「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 II-1

少し難しい諺 1 ( A ~ H )

A beau mentir qui vient de loin.

【逐語訳】 文法的な解釈の違いによって、2通りの逐語訳が可能です。

  • (1) 「遠くから来た者は、まんまと嘘がつける」
  • (2) 「遠くから来た者は、たいそうな嘘をつく」

【意訳】 「長旅した人のほら話」

【諺の意味】 「遠くの国から来た人は、反論される恐れなく、嘘の話をすることができる」(プチ・ラルース

【単語の意味と文法】 倒置になっています。次のように書き換えられます。

  • Qui vient de loin a beau mentir.

「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」
「vient」は自動詞 venir (来る)の現在 3人称単数。
一般に現在形というのは、少し前の過去や、少しあとの未来のことも表現することができます。
「de」は前置詞で「~から」(英語の from)。
「loin」は「遠く」。ここでは名詞。
「Qui vient de loin」で「遠くから来た者は」。これ全体が主語となっています。

「a beau mentir」の部分は、一見すると avoir beau + inf. (~しても無駄だ)という熟語が使われているような印象を受けます(「mentir」は自動詞で「嘘をつく」)。
しかし、そうだとすると「嘘をついても無駄だ」という意味になり、諺全体の意味と矛盾するので、この解釈は取れません。

実は、この部分は現代の語法では理解不可能です。これに関しては、専門家の間でも主に 2 つの説に分かれます。

1つ目の説は、この avoir beau + inf. という表現が昔は次の熟語と同じ意味だったことを踏まえ、この諺の場合も同様だとする説です。

  • avoir beau jeu de + inf.
    ~するのに有利な立場にある、やすやすと(うまいこと、まんまと)~できる
    「jeu」はトランプなどの「カード」で、「~するための良いカードを握っている」というのが元の意味。この説明は Grevisse, Le bon usage, §305 (旧版§300) ; Rey/Chantreau, p.591 などに記載されています。

とすると、「遠くから来た者は、まんまと嘘がつける」という意味になります(上記【逐語訳】の (1) の意味)。

2つ目の説は、古いフランス語では不定詞を名詞として使う用法が広く用いられており、それを形容詞などが修飾することも多かったことを踏まえ、この諺の「mentir」も「嘘をつく」という動詞ではなく、それが名詞化した「嘘」という意味であり、「beau」(美しい)はこれに係る形容詞だとする説です。

  • この説はイギリス人の文法学者ジョン・オアが唱えたもので(John Orr, Essais d'étymologie et de philologie françaises, 1963, pp.101-113)、Grevisse, Ibid. でも「もう一つの説明」として紹介されており、最近では Bernard Cerquiglini, Merci professeur !, p.51 でも支持されています。ただし、現代のフランス語では許容できない用法なので、一般的なフランス人はこうした説明に大きな抵抗感を持つようです(Cf. Le site de Bruno Dewaele)。

この場合、「beau」は「美しい、立派な」というよりも、むしろ反語的に「ご立派な、たいそうな」という感じに取るのが自然です(上記【逐語訳】の (2) の意味)。

どちらの説を取るにせよ、冒頭の A は前置詞 à ではなく avoir (持っている)の現在 3人称単数の a なので、冒頭の A にアクサングラーヴをつけて À と書くのは誤りです。

  • しかし、仏仏辞典でも誤って冒頭の A にアクサングラーヴをつけて À と書かれていた(いる)こともあります(後述)。これは、辞書の編集者にとってさえ、この諺の文法を理解するのが困難であった(ある)ことを示しています。

【背景】 例えば 1357 年頃にフランス語で書かれたと考えられる『ジョン・マンデヴィルの旅』(平凡社「東洋文庫」の訳では『東方旅行記』)は、「ジャワ島の近くには犬の頭をした人間が住んでいる」などと荒唐無稽な話も含まれているにもかかわらず、ここに世界一周が可能だと書かれていたために、コロンブス(1451-1506)もまんまと信じ込み、大航海に出かけてしまった(しかし結果的には正しかった)、などと言われるほど、この本は中世にはよく読まれたようです。

こうした、遠い異国の地の神秘的な魅力に惹き寄せられる気持ちは、昔の人々は誰しも持っており、それにつけ込んで、あることないこと吹聴する人々もまた存在したようです。

しかし、中世が終わって理性的な時代に入り、批判精神が台頭するようになると、「遠くから来た人」の話を疑うようになり、この諺が生まれた、という説があります(Romera Pintor (2004) による)。

ちなみに、コロンブスは1492年、スペインのバルセロナを出港してアメリカ大陸に向かっています。

【由来 1 (スペイン) 】 もとはスペインの諺だった可能性が高いようです。

1535年のフアン・デ・バルデス (Juan de Valdés) の『言葉についての対話』の中に次のように書かれています。

  • De luengas vías, luengas mentiras.
    遠くの道から、大きな嘘。
    出典: Juan de Valdés, Diálogo de la lengua, 1860, p.123 (Internet Archive)
    Romera Pintor (2004), p.176で引用。「luengas」は「遠い」という意味と「大きな」という意味を併せ持つ、中世にさかのぼる多義的なスペイン語の形容詞(Ibid., p.177 による)。
    これを踏まえると、フランス語の「beau mentir」もスペイン語の「luengas mentiras」(大きな嘘)と同様に、形容詞+名詞だったのではないかという気もします。

1555年のエルナン・ヌーニェスの諺集にも同じ形で収録されています。

フランスで出た本では、1605年のウーダン『フランス語に訳されたスペイン語の諺』にも同じ形で収録され(1608年版p.56)、次のようにフランス語に逐語訳されています。

  • De longs voyages, longues mensonges.
    長い旅から長い嘘。

1610年のグルテルス『詞華選』初版の「スペインの諺」の部でも、まったく同じスペイン語の諺が、まったく同じフランス語に訳されています。

しかし、同書1611年版では「スペインの諺」の部が存在せず、代わりに「フランスの諺」の部に、現代の形とほとんど同じ次の形でこの諺が収録されています。

  • Il a beau mentir qui vient de loing.

1659年のポール・ロワイヤル編『エピグラム選集』付録の「スペインの諺」の部では、上記ウーダンやグルテルスとまったく同じスペイン語とそのフランス語への逐語訳が記されたあとで、「フランス人は A beau mentir qui vient de loin. と言う」と書かれています(現代と完全に同じ形)。

その他、スペイン語では次のような形があります。

  • A luengas vías, luengas mentiras. CVC 掲載の形)
    遠くの土地では、大きな嘘。
  • De luengas tierras, luengas mentiras.
    遠くの土地から、大きな嘘。

【英語】 スペイン語から訳されたと思われる次の表現があります。

  • Long ways, long lies.
    長い道、長い嘘。
    Oxford, 3th (1970), p.481に記載された1614年(初出)の用例では、「しかし私たちはあのスペインの諺を知っている」として出てきます。

【由来 2 (フランス) 】 少し時代が前後しますが、フランス語で確認される最初期の16世紀の用例では、ブラジル奥地に住む食人種の話を伝える文脈で、この諺が出てきます。

1555年、フランスのヴィルガニョンが船団を率いてブラジルに征服に赴いたとき、これに僧として随行したアンドレ・テヴェ(1516-1590)は、帰国後にアマゾン奥地の未開民族などについての見聞をまとめ、これを『南極フランス異聞』(1557)として出版しています(岩波書店 大航海時代叢書 第2期19『フランスとアメリカ大陸1』所収)。この中に書かれている食人の風習についての話は、モンテーニュの『エセー』の第1巻第31章「食人種について」« Des cannibales » のいわばネタ本の一つとなったようですが、さらに1584年、アンドレ・テヴェはプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』に対抗して、ブラジル奥地の酋長なども「英雄」として取り上げた9巻本からなる偉人列伝を刊行しています。その食人種の酋長についての章(第8巻26章)で、食人の風習について述べた直後に、「あの諺が思い出される」として、次の言葉を記しています。

