「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-5

やさしい諺(ことわざ) 5( M ~ P )


Mauvaise herbe croît toujours.

【逐語訳】 「雑草はたえず増える(生長する、はびこる)」

【諺の意味と使い方】 「悪餓鬼ほど背が伸びるのが早い」という意味で、どんどん背が伸びる子供について冗談で言うときに使われます(下記モリエールの用法を参照)。
日本の諺の「独活(うど)の大木」に似ています。

その他、「憎まれる者ほどかえって世間で幅をきかせる」などの意味で使われることもあるようです。
その場合は、日本の諺の「憎まれっ子世に憚(はばか)る」に相当します。

【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵があります。

【単語の意味】 「Mauvaise」は形容詞 mauvais(悪い)の女性単数。
「herbe」は女性名詞で「草」。英語に入ると herb(草、ハーブ)となります。
「mauvaise herbe」で「悪い草」つまり「雑草」を意味しますが、比喩的に人について「厄介者・ろくでなし、不良・悪餓鬼(わるがき)」などの意味にもなります。
発音はリエゾンして「モーヴェ ゼルブ」と発音します。

「croît」は自動詞 croître(増える、生長する)の現在(3人称単数)。アクサン シルコンフレクスをつけないと、croire(思う)の現在になるので注意が必要です。
「toujours」は副詞で「つねに、たえず、いつでも」。

【由来】 ラテン語では、岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』に次のような表現が収録されています。

  • mala herba difficulter moritur. (悪草(雑草)は死すること難し)
  • mala herba non interit. (雑草は死せず)

1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』の IV, II, 99 (3199) には、古代の Malum vas non frangitur(悪い壺は割れない)という諺に関連して、次のように書かれています。

  • 一番出来の悪いものは、時として他のものよりも壊れにくく、危険に際しても丈夫である。現代では、Malam herbam non perire(雑草は滅びない)という、似たような比喩が日常会話で用いられている。

フランス語の古い用例としては、次のものがあります(古い綴りを含む)。

しかし、この諺が有名になったのは、1668 年に初演されたモリエールの喜劇『守銭奴』第 3 幕第 10 景において、主人公が謙遜して自分の娘を紹介するときに発した、次の台詞によってです(訳は鈴木力衛訳、岩波文庫 p.92 による)。

  • Vous voyez qu'elle est grande; mais mauvaise herbe croît toujours.
    ごらんのとおり、なりばかり大きくてね。雑草はとかくはびこるもんでしてな。
    原文は WikisourceSite-Molière.comTOUTMolière.net などで閲覧可能。

【英語の諺】 英語もほぼ同じです。

  • Ill weeds grow apace.
    『オックスフォード諺辞典』第5版 p.164では、この英語の諺の由来として、上に挙げた14世紀のフランス語の諺が最初に挙げられています。またEnglish Proverbs Explained では、この英語の諺の説明として、「私達が大事に思っている庭の植物は、たえず気にとめて手をかけないと生長しないのに、価値のない雑草はいつでもよく伸びる。価値のない人間も同様である」というようなことが書かれています。」

Ne jetez pas vos perles devant les pourceaux.

【逐語訳】 「豚の前に真珠を投げるな」

【諺の意味】 日本の「豚に真珠」と同じ意味で使われます。

【単語の意味と文法】 「jetez」は他動詞 jeter(投げる)の現在 2 人称複数と同じ形ですが、ここでは主語がないので、命令形です。
これを否定の ne... pas で挟んで、否定命令文になっています。
「vos」は所有形容詞で「あなたの」または「あなたたちの」
もともとイエスが複数の弟子達を前にして語った言葉なので、「あなたたちの」となっています。しかし、いちいち日本語に訳さなくてもよいかもしれません。
「perle」は女性名詞で「真珠」。
「devant」は前置詞で「~の前に」。
「pourceaux」は男性名詞 pourceau(豚)の複数形。porc と同じ意味ですが、文章語で使われます。

【由来】 『新約聖書』「マタイによる福音書」の第 7章 6節のイエスの言葉に由来します。
「新共同訳」では次のように訳されています(下線引用者、以下同)。

  • 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

同じ箇所が「フランシスコ会訳」では次のように訳されています。

  • 聖なるものを犬に与えてはならない。また、あなた方の真珠を豚に投げ与えてはならない。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなた方を咬み裂くであろう。

「真珠」とは「宗教上の真理を指す」と解釈されているようです(同訳の注による)。

西暦 4~5 世紀の「ウルガータ」(ラテン語訳聖書)では、次のように訳されています。

  • neque mittatis margaritas vestras ante porcos
    あなたたちの真珠を豚の前に投げるな

このラテン語の margarita は「真珠」という意味です。
(ちなみに、中世以来、各国の王女・王妃などの名前に「マルグリット」「マーガレット」「マルガリータ」という名が好まれたのは、おそらく「真珠」を意味したからだと思われます)。

フランス語の marguerite も、もとは「真珠」という意味でした。そのため、中世のフランス語では、この聖書に由来する表現では、perle の代わりに marguerite が使われています(TLFi によると類似表現は 1180-90 年に確認可能)。

近世以降のフランス語では、marguerite という単語から「真珠」という意味は消え、もっぱら植物の「マーガレット」(典型的には花びらが白くて中央が黄色い、菊の一種)を指すようになります。
ただし、この「豚に真珠を投げる」という成句表現の時だけは、長い間、「真珠」という意味で marguerite という言葉が使われていたようです。
アカデミー辞典』では、この表現の「真珠」を意味する言葉として、第 1 版(1694)~第 4 版(1762)では marguerite が使われ、第 5 版(1798)~第 7 版(1878)では marguerite と perle の両方が使われ、第 8 版(1932-1935)以降は perle が使われています。

【フランス語訳聖書】 印刷されたフランス語訳聖書としては最初期の 1476 年の Nouveau Testament (f. 317)では次のように訳されています。

  • ne mettez pas pierres precieuses devant les porcs.
    豚の前に宝石を置くな
    「pierre precieuse」(現代の綴りでは pierre précieuse)は「宝石」。

1535 年のオリヴェタン訳では、次のように「真珠」には perle が使われており、これ以降のほとんどすべてのフランス語訳聖書で踏襲されることになります。

  • ne iettez pas voz perles deuât les porceaux
    あなたたちの真珠を豚の前に投げるな
    古い綴りを含む。カルヴァンによる改訂版でも若干綴りが違うだけでほぼ同文です。

フランス語訳聖書のいわば決定版となった Sacy 訳でも、否定の副詞 pas が point に変わっているだけの、表題の形とほぼ同じ次のような形になっています。

  • ne jetez point vos perles devant les pourceaux

【日本の諺】 「豚に真珠」は、基本的には聖書の日本語訳とともに入ってきた表現のはずです。例えば明治 4 年(1872 年)のヘボン訳(Wikisource)では次のようになっています。

  • 犬に聖なるものをあたふることなかれ また豕(ぶた)のまへになんぢらの真珠をなぐることなかれおそらくは足にてそれをふみ ふりかへりてなんぢらをかみやぶらん

明治 43 年(1910 年)版のラゲ訳(bible.salterrae.net)では次のようになっています。

  • 聖物(せいぶつ)を犬に與(あた)ふること勿(なか)れ、又(また)汝等(なんぢら)の眞珠(しんじゆ)を豚の前に投ぐること勿れ、恐らくは足にて之(これ)を踏み、且(かつ)顧みて汝等を噛まん。

ちなみに「猫に小判」という表現は江戸時代から確認されます。

Ne remets pas à demain ce que tu peux faire aujourd'hui.

【逐語訳】「今日できることを明日にのばすな」

【由来】古代ギリシアのヘシオドス『仕事と日』の農耕関連の箴言を集めたような箇所に、次のような一節があります。少し前後を引用してみます。

  • またもろもろの道具をすべて家に用意しておけ、
    他人に頼んでも断わられ、不自由を喞(かこ)っているうちに、
    季節は過ぎ、仕事がふいになってはならぬからな。
    仕事をあす、あさってと延ばしてはならぬ
    仕事を怠る者も、延ばす者も、納屋を満たすことはできぬ。
    精を出してこそ、仕事はうまく運ぶ、
    だらだらと延ばす男は、いつも貧乏神と戦わねばならぬ。
    日本語訳は松平千秋訳『仕事と日』岩波文庫 p.60 による(下線引用者)。

フランス語では、14世紀前半(1337頃?)のルノー・ド・ルーアン『メリベとプリュダンス』(1392年の『パリの家事』に収録)に、古いフランス語で次のように書かれています。

  • Le bien que tu peus faire au matin, n'attens pas le soir ne l'endemain.
    朝にすることができる善〔について〕は、夕方も翌日も待つな

これに該当する箇所は、チョーサーの『カンタベリー物語』では次のようになっています。

  • 今日あなたにできる善はこれを行い、明日までそれを待ったり延ばしたりすることなかれ
    桝井迪夫訳『完訳カンタベリー物語(中)』岩波文庫 p.438による

このように、この話の中では「善は急げ」のような意味で使われています。

【似た諺】 日本の諺だと「善は急げ」、「思い立ったが吉日」など。

フランス語だと、

【単語の意味と文法】「remets」は他動詞 remettre(mettre と同じ活用をする不規則動詞)の tu(君)に対する命令形(現在形2人称単数と同じ形)。
remettre は、一番一般的な意味は「再び置く」「置き直す」ですが、ここでは「(いったん決めた日時を)延期する」。
これを「ne... pas」で挟んで否定になっています。
「à」は前置詞で「~に」。
「demain」は「明日」。
「ce que」の「que」は関係代名詞で、「ce」が先行詞になると、「...なこと・もの」という意味
「peux」は pouvoir(~できる)の現在2人称単数。
「faire(する、行う)」は準助動詞の後ろなので不定詞になっています。
「aujourd'hui」は「今日」。

「ce que tu peux faire aujourd'hui」(君が今日行うことができること)で大きなまとまりとなり、他動詞「remets」の直接目的語になっています。
つまり、「à demain(明日に)」という部分をカッコに入れるとわかりやすくなります。

あるいは、remettre が「remettre A à B(A を B に延期する)」という使い方をする直接他動詞(2)のタイプの動詞で、「à B」が「A」よりも前に来ていると言うこともできます。つまり、本来なら、

  • Ne remets pas ce que tu peux faire aujourd'hui à demain.

と言ってもよいはずですが、こうすると、かえって「à demain」の掛かり方がわかりにくくなるので、わざと「à B」(à demain)を「A」(ce que tu peux faire aujourd'hui)よりも前に持ってきたと理解することができます。

直訳すると「君が今日行うことができることを明日にのばすな」。

【他のバージョン】 次のように言うこともあります。

【英語の諺】Never put off till tomorrow what you can do today.

Noblesse oblige.

