soi.
【逐語訳】「炭焼きも自分の家では主人だ」
【諺の意味】「だれもが家では一国一城のあるじだ」(小学館ロベール仏和大辞典)
「どんな者でも自分の家では権威がある」(ロワイヤル仏和中辞典)
「誰でも自分の家では何をしようと自由だ」(ディコ仏和辞典)
- バルザックの小説『ウージェニー・グランデ』(「内輪の悲しみ」)では、父親のせりふとして、「私の家庭内のことに余計な口出しをしないでくれ!」という意味で使われています。
別に「炭焼き」でなくてもいいはずですが、炭焼きは人里離れた森の中に住んでいて、独立の象徴というイメージがある(TLFi による)ために、炭焼きが使われているともいえます。
【単語の意味と文法】「Charbonnier」は「炭焼き」。
今では職業としてはほとんど存在しなくなりましたが、伐採した木を窯(かま)の中で木炭(もくたん)にし、大きな袋に入れて、かついで市中に売りに歩くのを職業としていた人のことです。
すすで顔が黒くなっているイメージがあり、「炭焼きのように黒い」(noir comme un charbonnier)という表現があります。余談ですが、人権の概念が希薄だった頃には、黒人を指して「炭焼きのように黒い」と言うこともあったようです。
語源的には、英語の carbon(カーボン)の元にもなったフランス語 charbon(石炭、木炭)から派生した言葉です。
ちなみに、スパゲッティの一種「カルボナーラ」はイタリア語で spaghetti alla carbonara と言い、直訳すると「炭焼き風スパゲッティ」。
「est」は être の現在3人称単数。
「maître」は「主人」。属詞なので無冠詞。
「chez」は前置詞で「~の家で」。
「soi」は再帰代名詞 se の強勢形で、「自分」という意味。前置詞の後ろなので強勢形になっています。
直訳すると、「炭焼きは自分の家では主人だ」ですが、内容的には「たとえ(貧しい)炭焼きであっても」というニュアンスなので、「炭焼きも」としておきます。
【エピソード】フランソワ1世(在位1515-1547年)にまつわる話に由来します。
フランソワ1世の死後100年少し経ってから書かれた、1656年のフルリー・ド・ベランジャンの本から、少し長くなりますが、ざっと訳してみます(おそらく本邦初訳)。
- フランソワ1世は、狩に夢中になり、まっしぐらに獣を追いかけて、森の中で迷ってしまった。気がつくと夜になっていたので、しかたなく日が昇るまで、見知らぬ狩人として炭焼きの小屋で一夜を過ごすはめになった。炭焼きは、できる限りの心づくしをして歓待した。しかし食卓につく段になると、炭焼きは「誰でも自分の家では主人なのだ」と言って、いつもの一番いい席にすわり、見知らぬ狩人には二番目の席を勧めた。炭焼きは自分が仕留めた獣の肉を、大雑把に切り分けて土器に盛って勧め、「すきなだけ取ってお食べください、ただし『大きな鼻』には内緒ですぞ」と付け加えた。「大きな鼻」というのは、当時の俗語で王を指す言葉であった(実際、王は立派な大きな鼻をしていた)。王は心づくしのもてなしに気をよくし、狩をして腹がすいていたのでよく食べ、そのまま小屋で一夜を明かした。
翌朝、日の出とともに王は戸口のところに立ち、供の者たちに居場所を知らせるために角笛(つのぶえ)を吹いた。音がする方角を聞きつけて、四方八方から立派な貴族が大勢駆けつけてきた。彼らが全員ひざまづいてお辞儀をし、口を揃えて「陛下」と呼ぶのを見て、炭焼きは昨晩泊めた客が王であったことを悟り、処罰されるのではないかと恐れて青ざめた。なぜなら、王の森で狩をした者は死刑に処せられると定められていたからである。炭焼きが怯えた顔をしているのを見た王は、好意のしるしに肩に手を置き、安心させた。のみならず、気持ちよく歓待してくれたことへのお礼として、今後は王の支配の及ぶ地域では、水上でも陸上でも、炭の売買にかかる税金をすべて免除することにした。
この特権は今日なお守られており、炭焼きの言葉も今にいたるまでまで語り継がれている。
出典:Fleury de Bellingen, L'étymologie ou explication des proverbes françois, 1656, pp.31-33。この本は対話形式になっていて、上の範囲だけを抜粋して逐語訳するとかえってわかりにくい箇所が出てくるため、必ずしも完全な逐語訳にはしませんでしたが、語源的な考察が挟まれている部分をカットした以外は、ほぼ忠実に内容をなぞりました。ちなみに、問題の箇所は原文では Chacun est maistre chez soy. となっています(古い綴りを含む)。