また、テヴェの『南極フランス異聞』またはモンテーニュ『エセー』の「食人種について」の記述を参考にして書かれたと思われる(*)、エチエンヌ・パーキエの手紙(1586年刊の書簡集に所収、年代・日付記載なし)でも、同じように食人種について述べた直後に、次のような言葉が引用されています。
   (*) Cf. Frank Lestringant, Le Brésil de Montaigne, 2005, p.201

  • L'on dit que celuy peut impunément mentir, qui vient de loing.
    遠くから来た人は、罰せられることなく嘘をつくことができる、と人は言う。
    出典: Les Lettres d'Estienne Pasquier, 1586, p.63, l.27

これに続けて、「しかし、私は誇張せずに聞いたとおりにこの話を書いたのだ」という内容のことが述べられています。
遠い異国の地で食人種を見聞してきた、などと言われれば、眉唾ではないかと思ってこの諺を引用したくなるのも当然ですが、そうした読み手の気持ちを察して、それを先回りするように、この諺が引用されているといえます。

16世紀には、上のようにいくつかの言い方が存在しましたが、17世紀に入ると A beau mentir qui vient de loin. という現代と同じ形に一本化されていったようです(上記ポール・ロワイヤルの『エピグラム選集』はその最初期の例だと思われます)。

アカデミーフランセーズ辞典』では、1694年の第1版から最新の第9版(1992-)まで、一貫して表題と同じ形で収録されています(loin の項と mentir の項)。

  • ただし、第8版(両方の項)と第9版(loinの項のみ)では、冒頭の A が(間違って) À と書かれています。

ごく最近出た一般向けのある諺の本には、この諺は「昔は非常によく使われた」Brunet (2011), p.81)と書かれています。
裏を返せば、現在では「非常によく使われ」るというほどではない、ということになります。

にもかかわらず、この諺がよく記憶されているのは、もしかして、アルファベット順に並べられた諺集(プチ・ラルースなど)では、 A b... で始まるこの諺が冒頭(付近)にくるために、記憶に残りやすいからかもしれません。

【似た日本の諺】 「講釈師 見てきたような 嘘をつき」でしょうか。

À bon vin point d'enseigne.

【逐語訳】「うまい酒には看板はいらない」(おいしいワインに看板はいらない)

【諺の意味】「うまい酒を出す居酒屋には看板はいらない」というところから、よい品物を売っていれば宣伝しなくても自然と客は集まる。内容がよければ、ことさら薦めたり、自慢したりする必要はない。

【単語の意味】 à の大文字 À は、前の行との行間がなくなってしまう(行間を維持しようとすると小さな大文字になってしまう)ためにアクサン・グラーヴを省略して A と書かれることもあります
前置詞「à」は英語の in や at に相当し、場所や時間を表す「~に」というのが一番大きな意味です。ここでは「~には」「~にとっては」という感じです。
「bon」は形容詞で「良い」のほかに、「おいしい、うまい」という意味もあります。イタリア語の buono (ブオーノ)と同じです。
「vin」は男性名詞で「ワイン」または一般に「酒」。
「point」は、ne... point (まったく... ない)という否定表現の ne が省略された形。
「enseigne」は女性名詞で「看板」。その前の「d'」は冠詞の de です(後述)。

【文法】 この諺では主語と動詞(および否定の ne )が省略されています。次のカッコの中に言葉( 3 文字)を補うとすると、何が入るでしょうか?

  À bon vin [      ] point d'enseigne.

「il n'y a」だと思った人は、惜しい線まで行っていますが、意味的に「まったく看板はない」となって、少し舌足らずです。
正解は、次のようになります。

  À bon vin [ il ne faut ] point d'enseigne.

普通は il faut は後ろに不定詞がきて「~する必要がある、~しなければならない」という意味ですが、ここでは il faut の後ろに名詞(enseigne)がきて、「~が必要だ、~が要る」という意味です(辞書で「faut」の不定形の falloir を引くと載っています)。

文の要素に分けると、「il」が主語(S、ただし仮主語)、「faut」が動詞(V)、「enseigne」が意味上の主語です。
さきほど、「enseigne」の前の「d'」は冠詞の de だと書きました。通常は「否定文だと直接目的には de がつく」という規則によって冠詞が de になります。しかし、ここでは「enseigne」は直接目的ではありません。これは、実は「非人称の il 」を使った否定文では、原則として「意味上の主語」にはこの冠詞の de がつくという規則によるものです。

【古いバージョン】 「enseigne (看板)」の代わりに、古くは「bouchon」を使って次のように言われました(この場合は「il ne faut」を入れるのが普通)。

  À bon vin il ne faut point de bouchon.

「bouchon」は男性名詞で「(瓶の)栓」(ワインのコルクなど)の意味でよく使いますが、ここでは、昔、居酒屋の軒先に「酒あり」という印として飾っていた「わら束」を指します(日本の「杉玉」に相当)。
例えば 17 世紀中頃のラニエの「Point d'argent, point de Suisse.」についての版画には、リース(花輪)状の「わら束」が描き込まれています。
Quitard (1842) (p. 343)では次のように説明されています。

  • bouchon という言葉は、ここでは酒場のドアに取り付けられていた、巻きつけた草または藁の小さな束を指す。ちなみにローマ人は、同じ目的でキヅタを用いた。この植物は、酒神バッカスに奉納されていたからだ。

キヅタ(英語 ivy 、フランス語 lierre 、ラテン語 hedera )はツタの一種です。

【由来】 もとはラテン語の諺です。1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』の II, VI, 20 (1520) には、次のようなラテン語が収録されています。

  • Vino vendibili suspensa hedera nihil opus
    売りやすい酒はキヅタを吊るす必要はない。

フランス語の古い用例としては、1538 年に出版されたキケロの『スキピオの夢』の仏訳本の序文の末尾で、「私(フランス語版の訳者)があれこれ言っても仕方がない、キケロ本人の文章を味わってほしい」、というような意味で、次のように書かれています。

  • A bon vin (dit le proverbe) ne faut pendre lierre, ni aucune autre enseigne.
    うまい酒には(と諺に言う)、キヅタもその他の看板も吊るす必要はない。
    古語法により il は省略されています(現代の綴りに直して引用)。
    出典: Cicero, Le songe de Scipio

1579 年のアンリ・エチエンヌ『フランス語の卓越性』では、上記のエラスムスとほぼ同じラテン語が紹介され、次のフランス語に対応すると書かれています。

ざっと調べた限りでは、諺の末尾は、「enseigne (看板)」とするほうが古くから確認され、17 世紀に入って「bouchon (わら束)」とするバージョンも現れて両者が共存したものの、現代では再び「enseigne (看板)」だけが使われるようになったようです。

仏仏辞典では、1606 年のジャン・ニコ『フランス語宝典』(1606)では巻末に次のように書かれています(原文は Gallica で閲覧可能)。

  • À bon vin il ne faut point d'enseigne.

『アカデミーフランセーズ辞典』 では、第 1 版(1694)~第 5 版(1798)には「bouchon」を使った次の形で収録されています。

  • À bon vin il ne faut point de bouchon.