【発音】「ノブレス オブリージュ」(またはノブレッソブリージュ)

【逐語訳】「貴族であるということは強制する」

(=貴族であるということは〔貴族に貴族らしく振舞うように〕強制する)

【諺の意味】「貴族であると主張する者は誰でも、自分の生まれに対して名誉を汚さぬようにし、自分の地位にふさわしく振舞わなければならない。またより一般的な意味で、誰でも自分の占めている地位や、求めている評判にふさわしい行動を取る必要がある」アカデミー第9版)

つまり、諺としては、貴族に限らずに使われます。

【意訳】「位高ければ徳高きを要す」

【単語の意味と文法】「Noblesse」は、もともと noble(形容詞「貴族の」、および名詞化して「貴族」)から来た抽象名詞で、ひと言でいえば「貴族であること」。
具体的には、「貴族階級・貴族身分、貴族らしさ・高貴さ」などを指します(または集合名詞で総称的に「貴族」という意味もありますが、ここでは当てはまりません)。

通常なら定冠詞 la をつけるべきところですが、諺なので無冠詞になっています。

  • 古いフランス語では必ずしも冠詞は必要なかったため、古い諺では無冠詞になることがよくあります。この諺は比較的新しくできた諺のようですが、(古くからの)「諺らしく」見せるために、わざと無冠詞にしたのではないかと思われます。

「oblige」は他動詞 obliger(強制する、強いる、義務づける)の現在3人称単数。
基本的には次のような使い方をします。

  • obliger A à B
    A に B するように強制する(強いる、義務づける)

A の部分に「人」、B の部分に「物事」(名詞または不定詞)がきます。
ただし、ここでは「A à B」(誰に、何をするように)の部分が省略されています。

無難に内容を踏まえて、あえてまわりくどい言い方をすると、次のように言い換えられます。

  • La noblesse oblige les nobles à se conduire noblement.
    貴族であることは、貴族たちに貴族らしく振舞うように強制する。
    「nobles」は noble(ここでは名詞で「貴族」)の複数形。「se conduire」は「行動する、振舞う」(この代わりに「agir」なども使用可能)。「noblement」は副詞で「貴族らしく、高貴に」。A に相当するのが「les nobles」、B に相当するのが「se conduire noblement」。

実際には 2 語だけなので、直訳すると「貴族であることは強制する」となります。

そこで、この言葉が使われ始めた当初は、「何をするように」強制するのかと、人々は疑問に思ったという記録が残っています(下記)。

【由来】レヴィ公爵の言葉とされていますが(後述)、この考え方自体は、古代ローマの貴族の家系につらなるボエティウスの『哲学の慰め』にさかのぼることができます。

  • 政治家としても要職に就いていたボエティウスは、罪を着せられて525年に死刑に処せられましたが、その直前に書いた『哲学の慰め』は、死刑の宣告を受けて苦悩する「私」を慰めるために、擬人化された「哲学」が眼前に現れ、「私」を諄々と諭すという構成をとる、緊張感のはりつめた名品で、中世にも多くの写本が残されており、各国語に翻訳されています(ルノー・ド・ルーアン による仏語訳、チョーサーによる英訳など)。

この中で、擬人化された「哲学」が語る言葉の中に、次のような一節があります。

  • 貴族という名前のいかに空しく、いかに はかないものであるかは誰が知らないであろう。もしそれが光栄とかかわりがあるとすれば、それは他人の光栄である。すなわち、貴族とは、祖先の功績から生ずるある種の賞讃と見られる。そしてもし、そうした賞讃が光栄をもたらすとすれば、光栄を受けるのは賞賛されている当の祖先でなければならぬ。(...)もし貴族ということの中に何らかの善いことがあるとすれば、それはただ -- 私の考えるところでは -- 貴族に生まれた者には、祖先の徳を汚してはならぬ義務が課せられているように見えることだけである。
    畠山尚志訳、岩波文庫 p.106から引用(仮名遣いと表記を一部変更。下線引用者)。この箇所はキタール『フランス語ことわざ研究』 p.279 で引用されています。
    ラテン語原文:Boethius, De consolatione philosophiae, III, 6。この下線部のラテン語原文に含まれる「imposita nobilibus necessitudo」という 3 語(逐語訳:「貴族たちには...という必要性が課せられている」)がフランス語の Noblesse oblige. に対応しています。

これに従えば、貴族であるということは、「祖先の徳を汚さぬように」貴族に強制する、ということになります。

この Noblesse oblige. という言葉は、騎士道や貴族の精神を表す言葉として、中世から脈々と語り継がれてきたのではないかと、つい想像したくなりますが、文献上(少なくとも Noblesse oblige. という 2 語の並びで)確認可能なのは、実はフランス革命直後、1807年に初版が出たレヴィ公爵の『箴言と省察』が最初のようです。

  • レヴィ公爵というと、歴史的には、18世紀後半のアメリカ独立戦争の前夜、カナダのケベックでイギリス軍と勇敢に戦い、軍人としての最高位である元帥にまでのぼりつめたフランソワ=ガストン・ド・レヴィ(1719-1787)が有名で、よく混同されますが、『箴言と省察』を著わしたのはその長男のピエール=マルク=ガストン・ド・レヴィ(1764-1830)です。『箴言と省察』は、ラ・ロシュフーコーの流れを汲む箴言や短い文章を集めた本で、生前は5種類の版が出ています(初版1807年刊、第2版1808年刊、第3版1810年刊、第4版1811年刊、第5版1825年刊。初版ではケラールが指摘しているように(書誌辞典 t.5, p.281)名前を伏せて M. de L という著者名で出版されています。そのつど増補・改訂されて構成も変化し、書名も版によって若干変わっています)。残念ながら初版と第2版は閲覧できていませんが、初版からの抜粋を掲載したArchives littéraires de l'Europe(ヨーロッパ文芸資料)誌1807年4月号p.266 にこの言葉が確認されるので、初版からこの言葉が存在したことは確実だと思われます。 Maloux (2009), p.368と Rey/Chantreau (2003), p.633では1808年版(箴言第51番)が引用されていますが、この言葉の初出は1807年だと断定してよさそうです。

問題の Noblesse oblige. という言葉は、1810年の第3版では、主に短い格言ばかりを集めた「箴言」の部に収められており、前後の脈絡なく、この 2 語だけで終わっています。

前述のように、この言葉は、直訳すると「貴族であることは強制する」となり、「何をするように」強制するのかが明言されていません。この本が出た当初も、そのことが話題になっていたようで、当時の雑誌には次のように書かれています。

  • Levis (le duc de). Noblesse oblige, a dit ce grand penseur, et chacun s'est empressé de demander à quoi ?
    レヴィ公爵。この偉大な思想家は、「貴族であることは強制する」と言ったが、この言葉を聞いた人は皆、「何をするように?」と、聞き返した。
    出典:Le Nain jaune réfugié, 3e vol, 1816, p.224

このように、わざと大胆に省略した、少し舌足らずな(そして謎めいた)表現だったために、人々の関心を惹き、よく話題にのぼったのではないかと想像されます。
また、フランス革命から王政復古に至るめまぐるしい政治体制の変化に伴い、「貴族階級」というものに対する人々の関心が高かったことも、この言葉が注目を集める大きな要因となったと思われます。

ちなみに、1825年の『箴言と省察』第5版では、この言葉は、長めの文章を集めた「省察」の部の中に新たに設けられた「貴族について」という章の冒頭に移動しており、次のように文が続いています。

これに従えば、貴族であるということは、「名誉と惜しみなさ(およびフランスの場合は礼儀正しさ)を重んじるように」貴族に強制する、ということになります。

アカデミー辞典』では、この言葉は第5版(1798)までは収録されておらず、第6版(1835)以降に収録されています。

1836年のバルザックの小説『谷間の百合』や、同年のスタンダールの『アンリ・ブリュラールの生涯』にも、この言葉が使われており(Cf. TLFi )、この頃には広く知れ渡っていたことがうかがわれます。

日本では、1900年(明治33年)刊行の新渡戸稲造の『武士道』の冒頭近くで、「武士道とは何か」を西洋人に説明しようとした箇所に、この言葉が出てきます。

  • 私が大ざっはにシヴァリー Chivalry と訳した日本語は、その原語においては騎士道(ホースマンシップ)というよりも多くの含蓄がある。ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば『武士の掟』、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージェ)である。
    新渡戸稲造『武士道』、矢内原忠雄訳、岩波文庫p.24から引用(仮名遣いと表記を一部変更。下線引用者)。

【使用例】フランスでは伝統ある老舗(しにせ)であることをアピールする企業の広告・宣伝などでもよく見かけます。
この場合、「代々受け継がれてきた暖簾(のれん)を汚さぬよう、誇りを持って行動します」、「定評ある品質を今後とも維持していきます」といった、企業方針の「宣言」のような意味合いで使われるようです(こうしたニュアンスが、たった 2 語で表現されます)。
要するに、「老舗としての誇りを持って」ぐらいの意味だともいえます。
いわば「シニセ オブリージュ」です(⇒ 具体例)。

こういった、貴族云々といった文字どおりの意味とはかけ離れた文脈で使用されるというのは、諺ならではの現象です。

【もじった表現】「Noblesse」の代わりに「Jeunesse」(若者であること)を使った次のような表現もあります。

  • Jeunesse oblige.
    逐語訳:若者であるということは〔若者らしく振舞うように若者に〕強制する。
    発音は「ジュネス オブリージュ」。

若者は若者らしく振舞うことが求められる、という意味です。

「Noblesse」の部分を他の抽象名詞に置き換えれば、いろいろともじった表現を作ることができそうです。

Nul n'est prophète en son pays.

【逐語訳】 「自分の故郷では誰も預言者ではない」
(預言者郷里に容れられず)

【諺の意味】 歴代の『アカデミー辞典』には次のように書かれています。

  • 「奇跡を起こす人は、通常、自分の故郷では、よそでよりも尊敬されない」(第 1~5 版)
  • 「人は通常、自分の故郷では、よそでよりも成功しない」(第 6~7 版)
  • 「人は通常、自分の故郷では、よそでよりも成功しない。信用される確率が最も低く、最も一目(いちもく)置かれにくいのは、身内の人々においてである」(第 8 版)
  • 「遠い場所や外国においてよりも、身近な人々によってのほうが、長所が認識されにくい(または遅ればせながらしか認識されない)人について使う」(第 9 版)

【単語の意味と文法】 「Nul ne...」は「何人(なんぴと)も ...ない」「誰も ...ない」
「est」は être の現在(3人称単数)。

「prophète」は「預言者」。
仏仏辞典(TLFi )の定義によると、一般に「神々の代弁者」のことであり、聖書において「神が自分の意思を伝達・説明するために選んだ人」、特に(キリスト教において)「イエス・キリスト」を指す、と書かれています。

「en」は前置詞で、ここでは場所を表し、「~で、~において」。
「son」は「自分の」
「pays」は男性名詞で「国、地方、故郷」。ここでは「故郷」が近いようです。

なお、最近は会話では、前置詞 en の代わりに、ほぼ同じ意味の dans を使うことが多くなっているようです(Brunet (2011), p.110)。

  • Nul n'est prophète dans son pays.
    これは、前置詞 en を使うと「おそらく文学的すぎると感じられる」からのようです(Ibid.)。

【由来 1(聖書)】 この諺は、新約聖書の『ルカによる福音書』(第 4 章 24 節)でイエスが言った、次の言葉に由来します(新共同訳による)。

  • 預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

この部分は、フランス語訳聖書では次のようになっています(Sacy 訳による)。

これに対応する場面は、『マルコによる福音書』(第 6 章 1~6 節)では次のようになっています(新共同訳による)。

  • イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

故郷では、たとえイエスであっても単なる「大工ではないか」と言われて軽く見られてしまう、というわけです。

ちなみに、『マタイによる福音書』(第 13 章 53~58 節)では多少語句が異なっており(色々な意味で無難な表現になっており)、「この人は大工の息子ではないか」、「そこではあまり奇跡をなさらなかった」となっています(下線引用者)。

【由来 2(フランス語の表現)】 15 世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.54, LXVI)に表題とほとんどまったく同じ形で収録されています。

1528 年の Gringore の諺集fol. 13v, 8)にも似た形で収録されています(En son pays nul ne est nommé prophete)。

1557 年のシャルル・ド・ボヴェルの諺集fol. 9v)には次のような諺が収録されています(Montreynaud et al. (1989), p.175 で引用)。

  • En son pays prophete sans pris.
    自分の故郷では預言者は評価されない。
    「pris」は prix の古い形で、ここでは priser(高く評価する)に通じる意味。

そして、この諺の説明として、「主イエス・キリストの言葉によると、誰も自分の故郷では預言者ではない」と書かれており、表題とまったく同じ言葉が出てきます。

モンテーニュの『エセー』第 3 巻第 2 章(1588 年以降の加筆部分)にも出てきます。モンテーニュは、この諺を引き合いに出したあとで、自分が住んでいる地域(ガスコーニュ、ギュイエンヌ)では自分が書いたものがあまり有難がられないとして、次のように書いています。

  • わがガスコーニュの土地では、人々は私の書いたものが印刷になるのを不思議なことに思っている。私についての知識が、私の家から遠くなればなるほど、私の値打は増してくる。ギュイエンヌ州では私が印刷屋に金を払うが、よそでは皆が私に金を払ってくれる。

    (岩波文庫(五)、原二郎訳、p.43)

17 世紀ラ・フォンテーヌの『寓話』第 8 巻第 26 話にも(あまり目立たない形で)出てきます。

仏仏辞典『アカデミー辞典』では、第 1 版(1704)~第 4 版(1743)では「Nul」の代わりに「Personne」を使った「Personne n'est prophete en son pays.」という形で収録されており、第 5 版(1752)から表題と同じ形になっています。

【使用例】現在の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【英語の諺】 同じ聖書の言葉に由来し、次のように言います。

  • A prophet is not without honour save in his own country.
    「save」は前置詞で「~を除いては」(except と同じ)。

【日本の諺】 日本だと、使われる頻度はともかく、次のような表現があります。

  • 所の神様ありがたからず
    地元の神様は有難くない。『岩波 ことわざ辞典』 p.413 によると、「身近でよく知っているものには、尊さや畏敬の念が感じられないということのたとえ」。『故事俗信ことわざ大辞典』第二版 p.967によると、この諺は「古い用例が見当たらない。『遠くの坊さんありがたい』も同様で、近代になって『新約聖書』の予言者郷里に容れられず」など、外国の表現の意訳ないしは影響を受けて出てきた表現の可能性も考えられる」。

Œil pour œil, dent pour dent.