このエピソードは Quitard (1842) でも違った風に脚色されて語られており、田辺 (1976)、吉岡 (1976)、渡辺・田中 (1977)、Maloux (2009) などはいずれも同書を元に書かれているようです。
【由来】上の本よりも古く、実際にフランソワ1世本人にも仕えたブレーズ・ド・モンリュック(1500/1502-1577)の『回想録』(死後1592年刊)に短く出てきます。
モンリュックはフランソワ1世からアンリ3世までの5人の王に仕え、イタリア戦争と宗教戦争で手柄を立て、歴代の王から厚い信任を得て、最終的には元帥に任ぜられましたが、同時に『回想録』も残しています。その中で、モンリュックはフランソワ1世の孫にあたる若いシャルル9世(在位1561-1574年)に対して、次のように語りかけています。
- 陛下のおじい様に炭焼きが申し上げたように、誰もが自分の家では王なのですから。
出典:Commentaires et lettres de Blaise de Monluc, maréchal de France, 1867, Vol.3, p.482
「陛下のおじい様」とは、もちろんフランソワ1世のことです。
この部分、原文は次のようになっています(古い綴りを含む)。
- Chascun est roy en sa maison.
誰もが自分の家では王である。
1611年のコットグレーヴの仏英辞典にも、これとまったく同じ綴りで収録されており、古い英語で「Everie one is a King in his owne house.」と訳されています。
1625年の D. マルタンの諺集(N°1092)でも同じ綴りで収録されています。
以上では、すべて Chacun... (誰もが...)が主語となっています。
ところが、1694年の『アカデミー辞典』第1版では、Charbonnier... (炭焼きは...)を主語にした次の形で諺として収録されています。
- Le Charbonnier est maître dans sa maison.
炭焼きも自分の家では主人だ。
これが「Charbonnier」を主語にした最初期の用例です(初出かもしれません)。
同辞典の第6版(1835)からは「dans sa maison」の代わりに「chez soi」を使った表題と同じ形も併記されるようになり、両者併存の状態が第8版(1932-1935)まで続いたのち、最新の第9版(1992-)では表題の形だけが収録されています。
なお、同辞典ではこれとは別に Chacun est maître chez soi. (誰もが自分の家では主人である)も、第2版以降に(諺としてではなくmaître の用例として)記載されています。
【他のバージョン】 諺の末尾で「soi」の代わりに「lui」(人称代名詞3人称単数男性)を使うこともあります(こちらもよく使われます)。
- Charbonnier est maître chez lui.
バルザックの『ウージェニー・グランデ』や TLFi ではこの形になっています。
もともと soi を使うのは、典型的には不定代名詞が主語になっている場合です(例えば On a souvent besoin d'un plus petit que soi. など)。
しかし辞書で soi を引くと、いくつかの例外も含め、色々な説明が載っています。
文法的に「lui」と「soi」のどちらを使うべきかについては、朝倉『新フランス文法事典』 p.501 で次のように説明されています(人が主語の場合)。
- soi と lui の使い分けは時代によって変遷した。古典時代には今日より自由に soi を用いた。
- 19世紀の慣用では、特に曖昧を避ける意図がなければ lui, elle を用いた。この慣用は今日まで続いている。
- 現代では soi の用法が拡張され、古典時代の用法が復活しつつある。
フランスで「古典時代」(l'âge classique)といえば、17~18世紀を指します。
この諺の「Charbonnier」を主語にした言い方は、前記のように17世紀(1694年の『アカデミー辞典』第1版)にできたので、「古典時代の用法」により「soi」が使われたと言えるでしょう。その後、「19世紀の慣用」によって「lui」の形も広まったものの、現代でも「古典時代の用法が復活しつつある」ために「soi」を使っても違和感がない、と言えるかと思います。
Chassez le naturel, il revient au galop.