第 6 版(1835)~第 9 版(1992)では「enseigne」に変わっており、同時に「il ne faut」を抜かした、表題と同じ形も省略形として記載されています。

  • À bon vin il ne faut point d'enseigne.
  • À bon vin point d'enseigne.

【英語の諺】 英語では次のように言います。

  • Good wine needs no bush.
    『ランダムハウス英語辞典』で「bush」を引くと、「古」として「(酒場や酒屋の看板として用いた)木の枝」という意味が載っており、「ブドウ酒との結び付きからセイヨウキヅタ(ivy)の枝が用いられた」と書かれています。

English Proverbs Explained でも、この諺は「高い品質の商品は、すぐに知れ渡るため、広告を必要としない」という意味だとした上で、次のように説明されています。

  • 昔、旅人にビールやワインを売っていた酒場や民家では、キヅタ(ivy)の房や枝が外に吊るされていた。キヅタは古代神話の酒神バッカスへの捧げ物だったからである。売る酒が優れた品質のものであれば、ひっきりなしに客が来たため、キヅタを吊るす必要はなかったのだ。

À cœur vaillant rien d'impossible.

【逐語訳】「勇敢な心に不可能なものはない」

【諺の意味】勇気を持って進めば、どんな困難でも乗り越えられる。

【単語の意味と文法】 à の大文字 À は、アクサン・グラーヴを省略して A と書くこともあります前置詞「à」は、ここでは「~に」、「~にとっては」。
「cœur」は男性名詞で「心、心臓」(英語の heart に相当)。 œ は o と e がくっついた文字。「心の持ち主」という意味にもなるので、単に「人」(勇敢な人にとっては...)と訳すこともできます。
「cœur」が無冠詞なのは、古くからある諺であるため
「vaillant」は形容詞で「勇敢な、果敢な」。courageux(勇敢な)などと同じ意味。
「rien」の前には「il n'y a」が抜けており、完全な形にすれば次のようになります。

  • il n'y a rien d'impossible (不可能なものは何もない)

この「il n'y a rien」は Il y a ~(~がある、~が存在する)ne... rien(何も... ない)が組み合わさった形。
「impossible」は形容詞で「不可能な」。
その前の「d'」は、不定代名詞の quelque chose や rien に形容詞がかかると、形容詞の前に前置詞 de が入るという規則によるもの。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【英訳】 Nothing is impossible for a willing heart.

【似た諺】 Vouloir c'est pouvoir.

【由来とエピソード】この諺は、15世紀前半(ジャンヌ・ダルクと同時代)に活躍した大富豪ジャック・クール(Jacques Cœur)がモットー(紋章の銘)としたことで知られます。

1395年(または 1400年)にフランス中部の街ブールジュ(Bourges)の商人の家に生まれたジャック・クールは、地中海東岸地方との交易によって巨万の富を築き、1439年に国王シャルル 7世によって王室会計方(金銀調度方、grand argentier)に任ぜられ、1441年には王の計らいで貴族に列せられます。紋章は、自分の名前にちなんだ帆立貝(帆立貝はフランス語で「coquille Saint-Jacques」つまり「サンジャックの貝殻」と言うので名「ジャック」に通じる)とハート(cœur、つまり姓「クール」)を盾にあしらったデザインの紋章でした。
1443~1450年にはジャック・クール邸(palais Jacques Cœur)を建設させ、この建物は現在ではサン=テチエンヌ大聖堂につぐブールジュ第二の観光名所となっていますが、建物の至るところに帆立貝とハートのマークが飾られています。そして建物の目立つところに、表題とほぼ同じ次のような言葉が掲げられています(古い語法を含む)。

この [cuers] の部分は、実際にはハートを 2 つ重ねた絵文字になっています。
貴族にまでのぼりつめた、飛ぶ鳥落とす勢いのジャック・クールにとってみれば、このハート型には普通名詞の「心」という意味に自分の姓(固有名詞)が掛けられ、「勇敢なクール(つまり私)にとって不可能なものはない」という意味が込められていたのでしょう。
なお、晩年はジャック・クールはシャルル 7 世をはじめ多くの人々に巨額の金を貸していたことが仇となり、罪を着せられて財産を没収されてしまいます。

この諺は、15世紀末の Jean de la Véprie の諺集にも収録されています(Le Roux de Lincy (1842), t.2, p. 15 による)。
16世紀以降も、1568年の『金言宝典』、1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集、1610年のグルテルス『詞華選』などに収録されています。

また、聖フランシスコ・サレジオ(1567–1622)は女性信徒に宛てた手紙の中で、この諺を引き合いに出して、信仰の道を邁進するよう励ましています。

現代でも、そのまま映画のタイトルに採用されるなど、この諺を好むフランス人は少なくないようです。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

Avec des si, on mettrait Paris en bouteille.

【訳】「いくつもの『もし』を使えば、パリを瓶に入れることだってできる」

【諺の意味】 いくつもの仮定を積み重ねれば、何でも可能になる。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【単語の意味】 「Avec」は英語の with に相当する前置詞。
「des」は不定冠詞の複数で、単に「いくつかの」の意味にも、「いくつもの」「多くの」の意味にも取ることができます。
「si」は仮定を表す接続詞「もし」。ただし、ここでは前に冠詞がついているので、名詞のように扱われています。
「on」は漠然と「人は」ですが、ここでは訳さないほうがうまくいきます
「mettrait」は他動詞 mettre(置く)の条件法現在3人称単数。ここでは「置く」というよりも「入れる」という感じ。

「現在の事実に反する仮定」は、典型的には
  「Si +直説法半過去, 条件法現在」
で表現しますが、「Si +直説法半過去」の代わりに「avec + 名詞」を使うと「もし~があれば」という意味になります。
辞書で「avec」 を引くと、最後のほうに「条件」または「仮定」という項目で、条件法を使った例文とともに記載されています。
ここでは、「~を使えば」としておきます。

「en」は前置詞で「~の中に」。前置詞 en の後ろは無冠詞になりやすくなります。
前置詞 en の代わりに、ほぼ同じ意味の dans を使って次のように言うこともあります(この場合は冠詞が必要)。

  • Avec des si, on mettrait Paris dans une bouteille.

「bouteille」は「瓶、ボトル」で女性名詞。

一番直訳調にすると、「いくつもの『もし』があれば、人はパリを瓶の中に入れるだろう」。

【他のバージョン】「si」をギユメに入れて書くこともあります。

  • Avec des « si » on mettrait Paris en bouteille.

【俗説】「bouteille」(瓶)を酒瓶のことだと解釈し、このことわざは飲み屋のカウンターで酔っ払って「パリだって瓶の中に入れてやる」と豪語している客の言葉から生まれたとする俗説もあります。

【似た諺】 Si le ciel tombait, il y aurait bien des alouettes prises.
(もし空が落ちたとしたら、多くの雲雀(ひばり)がつかまえられるだろう)


Bien mal acquis ne profite jamais.

