「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

グランヴィル挿絵

フランス19世紀の諺の挿絵

19 世紀の諷刺画家グランヴィルが描いた『百の諺』から、このホームページで扱った諺に関する絵を取り上げます。

挿絵とはいっても、基本的に本文とは無関係であり(特に以下のカラーのものは完全に無関係)、これだけで独立して鑑賞するように描かれています。

À bon chat, bon rat.

良い猫には良い鼠

良い猫には良い鼠

出典:Gallica

猫は、バレリーナの格好をした美しい鼠をつかまえようと狙っているようですが、下心は押し隠し、文字どおり「猫」をかぶって身なりを整え、巧みに「猫」撫で声を出しながら、花束を渡しています。

  • フランス語の「鼠」(rat)という単語には「パリのオペラ座のバレエの練習生」 ( = petit rat de l'Opéra) という意味もあり、そこからの発想で鼠がバレリーナの格好で描かれています。

しかし鼠は、花束には目もくれずに、違うものを指さしています。

猫のポケットからはみ出ているのは、厚みのある立派な財布のようです。

鼠は、「あら、立派な財布ねえ。」と言っているのでしょうか。あるいは、もっとストレートに「私は(花束ではなく)そっちが欲しいの。」と言っているのかもしれません。

猫も巧みなら、それに劣らず鼠もしたたかです。

むしろ鼠の方が一枚上手(うわて)だといえるかもしれません。

→ この諺の解説



Au royaume des aveugles, les borgnes sont rois.

めくらの王国では、めっかちが王様だ

めくらの王国では、めっかちが王様だ

出典:Gallica

19 世紀には、盲人は道端などで楽器を演奏して金銭を得ることが多かったようで、盲導犬の役目をする犬がチップを受け取るお椀を口にくわえている絵などがよく見られます。ここも、そのイメージで描かれています。

→ この諺の解説



Ce que femme veut, Dieu le veut.

女が欲することは、神が欲する

女が欲することは、神が欲する

出典:Gallica

左側に立っているのは、呉服屋の店員だと思われます。
「奥様、こちらの布はいかがでございましょう?」とでも言っているようです。

店内ではなく、妻が自宅に店員を呼び寄せたのでしょう。夫は部屋着のままです。

妻は神様の腕を取りながら、夫に「あなた、私はこれが欲しいの。」と言っているようです。

夫が持っている紙は、(拡大して見たところ)どうやら Facture (請求書)と書かれているようです。

高額な請求書を受け取って、「これは、まいったなあ」と思っているようですが、神様が後ろについている以上、逆らうわけにはいきません。

「女が欲することは、神が欲する」という諺どおり、妻の意見が通ってしまいそうです。

→ この諺の解説



Dis-moi qui tu hantes, je te dirai qui tu es.

どんな人と交友しているのか言ってごらん、そうすれば君がどんな人か言いあててみせよう

どんな人と交友しているのか言ってごらん...

出典:Gallica

中央の青い上着の男は、お洒落な格好をしていますが、交友関係を見ると、どうやら、ろくでもない男のようです。

  • ちなみに、右上の看板には Estaminet (エスタミネ)と書かれていますが、これは主に酒と煙草を供するカフェの一種。オランダやベルギーが発祥で、19世紀にはパリでも流行したようです。

→ この諺の解説



Il ne faut jamais dire « fontaine je ne boirai pas de ton eau. »

絶対に言ってはならない、「泉よ、おまえの水は飲まないぞ」とは

絶対に言ってはならない、「泉よ、おまえの水は飲まないぞ」とは

出典:Gallica

「泉」には「噴水」や「水飲み場」などの意味もあります。

手前の男は、酒瓶を手にして、「ははは、水など飲んでいられるか、水など飲まないぞ」というような身振りをしています。

しかし、その奥に描かれているのは、顔つきが似ているところを見ると、同じ男の末路のようです。

「水など飲まないぞ」と言ったばかりに、水飲み場を前にして水を飲むこともできず、倒れこんでいます。

→ この諺の解説



Il ne faut pas réveiller le chat qui dort.