【逐語訳】 「目に対しては目、歯に対しては歯」
(目には目を、歯には歯を)

【由来】 古代メソポタミア文明の楔形文字で書かれた「ハンムラビ法典」(紀元前 17 世紀頃)に由来しますが、旧約聖書でも例えば次のように出てきます。

  • 「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」

    (『出エジプト記』第 21 章 23 節。訳は新共同訳による)

これを踏まえてイエスが述べた言葉も有名です。

  • 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

    (『マタイによる福音書』第 5 章 38 節)

【単語の意味と文法】 「œil」は男性名詞で「目」。 œ は o と e がくっついた文字です。
œil という単語は、普通は複数形で使用しますが、ここは単数形なので「片目」という意味です。ちなみに œil の複数形は yeux という、かなり不規則な形になります。
体の一部を表す名詞には基本的には定冠詞がつきますが、片目という場合は「一つの」という意味で不定冠詞 un をつけるので、覚えるときは、次のように単数形では不定冠詞、複数形では定冠詞をつけて覚えるとよいでしょう。

  un œil, les yeux (「アンノイユ、レズュー」と発音)

ただし、ここでは無冠詞になっています。これは、前置詞を介して、同じ単語を反復するときは、無冠詞にすることがあるからです。

「pour」は前置詞で「~のために、~にとって」。

「dent」は女性名詞で「歯」。これも単数形なので、一本の歯を意味します。
ちなみに、「歯医者」は dentiste と言いますが、これは英語にも入っています(綴りは末尾の e が取れます)。

【英語の諺】 英語では不定冠詞をつけて言います。

  An eye for an eye and a tooth for a tooth.

【使い方】 普通は、報復措置を正当化するときに使われますが、後半の「dent pour dent(歯には歯を)」だけを取り出して、ふざけて歯医者が入れ歯(義歯)を勧めるときに使うこともあるようです。

On a souvent besoin d'un plus petit que soi.

【逐語訳】 「人はしばしば自分より小さい者を必要とする」

昔から有名な言葉であることを踏まえて文語調にするなら、

  • 「おのれより小さき者を必要とすることも多し」。

【諺の意味と使い方】 「自分よりも小さい者(地位が低い者、力の弱い者など)に助けられることもある」

「誰でも自分より低いものに恩を施しておけば、いざというとき思いがけない助けを得るとの意」(田辺 (1959) p.157)のように説明されることもあります。たしかに、この諺のもとになったイソップ寓話のエピソード(下記)では「恩返し」の意味が含まれていましたが、この諺は必ずしも「恩返し」とは関係なく使われます。

たとえば、職場で偉い地位にある人が、自分よりもはるかに地位が低く軽視していた人に思いがけず助けられたような場合に使ったりします。

【由来】 もとをたどると、イソップ寓話の「ライオンと鼠の恩返し」に由来します。要約すると、次のような単純な話です。

  • あるとき、ライオンが鼠を捕まえたが、食べずに命を助けてやった。しばらくして、今度はライオンが罠にかかり、抜け出せないでいたところ、鼠がやってきて網を食いちぎり、恩返しをしてくれた。
    話の最後に、教訓として、「時勢が変われば、いかな有力者でも弱い者の助けが必要になる、ということをこの話は説き明かしている」(岩波文庫『イソップ寓話集』、中務哲郎訳、p.125)と書かれています。

17世紀フランスのラ・フォンテーヌは、このイソップの話を翻案し、『寓話』第2巻第11話「Le Lion et le Rat(ライオンと鼠)」を書いています。
この寓話の冒頭 2行に、「教訓」として次のような言葉が出てきます。

  • Il faut, autant qu'on peut, obliger tout le monde :
    On a souvent besoin d'un plus petit que soi.
    できる限り、皆に恩を施しておく必要がある。
    人はしばしば自分より小さい者を必要とするのだから。
    強調引用者。原文は jdlf.com などで閲覧可能。
    1行目をざっと解説しておくと、「Il faut」は「~する必要がある」2つのコンマの間は挿入句。「autant que...」は熟語で「...な限り」。「peut」は pouvoir(~できる)の現在3人称単数。「obliger」は他動詞で、普通は「強制する」ですが、ここでは「恩を施す、親切にする」。「tout le monde」は熟語で「皆」。1行目の最後のドゥポワンは、ここでは説明・理由を表しているので、2行目の最後に「...のだから」と付け加えるとぴったりきます。

この 2行はともに12音綴(アレクサンドラン)となっており、悠揚せまらぬ語調となっています。

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」という意味で、ふつうは訳さないほうが自然になりますが、逆にことわざ・格言では、「人は... するものだ」という感じに訳すと、うまくいく場合もあります
「a」は助動詞 avoir の現在 3人称単数。
「souvent」は副詞で「しばしば」。
「besoin」は男性名詞で「必要、欲求」。
これが無冠詞になっているのは熟語だからで、avoir besoin de ~(~を必要とする)という熟語。
「plus ... que ~」は「~よりも...」という比較の表現
「petit」は形容詞で「小さい」。辞書で petit を引くと、最後に「子供」「小さなもの」「弱者」という名詞が載っていますが、ここは名詞だと取ることはできません。比較の plus と que の間には形容詞または副詞しかくることはできないからです(名詞がくる場合は plus の後ろに de が必要)。
形容詞「petit」に不定冠詞「un」がついていますが、冠詞 + 人の性格などを表す形容詞で「~な人」という意味になります。
このように、あくまで「petit」は形容詞で、それが名詞化していると取ります。
「un plus petit que ~」で「~よりも小さい人(者)」。ここはライオンと比較した場合の「鼠」がイメージされますが、鼠が擬人化されて「人」扱いになっています。
「soi」は再帰代名詞 se強勢形で、「自分」。ここでは主語の「On」と同じ人を指します。
比較の que の後ろなので強勢形になっています。

【英語の諺】 英語でも、同じイソップ寓話に由来する諺があります。

  • A mouse may help a lion.
    鼠がライオンを助けることもある

【エピソード】 「ライオンと鼠」の話は、ラ・フォンテーヌ以前からフランスでも知られており、16 世紀のクレマン・マロの「わが友リヨンへ贈る書簡詩」にも出てきます。
1526 年、クレマン・マロが四旬節の期間中に脂身を食べたかどで投獄されたとき、友人リヨン・ジャメ(Lyon Jamet)に助けを求めるために贈った詩の中で、友人リヨンを(リヨンとライオンは発音が同じことに掛けて)ライオンに喩え、獄中の自分を鼠に喩えて、助けを求めています(このエピソードは文庫クセジュ『十六世紀フランス文学』 p.56 にも記載されています)。
この詩の中で、鼠に助けてもらったライオンは、次のような言葉を残して立ち去ります(筑摩書房 世界文学大系 74 「ルネサンス文学集」 p.335、秋山晴夫訳による)。

  • 親切は(まったくのとこ)どこでしても
    無駄にはならないものだ
    原文は GoogleBooks 等で閲覧可能。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【日本の似た諺】 上記ラ・フォンテーヌの 1 行目に近いのは次の諺です。

  • 「情けは人のためならず」

On ne badine pas avec l'amour.

【逐語訳】 「愛は軽々しく扱わないものだ」
(戯れに恋はすまじ)

19世紀フランスのアルフレッド・ド・ミュッセ(1810-1857)が劇の題名に採用したことで有名になった諺です。
このミュッセの劇の題は、歴史的には次のように日本語に訳されています。

  • 大正10年(1921)、亭二訳「恋は戯れぢゃない」
  • 大正10年(1921)、岡野馨(かおる)訳「戯れに恋はすまじ」
  • 昭和4年(1929)、西條八十訳「かりそめになす恋」
  • 昭和24年(1949)、進藤誠一訳「戯れに恋はすまじ」
    参考:篠沢秀夫『フランス文学案内』巻末の「翻訳文献」。西條八十も作詞家として有名ですが、「戯れに恋はすまじ」というインパクトのある訳の前には無力だったようです。

この「戯れに恋はすまじ」という絶妙の訳によって、日本語でも一度読んだら(聞いたら)忘れられない言葉となっています。

【ミュッセの劇のあらすじ】 1834年に雑誌「両世界評論」に掲載されたミュッセの戯曲『戯れに恋はすまじ』のあらすじは次の通りです。

  • ある田舎の男爵が、大学を出たばかりの息子ペルディカンと、その従妹で修道院に入っていたカミーユを呼び寄せ、二人を結婚させようとする。しかしカミーユは修道院で男の浮気話などを聞かされていたため、なかなか用心深い。そこで彼女の気をひくために、ペルディカンは好きでもない田舎娘ロゼットに言い寄る。その様子を目撃したカミーユは、初めて彼に恋していた自分に気がつき、彼に好意を打ち明ける。しかし田舎娘ロゼットは、単にもてあそばれていたことを知り、ショックのあまり自殺してしまい、結局カミーユも彼のもとから去っていく。

この劇では、「戯れに恋をする」というのは、「好きな人の気をひくために、好きでもない人に言い寄る」ことを意味します。

【図版】 絵葉書のページおよびミシュラン「タイヤのイラスト劇場」を参照。

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になる場合が多い言葉ですが、逆にことわざ・格言では、「人は... するものだ」という感じに訳すと、うまくいく場合もあります
「ne... pas」は否定
「badine」は自動詞 badiner の現在 3人称単数。
辞書には「(物事を)軽々しく扱う」という意味が載っており、前置詞 avec とセットで、主に否定文で使われます。
「amour」は男性名詞で「愛」、「恋」。

「On ne... pas」(人は... しないものだ)というのは、ここでは Il ne faut pas...(...してはならない)とほぼ同じ意味になっています。つまり、次のように言い換え可能です。

  • Il ne faut pas badiner avec l'amour.
    愛を軽々しく扱ってはならない。

【由来と「諺劇」について】 ミュッセ以前にも、On ne badine pas avec l'amour.(愛は軽々しく扱わないものだ)や Il ne faut pas badiner avec l'amour.(愛を軽々しく扱ってはならない)という表現は存在します。
特に、劇の題名に好んでつけられたようです。

演劇の題名としては、まず 17世紀スペインのカルデロン(ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ)が次のような題の劇を書いています。

  • No hay burlas con el amor
    『愛に愚弄は禁物』
    名古屋大学出版会『スペイン黄金世紀演劇集』所収、佐竹謙一訳。
    フランス語に訳せば On ne badine pas avec l'amour. となります。

フランスでは、1763年の作者不明の「教訓話」を集めた本に、On ne badine pas avec l'amour.(愛は軽々しく扱わないものだ)と題された小話が収められています。
Contes moraux dans le goût de ceux de M. Marmontel, recueillis de divers auteurs, t.4, p.244

また、「愛」の代わりに「火」を使った表現では、18世紀フランスの劇作家・画家カルモンテル(1717-1806)が 1769年に Amant malgré lui(意図せぬ恋人)という短い劇を書き、次のような副題をつけています。

  • Il ne faut pas badiner avec le feu.
    火を軽々しく扱ってはならない。
    これも諺で、文字通りの「火事になるといけないので、火遊びをしてはならない」という意味からの比喩で、「厄介な結果を生みかねないので、無用な危険をおかしてはならない」(TLFi )という意味で使われます。

テオドール・ルクレール(1777-1851)も 1823年にこれと同じ Il ne faut pas badiner avec le feu を副題にもつ短い劇を書いています。

こうしたカルモンテルやルクレールの作品は、「ことわざ劇」(格言劇、箴言喜劇)と呼ばれる文学ジャンルに属しますが、これはフランス文学史ではあまり省みられることはありません。「ことわざ劇」は、もともと宮廷で、諺を扱った短い寸劇を演じ、それが何の諺か当てさせるという社交界の遊びごとに始まったようですが、「文学性」という点ではほとんど取るに足りないものだからです。

しかし、その中でミュッセの劇だけは別格で、文学的にも一流の扱いを受けています。

ちなみに、ミュッセはこの作品のほかにも、以下のような諺(または諺に類する表現)を題名につけた作品を残しています。

【言葉遊び】 ミシュランの「タイヤのイラスト劇場」では、この諺をもじった表現が使われています。

On ne change pas une équipe qui gagne.