【逐語訳】 「不正に獲得された財産は決してためにならない」

【日本の諺】 「悪銭身につかず」

【単語の意味と文法】 「bien」は基本的には副詞で「よく」という意味ですが、名詞化して「善」「財産」の意味になることもあります(英語の good が「善」や「財産」「製品」の意味にもなるのと似ています)。

その反対語の「mal」は、基本的には副詞で「悪く」「不正に」ですが、やはり名詞化して「悪」「苦労」「病気」などの意味になることもあります。

副詞名詞(男性)
bien よく 善、財産
mal 悪く、不正に 悪、苦労、病気

この諺では、いきなり反対語の「bien」と「mal」が連続して出てくることで、読み手(聞き手)の注意を惹きつけておき、その後ろを読む(聞く)ことによって、片方の「bien」は名詞化した「財産」という意味、もう片方の「mal」は副詞のままの「不正に」という意味で使われていることが納得される仕組みになっていて、なかなかレトリックが効いていてます。

「acquis」は他動詞「acquérir (獲得する)」〔英語 acquire〕の過去分詞。
助動詞がないので、「~された」という意味で前の名詞にかかります。
「Bien mal acquis」で「不正に獲得された財産」。

「ne... jamais」は強い否定で「決して... ない」

「profite」は profiter の現在3人称単数。ここでは

  • profiter à ~ (~にためになる)〔←「~にとって利益になる」〕

という使い方がベースにありますが、この諺では前置詞 à およびその後ろに続く言葉が省略されています。たとえば次のように言葉を補うことができます。

つまり、他動詞(ここでは間接他動詞)なのに目的語(ここでは間接目的)が例外的に省略されています。

【英語の諺】 Ill gotten goods never thrive.
不正に得られた財産は決して栄えない。

【由来】 旧約聖書『箴言』10章2節に出てくる次の言葉と関連がありそうです。

  • 「不義の財(たから)は益なし」(文語訳)
  • 「不正による富は頼りにならない」(新共同訳)
  • 「邪悪の宝(*)は、役に立たない」(岩波委員会訳)
    (*)脚注に「邪悪な方法で獲得した財産の意味」と書かれています。
    旧約聖書『箴言』は、紀元前10世紀のソロモン王の時代ないし紀元前6世紀のバビロン捕囚よりも後の時期に成立したと考えられているようです。

また、古代ギリシアで紀元前700年前後に成立したとされるヘーシオドス『仕事と日』352行に出てくる次の言葉と結びつけられることが多いようです。

  • 不正な利得をあげてはならぬ、不正な利得は災厄(損)に等しい。
    松平千秋訳『仕事と日』岩波文庫p.53による。

フランス語でも中世から存在し、1461年のフランソワ・ヴィヨンの『遺言詩集』第158番の末尾は次のようにこの諺で終わっています。

  • 悪銭は 所詮 身に附くものではない。
    日本語訳は鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』(岩波文庫)p.183による。

ヴィヨン自身、泥棒をしたこともあるので、この言葉には「ヴィヨンの苦い思い出が反映している」(佐々木(1997))といえそうです。

Calomniez, il en restera toujours quelque chose.

【逐語訳】 「中傷しろ、そうすればそのことによって必ず何かか残るだろう」

【文意】 人のことを悪く言うと、悪いイメージが植えつけられ、たとえ根拠のない悪口だとわかっていても暗示がかかり、なかなかそのイメージを完全には払拭できないものだ。

【単語の意味】 「calomnier (中傷する)」は、形の上では直説法現在(2人称複数)と同じですが、主語(vous)がないため、命令形(「中傷しろ」)。他動詞ですが、例外的に直接目的が省略されています。

「restera」は自動詞 rester (残る)の単純未来(3人称単数)
「toujours」は副詞で「つねに」ですが、英語の always と同様に「必ず」という意味にもなります。
「quelque chose (何か)」は英語の something に相当する一語扱いの言葉。

【文法】 文法的に問題となるのは il と en です。
まず、il は後出の名詞を指す仮主語の il です。ここでは「quelque chose」を指しています(「quelque chose」が意味上の主語です)。つまり、この文は次のように言い換えることができます。

  Calomniez, quelque chose en restera toujours.

次に、「en」には 3 種類の en がありますが、動詞の直前にあるので中性代名詞の en です。これは「de + 物」に代わる en で、詳しくは「de + 前の文脈全体」に代わる en です。ここでは「前の文脈全体」とは「Calomniez」のことです(実質的には一語ですが、中傷するという行為全体を指しているといえます)。この en は「そのことによって」と訳すとうまくいきます

なお、この諺は「Calomniez」という命令文と「il en restera toujours quelque chose」という平叙文を重ねた重文になっています。この場合、2 つの文は「そうすれば」という仮定の意味でつながります。

【他のバージョン】「Calomniez」を 2 回繰り返して、次のように言うことも多いようです。

  Calomniez, calomniez, il en restera toujours quelque chose.

2 回繰り返すと、「あいつは悪い奴だ、あいつは悪い奴だ」と言っているようで、まさに暗示にかかったような気になります。

【由来】 もともと、17 世紀初頭に活躍したイギリスの哲学者フランシス・ベーコンが著書『学問の進歩』(1605年)において当時の慣用表現として引用したラテン語の Audacter calumniare, semper aliquid hæret という諺が起源のようです。

18 世紀フランスのボーマルシェの戯曲『セビリアの理髪師』第 2 幕第 8 景で、この諺を長々と解説するようなせりふが出てきます(岩波文庫、『セヴィラの理髪師』、p.43 前後。ただし、諺そのままの形では出てきません)。

Ce qui est fait n'est plus à faire.

【逐語訳】 3 通り可能です(下記の 3 つの諺の意味に対応)。

  • 1) 「行われたことは、(戻って)行うべきではない」
  • 2) 「行われることは、(あとで)行うべきではない」
  • 3) 「行われたことは、もう行う必要がない」

抽象的な言葉を組み合わせた諺なので、こうした複数の解釈を生む(諺の意味が変化する)余地があったといえます。

【諺の意味】 古い順に、次のように意味が変遷しています。

  • 1) 「済んだことを蒸し返しても無駄だ」、「覆水盆に返らず」(古い意味)
  • 2) 「できることは先延ばししてはならない」(伝統的な意味)
  • 3) 「やれやれ、やっと仕事が終わった」(新しい意味)

このうち 1) は今では使われません。現在は、この意味なら、別途取り上げた Ce qui est fait est fait. (なされたことは、なされたことだ) を使います。
2) は昔から多くの仏仏辞典等に載っている伝統的な意味。
3) は最近生まれた意味(詳しくは下記【意味の変遷】の項を参照)。
現在は 2) か 3) の意味で使われます。

なお、この諺の「plus」は、もとは「pas」(またはそれに相当する古語)が使われていましたが、現在では主に plus が使われます。

【単語の意味と文法】「Ce」は先行詞になると、「...なこと・もの」という意味
「qui」は関係代名詞。
「Ce qui」で英語の what (先行詞を含む関係代名詞)に相当します。
「est」は être の現在 3人称単数。
「fait」は他動詞 faire (行う、する)の過去分詞からできた形容詞で、「行われた、なされた」。
終わった(過去の)ことについて用いられ、上記 1) と 3) の意味では「過去」としての意味が前面に出ています。
ただし、être + p.p. で受動態と取ることも可能で、その場合は「行われる」という現在の意味になります。上記 2) の意味は、こちらの意味で取るとよさそうです。

「Ce qui est fait」(行われたこと、なされたこと)全体が大きな主語になり、「ne... plus」で「もはや ... ない」
「faire」は faire (行う)の不定詞

もともと à + inf. は「~すべき」という意味があり、特に être à + inf. は「~すべきである」。主に必要・義務を意味します(英語の be to に相当)。

【意味の変遷】 この諺は、Ce qui est fait est fait. の【由来】の項目で取り上げた『狐物語』で、ほぼ同じ形で出てきており(同項目を参照)、前後関係から、これが上記 1) の「覆水盆に返らず」の意味だったことは明らかです。

19 世紀の仏仏辞典リトレでも、実は 2) の意味と並んで、こうした「行われたことに戻るべきではない」という意味も書かれており、「済んだことをあれこれ言っても仕方ないじゃないか」というような例文が載っているので、この頃までは古い 1) の意味も生きていたと思われます。

アカデミー辞典では、第1版(1694)から第7版(1878)まで、一貫して pas を使った Ce qui est fait n'est pas à faire. という形で収録され、「何かをできるときには、先延ばししてはならない」という 2) の意味だけが記載されています。
18 世紀の諺辞典 Le Roux (1718)や 19 世紀の仏仏辞典リトレでも、このアカデミー辞典の定義がそのまま踏襲・引用されています。

現代の諺辞典でも、おおむねこの 2) の意味が記載されています。
Leduc (2013), p.206 では「一日延ばし」(procrastination)の項に記載されています。

つまり、この諺は次の諺と同じ意味だと受け止められています。

3) の意味は、近年になって生まれたようです。やらなければならない大変な仕事を終えて、せいせいしたときなどに、日常的に使われているようです(Cf. Internaute)。
この意味は、仏仏辞典や仏和辞典には、まだほとんど記載されていませんが、例外的に『ディコ仏和辞典』には次のように記載されています。

  • (できたことはもうしなくてよい→)これで仕事はかたづいた、今やっておけば後が楽だ。

C'est au pied du mur qu'on voit le maçon.