【逐語訳】「生まれつきのものを追い払ってみたまえ、それは駆け足で戻ってくる」
- 田邊 (1959) の訳「天性を追いはらってみたまえ、駆け足でもどってくる」を一部拝借。
【諺の意味】長年染み付いた性癖は、追い払おうとしても、すぐに戻ってきてしまうものだ(隠そうとしても、すぐに化けの皮が剥がれてしまうものだ)。
【使い方】本人は隠そうとしても、何かの拍子に長年染み付いた性癖が出てしまった時に、周囲にいる人が(少し笑いを含みながら)「本性は隠せないものだな(素性は争えないものだな)」という意味で、この諺を言ったりします。
【単語の意味】「Chassez」は chasser (自動詞だと「狩をする」、他動詞だと「追い求める」または「追い払う」)の現在2人称複数と同じ形ですが、 vous がないため、命令形。
ここは後ろに目的語があり、他動詞として使われているので、「追い払え」となります。
形容詞「naturel」は、名詞「nature」から来ています。
「nature」は英語と同様、(自然界の)「自然」という意味と、(人間に関して)「天性・性格」(または物に関して「性質」)という意味があります。
その形容詞なので、「naturel」は「自然の」または「生まれつきの」。
定冠詞 le + 形容詞で「~なこと・~なもの」という意味になり、抽象概念を表すので、「自然のもの」または「生まれつきのもの」となります(ここでは後者)。
「il(それ)」は「le naturel」を指します。
「revient」は「re」を省いた「vient」と同じ活用をします。「vient」は自動詞 venir(来る)の現在3人称単数なので、「revient」の不定形は「revenir」。 re は「再び」という意味の接頭語なので、「再び + 来る」→「戻ってくる」という意味になります。
「galop」は「ギャロップ(馬の駆け足)」(末尾の p は発音しません)。
「au」は前置詞 à + 定冠詞 le の縮約形で、この場合の à は「~で」という感じです。
「au galop」で「ギャロップで」→「駆け足で」「急いで」という熟語。
【図版】この諺を題材にした絵葉書があります。
【日本の諺】「三つ子の魂百まで」
【由来】古代ローマ、紀元前1世紀のホラティウスの『書簡詩』に見える次の言葉に由来します(訳は『ラテン語名句小辞典』による)。
- Naturam expellas furca, tamen usque recurret.
(たとえあなたが熊手で自然を追い払っても、自然は絶えず戻って来る)
これは、「自然と都会とどちらが優れているか」という議論の中で、「自然のほうが優れている」という文脈で使われているようです(同書による)。
しかし、1500年に初版が出たエラスムス『格言集』の II, vii, 14 (1614) では、このホラティウスの言葉は次のように解釈されています(仏語版をもとに訳してみます)。
- これは、人は、自然(天性)が私達の深いところに導き入れて根づかせたものを忘れ去ることは難しい、という意味である。例えば、恐れや恥ずかしさ、その他の理由によって私達のものとは異なる性格をまとわざるを得なくなった場合でも、私達は何かの機会に本来の習慣に容易に戻ってしまうものだ。
ラテン語の natura (フランス語の nature)という言葉を、ホラティウスは「自然」という意味で使っていたのが、エラスムスは「天性」という意味に取っていることがわかります。
表題のフランス語は、1732年に初演されたデトゥーシュ(本名フィリップ・ネリコー、 Philippe Néricault, dit Destouches)の喜劇 Le Glorieux の中で初めて出てきます。
【諺もどき】この諺をもじって、カナダ政府による次のようなサイトがあります。
- Chassez les proverbes, ils reviennent au galop.
(諺を追い払ってみたまえ、それは駆け足で戻ってくる)
主語が複数形なので、動詞は revienir の現在3人称複数の「reviennent」が使われています。
「諺など嫌いだと思って押しのけようとしても、つきあわざるをえない」というような意味でしょうか。3択式のクイズ形式になっており、フランス語の諺の知識を試すことができます。
Chien qui aboie ne mord pas.