【逐語訳】 「勝っているチームは変えないものだ」

【由来】 この諺は、数十年前にスポーツの分野で言われ始め、例えば野球なら「チームが勝っている時は打順は変更しないのが鉄則だ」という意味だったのが、急速にスポーツ以外の分野にも広まったようです。
主な仏仏辞典・諺辞典にはまだ載っていません。
これほど歴史が浅いのに、広く普及している諺も珍しいかもしれません。

【使い方】 「うまくいっているチームは変えないものだ」という意味で、色々なチームについて使われます。
会社なら、営業チームの連携がうまく取れているときに使ったりします。
政治なら、「支持率が高いときは内閣改造はするな」という意味になります。

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になる場合が多い言葉ですが、逆にことわざ・格言では、「人は... するものだ」という感じに訳すと、うまくいく場合もあります。ここは、単に「...(する)ものだ」と訳してみます。

「change」は他動詞 changer(変える、変更する)の現在 3 人称単数。
これを「ne... pas」で挟んで否定になっています。

「équipe」は女性名詞で「チーム」。フランスで最も有名なスポーツ新聞・雑誌 L'ÉQUIPE(レキップ)の名にもなっています。

「qui」は関係代名詞
「gagne」は自動詞 gagner(勝つ)の現在3人称単数。

なお、文頭の「On」に意味のない l’ をつけて次のように言うこともあります。

  • L'on ne change pas une équipe qui gagne.

【英語訳】 英語に逐語訳すると次のようになります。

  • One does not change a team that wins.

【他のバージョン】 この「une équipe」の部分を変えて、似たような表現を作ることができます。例えば、

  • On ne change pas un concept qui gagne.
    うまくいっているコンセプトは変えないものだ。
  • On ne change pas un système qui gagne.
    うまくいっているシステムは変えないものだ。

このように、この表現をもじった表現が使われること自体、この表現が諺として広く認知されている証拠です。

On ne fait pas d'omelette sans casser des œufs.

【逐語訳】「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」

【諺の意味】「多少の犠牲は仕方がない」

【使い方】たとえば「大きな変革を断行する場合は、多少の痛みを伴うものだ」という時に使います。
ラルースの諺辞典では「犠牲」(sacrifice)という項目に分類されています (Maloux (2009), p.468)。

【単語の意味】「On」は漠然と「人は」。訳さなくても構いません。
「fait」は他動詞 faire (作る)の現在3人称単数。
「ne... pas」で否定。
「d'」は「冠詞の de」。否定文では直接目的語には de がつくのが原則です。
「omelette(オムレツ)」は女性名詞。
「sans」は前置詞「~なしに」。
「casser」は他動詞 casser(割る)の不定詞
「œufs」は「œuf(卵)」の複数形。通常、オムレツを作るには複数の卵を使うので、ここも複数形になっています。複数形の発音が例外的で、 f を発音しないので要注意。

  一個の卵 un œuf(アンノフ)
  複数の卵 des œufs(デズー)

「des」は不定冠詞の複数「œ」は o と e のくっついた文字

一番直訳に近づけると、「人は卵を割らずにオムレツを作らない」。

【由来】 この諺は19世紀にフランスで生まれたようです。

1830年3月に書き上げられたバルザックの小説 Adieu の凄惨な戦争の場面に出てくるのが早い用例です。モスクワ遠征に失敗して退却する際に、「男や女や、眠っている子供まで轢き殺さねば進めなくなってしまった」(新庄訳)状況で、なおかつ馬車が進もうとする場面に出てきます。「卵」というのが戦場に横たわる瀕死の兵隊の頭部を思わせる比喩となっています。

  • 「どうでもいらっしゃるつもりですかい?」と擲弾兵は彼に言った。
    「おれの血が最後の一滴となるまでだ! どんなことがあったってやり通すんだ!」と参謀は答えた。
    「走れ! ...卵をつぶさなきゃオムレツは出来ねえんだ
    そう言って擲弾兵は、馬を人々の上に押し進め、車輪を血塗らし、天幕をひっくり返し、二筋の死者の線を残して、この人の頭の原っぱを横切って行った。
    訳は新庄嘉章訳『アディユ』、バルザック全集第22巻、東京創元社、p.345による(下線引用者)。この一節は Rey/Chantreau (2003), p.656でも引用されています。

アカデミー辞典』では第7版(1878)から収録されています。

【使用例】現在の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【英語訳】このフランスの諺は、次のように英語に訳され、諺になっています。

  • You can't make an omelette without breaking eggs.
    卵を割らずにオムレツを作ることはできない
    Oxford 5th (2008), p.237 でも、まず冒頭にフランス語の諺が記載されています。

【似た諺】比喩を使わない次の諺に似ています。

  • On n'a rien sans rien.
    何もしなければ何も得られない。
    rien は ne とセットで使うので、上が正しい書き方ですが、会話では ne を省くことが可能で、またこの場合は「n'」を抜かしても発音がまったく同じになるので、On a rien sans rien. と書かれることもあります。この諺は「何も努力しなければ何も得られない」「何かをするには多少の犠牲は必要だ」「良い結果を得るためには多少の不自由は受け入れなければならない」といった意味で、抽象的な言葉でできているので応用範囲が広く、よく使われます。

On ne peut contenter tout le monde et son père.

【逐語訳】 「人は皆と自分の親父を満足させることはできない」
(誰も彼もを満足させることはできない)

【諺の意味】 さまざまな意見の人々を全員満足させることはできない。加えて、気難しい親父までも同時に満足させるなどということは不可能だ。

【単語の意味】 「On」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になる場合が多い言葉ですが、逆にことわざ・格言では、「人は... するものだ」と訳すと、うまくいく場合もあり、ここはどちらでも構いません。

「peut」は pouvoir(~できる)の現在(3人称単数)。
その前の「ne」は ne の単独使用(ne だけで否定を表す)です。 pouvoir を否定にする場合、特に文章では、このように pas を省略することがよくあります(通常の会話では pas を入れます)。
「contenter」は他動詞で「満足させる」。
「tout le monde」は熟語で「皆」(「全世界」ではありません)。

接続詞「et(および)」の後ろの「son」は、主語の「On」を指しており、「彼の」というよりも「自分の」という感じです。
「père」は男性名詞で「父親」。ここでは、気難し屋(満足させることが難しい人)の象徴です(つまり頑固親父)。

ちなみに、「et son père(と自分の親父)」を省き、会話でも使いやすいように pas を入れると、次のようになります(たいして意味は変わりません)。

  On ne peut pas contenter tout le monde.
    (皆を満足させることはできない)

【由来】 「contenter tout le monde et son père」という表現は、ラ・フォンテーヌ『寓話』 で有名になりました。
ただし、ロベールの表現辞典には、「それ以前から固定された表現として存在していたはずだ」(Rey/Chantreau, p.702)と書かれています。

  • キタール『フランス語ことわざ研究』 p.113 によれば、この諺は 15 世紀イタリアのレオナルド・ブルーニ(1444 没)からドイツの神秘主義思想家ニコラウス・クザーヌスに宛てた手紙の中に見出されるそうです。ここから、キタールは「このことわざはおそらくイタリアから来たのであろう」と推測しています。

ラ・フォンテーヌの『寓話』第 3 巻第 1 話 « Le Meunier, son Fils, et l'Âne » (粉ひき、その息子、ろば)に、次のような内容の話があります。

  • 粉ひきの親子がろばを売るためにろばを市(いち)に連れて行ったとき、ろばをかついで運んでいたら、道行く人に「ロバ(=フランス語で馬鹿のこと)じゃないか」と言われたので、ろばを歩かせることにし、ろばに子供を乗せていたら「年寄りを歩かせるとは何事か」と言われ、子供が降りて今度は親が乗っていたら「子供がかわいそうじゃないか」と言われ、二人とも乗っていたら「ろばがかわいそうだ」と言われ、仕方なく二人とも歩いていたら「靴をすり減らしてろばを大切にするとは、とんだロバ(=フランス語で馬鹿のこと)だ」と言われたので、もう以後は人の言うことは気にせずに、自分のしたいようにすることにした。

道行く人々に色々言われ、粉ひきが自分に言い聞かせるように発した言葉の中に、この諺が出てきます。原文では次のようになっています。

  • Parbleu, dit le Meunier, est bien fou du cerveau
    Qui prétend contenter tout le monde et son père.
    まったくだ、と粉ひきは言う、頭が狂っているんだ、
    皆と自分の親父を満足させることを望む人は。
    簡単な解説:「dit le Meunier」は挿入句で、地の文を引用文中に挟むことによる倒置。 2 行目の qui の前には celui が省略されています。「prétend」は prétendre(~と望む)の現在(3人称単数)。 2 行目全体が大きな主語で、全体として倒置になっています。わかりやすく書き直すと、次のようになります。
    Le Meunier dit : « Parbleu, celui qui prétend contenter tout le monde et son père est bien fou du cerveau. »
    原文は jdlf ; Wikisource などで閲覧可能。

【他のバージョン】 この諺は必ずしも表題の形のように「On ne peut」をつけて言う必要はなく、「contenter tout le monde et son père(皆と自分の親父を満足させる)」という部分を利用して、いろいろに応用可能です。
例えば、Il est ~ de ~(~することは~だ)という表現を使った例を 2 つ挙げてみます(「Il」が仮主語で、「de」以下が意味上の主語)。

  • Il est difficile de contenter tout le monde et son père.
    (皆と自分の親父を満足させることは難しい)
    「difficile」は形容詞で「難しい」。

  • Il n'est pas toujours capable de contenter tout le monde et son père.
    (皆と自分の親父を満足させることは必ずしも可能ではない)
    「toujours」は副詞で「つねに」ですが、否定の ne... pas と一緒に使うと「必ずしも...ない」という「部分否定」になります。「capable」は形容詞で「可能な」。

On ne peut être à la fois au four et au moulin.

【逐語訳】 「かまどと粉ひき小屋に同時にいることはできない」

  • 「粉ひき小屋」は「水車(小屋)」または「風車(小屋)」と訳すことも可能(後述)。

【諺の意味】 「かまどと粉ひき小屋の両方で同時に作業することはできない」というところから、一般に「同時に 2 つのことをすることはできない」。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【背景】 中世、パン屋ができる以前に、農民がパンを作るためには、まず自分で育てた小麦(またはその他の麦)を粉ひき小屋(moulin)に持っていって「粉ひき」にひいてもらい、その粉を今度は村共同のパン焼き窯(four)に持っていって「パン焼き人」に焼いてもらう必要がありました(例えば『中世のパン』白水社を参照)

封建制度では、粉ひき小屋やパン焼き窯は領主だけが特権として所有しており、農民はこれらを使わせてもらう代わりに使用料を(粉ひきとパン焼き人を通じて)納めなければならなりませんでした。これを歴史用語で banalité(バナリテ、強制使用)といいます(『ヨーロッパ中世社会史事典』藤原書店 p.274 等)。お米の代わりにパンを主食とするヨーロッパにおいて、これは確実に年貢(税金)を徴収するための方法でもあったようです。

昔は、かまど (four) と粉ひき小屋 (moulin) はセットでイメージされていたようで、両者を一対にした表現が残されています (Cf. Rey/Chantreau, p.439)。例えば、

  • Au moulin et au four, chacun va à son tour.
    水車に、そしてかまどに、誰もが順番に行く
  • aller (courir) du four au moulin
    かまどから水車に行く(走る)

「粉ひき小屋」を意味する moulin という言葉は、もともと moudre(粉をひく)という動詞からきているので、「粉をひくもの」といった意味合いですが、実際には川の流れを受け止める「水車」または風を受け止める「風車」を利用して巨大な羽根を回転させ、これを歯車によって棒の往復運動に変えるなどして粉をひいたので、要するに「水車(水車小屋)」または「風車(風車小屋)」を指します。水車も風車も moulin という同じ単語で表すわけですが、ことさら区別して「水車」という場合は moulin à eau 、「風車」という場合は moulin à vent と言います。
水車と風車は、主に小麦を製粉するのに使われましたが、蒸気機関や電気が発明される以前は、水力と風力が主要なエネルギー源だったため、それ以外にも工業用の動力として幅広い用途に利用されたようです。