【逐語訳】 2 通りの逐語訳が可能です。

  • 「壁の下部においてこそ、石工のことがわかる」
  • 「追いつめられたときにこそ、石工のことがわかる」

【諺の意味】 上の逐語訳に合わせ、2 通りの意味があります。

1. 「人の能力は、仕事ぶりを見ることでわかる」

石を積み重ねた壁の下部を見れば、石工の腕前がわかる、というところから来ています。
この意味だと、次の諺と似たような意味になりますJ.-Y.Dournon (1986), p.207; 田辺『フランス故事ことわざ辞典』 p.94)

  • À l'œuvre on connaît l'artisan.
    仕事〔ぶり〕によってこそ職人〔の腕前〕は知られる。

もとは、この意味だったはずです。
しかし、もう一つ意味があります。

2. 「追いつめられたときにこそ、人は真価を問われる」

これは être au pied du mur(壁ぎわに追いつめられている→「後戻りできない、行動せざるをえない状況になる」)という熟語表現を踏まえた意味です。
行動せざるをえない状況になってこそ、人の能力がわかる、というわけです。

  • この場合、意味的に石工である必然性はなく、何も石工に限った話ではありませんが、上の 1. の意味も掛けて「石工」と言っているわけです。

仏仏辞典『アカデミー辞典』第9版には、この諺は「行動が必要になったときにこそ、人は真価を発揮する」という意味だと書かれています。

日本で出ている諺辞典や仏和辞典では、この 2. の意味に取ったものは存在しないようですが、この 2. の意味でもよく使われるようです。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書を見ると、諺の使い方がわかります。

【単語の意味と文法】 「C'est ~ que...」を使った強調構文(後述)。

「au」は前置詞 à と定冠詞 le の縮約形
前置詞 à は場所を表し、「~に、~で」という意味ですが、英語の in と同様、「~において」という訳も覚えておくと役に立ちます。
「pied」は男性名詞。もともと「足」という意味ですが、ここでは「足元、下部」という意味。
「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形
「mur」は男性名詞で「壁」。
「au pied du mur」で「壁の下部において」。

ただし、au pied du mur で、壁ぎわに追いつめられている、というところから、「後戻りできない」という意味にもなります(辞書で mur を引くと熟語欄に être au pied du mur として載っています)。
こちらの意味で諺が解釈されることも多いようですが、以下では「壁の下部において」の意味に取って説明します。

「on」は漠然と「人は」。ただし、訳さないほうが自然になります
「voit」は他動詞 voir(見る)の現在 3人称単数ですが、英語の see と同様、「わかる」という意味にもなります。
「maçon」は男性名詞で「石工(石積み職人、れんが職人)」〔英語 mason 〕。
「石工のことがわかる」、つまり「石工の技量がわかる、石工がどれくらいの腕前なのかがわかる」という意味です。

「C'est ~ que...」はもとの文の主語以外の要素を強調する場合に使われるので、強調構文でない文にするには、「C'est」と「que」を省き、さらに、「C'est」と「que」の間に挟まった語句(主語以外の要素)を後ろのしかるべき位置に移動させる必要があります。ここでは、「au pied du mur(壁の下部において)」は場所をあらわす状況補語なので、これを文末に移動させます。すると、次のようになります。

  • On voit le maçon au pied du mur. (壁の下部において、石工のことがわかる)

この「au pied du mur (壁の下部において)」という部分が「C'est ~ que...」で挟まれて強調されているので、訳すときは、ここを強調した感じで訳す必要があります。
典型的には強調構文には 2 通りの訳し方があり、ここは逐語訳すると、次の 2 通りで訳せます。

  • 「石工のことがわかるのは、壁の下部においてである」
  • 「壁の下部においてこそ、石工のことがわかる」

【他のバージョン】 「qu’on」の代わりに「que l’on」とする場合もあります。

【諺もどき】 Wikipédia の « Liste de faux proverbes » には諺をもじった文(言葉遊び)が集められており、そのうちの一つに、次のような文が載っています。

  • C'est au pied du mur que l'on voit le colimaçon.
    かたつむりが見つかるのは、壁の下部においてである。
    (壁の下部においてこそ、かたつむりが見つかる)
    「colimaçon」は「かたつむり」。

なめくじ(une limace)でもよさそうなものですが、もとの諺の「maçon (石工)」〔発音:マソン〕に掛けて、「colimaçon (かたつむり)」〔発音:コリマソン〕と言っているだけです。
言葉遊びなので、深い意味はありません。

C'est en forgeant qu'on devient forgeron.

【逐語訳】 次の 4 通りくらいの訳が可能です。

  • 「人が鍛冶屋になるのは、鉄を鍛えながらだ」
  • 「人が鍛冶屋になるのは、鉄を鍛えることによってだ」
  • 「鉄を鍛えながらこそ、人は鍛冶屋になる」
  • 「鉄を鍛えることによってこそ、人は鍛冶屋になる」

これは、強調構文の訳し方が「...なのは~である」「(ほかならぬ)~こそ...」の 2 通りあり、またジェロンディフの訳し方も主に 2 通りあるからです。

【諺の意味】 努力して繰り返し練習することによってのみ、熟練の技は習得される。

【似た日本の諺】 「習うより慣れろ」。

【単語の意味と文法】 「forgeant」は forger (他動詞で「〔鉄を〕鍛える」、自動詞で「鉄を鍛える」。ここでは自動詞)の現在分詞。
-ger で終わる動詞なので、現在分詞は e を入れて -geant となります
「en forgeant」で「en + 現在分詞」によるジェロンディフ。「鍛えながら」または「鍛えることによって」と訳すとぴったりきます。
この部分が「C'est ~ que...」によって強調された 強調構文です。
強調構文ではない普通の文に直すと、次のようになります。

  • On devient forgeron en forgeant.
    (人は鉄を鍛えながら〔鉄を鍛えることによって〕鍛冶屋になる)

「On」は漠然と「人は」
「devient」は devenir(~になる)の現在3人称単数。
「forgeron」は「鍛冶屋」。属詞なので無冠詞になっています。

【他のバージョン】「qu'on」の代わりに「que l'on」とすることもあります。

また、à force de + inf.(たくさん~することで)という熟語を使う場合もあります。もともと「force」は「力」という意味の女性名詞なので、この熟語は「力をこめて(努力して)~する」というイメージを伴う場合もあります。

  • À force de forger, on devient forgeron.
    (たくさん鉄を鍛えることで、人は鍛冶屋になる)