眠っている猫を起こしてはならない

眠っている猫を起こしてはならない

出典:Gallica

手前では、よせばいいのに、長椅子で眠っている(ライオンのように大きな)猫を鼠がつついています。

後ろでは、おそらくドアを開けて若い夫婦が部屋に入ってきたところ、口やかましい姑(しゅうとめ)が椅子で眠っているのを見つけ、そうとは知らずに音を立ててしまったので、目を覚ましはしないかと、ひやひやしているのでしょう。
姑は頭部だけ猫として描かれています。

→ この諺の解説



Il n'y a point de belles prisons ni de laides amours.

美しい牢獄も、醜い恋も存在しない

美しい牢獄も、醜い恋も存在しない

出典:Gallica

猿の顔をした(ことわざによれば「醜い」)男女がキスをしています。
しかし、当人たちは醜いなどとは思っていません。「醜い恋は存在しない」(=恋する人にとっては、どんな相手も美しく見える)からです。

手前の鳥かごは、凝った美しい細工がほどこされていますが、「美しい牢獄は存在しない」と言うとおり、閉じこめられていては美しかろうが関係ありません。鳥は死んでいるようです。

  • ちなみに、「(牢獄の)おり」を意味するフランス語の cage という言葉は、「鳥かご」という意味もあります。

17世紀のラニエの版画でも、中央に「醜い」男女、右脇に牢獄という、似たような構図で同じことわざが描かれています。

→ この諺の解説



La faim fait sortir le loup du bois.

空腹は狼を森から外に出させる

空腹は狼を森から外に出させる

出典:Gallica

狼の顔をした男が、空腹に耐えられず、パン屋の店先に並んでいたパンを盗もうとしているようです。

必要に駆られれば悪事を働く、という意味の諺です。

→ この諺の解説



La pelle ne doit pas se moquer du fourgon.

「スコップが火かき棒をあざ笑ってはならない」

日本の「目くそ鼻くそを笑う」に相当する「それは慈善病院をあざ笑う施療院だ」(C'est l’hôpital qui se moque de la Charité.) の項目で「似た諺」として取り上げた「スコップが火かき棒をあざ笑う」(La pelle se moque du fourgon.) の類似表現です。

スコップが火かき棒をあざ笑ってはならない

出典:Gallica

左側がスコップ (pelle) で、右側が火かき棒 (fourgon) です。

→ この諺の解説



La poule ne doit pas chanter devant le coq.

雌鶏は雄鶏の前では歌ってはならない

雌鶏は雄鶏の前では歌ってはならない

出典:Gallica

挿絵の下には次のように書かれています。

  • Triste maison, que celle où la poule chante, et où le coq se tait.
    雌鶏が歌い、雄鶏が沈黙する家は悲しい家である。

ここでは、その「悲しい家」の図が描かれています。

妻に叱られ、夫はポケットに手を入れて「すいません」と言っているように見えます。

ピアノに座って声を張り上げているのは、娘でしょうか。

左奥で掃除をしていた使用人は、「ああ、また奥様のガミガミが始まった、やれやれ」と思っているようです。

後ろの壁に掛かった額縁入りの絵は、馬に乗ったアマゾン(アマゾネス)のようです。
男尊女卑ならぬ「女尊男卑」を示しています。

→ この諺の解説



Les absents ont toujours tort.