【逐語訳】 「吠える犬は噛まない」
【意味】 「脅し文句を言ったり、騒ぎ立てたりする人のことを、あまり恐れる必要はない」。
仏和辞典等には、ほぼ同じように書かれています。
- 「一番脅し文句を言う人が最も恐るべきなのではない」(Quitard (1842))
- 「一番騒ぐ人々が最も恐るべきなのではない」(Academie 9e、Littré)
- 「わめき立てる人が最も恐るべきなのではない」(TLFi )
【使い方】 「脅し文句について、軽蔑して使う」(Littré)。
たとえば学校で、叱ってばかりいる教師について、「たかをくくる」ために生徒が使ったりするようです(少し「拡大解釈」した使い方かもしれません)。
【単語の意味と文法】 「Chien」は男性名詞で「犬」。
「qui」は関係代名詞。
「aboie」は自動詞 aboyer (〔犬が〕吠える)の現在 3人称単数。aboyer は nettoyer と同じ活用をする不規則動詞です。
「mord」は、自動詞にも他動詞にもなる動詞(ここでは自動詞) mordre (噛む)の現在 3人称単数。mordre は perdre と同じ活用をする不規則動詞です。
「ne... pas」で否定になっています。
【由来】 13 世紀末の写本に、「Chascuns chiens qui abaie ne mort pas.」(古い綴り・語法を含む)と書かれています(Morawski, N°348 による。Oxford, 5th (2008), p.13 でも引用)。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、第1版(1694)から次の形で収録されています(現代の綴りに直して引用します)。
- Tous les chiens qui aboient ne mordent pas.
(すべての吠える犬が噛むわけではない)
「tout (すべての)」は ne... pas と組み合わせると部分否定になります。
ちなみに、『ロワイヤル仏和中辞典』で aboyer を引くと、この形で載っています。
この形と平行し、第5版(1798)からは表題の形でも収録されるようになります。
両方の形が並存する状態が第8版(1932-1935)まで続き、最新の第9版(1992-)からは表題の形のみとなっています。
【英語】 英語では次のように言います。
- Barking dogs seldom bite. (吠える犬は滅多に噛まない)
- A barking dog never bites. (吠える犬は決して噛まない)
この英語の諺は、「大声で脅し文句を言う人や、大言壮語する癖のある人の言うことは、本気にする必要はない」という意味だそうですが(English Proverbs Explained による)、フランス語の場合は「大言壮語」という意味では普通は使わないようです。
【似た諺 1 】 大声でわめき立てる人よりも、むしろ表面上は静かにしている人のほうが怖いのだ、という意味で、次の諺と裏表の関係にあるといえます。
【似た諺 2 】 「吠える犬など恐れるな」、「騒ぎ立てる人のことは気にするな」という点では、次の諺と共通しています。
【似た諺 3 】 ラルースの諺辞典(Maloux (2009), p.340)では、次の諺が一緒に並べられています。
- Toutes les fois qu'il tonne, la foudre ne tombe pas.
(雷は鳴るたびに毎回落ちるわけではない)
【似た諺 4 】 語調が似たものとしては、次のような諺があります。
- Chien mort ne mord pas.
(死んだ犬は噛まない)
「mort」(死んだ)「mord」(噛む)が同じ発音なので、語呂が良いのが特徴です。
日本の「死人に口なし」に似た発想の諺ですが、残念ながらあまり使われないようです。
Comme on fait son lit, on se couche.