【諺もどき】少し脱線しますが、フランス語では外国の固有名詞もフランス語風に綴りと発音を変えてしまいます。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)はフランス語だと「Léonard de Vinci」という綴りに変わり、「レオナール・ドゥ・ヴァンスィ」と発音します。
Léonard(レオナール)というのはフランスでありふれた名前なので、多くのフランス人は耳から聞いたときに「ドゥヴァンスィ」というのは変な苗字だなと感じているはずです。その違和感をもとに生まれたのが、この諺をもじった次の表現です。

  • C'est en sciant que Léonard de Vinci.
    「sciant」は scier(ノコギリを引く)の現在分詞。
    「en + 現在分詞」でジェロンディフ

直訳すると、「ノコギリを引くことによってこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチ」。一見すると何の意味だかわからず、文法的にも不完全です。
実は、これは次の文がベースにあります(発音はまったく同じです)。

  • C'est en sciant que Léonard devint scie.
    「devint」は devenir(~になる)の単純過去3人称単数。
    devenir は venir(来る)と同じ活用をするので、venir の単純過去 に de をつけたのと同じ形。
    「scie」は女性名詞で「のこぎり」。

逐語訳すると、「ノコギリを引くことによってこそ、レオナールはノコギリになった」。
これも変な意味ですが、フランス人がレオナルド・ダ・ヴィンチの名前(レオナール・ドゥ・ヴァンスィ)を聞いて「ドゥヴァンスィ」とは何かと考えたとき、「devint scie」という綴りが頭に浮かび、「Léonard devint scie」(レオナールはノコギリになった)と連想してしまい、これをこの諺と結びつけて、上のような表現が生まれたのだと思われます。単なる言葉遊びですが。

【由来】もとは次の「中世(少なくとも古典期以後)のラテン語」(Rey/Chantreau, p.432 による)をフランス語に訳してできた諺です。

  • fabricando fit faber
    物を造ることによって職人となる。
    鍛冶仕事をすることによって鍛冶屋となる。

ラテン語の「fabricando」の不定詞 fabricare は、広義の「物を作る」という意味と、狭義の「鍛冶仕事をする」という 2 つの意味があります。
また、「faber」も広義の「職人」という意味と、狭義の「鍛冶屋」という 2 つの意味があります。
この 2 つのラテン語に対応する古フランス語(forgier と fevre)にも、それぞれ広義と狭義の 2 つの意味がありましたが、近世以降のフランス語ではそれぞれ別々の単語を使うようになり、「鉄を鍛える」「鍛冶屋」という意味による諺として定着したと考えられます(Ibid.)。

フランス語では、15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°223)に、En forgant devient on fevre. (鍛えることで人は鍛冶屋になる)と書かれています。15世紀の他の写本でもほぼ同じ形です(Morawski, N°654 による)。
ここまでは、上で述べた広義と狭義の両方の意味で取ることが可能です。

1568年のガブリエル・ムーリエ『金言宝典』、p75 には En forgeant on devient orfèvre. と書かれています。この時点で、狭義の意味に限定されることになります。
1606 年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録には En forgeant l'on devient forgeron. と記載されています(原文は Gallica で閲覧可能)。
1690年のフュルチエールの辞典には A forger on devient forgeron. と書かれています。
『アカデミーフランセーズ辞典』 では、第3版(1740)、第4版(1762)、第5版(1798)、第6版(1835)、第7版(1878)には En forgeant on devient forgeron. という形で見え、第8版(1932-1935)と第9版(1992)では強調構文を使った C'est en forgeant qu'on devient forgeron. という形になっています。

Chacun son métier, les vaches seront bien gardées.

【逐語訳】 「各人が自分の仕事をすれば、きちんと牝牛の番ができるだろう」

  • 「きちんと牝牛の番ができる」というのは、「牝牛に逃げられないで済む」という意味です。

【諺の意味】 「あるとき、牛飼いの少年と猟師が仕事を交換したら、牝牛も獲物も逃げてしまった」という話(⇒ フロリアン『寓話』の「牛飼いと森の番人」)から、「牛飼いは牛の番をし、猟師は狩に専念するべきだ、そうすれば各自がうまく仕事を成し遂げられる」というのが元の意味。

転じて、一般に、「各自が他人のことに手を出さず、自分のすべきことをしていれば、すべてはうまく行く」という意味の諺。

「専門外のくせに余計な口を出すな」という意味でよく使われます(Brunet (2011), p.82)。

少し長い諺なので、前半(Chacun son métier)だけ言って、後半は省略することも多いようです。

【似た諺】 「餅は餅屋」

【単語の意味と文法】 「Chacun」は不定代名詞で「各人」。
「son」は所有形容詞で「その」または「自分の」
「métier」は男性名詞で「仕事」。
コンマまでの前半を直訳すると、「各人、自分の仕事」。後ろとの内容的なつながりから、「各人が自分の仕事をするなら」という仮定・条件のような意味に取ります。

古くは、この前半部分は「Quand chacun fait son métier,」(各人が自分の仕事をするときには、)または「Quand chacun se mêle de son métier,」(各人が自分の仕事に専念するときには、)などの形でしたが、フロリアンの『寓話』では、簡潔な形にするために接続詞と動詞が省かれたようです(下記【由来】の項を参照)。

「vache」は女性名詞で「牝牛(めうし)」。牛乳を取るため飼い、草原に連れていく必要がありました。逃げたり盗まれたりしないよう、牝牛の番をする(見張る)人のことを vacher (牛飼い)と言います。
「seront」は助動詞 être の単純未来 3人称複数。
「bien」は副詞で「よく」。ここでは「しっかりと、きちんと」という感じです。
「gardées」は garder の過去分詞 gardé に女性複数を示す es がついた形。
garder は「保つ、守る」など色々な意味がありますが、ここでは「番をする、見張る」。
「seront gardées」の être + p.p. で受動態になっており、être が単純未来なので、合わせて「受動態の単純未来」。
主語は一語で言うと「vaches」(複数の牝牛)なので、これに合わせて女性複数の es がついています(「過去分詞の性数の一致」)。

一番直訳に近づければ、「各人 自分の仕事、牝牛はしっかりと番をされるだろう」。

【異形】 コンマの後ろに et (そして)を入れて言うこともあります。

  • Chacun son métier, et les vaches seront bien gardées.

また、前半の冒頭に前置詞 à を補うこともあります。

  • À chacun son métier

こうすると、「各人には自分の仕事(がある)」という感じになります。

【由来】 この諺は、上記フロリアンの『寓話』(1792 年刊)よりも前から(多少字句の異なる形で)存在します。
つまり、昔から存在した諺をヒントに、18 世紀末にフロリアンが話を考え出したのだといえます。

古くは、例えば 1649 年のリシェ『滑稽なオウィディウス』(オウィディウス『変身物語』のパロディー作品)に次の形で出てきます。

  • les vaches sont bien gardées quand chacun fait bien son métier.
    各人がしっかり自分の仕事をするときには、きちんと牝牛の番ができる。
    出典: L. Richer, L'Ovide bouffon, éd. 1665, p.79
    この諺は、「牝牛」に変えられたイーオーを見張っていた百の目を持つアルゴスに関して出てきます。綴りは現在の綴りに直しました(以下同)。

仏仏辞典では、1690年の『フュルチエールの辞典』(garder の項)に次の形で収録されています。

  • Quand chacun se mêle de son métier, les vaches sont bien gardées.
    各人が自分の仕事に専念するときには、きちんと牝牛の番ができる。
    『アカデミー辞典』の vache の項でも、第 1 版以降、これと(ほぼ)同じ形で収録されています。また、同辞典の métier の項では、Quand chacun fait son métier, les vaches sont bien gardées. (各人が自分の仕事をするときには、きちんと牝牛の番ができる)などの形になっています。細かい異同はありますが、省略します。