一般に水車のほうが安定した動力が得られ、地方差はあってもフランスでは主に水車が使われていたようです。例えば 14 世紀初めには、セーヌ川沿いに 1 マイルの間に約 70 の水車が存在していたそうです(レイノルズ『水車の歴史』平凡社 p.63 による)。単純計算すれば約 20 メートル間隔で水車が立ち並んでいたことになります(実際には、橋の下に、川を横切るようにして複数の水車が隣り合わせに並んでいることも多かったようです)。

川の水を利用できない、風が当たる丘の上などには、風車が建てられました。パリではモンマルトルの丘にある風車が有名で、現在では形を変えて有名なキャバレー、ムーラン・ルージュ(moulin rouge、逐語訳すると「赤い風車」)が建っています。

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」
「peut」は pouvoir(~できる)の現在3人称単数。
「ne」は ne の単独使用(ne だけで否定を表す)。pouvoir(~できる)という動詞とセットだと、この ne の単独使用がよく使われます。ただし、会話では pas をつけることが多く、この諺も pas をつけて言うこともあります。

「être」は、ここでは「~である」ではなく、「いる」。
「à la fois」は熟語で「同時に」。「à la fois A et B」で「A と同時に B」となります。
「au」は à と le の縮約形。 à は場所を表わす前置詞で「~に」。

「four」は男性名詞で「かまど、オーブン」。「電子レンジ」(four à micro-ondes)も意味します。ただし、ここでは前述のとおり、封建制度下で領主が所有していた共同の大型のパン焼き窯を意味します。

「moulin」は「粉ひき小屋」。実際には、前述のように「水車(水車小屋)」または「風車(風車小屋)」を指します。

【由来】 1611 年のコットグレーヴの仏英辞典に収録されており、英語で「人は 2 つの場所にいることはできない、また一度に 2 つのことを行うことはできない」という意味だと書かれています。

その後、あまり使われなくなったのち、19 世紀中頃に再び使われ始めたようですRey/Chantreau, p.439 による)
ただ、文献上は確認されないだけで、実際には使われていたのかもしれません。例えば 1852 年に出た『新ジュネーヴ方言集』(four の項)には、「私達の間では、この諺はとてもよく知られているが、通常の辞書には載っていない。ただし古いコットグレーヴの仏英辞典には記載されている」と書かれていますJean Humbert, Nouveau glossaire génevois, t. 1, 1852, p.215)

アカデミー辞典』では、第 8 版(1932-1935)までは収録されておらず、最新の第 9 版(1992)になってやっと収録されています。
仏和辞典では、『ロワイヤル仏和中辞典』や『ディコ仏和辞典』で four を引くと載っています。

【言葉遊び】 現代では、「パン焼き窯」と「粉ひき小屋」の社会的な重要性がほとんど忘れ去られているため、なぜ諺の中で four と moulin が使われているのか、フランス人でも疑問に思うのは当然のなりゆきです。
特に、four は「かまど」以外にも、それに類似する色々なものを指し、moulin も水車だか風車だかわかりません。

そこで、ひと昔前に活躍したピエール・デプロージュ(1939-1988)というコメディアンは、この諺を使った次のような言葉を残しました。

  • Il faut toujours faire un choix, comme disait Himmler en quittant Auschwitz pour aller visiter la Hollande, on ne peut pas être à la fois au four et au moulin.
    つねに選択をしなければならない。ヒムラーがアウシュヴィッツを去ってオランダに行くときに言ったように、「人はかまどと同時に風車にいることはできない」のだから。
    ハインリヒ・ヒムラーはアドルフ・ヒトラーの部下で、アウシュヴィッツ強制収容所でのユダヤ人の虐殺を主導した人物。

ここでは、four は虐殺が行われたガス室に隣接する「火葬炉」、また moulin はオランダの代表的な風物詩である「風車」の意味に解釈されています。

もちろん、「ヒムラーがアウシュヴィッツを去ってオランダに行くときに言った」というのは史実ではありません。これは諺に出てくる four と moulin が何なのかという疑問から(ずいぶん突飛な連想ですが)思いついて創作された言葉です。

その強烈なブラックユーモアによって、この言葉はいまだに記憶され、引用されています。

On récolte ce qu'on a semé.

【逐語訳】 「人は自分が蒔(ま)いたものを収穫する」

【諺の意味】 「人は、自分の過去の行為の結果(報い)を受ける」

多くの仏和辞書では、表題の諺から主語「On(人は)」を省いて動詞を不定形にした「récolter ce qu'on a semé」を成句表現として例文に載せ、意味を記載しています。

  • 「(まいた種を刈る→)報いを受ける、自業自得」(『ディコ仏和辞典』)
  • 「まいた種を刈る、自業自得である」「相応の報いを受ける」
    (『ロワイヤル仏和中辞典』)
  • 「(自らまいた種を刈り取る→)自業自得である、報いを受ける」
    (『小学館ロベール仏和大辞典』)
  • 「過去の行為の結果を受ける(特に悪い面で)」(仏仏辞典 TLFi

【日本の似た諺】 「因果応報」、「自業自得」

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になる場合が多い言葉ですが、逆にことわざ・格言では、「人は... するものだ」と訳すと、うまくいく場合もあります
「récolte」は他動詞 récolter(収穫する、刈り取る)の現在(3人称単数)。
指示代名詞「ce」は関係代名詞の先行詞になると、「...なもの」「...なこと」という意味
「qu'」は関係代名詞 que が母音の前で e がアポストロフに変わった形。
「on」がもう一度出てきますが、2 回目に出てきた on は「自分」と訳すとうまくいきます
「a」は助動詞 avoir の現在(3人称単数)。「semé」は semer(〔種を〕蒔(ま)く)の過去分詞。avoir + p.p. で複合過去になっています。

【他のバージョン】 「蒔(ま)いた」の部分を現在形にして次のように言うこともあります。

  • On récolte ce qu'on sème.(人は自分が蒔くものを収穫する)
    「sème」は他動詞 semer(蒔く)の現在(3人称単数)。語尾が er で終わるので第 1 群規則動詞に似ていますが、 mener と同じタイプの活用をする不規則動詞です(一部の活用でアクサングラーヴがつきます)。

また、 ne... que ~(~しか... ない)を入れて言うこともあります。「ne... que ~」は否定ではなく肯定(強調表現)なので、入れても基本的には意味は変わりません。

  • On ne récolte que ce qu'on a semé.(人は自分が蒔いたものしか収穫しない)
  • On ne récolte que ce qu'on sème.(人は自分が蒔くものしか収穫しない)

「人は自分が蒔いた(蒔く)ものだけを収穫する」と言っても同じです。
特に 2 つ目の言い方は、「On ne récolte」(オン・ヌ・レ・コル・トゥ)で 5 音節、「que ce qu'on sème」(ク・ス・コン・セー・ム)で 5 音節になっており、語調が良いので覚えやすく、歌詞にも使われているようです。

【由来】 新約聖書の「ガラテヤ書(ガラテヤの信徒への手紙)」第 6 章 7 節の次の言葉に由来します(新共同訳による)。

  • 人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

ただし、フランス語訳聖書を見ると、どれも表題の諺の形とは少し異なっており、また各種の訳でばらつきがあります。

そこで、古い聖書に当たって調べていたところ、サシー訳の「ガラテヤ書」第 6 章の(本文ではなくイタリック体の)要約部分に、次のような言葉が書かれているのを見つけました(例えば 1707 年版 で確認可能)。これが、この諺に直接影響を与えたのではないかと考えられます。

もともと récolter という単語は 18 世紀以降にできた「新語」(リトレ)であり、それ以前は「収穫する」という意味では recueillir や moissonner などが使われていたようです。

【英語の諺】 上記の聖書の同じ箇所に由来し、英語では次のように言います。

  • As you sow, so you reap.
  • As you sow, so shall you reap.

【フランス語の似た諺】 旧約聖書「ホセア書」第 8 章 7 節に由来する、

その他、聖書とは関係なく、

On revient toujours à ses premières amours.

【逐語訳】 「人はつねに初恋に戻るものだ」

【諺の意味】 文字通りの意味で使われることが多いようです。
普通は、諺は比喩的な意味を持つことが多いので、その意味では、むしろ「格言」と呼ぶべきかもしれません。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「On」は漠然と「人は」の意味で、むしろ訳さないほうが普通ですが、諺の場合はあえて「人は(~するものだ)」と訳すとうまくいきます。
「revient」は自動詞 revenir(戻る)の現在(3人称複数)。「再び」を意味する接頭語 re を省いた venir(来る)と同じ活用をします。「revenir à ~」で「~に戻る」。
「toujours」は副詞で「つねに」。
「ses」は所有形容詞で「彼の」ですが、ここでは主語の「On」を指すので、「自分の」。
「premières」は形容詞 premier(最初の)の女性複数の形。

「amour」は男性名詞で「愛」。
ただし、16世紀までは女性名詞とされており、16~17世紀に(ラテン語にならって)男性名詞に変更されたために混乱が生じ(Cf. 朝倉『新フランス文法事典』 p.42右)、現代でも特に詩や文学では、ここで使われている premières amours 「初恋」のような女性複数の形を使った表現がよく用いられます。

「amour」を男性名詞扱いにして、男性複数形の premiers を使用し、次のように言うこともあります。

  • On revient toujours à ses premiers amours.

【由来】 フランス革命後、ジャーナリストとして活躍してから劇作家に転身したシャルル=ギヨーム・エチエンヌ(1777-1845)という人が台本を書き、1814 年にオペラ=コミック座で初演されて大当たりした Joconde ou les Coureurs d'aventures(『ジョコンダまたは恋の冒険家たち』)の第 3 幕第 1 場に出てきます(Maloux (2009), p.28 で引用)。
登場人物が歌う歌の中で、繰り返しこの台詞が出てきます(原文は Google books で閲覧可能)。

今では、作者も作品も忘れ去られてしまいましたが、この言葉だけは残っています。

Où il y a de la gêne, il n'y a pas de plaisir.

【逐語訳】 「気詰まりがあるところでは、楽しみはない」
(リラックスできないと楽しめない)

【使い方】 例えば、家に招いた客がかしこまっているときに、「そんなに固くならないで、くつろいでください」という意味で使ったりします。
逆に、親しい友人の場合、客が自分でネクタイを緩めながら、「行儀よくしていたら楽しめないから、ちょっと失礼して、リラックスさせてもらうよ」という意味で使ったりします。

または、やけに図々しくしている客に対して、皮肉で「行儀よくしていたら楽しめないからねえ」という意味で使うこともあります。例えばレストランで客が乱痴気騒ぎをしていたら、店員はこの諺をつぶやくかもしれません。

あるいは、有名人の男女が夫婦水入らずで楽しもうとしている時に、野次馬がついてきて楽しめない、といった状況でも使われます。
しばらく前、フランスのサルコジ大統領が夫人と一緒に旅行に出かけた時、パパラッチに追い回されていることを伝える記事で、このことわざが使われていました。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「Où」は関係代名詞で、「là où の là の省略」です。
実際、このことわざは文頭に là を補って次のように言うこともあります。

  Là où il y a de la gêne, il n'y a pas de plaisir.

où から gêne までがカッコに入り(関係詞節になり)、先行詞 Là に掛かっています(Là を修飾しています)。
「Il y a ~」は「~がある」。「gêne」は女性名詞で「窮屈、気詰まり」などの意味。
その前の「de la」は部分冠詞です。「感情」を表す名詞には、よく部分冠詞がつきます

「il n'y a pas」は Il y a(~がある)否定の ne... pas で挟んだ形。
「plaisir」は男性名詞で「快楽、楽しみ」。
その前についている「de」は「冠詞の de」で、「否定文では直接目的語には de をつける」という決まりによるものです(Il y a の後ろの名詞は直接目的になります)。

Paris ne s'est pas fait en un jour.