【逐語訳】 「人は自分のベッドを整えた通りに寝る」
【諺の意味】 シーツがぐちゃぐちゃのままだと、寝心地が悪いのを我慢しなければならず、寝不足になってしまうのと同様に、人は自分のした行為の報いを受けなければならない。
【似た諺】 「自業自得」
【単語の意味と文法】 「Comme」は色々な意味がありますが、基本的には英語の as と同じです。ここは接続詞で「...(する)ように、...(する)通りに」。
「on」は漠然と「人は」ですが、訳さなくても構いません。
「fait」は他動詞 faire (作る)の現在(3人称単数)。
「son」は「自分の」。主語の「on」を指します。
「lit」は男性名詞で「ベッド」。
「faire son lit」で「ベッドを作る」、つまり「ベッドメーキングをする(シーツの乱れなどを直して整える)」という意味。「ベッドを整える」という感じです。
「Comme on fait son lit」が従属節で、「on se couche」が主節です。
主節でも「on」が使われています。 on はもともと漠然とした言葉なので、2 回目に出てきたときに il などに置き換えることはできません。何回出てきても on です。
「se」は再帰代名詞。
「couche」は他動詞 coucher (寝かせる)の現在(3人称単数)。この直接目的が「se」になっているので、「se」は「自分を」という意味になり、直訳すると「人は自分を寝かせる」ですが、「se」が入ることで他動詞が自動詞的な意味に変換され、「人は寝る」という意味になります。
【英語の諺】 As you make your bed, so you must lie upon it.
【由来】 『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.200 には、この英語の諺が 15 世紀後半のフランス語の諺「Comme on faict son lict on le treuve.」(「人は自分が整えた通りの状態でベットを見出す」、古い綴りを含む)に由来すると書かれていますが、出典が書かれていません。そこで調べたところ、1482 年にフランスのラングルで上演された『殉教者ラングル司教聖ディディエ猊下(げいか)の生涯と受難』(1855 年に活字化され刊行、仏語解題は ARLIMA に記載)と題される聖史劇に出てきます(原文は Internet Archive で閲覧可能、p. 430 最終行に記載)。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、第 1 版(1694)~第 9 版(1992)まで、表題と同じ形でコンスタントに収録されています。
【フランス語の似た諺】
On récolte ce qu'on a semé. (人は自分が蒔まいたものを収穫する)
Quand le vin est tiré, il faut le boire. (酒を樽から出したら、飲まなければならない)
Contentement passe richesse.
【逐語訳】 「満足は富にまさる」
【諺の意味】 そのままの意味ですが、仏仏辞典では次のように説明されています。
【似た諺】 「足るを知る(足ることを知る)」(老子)
「最良のものは良いものの敵だ」
【単語の意味】 「Contentement」は男性名詞で「満足」。
「richesse」は女性名詞で「富、金持ちであること」。諺なので無冠詞になっています。
「passe」は passer の現在3人称単数。
passer はここでは他動詞で「~を凌駕(りょうが)する、~を上回る、~に勝(まさ)る」。やや文語調で用いられるので、『ロワイヤル仏和中辞典』あたりでないと、そのままズバリの意味は載っていませんが、諺ではよく見られます。
【由来】 1666年に初演されたモリエールの喜劇『いやいやながら医者にされ』で取り上げられて有名になった諺。第2幕第2景で、結婚相手の財産や持参金が話題になっている場面で出てきます(下線は引用者)。
- ともかく、結婚でもなんでもよ、満足できりゃ銭金(ぜにかね)いらぬ、っていうじゃごぜえませんか。おやじさんやおふくろさんが、「婿(むこ)はいくら持ってる?」、「嫁はいくら持ってくる?」なんてしょっちゅう訊くのは、よぐねえ癖でごぜえますだ。
鈴木力衛訳『モリエール全集 1 』中央公論社、p.226による。
だいぶ意訳されていますが、下線部分の原文は次のようになっています。
- En mariage, comme ailleurs, contentement passe richesse.
逐語訳すると、「結婚においては、その他のことと同様、満足は富にまさる」。
このモリエールの言葉自体、「結婚」に関する名言として紹介されることがあります。ラルースの諺辞典では「結婚と金銭」という項目に収録されており(Maloux (2009), p.327)、日本語版『ラルース世界ことわざ名言辞典』では次のように訳されています(p.142)。
- ほかのことでも同じだが、結婚生活では、金より満足感が第一である。
その他、モリエールよりも早い用例としては、1640年版の Mellema の フランス語→フラマン語辞典などにも確認されます。
仏仏辞典では 1690年のフュルチエールの辞典や、『アカデミーフランセーズ辞典』でも第 1 版(1694)~第 9 版(1992)までコンスタントに収録されています。
De deux maux, il faut choisir le moindre.