欠席者はつねに間違っている

欠席者はつねに間違っている

出典:Gallica

よく日本の諺辞典や仏和辞典では、この諺の訳として、「いない者は損をする」、「いないほうが悪い」と書かれています。
しかし、それだと、この絵を見ても腑(ふ)に落ちない部分が残る気がします。

そこで仏仏辞典を見ると、この諺は「その場にいない人の権利や立場は守られない」という意味だと説明されています。

とすると、ここでは、たとえ夫でも、「留守にしていたら夫としての地位は守られない」という意味で、この諺が解釈されていることがわかります。

この絵を描いたグランヴィルとほぼ同時代のキタールの解説によると、この夫は自警団に属する民兵で、見回りに出て戻ってきたら、妻と色事師が密会して別れを惜しんでいる場面に出くわしたところだそうです。

  • この夫の服装は、正規軍の軍服の中では、「擲弾兵(てきだんへい)」(grenadier グルナディエ)に似ています。手に持っているのは、イギリスのバッキンガム宮殿の近衛兵がかぶる帽子と基本的には同じ、熊の毛皮(ベアスキン)でできた帽子(bonnet d'ourson)で、赤い羽根と真鍮飾りがついています。

帽子を脱いで戻ってきた夫は、髪の毛が逆立って、二本の角(つの)が生えたような格好になっています。
フランスでは、中世以来、「妻を寝取られた夫の頭には、嫉妬で角が生える」という俗信がありますが、そうした俗信を踏まえて、このような髪型になっていると思われます。

このことは、この諺に関して添えられた、もう一枚の小さな挿絵を見れば明らかです。

寝取られた夫

出典:Gallica

男がかぶっているのは、一種のナイトキャップだと思われます。伸縮性に欠ける布を使っていたため、おでこの前で紐をしばっていたのでしょう。
寝ている人や病人を描いた19世紀の絵で、こうしたかぶり物をよく見かけます。

しばった部分が、壁に映った影では、はっきりと角(つの)になっています。

このように、投影された影において人間の本性や本心を暴くというのは、グランヴィルが好んだ諷刺の手法です (Cf. 林田遼右『カリカチュアの世紀』白水社 p.134)

→ この諺の解説



Les loups ne se mangent pas entre eux.

狼(おおかみ)は共喰いしない

狼の顔をした、法服を着た二人が手を取りあっています。

奥の建物の看板を見ると、レストランであることがわかります(froid は「冷肉」、à la fourchette は「フォークを使って食べる肉料理」の意味)。

狼は共喰いしない

出典:Gallica

しかし、この絵だけ見ても、なかなか意図がつかめません。

そこで、キタールによる解説を参照すると、なるほどと合点がいきます。

  • かくも奇妙にグランヴィルが描いた二人の「おおかみ人間」は、最低ランクのクズ弁護士で、一方はジャンのため、他方はピエールのために法廷では先を争うようにして吠えていたのに、外に出ると怒っているふりをするのをやめ、レストランのドアの前で手を取りあって鼻面を近づけている。あっけに取られているジャンとピエールを尻目に、これから仲よくテーブルにつこうというのだ。予想もしていなかった展開に驚くジャンとピエールの表情は、自分たちは食事にありつくことなく、この二人の食事代だけは支払うはめになるのだと悟ったことを物語っている。(増補改訂版 p.320 より訳)

つまり、この絵で法服を着ているのは裁判官ではなく民事裁判の弁護士で、絵の両端の奥にいる二人の当事者(ジャンとピエール)をそれぞれ弁護して、さきほどまでは法廷で激しくやりあっていたのに、裁判所から出てきたら嘘のように仲よく手を取りあっているところを描いたものだ、というわけです。

気になって画像を拡大してみたところ、向かって右の弁護士が抱えている書類には Jean contre Pierre(ピエールを相手取ったジャン)、向かって左の弁護士の書類には Pierre contre Jean(ジャンを相手取ったピエール)と書かれていました。とすると、向かって右奥でブルーの服を着ているのがジャン、左奥にいるのがピエールのようです。

  • この書類の文字が最初から読めれば、二人(二匹)が民事の弁護士だと勘が働き、解釈に苦労せずに済んだところです。実物の本だと鮮明に見えるようですが、画像だとなかなか限界があります。

→ この諺の解説



L'occasion fait le larron.

機会が盗人を作る

機会が盗人を作る

出典:Gallica

手前では、女性が眠っているすきに、キスをしようとしているようです。

奥では、老人が木を見上げて気を取られているすきに、背後からポケットのものを引っ張り出して盗もうとしているようです。

→ この諺の解説



Mauvaise herbe croît toujours.