【逐語訳】 「パリは一日で作られなかった」
(パリは一日にしてならず)

「ローマは一日にしてならず」(同項目を参照)の「ローマ」を「パリ」に置き換えてできた諺です。

【諺の意味】 最初はほとんどシテ島(セーヌ川の中洲)だけだったパリが、古地図の変遷を見ればわかるように、時代とともに徐々にセーヌ川の右岸と左岸に広がっていき、近代的なパリの町並みができるまでには、長い歳月を要した、というのが文字どおりの意味。
転じて、「大きな仕事を成し遂げるには、長い時間が必要だ」。

【単語の意味と文法】 基本的には Rome ne s'est pas faite en un jour.(ローマは一日にしてならず)と同じ(主語を変えただけ)なので、そちらを参照してください。

ただし、Rome(ローマ)は女性名詞なので「過去分詞の性数の一致(être + p.p.)」によって過去分詞「fait」に e がついて「faite」となりますが、Paris(パリ)は男性名詞なので一致はせず( e はつかず)「fait」のままです。

【由来】 「ローマは一日にしてならず」の初出や由来については、この諺の【由来】の項目を参照してください。

ざっと調べたところ、フランスでは 17 世紀頃から「パリ」に置き換えて言うのが一般的になったようです。

「パリ」を使った最初期の用例の一つとしては、1610 年のヨーロッパ各国の諺を集めた グルテルス『詞華選』のフランスの諺の部に、「Rome ne fut pas faite en un jour.(ローマは一日で作られなかった)」と同時に、次の形でも収録されています(p.434)。

  • Paris ne fut pas fait en un jour.
    (パリは一日で作られなかった)
    「fut」は être の単純過去(3人称単数)。つまり単純過去の受動態です。

また、「ローマは一日にしてならず」の【由来】の項目で取り上げたセザール・ウーダンの息子アントワーヌ・ウーダンが 1640 年に出版した 『フランス奇言集』(初版 p.393)には、次のように書かれています。

  • Paris n'a pas esté fait en un jour.
    (パリは一日で作られなかった)
    「esté」は「été」の古い綴り。つまり複合過去の受動態です。

父親セザールは「ローマ」としているのに、息子アントワーヌは「パリ」としているのが面白いところです。

1690 年のフュルチエールの辞典(faire の項目)では、次の形で収録されています。

  • Paris ne fut pas fait tout en un jour.
    (パリはすべて一日では作られなかった)
    「tout」は「まったく」という強めの副詞とも取れますが、むしろ「主語と同格」と考え、いったん「パリは...」と言っておいて、もう一つ主語を置くように「すべては」と言い直している感じに取るとよいと思います。
    tout は ne... pas と組み合わせると部分否定になります。

アカデミーフランセーズ辞典』(faire の項目)では、ざっと見た限りでは「Rome」を使った用例は見当たらず、もっぱら「Paris」となっています。
正確には、第 1 版(1694)~第 4 版(1762)では、複合過去 + 受動態を使った次の形で収録されています。

  • Paris n'a pas été fait tout en un jour.

第 5 版(1798)~第 9 版(1992)では、再帰代名詞 + 複合過去を使った、表題と同じ次の形で収録されています。

  • Paris ne s'est pas fait en un jour.

現代のフランスでは、この「パリ」を主語にした表現の方がよく使われるかもしれませんが、「ローマ」も使われます。
Petit Larousse 2013 のピンクのページには、次のように両方記載されています。

  • Paris (Rome) ne s'est pas fait(e) en un jour.

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【言葉遊び】 「絵葉書」のページで、この諺をもじった「諺もどき」を取り上げています。

Pas à pas on va bien loin.

【逐語訳】 「一歩一歩、人はかなり遠くへ行く」

【日本の諺】 「千里の道も一歩から」

  • 『老子』の「千里之行始於足下」(せんりのこうもそっかにはじまる)に始まり、日本でも『古今和歌集』仮名序に「とほき所も いでたつあしもとよりはじまりて」と書かれているなど、歴史のある言葉です(『故事俗信ことわざ大辞典』 p.785による)。

【単語の意味と文法】 「pas」は男性名詞で「一歩」。
「pas à pas」で「一歩一歩」という熟語です。発音は、リエゾンして「パザパ」となります。
このように前置詞を介して同じ単語を反復するときは無冠詞になることがあります。

「on」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になる場合が多い言葉ですが、逆に諺・格言では、「人は... するものだ」という感じに訳すと、うまくいく場合もあります
「va」は自動詞 aller(行く)の現在3人称単数。

「bien」は副詞で「よく」「とても」というように意味を強める働きをするだけでなく、逆に「まあ(どちらかといえば)」ぐらいに意味を弱める働きをする場合もあります。
たとえば、『ロワイヤル仏和中辞典』の bien の 8 に書かれているように、
  aimer は「愛する」
  aimer bien は「好きだ」
となり、bien をつけたほうが意味が弱くなります。
つまり、かなり曖昧な言葉であり、それこそ日本語の「かなり」に近いかもしれません。
ここも、「とても」でも構いませんが、「かなり」ともいえます。
「loin」は副詞で「遠くに」。

【由来】 古くは、次のような諺集に収録されています(昔の綴りのまま引用)。

歴代の『アカデミーフランセーズ辞典』では、第1版(1694)~第5版(1798)までは、loin と pas の両方の項目に Pas à pas on va bien loin. という形で収録されていますが、第6版(1835)では(pas の項目では従来どおりですが) loin の項目では bien が取れて Pas à pas on va loin. という形になり、この両者並存の状態が第7版(1878)でも踏襲されたのち、第8版(1932-1935)の loin の項目ではこの諺が削除され、最新の第9版(1992)では両方の項目で削除されています。

1~56789
« loin »bien loinloinloin--
« pas »bien loinbien loinbien loinbien loin-

東洋人にとっては、老子に端を発する「千里の道も一歩から」に似た表現として親近感を覚えてしまいますが、フランスでは、昔はよく使われたものの、現在ではあまり使われなくなった諺だと言えそうです。TLFi にも載っていません。

実際、インターネットで検索してよく見ると、フランス語よりもむしろ東洋の言葉で書かれたサイトのほうが目につきます。

フランスでは、Qui va doucement va sûrement. などのほうがよく使われるようです。

Pas de nouvelles, bonnes nouvelles.

【日本の諺】「便りのないのはよい便り」

【単語の意味と文法】「nouvelles」は、もともと形容詞「nouveau(新しい)」の女性複数の形ですが、英語の new と同様、名詞化して「ニュース」「知らせ」「便り」の意味。
辞書では「nouvelle」という項目に記載されています。「ニュース」や「(知人などの)消息」という意味では複数形を使います。
文頭の「Pas」は否定の ne... pas の pas だけが残ったような形です。もともと、この諺には動詞がなく、完全な文にはなっていないので、仕方ありません。
諺の前半「Pas de nouvelles」は、例えば次のような文と比較することができます。

  Je n'ai pas de nouvelles.(逐語訳:私は知らせを持っていない)

「Je」が主語(S)、「ai」が avoir(持っている)の現在(1人称単数)で動詞(V)、「de nouvelles(知らせ)」が直接目的(OD)で、第 3 文型となります。
「nouvelles」の前の「de」は冠詞の de で、否定文では直接目的語には de がつくことによるものです。
あるいは、

  Il n'y a pas de nouvelles. (逐語訳:知らせがない)

「il n'y a pas ~」は「~がない」〔英語 There is (are) not〕。否定の ne... pas を省くと、「Il y a ~(~がある)」となります。もともと、「Il y a ~」は「Il」が主語(S)、「a」が動詞(V)、「~」の部分が直接目的(OD)の第 3 文型です。ここで言うと「nouvelles」が直接目的(OD)となり、否定文では直接目的語には冠詞の de がつくために、ここでも「de」がついています。

諺の「Pas de nouvelles」の de も、これらの文に含まれる de と同様に考えることができます。

諺の後半の「bonnes」は形容詞「bon(良い)」の女性複数の形。
この「bonnes nouvelles」は無冠詞になっていますが、仮に冠詞を補うとすると、何がつくでしょうか?
どのような便り(知らせ)か特定化されていないため、不定冠詞の複数「des」がつきそうなものですが、正解は「de」がついて「de bonnes nouvelles」となります。
なぜかというと、「複数の形容詞+複数の名詞の前では、不定冠詞 des は de になる」という規則があるからです。

【練習問題】
この諺には動詞がありませんが、「Pas de nouvelles」を主語(S)、「bonnes nouvelles」を直接目的(OD)にして、次の空欄に動詞(V)を補うとすると、どのような動詞が入るでしょうか?

  Pas de nouvelles [    ] bonnes nouvelles.

一つの答えとしては、他動詞「signifier(意味する)」の現在(3人称単数)を使って、次のように言うことができます。

  Pas de nouvelles signifie bonnes nouvelles.
      (逐語訳:ない知らせは、良い知らせを意味する)

または、熟語「vouloir dire」も同じような意味になります。もともと「vouloir ~」は「~したい」、「dire」は「言う」なので、元の意味は「言いたい」ですが、日本語の「言わんとする」に近く、要するに「意味する」と同じ意味になります(辞書で dire を引くと、熟語として載っています)。 vouloir の現在(3人称単数)を使って、次のようになります。

  Pas de nouvelles veut dire bonnes nouvelles.

実際、この諺をフランス語で説明する場合は、以上のように動詞「signifie」や「veut dire」を補って説明することが多いようです。

【英語の諺】 No news is good news.

【発音】 ラルース仏英辞典の nouvelles の項目(最後から 2 行目あたり)に載っているこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。

Patience et longueur de temps font plus que force ni que rage.

【逐語訳】 「忍耐と長い時間は、力よりも怒りよりも多くのことをする」

  • 長たらしい諺ですが、有名な寓話(下記)に出てくる言葉なので、フランス人なら誰でもそらんじている定型表現です。

【諺の意味】 「力づくでやろうとしたり、怒ったりするよりも、辛抱強く長い時間をかけたほうが、事を成し遂げることができる」。

たとえば、渋滞に巻き込まれたときに、イライラしてもしょうがない、脇道から行こうとするとかえって時間がかかるから、このまま気長に行こう、という場合に使えます。

あるいは魚釣りや、細かい手作業など、時間と忍耐の必要な場面でも使われます。

【日本の似た諺】 「短気は損気」

【由来】 イソップ寓話の「ライオンと鼠の恩返し」をもとに書かれたラ・フォンテーヌの『寓話』第2巻第11話「Le Lion et le Rat(ライオンと鼠)」に出てきます。

この話の内容については、同じ話に由来する諺 On a souvent besoin d'un plus petit que soi.(人はしばしば自分より小さい者を必要とする)の【由来】の項目を参照してください。

罠にかかったライオンを助けるために、鼠が網を一生懸命食いちぎろうとし、辛抱強く長い時間をかけて噛み切った、というところから出てきた言葉です。

少し長いので、 Patience et longueur de temps と言っただけでも通じます。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「Patience」は女性名詞で「忍耐、我慢、辛抱」。
「longueur」は女性名詞で「長さ」。
「temps」は男性名詞で「時間」。
「longueur de temps」で「時間の長さ」ですが、ここでは「長い時間」といえると思います。
「Patience」と「longueur」が無冠詞なのは、列挙・対比されているからです。
「font」は他動詞 faire(する、行う)の現在3人称複数。

「plus」は副詞で、「plus que~」は比較の表現で「~より多く」。

  • 「文法編」の「比較級と最上級」の説明ではわかりやすくするために plus と que の間に形容詞・副詞がくる形を載せていますが、ここでは間に何も入らず、形容詞・副詞の比較級ではなく、動詞を修飾しています。

この副詞「plus(より多く)」が名詞的に使われ、「font」の直接目的語になっていると言うことができます(「より多くのことを」)。

「force」は女性名詞で「力」。

「ni」は通常は ne とセットで 「ni A ni B ne...」は「A も B も... ない」という使い方が基本ですが、ここでは『ロワイヤル仏和中辞典』の ni の B 「ne を伴わない場合」の 4 「不平等比較の後で et, ou の代わりに」に該当します。たとえば、同辞書では次のような例文が挙げられています。

  • Nicole danse mieux que Jacqueline ni (que) Françoise.
    ニコルはジャックリーヌよりもフランソワーズよりも踊りがうまい。

「rage」は女性名詞で「怒り、激怒」。

「force」と「rage」が無冠詞なのは、やはり列挙・対比だからだと思われます。

【フランス語の似た諺】 Patience passe science.