【訳】 「2つの悪の中では、小さいほうを選ぶ必要がある」
【単語の意味と文法】 文頭の前置詞 de は、最上級と一緒に使うと「~の中で」という意味になります。
(辞書で de を引くと、例えば『ディコ仏和辞典』なら 1 の 8 「部分」の「~の中の」の中の「最上級と共に」、『ロワイヤル仏和中辞典』なら A の 6 「全体の一部」に該当します)。
「deux」は「2 つの」。
「maux」は mal の複数形。mal はここでは男性名詞で「悪」という意味。
「il faut」は「~する必要がある」。
「choisir」は他動詞で「選ぶ」。
「moindre」は形容詞 petit (小さな)の比較級・最上級。ここでは定冠詞「le」がついているので最上級です。
このように「2 つの中で」比較する場合でも、最上級を使用します。直訳すると「最も小さいものを選ぶ必要がある」ですが、日本語では(あたかも比較級であるかのように)「小さいほうを選ぶ必要がある」と言ったほうがぴったりきます。
この「le moindre」が「最も小さいもの」という意味になるのは、最上級の名詞化で「最も~なもの」となるため。
【他のバージョン】 文頭の前置詞 de の代わりに entre (~の中で)を使って次のように言うこともあります。
- Entre deux maux, il faut choisir le moindre.
【英語バージョン】 Of two evils choose the less.
【由来】 『プチ・ラルース 2013』(ピンクのページ)では、次のように書かれています。
- この諺はソクラテスの言葉だとされている。なぜ非常に背が低い妻をめとったのかと聞かれたソクラテスは、このように説明したという。
文献上は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第2巻第9章に出てきます。
- いわゆる「次善のてだて」で、われわれはもろもろの悪のうちの最もはなはだしくないものを採らなくてはならないのである
訳は高田三郎訳『ニコマコス倫理学』(上)岩波文庫 p.80による。アリストテレスは中世にはよく読まれたようです。
フランス語では、12世紀後半の『狐物語』に出てきます。
- 二つの禍(わざわ)いのうち、ましな方を選ぶしかないんだからね
訳は鈴木・福本・原野訳『狐物語』岩波文庫p.215による。原文は古フランス語で「De deus max prent-en le menor.」となっており、例えば Google(メオン版 第2巻)、p.149(13598行目)で確認可能。
【諺もどき】 文章の達人として知られる文豪ポール・ヴァレリーは、この諺をもじって次のように言っています。
「maux」(悪)を、発音の同じ「mots」(言葉)に変えただけです。
- Entre deux mots, il faut choisir le moindre.
2つの言葉の中では、短いほうを選ぶ必要がある。
この場合、「moindre」は「小さい」ではなく「短い」という意味になります。
要するに、「文章は簡潔なほうがよい」という意味だと思われます。
このヴァレリーの言葉は、文章を書くときの心構えとしてよく引用され、これ自体、ほとんど格言のようになっています。
Deux avis valent mieux qu'un.
【逐語訳】「一つの意見よりも二つの意見のほうがいい」
【単語の意味と文法】「Deux」は数詞で「2つの」。
「avis」はもともと s で終わる男性名詞で「意見」。英語の advice (アドバイス)は、語源的にこの言葉に関連しています。
「valent」は valoir(価値がある)の現在3人称複数。
「mieux」は副詞 bien(良く)の比較級。「mieux que ~」で「~よりも良く」。
ただし、ここでは
という熟語表現が使われています。この「vaut」は valoir(価値がある)の現在3人称単数 ですが、この諺では主語が複数なので3人称複数の「valent」に変わっています。
この A に相当するのが「Deux avis(2 つの意見)」、 B に相当するのが「un」。
「un」の後ろに、前に出てきた単語「avis」が省略されています。
訳す場合は、熟語として「一つの意見よりも二つの意見のほうがいい」と訳すことも可能ですが、 valoir(価値がある)の元の意味から、「二つの意見は一つの意見よりも価値がある」と訳すことも可能です。
【諺の意味】 決断を下したり行動に移す前に、複数の人に意見を求めたほうがよい。
【日本の似た諺】「三人寄れば文殊の知恵」
⇒ やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
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