雑草はたえず生長する

雑草はたえず生長する

出典:Gallica

向かって左側にいる父親が、自分の息子を紹介しているようです。

息子はずいぶん「生長」しています。

→ この諺の解説



Mieux vaut marcher devant une poule que derrière un bœuf.

牛の後ろよりも、雌鶏(めんどり)の前を歩いたほうがいい

寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ

出典:Gallica

これは『史記』の「寧(むし)ろ鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」をフランス語に訳したものです。

ヨーロッパでは、これに相当する言葉として、プルタルコス『対比列伝』に出てくる「ローマで二番でいるよりも、自分の村で一番でいるほうがいい」が知られています。

→ この諺の解説



Mieux vaut tard que jamais.

遅くなっても全然やらないよりはましだ

遅くなっても全然やらないよりはましだ

出典:Gallica

女は時計を指し、「何時だと思っているの」と言っているようです。

遅れて来た男は、謝りながら、「全然来ないよりはましだろう」と言っているようです。

→ この諺の解説



On a souvent besoin d'un plus petit que soi.

人はしばしば自分より小さい者を必要とする

人はしばしば自分より小さい者を必要とする

出典:Gallica

フランス語の grand, petit は、一般に「大きい、小さい」という意味ですが、「背が高い、背が低い」という意味もあります。

ここでは、背の低い人に煙草の火を借りています。

→ この諺の解説



Pierre qui roule n'amasse pas mousse.

転がる石は苔(こけ)を蓄えない (転石(てんせき)苔むさず)

「転職や転居を繰り返していると財産を蓄えられない」という意味です。

転がる石は苔(こけ)を蓄えない

出典:Gallica

この図では、「転職や転居を繰り返している」人は、杖をついて歩いている人によってイメージ化されています。

この挿絵は、例外的に本文と少し関係があると思われます。『百の諺』第 10 話「転石 苔むさず」は、次のような話です。

  • セビリヤ近郊の泉のほとりで、くつろいでいた数人が身の上話をすることになった。ヨーロッパ各地から紆余曲折を経てやってきた役者、詩人、貿易商、歌手が自分の境遇について話し終えたとき、不意に「さまよえるユダヤ人」のような男が現れて説教を垂れる。しかしそんな説教よりも、我々の境遇をよく表している諺がある、として、その中の一人が「転石 苔むさず」を口にする。

つまり、この挿絵では、「転がる石」が「さまよえるユダヤ人」のイメージと重ねあわされているともいえます。

→ この諺の解説



Qui trop embrasse mal étreint.

抱きかかえすぎる者は、うまく抱き締めない

抱きかかえすぎる者は、うまく抱き締めない

出典:Gallica

大まかに言って、上着が赤いのはイギリスの軍服の特徴です(フランスの軍服は、第一次大戦以前には、典型的にはズボンが赤で、上着は青)。
ここに描かれているのもイギリスの軍人です。

二角帽の上に鶏の「とさか」のようなものが描きこまれているのは、画家グランヴィルのいたずらによって、諷刺の意味を込めて半分だけ鶏の頭に変身されかかった状態だといえるでしょう。

  • 「とさか」や鶏の頭は、中世以来、伝統的に道化(=阿呆)の帽子に採用されてきたものなので(Cf.ウィルフォード『道化と笏杖』etc.)、「この男は阿呆だ」という意味で「とさか」が描き込まれているともいえます。

このイギリスの軍人は、無理して地球儀や地図をたくさん抱えこんでいます。
右脇の地図には Chine(清、支那)と書かれています。
1840~1842年のアヘン戦争でイギリスが清に勝利してまもない頃(1844年前後)に、この絵は描かれています。
左足の前に落ちかかっている地図には、Grande Inde(大インド)の文字が見えます。
顔の前には、Gibraltar(ジブラルタル)と書かれた地図があります。
左手の先の地図は、どうやら Nouvelle-Zélande(ニュージーランド)のようです。