このように、いずれも接続詞 quand (...なときには)が使われています。

しかし、フロリアンの『寓話』の話が有名になって以降は、フロリアンの話に出てくる形(接続詞と動詞を省いて簡略化した「Chacun son métier」という形)で定着することになり、『アカデミー辞典』でも第 8 版(vache の項)または第 9 版(métier の項)以降は、フロリアンと同じ形に統一されています。

【似た表現】 この諺は、次の表現と関連があると思われます。

  • Bon homme, garde ta vache.
    農民よ、自分の牝牛の番をしていろ。
    『アカデミー辞典』の第1版~第7版(vacheの項)では、表題の諺とこの表現が並んで記載されています。上で触れた『滑稽なオウィディウス』でも、前後して出てきます。

1640 年のウーダン『フランス奇言集』では、この表現は「人がする提案に意味がないと言うために使う」と書かれています。つまり、「そんなことは意味がない、それよりも自分の牝牛の番でもしていろ」というわけです。
おそらく「余計な口出しをするな」という意味だったのではないかと思われます。

しかし同時に、この表現には「寝取られ男よ、自分の妻の番をしていろ」という意味も重ねられていたのではないかと推測されます。

  • 『フランス奇言集』の bon homme の項目には「農民、老人」という意味の他に、「寝取られ男」という意味も載っています。また、同書の vache (牝牛)の項目には、「怠惰な女」や「putain」(尻軽女)といった意味が載っており、vache (牝牛)が人間の女性を指して使われることもあったことがわかります。さらに、アカデミー第 1 版では、この表現は「自分自身、自分の財産、自分の妻、自分の家族をよく見張っていろ」という意味だと書かれており、ことさら「妻」と書かれているのが怪しいところです。

もしかして、ここで取り上げた諺の「きちんと牝牛の番ができるだろう」というのも、昔は(フロリアンの話ができる以前のことですが)、「妻を寝取られないで済むだろう」という意味合いも込められていたのかもしれせん(想像ですが)。

Dis-moi qui tu hantes, je te dirai qui tu es.

【訳】「誰と交友しているのか言ってみたまえ、君が誰だか言いあててみせよう」

【諺の意味】「人は交友関係によってどのような人かがわかる」

【英語への逐語訳】 Tell me who you haunt, and I'll tell you who you are.

【単語の意味と文法】 「Dis」は dire(言う)の現在2人称単数と同じ形ですが、主語「tu」がないので命令形
「moi」は、命令形に単数 1 人称・ 2 人称の人称代名詞をつける場合は、意味的に直接目的でも間接目的でも、ハイフンの後ろに強勢形にして置くために、強勢形になっています。ここでは「私に」という間接目的。

「qui」は疑問代名詞(間接疑問)で、「hantes」(他動詞 hanter の現在2人称単数)の直接目的になっています。
この hanter という動詞は、現代では「〔幽霊が〕出る」「〔妄想が〕つきまとう」という意味で使うことの多い言葉ですが、ここでは「~に足しげく通う、〔友人として〕~とつきあう・交友する」という意味で使っています。

以上は、次のような直接疑問がベースにあります。

  • Qui hantes-tu ? (または Qui est-ce que tu hantes ? )
    君は誰と交友しているの?

ここまでを逐語訳すると、「君が誰と交友しているのかを私に言ってくれ」。

後半に移ると、「dirai」は dire(言う)の単純未来1人称単数。

後半の「qui」も疑問代名詞(間接疑問)ですが、今度は「es」(être(~である)の現在2人称単数)の属詞になっています。

ここは次のような直接疑問がベースにあります。

後半を逐語訳すると、「私は君が誰なのかを君に言おう」。

この諺全体は、命令文(前半)と平叙文(後半)を重ねた重文になっています。
この場合、2つの文は「そうすれば」という仮定の意味でつながります。

【他のバージョン】 「et(そうすれば)」をつけて次のように言うこともあります。

  • Dis-moi qui tu hantes, et je te dirai qui tu es.

「hantes」の代わりに、同じ意味の「fréquentes」を使うこともあります。

  • Dis-moi qui tu fréquentes, je te dirai qui tu es.
    他動詞 fréquenter(〔頻繁に〕出入りする、〔人と〕つきあう)は、「fréquent(頻繁な)」という形容詞から派生した言葉。

【由来】 1615年のセルバンテス『ドン・キホーテ』第2部第10章に、サンチョ・パンサのせりふの中に出てきます。

  • おいらの主人は、どこから見ても頭がひどく狂っているけど、おいらだっておさおさ引けを取るもんじゃねえ。それが証拠にゃ、« お前が誰といっしょにいるか言ってみな、そうしたらお前がどんな人間か言ってやる » という諺も、また « お前が誰から生まれたかじゃねえ、誰といっしょに飯くうかが問題だ » という諺も本当だとするなら、おいらは御主人のあとについて仕えてるんだから、御主人のさらに上をいく阿呆よ。
    岩波文庫『ドン・キホーテ』後篇(一)、牛島信明訳、p. 160 による(下線引用者)。
    スペイン語原文では、この諺の部分は Dime con quién andas, decirte he quién eres. となっています(スペイン語版 Wikisourceによる)。なお、同じ諺が第 2 部第 23 章(同訳書 p.403)にも出てきます。

【諺もどき】 この諺をもじって、美食家のバイブルとなっているブリヤ=サヴァラン『美味礼讃』(1825)の冒頭には hanter(交友する)の代わりに manger (食べる)を使った、次のような言葉が出てきます。

  • Dis-moi ce que tu manges, je te dirai ce que tu es.
    どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。
    日本語訳は関根秀雄・戸部松実訳、岩波文庫(上)、p.23 による。元の諺に合わせて、Dis-moi ce que tu manges, je te dirai qui tu es. という形で引用されることもあります。

この動詞の部分を変えることで、色々な表現が可能です。たとえば、

  • Dis-moi ce que tu lis, je te dirais qui tu es.
    どんなものを読んでいるのか言ってみたまえ、そうすれば君がどんな人か言いあててみせよう。
    フランスの歴史学者ピエール・ド・ラ・ゴルスが1920年5月7日に書誌学協会の集まりで述べた言葉(Maloux (2009), p.302 による)。「lis」は lire(読む)の現在2人称単数。

本棚を見れば、その人となりがわかる、というわけです。

【英語の諺】 A man is known by the company he keeps.

En mariage trompe qui peut.