【反対の意味の諺】 「忍耐はろばの美徳

Petite pluie abat grand vent.

【逐語訳】 「少しの雨が大きな風を鎮める」

【諺のイメージ】 ぱらぱらと雨が降ってきた途端に、それまで吹き荒れていた強い風が嘘のように収まった、というイメージです。

前線が通過するときに起きる現象かもしれません。

【諺の意味】 「ささいなことがきっかけで、大きな争いが収まることも多い」。

仏仏辞典には、次のように書かれています。

  • 大きな争いを静めるには小さなことで十分だ。
      (Académie 8e, « abattre » ; Littré ; TLFi
  • 少し優しくすれば、激しい怒りが収まることが多い。小さな原因やちょっとした事柄で大きなトラブルや激しい争いがやむこともある。
      (Académie 8e, « vent » )

つまり、「少しの雨」は「ちょっとした優しさ」や「ささいなこと」、「大きな風」は「争い」または「怒り」の比喩です。

【単語の意味と文法】 「Petite」は形容詞 petit(小さな、少しの、ささいな)の女性形。
「pluie」は女性名詞で「雨」。
「abat」は他動詞 abattre(打ち倒す)の現在(3人称単数)。不規則動詞です。「打ち倒す」のほかにも、辞書をよく見ると、「(雨が風、ほこりなどを)鎮める」という意味も載っています。
「grand」は形容詞で「大きな」。
「vent」は男性名詞で「風」。
「pluie」も「vent」も、諺なので無冠詞になっています。

【由来】 古くから存在したようです。12 世紀後半に成立した『狐物語』の「イザングランがルナールを国王の宮廷に告訴した話」の中にも、和解を勧める猿の言葉として、次のようなせりふが出てきます。

  • たとえルナールが過ちを犯したとしても、和解の道を探ってはどうか。罪人にも慈悲をかけろと言うじゃないか。狼も人が思うほど大きくないともな。大風も小雨で鎮まるってこともあろう。
    訳は鈴木・福本・原野訳『狐物語』(岩波文庫) p.127による(下線引用者)。下線部分の原文は、古いフランス語で Et grant vent chiet à poi de pluie.(逐語訳:「そして大きな風は少しの雨でやむ」)となっています。

下って、13-14 世紀の写本にも確認されます(Morawski, N°1624; Le Roux de Lincy (1842), t.1, p.75; Maloux (2009), p.79 で引用)。 15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°46)にも収録されています。

16 世紀のラブレーの『ガルガンチュワ』(1534 - 1535 ?)でも、酔っ払いの会話の中に、この諺を使った次のような表現が出てきます。

  • 小雨が降って大風は凪(な)ぎ、酒の大雨あって雷は鎮まる。
    訳は渡辺一夫訳『ガルガンチュワ物語』(岩波文庫) p.43 による。
    原文は「Petite pluye abat grand vent : longues beuvettes rompent le tonnoirre.」となっています(古い綴りを含む)。

おそらく前半のみが諺で、後半はこの酔っ払い(つまり作者ラブレー)の創作だと思われます。「ことわざに『小雨が降って大風は凪ぐ』と言うが、だとするなら酒の大雨であれば雷だって鎮まるはずだ」と、この酔っ払いは言いたいのでしょう。

  • ちなみに、ちくま文庫『ガルガンチュア』 p.60の訳では、漢文読み下し調で、「小雨が強風をしずめるとあらば、酒の長雨にして、いずくんぞ雷をしずめん」(=どうして雷をしずめることがあろうか、雷をしずめるはずはない)となっていますが、正しくは「いずくんぞ雷をしずめざらんや」(=どうして雷をしずめないことがあろうか、必ずしずめるはずだ)とすべきところです。


Pierre qui roule n'amasse pas mousse.

【逐語訳】「転がる石は苔(こけ)を蓄えない」
(転石(てんせき)苔を生ぜず、転石苔むさず)

【諺の意味】「転職や転居を繰り返していると財産を蓄えられない」というのが伝統的な意味です(「苔」は「財産」の比喩)。

また、「(苔が生えるほど)じっくり腰を据えて取り組むことが大切だ」という意味でもよく使われます。
その意味では、「石の上にも三年」に似ています。

現代では、転職によって収入が増える場合も多いので、この諺は内容的に当てはまらなくなっている、と書かれている諺辞典もあります(Dournon (1986), p.322)。

【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵では、流浪している人が描かれています。

また、「ほら、転がる石だ!」という歌の中では、「転がる石」が「定住せずに、ふらふらと流浪する人」、つまりほとんど「ホームレス」と同じような意味で使われています。

イギリスでも、ふらふらしている人、つまり「風来坊」という意味で「転がる石」(ローリング・ストーン)という言葉が使われたようです(次の項目を参照)。

【英語の諺】 A rolling stone gathers no moss.

「苔」は、主にフランスやイギリスでは良いイメージで(蓄えた方がよい「財産」の比喩として)解釈されるのに対し、アメリカでは悪いイメージで(蓄えない方がよい「汚れ」のようなものとして)解釈されているようです。
例えば、『英語常用ことわざ辞典』では次のように説明されています。

  • イギリスでは、職業や住居を転々と変える人間はお金がたまらないと解され、定着を勧めることになる。(...)
    一方、アメリカでは、たえず動いている人間はいつも清新でいられると解され、移動を勧めることになる。

背景については、外山滋比古『ことわざの論理』で次のように説明されています。

  • 湿度の高い所でないと美しいコケは生えない。(...)アメリカのような乾燥した土地ではコケが育ちにくい。美しくもない。
  • アメリカは流動社会であるのに、イギリスは定着社会である、ということだ。
  • ローリング・ストーンといわれる人間は、イギリス人には風来坊に見えるのに、アメリカ人にはちょうどその反対の優秀な才能に見える。

同じ著者の『英語ことわざ集』(岩波ジュニア新書)では次のように書かれています。

  • イギリスに the Rolling Stones という有名なロックグループがあるが、イギリス流に「風来坊」を自称しているようで、その実は、「活動家」の自信をひめているのであろう。

【単語の意味と文法】 「pierre」は女性名詞で石。
「qui」は関係代名詞。「roule」は自動詞 rouler(転がる)の現在3人称単数。
「qui roule」がカッコに入って(関係詞節になって)先行詞「Pierre」に掛かっています。
「amasse」は他動詞 amasser(寄せ集める、積み上げる、蓄える)の現在3人称単数。これを n' ...pas で挟んで否定しています。
「mousse」は女性名詞で「苔(コケ)、泡、ムース」。
ちなみに英語だと「苔」は moss ですが、「泡、ムース」だとフランス語から入った mousse を使います。

「Pierre」と「mousse」は諺なので無冠詞になっていますが、通常の文のように冠詞をつけるとすると、次のようになるでしょう。

音の面では、ou の音と r の音が反復され、また masse と mousse が韻を踏んだようになって、語調が良くなっています(Rey/Chantreau (2003), p.720)。

【似た諺】次の昔の諺と比較すると、意味が理解しやすくなります。

  • Arbres souvent remuées font a paine bon fruit.
    頻繁に動かされる木は、ほとんどおいしい果実を作らない。
    出典:15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°56)。13世紀末~14世紀初頭の諺集にも、ほぼ同じ諺があります(Morawski, N°123)。

移植ばかりしていると、根を生やす(定着する)のにエネルギーを費やしてしまい、おいしい果実が実らない、というわけです。

この諺は、もとは古代ローマのセネカにさかのぼり、セネカはルキリウスに宛てた書簡の中で「しはしば移植されれば、植木でも大きくはなりません」と書いています(『セネカ 道徳書簡集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会 p.3 )。

【由来】「転石苔を生ぜず」という諺が古代ギリシアから存在すると書かれた諺辞典もありますが、これは誤りのはずです(少なくとも文献上は確認できません)。
こうした誤った説が出てきた原因は、私見によれば二つ考えられます。

一つは、後世の諺辞典に大きな影響力を及ぼしたキタール (1842), p.545 に、このフランス語の諺(Pierre qui roule n'amasse pas mousse.)について次のように書かれていることです。

  • これはルキアノス〔注:紀元後2世紀のギリシア人〕が使用し、Saxum volutum non obducitur musco.(転がる岩石は苔で覆われない)という形でラテン語にも入った、ギリシアの格言の逐語訳である。

この諺がルキアノスに由来すると指摘したのは、管見ではキタールが最初ですが、ルキアノスのどこに出てくるのかが示されておらず、おそらくどこにも出てきません。
「転石苔を生ぜず」がルキアノスに由来すると記した諺辞典(あえて名前は挙げません)は、キタールの誤りをそのまま踏襲してしまったといえるでしょう。

もう一つは、おもに古代ギリシア・ローマの表現を取り上げて解説したエラスムスの『格言集』 III, IV, 74 (2374) に「転がる石は海藻を生まない」という意味のギリシア語が書かれていることです。しかし、これは実は15世紀のギリシア人アポストリオスの『諺集』からの引用であり、古代ギリシアに存在したという保証はどこにもありません。

いずれにせよ、文献学的に信頼できる現代の辞典TPMA; R. Tosiにおいて、この諺のギリシア語での文献上の初出がアポストリオスであるとされている以上、ギリシア語で15世紀よりも前にさかのぼることは不可能なはずです。

(以上 2015/10/4-8 加筆)

それでは、ギリシア語以外で、15世紀よりも前に書かれたものはないかというと、1022-1024 年頃のエグベール・ド・リエージュ『満載の舟』にラテン語で次のように書かれています(これがこの諺の全言語を通じての文献上確認可能な最古の用例といえそうです)。

  • Assidue non saxa legunt uoluentia muscum.
    たえまなく飛ぶ石は苔を生やさない。
    TPMA, Stein 4 で引用。原文は Ernst Voigt 版 v. 182 で閲覧可能

フランス語では、12世紀後半の『百姓の諺』第93番に次のように書かれていますMorawski, N°1634 で引用)

  • Pierre volage ne keult mousse.
    飛ぶ石は苔を蓄えない。
    「volage」は形容詞で、「飛ぶ、翼が生えた、簡単に飛び立つ、軽い、移り変わる」などの意味があり、「転がる」とも訳せそうです。

ちなみに、英語での初出は 14世紀後半のラングランド『農夫ピアズの幻想』(池上忠弘訳、中公文庫 p.120)とされているので、英語よりもフランス語のほうが早くから確認可能ということになります。

1400 年頃に書かれたエヴラール・ド・コンティ(Evrart de Conty, 1330?-1405)の『愛のチェス』という本には、次のように出てきます(DMF, s.v. «pierre» による)。

  • 植物も、あまり頻繁に移植すると実を結ぶことができない。古代の諺に、「頻繁に動かす石は苔を集めない」と言う通りである。こうしたことから、セネカは、頻繁に意見を変える人は物事をうまく成し遂げられないと結論づけようとしている。
    原文では諺の部分は pierre souvent remuee ne cueillira ja mousse となっています。

エラスムスよりも後では、1519年に初版が出たジル・ド・ノワイエの諺集に次の形で収録されています(1558年版, p.81 による)。

  • Pierre souvent remuée, n'acquiert point mousse.
    頻繁に動かされる石は、苔を獲得しない。

このジル・ド・ノワイエの諺集は 1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』付録にも収録されていますが、形は若干変わって「Pierre souvent muée, n'attire point mousse.」(頻繁に動かされる石は苔を寄せつけない)となっています(原文は Gallica で閲覧可能)。

1611年のコットグレーヴの仏英辞典には、フランス語の Pierre qui se remue n'accueille point de mousse. が英語の The rolling stone gathers no moss. の意味だと書かれています。
1690年のフュルチエールの辞典では「Pierre qui roule n'amasse point de mousse.」という形で採録され、「利益を得るには、自分が選んだ職業に留まり続ける必要がある」という意味だと記載されています。
また 1694年の『アカデミーフランセーズ辞典』第 1 版にも同じ形で採録され、「状態や職業を頻繁に変える人は財産を蓄えない」という意味だと記載されています。表題と完全に同じ形になったのは第 8 版(1932-1935)からです。

【諺もどき】 「mousse」は「苔」のほかに「泡」という意味もあります。
そこで、諺の「Pierre(石)」の代わりに「Bière(ビール)」を使った、次のような表現があります(発音は文頭の P の音が B に変わっただけ)。

  • Bière qui roule n'amasse pas mousse.
    転がるビールは泡を蓄えない。

ビール瓶が転がって、グラスに注いだ時には泡が抜けている... といった状況が目に浮かびます。

この rouler(転がる)の代わりに、 couler(流れ出る、こぼれる)を使うこともあります。

  • Bière qui coule n'amasse pas mousse.
    こぼれるビールは泡を蓄えない。

ビールを注いで、グラスから泡があふれてしまった時にこの表現を使ったら、フランス人に受けるかもしれません。

  • ちなみに、これは19世紀の小説家バルザックの手帳に書きとめられている由緒正しい言葉遊びです(正確にはバルザックは「否定の de」を入れて Bière qui coule n'amasse pas de mousse. と書いています)。

Plaie d'argent n'est pas mortelle.