正面の壁に掛かっている地図は、文字がかすれていて、最初はどこの島かわかりませんでしたが、見当をつけて調べた結果、Îles Malouines すなわちフォークランド諸島を描いたものであることに思い当たりました。

いずれも、この絵が描かれた当時、イギリスの植民地化が進んでいた土地です。

つまり、これは「あまり手を広げすぎる(手広くやりすぎる)と失敗する」という意味の諺を使って、19世紀イギリスの帝国主義を諷刺した絵だといえます。

ちなみに、キタールはこの絵を次のように解説しています。

  • グランヴィルは、世界五大陸に植民地支配を拡大させた大国イギリスに、この諺をあてはめた。そして、この大国が常軌を逸した拡大によって将来の破滅の原因も抱え込んだことを示すために、巨大な権勢を象徴する物を必死になって抱きかかえている大きな軍人の姿として、大国イギリスを絵筆で表現した。その姿を見守る政治家は、両手を組んであごを乗せ、時間の経過とともに起こるにちがいない不測の事態について、深く思いをめぐらせているように思われる。
    出典: Grandville et al., Cent Proverbes, nouvelle éd., revue et augmentée, p.236

→ この諺の解説



Qui va à la chasse perd sa place.

狩に行く者は、自分の席を失う

狩に行く者は、自分の席を失う

コンサート会場などで、トイレから戻ってきたら席を取られてしまったようです。

Qui quitte sa place la perd. (自分の席を離れる者は、その席を失う)と書かれています。

この諺は、もともと「椅子取りゲーム」のようなイメージがあります。

→ この諺の解説



Si jeunesse savait, si vieillesse pouvait.

もし若者が知っていたらなあ、もし老人ができたらなあ

もし若者が知っていたらなあ、もし老人ができたらなあ

出典:Gallica

若者は、ラブレターを渡したくても渡すことができず、もじもじしているようです。

老人は、ラブレターを渡すくらい造作もないのでしょうが、エネルギッシュな女性の相手を務めるのは無理かもしれません。

この挿絵をヒントにして描かれたと思われる絵があります。

→ この諺の解説



Tel maître, tel valet.

この主人にしてこの召使いあり

この主人にしてこの召使いあり

出典:Gallica

右側にいる青い服が「主人」、奥にいる緑の服が「召使い」です。

召使いもふんぞり返っているところがユーモラスです。

この挿絵をヒントにして描かれたと思われる絵があります。

→ この諺の解説



Tout ce qui brille n'est pas or.

光るもの必ずしも金ならず

光るもの必ずしも金ならず

出典:Gallica

きれいな服を着飾り、靴も磨かせて「ぴかぴか」です。

ふんぞり返って偉そうにしていますが、中身もそれにふさわしいかどうかは疑問です。

左奥に描かれた棚には、スプーンなどの食器が並んでおり、棚の上には imitation d'or (金のイミテーション)、strass (金ぴかのまがい物)、chrysocalque (模造金)、melchior (洋白)といった文字が読み取れます。

その前に立つ男は、振り返って読者に目線を向け、少し笑っているような表情を見せています。「この夫婦が金ぴかなのは、見せかけだけだよ」と、読者に目くばせをしているようです。

この挿絵をヒントにして描かれたと思われる絵があります。

→ この諺の解説

グランヴィルが描いた絵は、以上で取り上げた『100 の諺』の挿絵に限らず、絵葉書にも多数転載されています。

グランヴィルの挿絵をヒントに描かれたと思われる、似たような構図の絵葉書も少なくなく、グランヴィルは絵葉書の世界にも大きな影響を与えていることがわかります。



Vérité est la massue qui chacun assomme et tue.