【逐語訳】 「結婚では、だませる者はだませ」

【諺の意味】 結婚では、だますが勝ちだ(だまされたほうが悪い)。
相手をだまして結婚しても罰せられない。

法諺(法律に関する諺)です。

18 世紀の金字塔『百科全書』では次のように説明されています。

  • たとえば、ある男が実際よりも財産が多いと思わせて結婚したとしても、そのことを理由に結婚の契約を取り消すことはできない。なぜなら、契約相手の能力について事前に情報を得ておくことは、結婚の契約をする者の務めだからだ。
    原文は ARTFL で閲覧可能。

『百科全書』では、この諺は「Dol bon」(直訳すると「良い詐欺」、つまり許容される欺瞞)という項目に載っています。 Dol bon とは、商品を売る場合などに、実際以上に良いように相手に思わせることを指し、買う側も売買契約を結ぶ前に一種の批判精神を持って確かめる必要がある、という考え方が背景にあるようです(Cf. 山口 (2002), p.179)。

田辺 (1976) p.186 では、わかりやすい次のような例が挙げられています。

  • このごろは身分、学歴、財産をいつわって、結婚したがっている OL を手に入れる男があり、また女にはつけまつげ、かきまゆげ、ブラジャー、パッドあるいは人口処女膜などで男をだますものがあると聞く。

実際、嘘をついていたり、厚化粧をしていた程度で結婚を無効にできるようにしたら、かえって社会秩序が混乱してしまう、というところから生まれた諺だと想像されます。

【判例】 日本での次のような実話が池田 (2010), p.151 で紹介されています。

  • ある女性が、結婚してから夫の頭がはげていることに気づいた(お見合いの席では、かつらをかぶっていたので、結婚するまで気づかなかった)。だまされたと思った妻は、離婚と 1 億円の慰謝料を求めて裁判を起こした。一審では離婚と 200 万円の慰謝料が認められたが、慰謝料が少ないのを不服として妻は控訴した。しかし、高裁の裁判官はこのフランスの諺を知ってか知らずか、おそらく「はげ頭を隠すぐらいは、ある程度は許される」という判断から控訴を棄却し、なおかつ本来なら慰謝料は 100 万円が妥当という意見を付け加えた。

ただ、これは日本での話であり、「フランス民法第180条は、脅迫、錯誤(人違い)を婚姻取消の事由として認めているが、詐欺による取消を認めていない」(Ibid)ので、フランスだったら妻の主張はまったく認められないのではないかと思われます。

【由来】 1607 年刊のロワゼル『慣習法提要』第 1 部第 2 章 III (1846年版 N°105)で、「il」を加えた「En mariage il trompe qui peut.」という形で取り上げられています。

ただし、上記『百科全書』では「il」がない形で書かれており、ロワゼルの本でも 1846 年版の索引では「il」を省いた形になっています。
Quitard (1861), p.315 ; 田辺 (1976) p.186 ; Dournon (1986), p.217 ; Pierron (2000), p.340 などでも「il」なしです。

少なくとも現代では、文法的には「il」がないほうが自然なので、むしろ「il」を抜かした形で一般には流布しています。

【単語の意味と文法】 「En」は前置詞で、ここでは抽象的な話題を表し、「~においては、~では」。
「mariage」は男性名詞で「結婚」。前置詞 en の後ろなので無冠詞になっています。

「trompe」は他動詞 tromper (だます)の接続法現在3人称単数。
他動詞なのに例外的に直接目的が省略されていますが、内容的に「結婚相手」が直接目的であることは明らかです。なぜ接続法が使われているのかは後回しにします。

「qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」
「peut」は pouvoir (~できる)の現在 3人称単数。
ここでは本動詞として使われているとも言えますが、既出の動詞 tromper が「peut」の後ろに省略されているともいえます。
「qui peut」で「できる者」ですが、「tromper」を補って「qui peut tromper」とするなら、「だますことができる者」となります。

さて、この諺をわかりやすく書き換えると次のようになります。

もともと、Que で始まる独立節で接続法を使うと「~するように!」という 3 人称に対する命令を表すことができます。しかしこの場合、Que を省く代わりに倒置にすることも可能 なので、この諺のような形になっています。

なお、文法的に似ている、よく知られた表現として、次のものがあります。

  • Sauve qui peut !
    逃げられる者は逃げよ!
    「Sauve」は sauver の接続法現在3人称単数。通常は再帰代名詞とともに se sauver で「逃げる」という意味(ここでは例外的に se は省略されています)。わかりやすく書き換えると、Que celui qui peut (se sauver) se sauve ! ((逃げることが)できる者は逃げるように!)となります。

この言葉は、パニックになった非常事態時(戦いに敗れて散り散りに退却する場合や、船が沈没しそうな場合)に、各自の判断でばらばらに逃げるように呼びかけるときに使われます。

次の Honni soit qui mal y pense. も、文法的に同じ構造をしています。

Honni soit qui mal y pense.

【逐語訳】 「邪推する者は侮蔑されんことを」

イギリスのガーター勲章のモットー(紋章の銘)です。
通常、「思い邪(よこしま)なる者に災いあれ」と訳されます。

【エピソード】14世紀中頃にイギリス国王エドワード3世が創設したガーター騎士団(英語 Order of the Garter 、フランス語 ordre de la jarretière)にまつわるエピソードが有名です(ガーターとは帯状の「靴下留め」のこと)。このエピソードは伝える人によって多少バリエーションがありますが、ここではジャン=ポール・ロワ『歴史的引用句の解説』という本の一節を訳してみます。

  • 1344 年、イギリス国王エドワード 3 世は、改修されたウィンザー城で舞踏会を開いた。イタリア人の歴史家ヴェルジリオの伝えるところによると、舞踏会の最中、王の愛人だったソールズベリー伯夫人は、青いガーターを落としてしまい、周囲の人々は薄ら笑いを浮かべた。王はその布切れを拾い上げると、愛する人の左膝に取りつけ、言った。「皆の者、思い邪(よこしま)なる者に災いあれ! 今日笑っている者たちは、明日はこれを身につけることを誇りに思うことになろう。このガーターは非常に栄誉あるものとなり、冷やかしていた者たちが熱心に追い求めるものになるのだ」。
    翌日、王は非常に高貴なガーター騎士団を設立、金の地に描かれた青のガーターをエンブレムとし、Honi soit qui mal y pense. をモットーとした。

当時、イギリスの宮廷ではフランス語が話されていたので、王もフランス語で叫んだのだと思われます。

このガーター騎士団のエンブレムは、イングランドのシンボルである「赤い十字」の盾と、それを取り囲む青いガーター(靴下留め)を組み合わせたものですが、そのガーターにこの文字が記されています(仏語版 Wikipédia 右上に画像が掲載されています)。

現代のフランス語の綴りでは「Honni」は n が 2 つですが、昔は n が 1 つだけだったので、ガーター勲章のモットーでは「Honi soit qui mal y pense.」となっています。

【単語の意味】 「Honni」は他動詞 honnir の過去分詞。
honnir は少し古風な単語で、「侮蔑(ぶべつ)する、辱(はずかし)める」。
「soit」は être の接続法現在(3人称単数)。
なぜ接続法になっているのかは、次の【文法】の項を参照してください。
「mal」は副詞で「悪く」。
「pense」は penser (考える)の現在(3人称単数)。
「penser à ~」で「~のことを考える」という使い方をする間接他動詞です。
à の後ろのものを代名詞に置き換える場合は、中性代名詞 y を使用し、動詞の直前に置きます。

【文法】 「qui」は関係代名詞で、 celui qui (...する人)の celui の省略です。つまり、次のように言っても同じです。

  Honni soit celui qui mal y pense.

この文の主語は「celui qui mal y pense (そのことを悪く考える者)」全体です。つまり、この文は倒置になっています。
もともと、Que で始まる独立節で接続法を使うと「~されんことを」という意味になりますが、ここでは Que が省略され、倒置になった形だと理解することができます。
Que をつけて通常の語順にすると、次のように書き換えられます。

  Que celui qui mal y pense soit honni.

Que の後ろは、「celui qui mal y pense」全体が主語で、動詞は「soit honni」。
être + p.p. で受動態になっています。

直訳すると、「そのことを悪く考える者は侮蔑されんことを」。

【英訳】 英語では次のように訳されます。

  Evil be to him who evil thinks.
  Evil to him who evil thinks.

ただし、イギリスでも、この英訳よりも元のフランス語のままのほうが一般的なようです(English Proverbs Explained p.88 による)。



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