【逐語訳】 「お金の傷は死に至るものではない」
(お金の傷で死ぬことはない)

【諺の意味】 経済的な痛手・金銭的な困窮を「傷」に喩えた上で、その傷は死に至るような種類のものではない、つまり「お金の問題で死ぬことはない、何らかの方法で解決され、いずれ癒えるものだ」という意味。

【単語の意味と文法】 「Plaie」は女性名詞で「傷、傷口」。通常なら冠詞がつくところですが、諺なので無冠詞になっています。
「argent」は男性名詞で「銀」または「お金(かね)」。ちなみに「金」は or(男性名詞)。
「d’」は母音の前で e がアポストロフに変わった形。前置詞 de は英語の of と from を併せた意味ですが、ここでは of の意味。

「argent」は無冠詞になっています。これは、「d'argent」で「金銭的な」というように、「de + 名詞」が一語の形容詞のように意識されているからだと言えます。あるいは、もともと「お金」というのは部分冠詞がつきやすい言葉であり、部分冠詞は前置詞 de の後ろでは必ず省略されるので、無冠詞になっていると説明することもできます。

「mortelle」は形容詞 mortel(死の、死に至る)の女性形。もともと女性名詞 mort(死)の形容詞の形です。例えば maladie mortelle で「死に至る病」というように使います。

【使い方】 自分で言い聞かせるように使ったり、解決済みのことについて使う場合が多いかもしれません(現在困っている人に対して使うと、「そんなこと言うなら少し貸してくれ」となるので)。

【反対の意味の諺】 昔は、今では使われない次のような諺もありました(1568 年の『金言宝典』などに収録)。

  • Argent fait perdre et pendre gent.
    (お金は人を破滅させ、自殺させる)
    「fait」は faire の現在(3人称単数)。ここでは faire は使役動詞で「~させる」。「perdre」は他動詞で「失う」、(se を伴って)「破滅する」。「pendre」は他動詞で「吊るす」、(se を伴って)「自殺する」。使役動詞の後ろでは再帰代名詞は省略されやすくなります。「gent」は「gens(人々)」の古い形。

【英語の諺】 ラルース仏英辞典の plaie の項目には次のような対応する英語の諺が載っていますが、意味的に少しずれるようです。

  • It's only money.
    Money isn't everything.

【発音】 ラルース仏英辞典の plaie の項目でこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音を聞くことができます。

Point d'argent, point de Suisse.

【逐語訳】「お金がなければスイス人はいない」

【日本の諺】「金の切れ目が縁の切れ目」

【単語の意味】2 回出てくる「point」は、ne... point(まったく... ない)の ne が省略された形(後述)。
「argent」は男性名詞で「銀」または「おかね」。

大文字の「Suisse」は、女性名詞なら国名の「スイス」。
ただし、「スイス人」という意味にもなり、この場合は(男のスイス人を指すなら)男性名詞になります(女のスイス人なら女性名詞)。

小文字で「suisse」と書くと、形容詞で「スイスの」。
ただし、名詞化して「スイス人傭兵」(傭兵〔ようへい〕=金銭で雇われる外国人兵士)または「スイス人衛兵」という意味にもなります。

このように、人を表わす名詞の場合、大文字で「Suisse」と書けば「(男の)スイス人」、小文字で「suisse」と書けば「スイス人傭兵」の意味になります。

ただし、この諺の「Suisse」を大文字で書くか小文字で書くかは、仏仏辞典によってばらつきがあります。
ここでは、とりあえず大文字で書き、「スイス人」の意味に取っておきます。

直訳に近づけると、「まったくないお金、まったくいないスイス人」。

【文法】 この諺は主語や動詞がなく、「文」になっていません。言葉を補って「文」にするなら、次のようになります。

  • S'il n'y a point d'argent, il n'y a point de Suisse.
    (まったくお金がないなら、まったくスイス人はいない)

「S'」は「もし」という仮定の意味の接続詞 si で、後ろに母音が来たために i がアポストロフに変わった形。
2 回出てくる「il n'y a point」は il y a(~がある)ne... point(まったく... ない)が組み合わさった形。
「point」の後ろの de は冠詞の de で、これは否定文では直接目的語には de をつけるという規則によるもの。
諺では、この「S'il n'y」と「il n'y a」が省略されていると理解することができます。

【英語】 No money, no Swiss.

【由来】 16 世紀前半のイタリア戦争では、傭兵として多数のスイス人がフランス軍に雇われ、スイス人は死ぬまで戦う優秀な兵士であったものの、「現金な」(金銭ずくな)ところがあり、1522 年のミラノ遠征の時には賃金未払いのためにスイスに帰ってしまい、そのためにフランス軍は戦いに敗れたという逸話があります。Quitard (1842) は、このときにフランス人兵士が作った表現だとしています。

17 世紀中頃の J. ラニエの版画にも描かれています。

1668 年のラシーヌの『裁判きちがい』Les Plaideurs )第 1 幕第 1 景でも次のようにしてこの諺が出てきます(門番のせりふ)。

  • 門番のおらに たんまり はずまなきゃ、てこでも入れてやらねえだ。
    一文なしじゃ兵隊さんも戦さは御免だ。おらだって扉をピッシャリ。

    (鈴木力衛・鈴木康司訳、筑摩書房、世界古典文学全集48、p.137)

「一文なしじゃ兵隊さんも戦さは御免だ」の部分がこの諺です(非常に達意の訳です)。原文は Wikisource(15 行目)などで閲覧可能。

point の代わりに pas を使うこともあります。

  • Pas d'argent, pas de Suisse.

【言葉遊び】 19世紀前半に小説家バルザックは、最後の単語「Suisse」を 1 文字だけ変えて「cuisse」(太もも)とした、次のような言葉を手帳に書きとめています。

  • Pas d'argent, pas de cuisse.
    逐語訳:「お金がなければ、太ももはない」。

「お金がなければ、女遊びはできない」という意味のようです。

この言葉遊びは、ピエール・ギロー著『言葉遊び』(クセジュ)でも point を使った形で取り上げられています。

  • Point d'argent, point de cuisse.

同書の日本語訳(中村栄子訳、p.25, 150, 152)では、「金がなければ女は買えぬ」と訳されています。

歌手ジョルジュ・ブラッサンスの Grand-père(おじいさん)という歌でも、次のようにして出てきます。

  • Chez l'épicier, pas d'argent, pas d'épices
    Chez la belle Suzon, pas d'argent, pas de cuisse
    乾物屋では、金がなければ香辛料は買えない。
    美しきスュゾンのところでは、金がなければ女は買えない。

この歌は YouTubes などで聴くことが可能。

Pour vivre heureux, vivons cachés.

【逐語訳】 「幸せに生きるためには、隠れて生きよう」

文字通りの意味ですが、有名な言葉なので、色々な場面で応用が可能です。

【用例】 たとえば、高額の宝くじに当たった場合には、この言葉に従ったほうが無難です。

あるいは、情報化社会で「幸せに生きるためには、適切なパスワードとセキュリティ設定に守られながら、隠れて生きよう」と言うことも可能です。

【由来】 フロリアン(1755-1794)の『寓話』(1792年刊)に収められた「こおろぎ」という話の末尾に出てきます。この作品は日本語訳がないようです。全文を訳しましたので、そちらを参照してください。(⇒ 「こおろぎ」の訳

【似た諺】 「出る杭は打たれる」

【単語の意味と文法】 「Pour」は前置詞で「~するために」。
「vivre」は自動詞で「生きる、暮らす」。
「heureux」は形容詞で「幸せな」ですが、ここでは副詞的に「幸せに」という感じです。辞書の例文をよく見ると、vivre heureux (幸せに暮らす)と書かれている場合があります。
「vivons」は vivre(生きる)の現在 1人称複数と同じ形ですが、主語がないので命令形です。 nous(私たち)に対する命令で、英語の Let's に相当します。「vivons」で「生きよう」となります。
「cachés」は他動詞 cacher(隠す)の過去分詞 caché に男性複数の s がついた形。
短い文ですが、分詞構文で「付帯状況」を表し、「cachés」は「隠れた状態で」つまり「隠れて」という意味だと取ることができます。
過去分詞は、分詞構文として使う場合は主節の主語に性数を一致するので、ここは、命令文のために省略されている nous(私たち)に合わせて、複数の s がついています。

【もじった表現】 cacher(隠れる)の代わりに、発音の似た coucher(寝る)を使った、次の表現も古くから知られています。

  • Pour vivre heureux, vivons couchés.
    幸せに生きるためには、寝て生きよう。

「寝て生きよう」といっても、もちろん「二人で寝て過ごそう」という意味なので、coucher は単に「寝る」というよりは「愛し合う」に近い意味です。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

Prudence est mère de sûreté.

【逐語訳】「慎重は安全の母」

【単語の意味】「Prudence」は女性名詞で「慎重さ」。
もともと「prudent(慎重な)」という形容詞からできた言葉。
「mère」は女性名詞で「母」。
「sûreté」は女性名詞で「確実さ、安全」。
もともと「sûr(確実な)」という形容詞からできた言葉(英語に入ると sure)。

【文法】 3つの名詞はいずれも無冠詞になっていますが、本来なら「Prudence」と「sûreté」は、「慎重さというもの」「安全というもの」という感じで概念化されているため、定冠詞がつくべきところ。しかし、諺なので無冠詞になっています。
3 つの名詞のうち、一番無冠詞であってもおかしくないのは「mère」です。なぜなら「mère de sûreté」は属詞になっており、属詞の場合は基本的に無冠詞になるからです。ただし、後ろに「de sûreté(安全の)」という、言葉の意味を狭める(限定する)言葉がついており、特定化されるので定冠詞がつきやすいことも事実です。

【由来】ラ・フォンテーヌ『寓話』第3巻18話「猫と老練なねずみ」(le Chat et un vieux Rat) にこれに似たことわざが出てきます。これは次のような話です。

  • ある猫が片っ端からねずみをとらえるので、ねずみたちは穴から出てこなくなった。猫が死んだふりをしたのを見て、何匹ものねずみが穴から出てきたが、老練な一匹のねずみだけは用心して近寄らなかった。

この話の最後に、話し手による寸評のような形で「このねずみは経験豊富で、用心は安全の母ということを知っていたのだ」という言葉が出てきます。この箇所のフランス語原文は La méfiance est mère de la sûreté. となっています。

この項目で取り上げた Prudence est mère de sûreté. という形は、無冠詞なので古くからありそうにそうに思われますが、リトレの辞典(1869年)で出てくるのが文献上の初出のようですRey/Chantreau (2003), p.775 による)

なお、定冠詞をつけて言う場合もあり、

  • La prudence est mère de sûreté.
  • La prudence est mère de la sûreté.
  • La prudence est la mère de la sûreté.

などと言うこともあります。

また、Prudence(慎重)の代わりに類義語 Défiance(不信)や Méfiance(用心)を使って

  • Défiance est mère de sûreté.
  • Méfiance est mère de sûreté.

と言うこともあります(『プチ・ラルース』のことわざリスト 54 番)。

【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。

【似た諺】フランス語だと、

【日本の諺】「石橋を叩いて渡れ」「念には念を入れよ」

【反対の諺】逆に、「慎重になりすぎるのはよくない」という意味のことわざもあります。

  • Trop de précaution nuit.
    用心しすぎは害となる
    nuit は nuire(害になる)の現在3人称単数。




⇒ やさしい諺(ことわざ) 1( A ~ D )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 2( F ~ J )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 3( La ~ Lem )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 4( Les ~ Lo )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 5( M ~ P )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 6( Q )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 7( R ~ Z )







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