真実は皆を殴って殺す棍棒(こんぼう)だ

この絵の女性が持っているのは、棍棒ではなく鏡です。

西洋絵画では、「真実」という画題のもとで、鏡を持った裸の女性を描くことが一つの伝統となっています。

「裸で鏡を持っている」のは、おそらく「余計な装飾(衣服)を一切身にまとわずに、ありのままを赤裸々に映し出す」という意味。男性ではなく「女性」が描かれるのは「真実」という単語が(ギリシア語・ラテン語でもフランス語でも)女性名詞であこととおそらく関係があります。

真実は皆を殴って殺す棍棒だ

出典:Gallica

「真実は皆を殴って殺す棍棒だ」という言葉は、中世の『ドロパトス』物語に由来しますが、ここでは物語の内容とは関係なく描かれています。

本当は醜い自分の姿を鏡に映して見たくないようで、みな「真実」を恐れ、逃げまどっています。

ヴェリテ(真実)の右足の近くで倒れ込み、右手で笏杖をつかんでいるのは王で、その隣で軍服(赤いズボンに青い上着、両肩には大きな金の肩章)を身につけているのは元帥のようです(拡大すると ROI, MARECHAL という字が読み取れます)。
地位の高い者でも「真実」には勝てないというわけです。

また、左足のあたりに倒れて絵のパレットを持っているのは、この絵を描いた画家グランヴィルの自画像のようです。

ところで、絵の左側には井戸が描かれていますが、「真実」は「井戸」とも深い縁があります。
古来、「真実は井戸の底にある」と考えられてきたからです。

おそらく、井戸も、のぞき込むと鏡のようにして自分の姿が映るからではないでしょうか。

→ この諺の解説



番外編:フリーズ

「フリーズ」 (frise) とは、もともと建築用語で、例えば古代ギリシアの神殿の柱の上などに彫刻された、帯状の装飾部分を指し、転じて本のページ上部の細長い挿絵なども指します。
この本では、初版だけに章の冒頭で「フリーズ」が使われています(増補改訂版では削除され、他の挿絵に差し替えられています)。

もともと小さな絵なので、よく見ないとわかりませんが、そのぶん単純な構図になっています。

次の「フリーズ」は何の諺を描いたものでしょうか。

二兎を追う者は...

正解:

次の「フリーズ」では、いずれも猫と鼠が描かれています。

3つ絵が並んでいますが、それぞれ何の諺を描いたものでしょうか。

猫と鼠

左の絵

中央の絵

右の絵

次の絵は少し難易度が高いかもしれませんが、左右に立っているのは、耳が長いところを見ると、ろばのようです。
互いに、ひも(実際には鎖)のついた容器を投げるような格好をしています。

ろばがろばを...

この容器は、カトリックのミサなどの儀式で使われる「振り香炉」(encensoir)と呼ばれるもので、宗教的な行列では、清める(浄化する)ために司祭などがこれを振りながら練り歩きます。
しかし、司祭ではなく、ろばが振り香炉を振っているのが妙なところです。

実は、この「振り香炉を振る」(balancer l'encensoir devant qn ; encenser)という表現は、「お世辞を言う、ごまをする、おだてる」という意味もあり、ここではこの比喩的な意味で使われています。

ということで、正解は、次の諺を描いたものです。

扉絵「諺の樹」

『百の諺』巻頭の「扉絵」Frontispice で、グランヴィルは「諺の樹」とも呼ぶべき挿絵を描いています。
椰子(やし)のような木で、葉の部分はフランス語の諺が書かれた紙になっています。

諺の樹

出典:Gallica

小さな字なので、まず左側を拡大してみます。

諺の樹(左上)

かすれて見にくかったり、途中までしか書かれていないものもありますが、そこは「諺」なので、見る側で推測して補うことができます。

上から順に、次のように書かれています。

  • Charité bien ordonnée commence par soi-même. 〔ピンク色〕
    正しい順序での慈善は自分自身から始まる
    (=他人のお節介を焼く前に、まずは自分のことを考えよ)
  • Les extrêmes se touchent. 〔緑色〕
    両極端は相通ず
  • Bon chien chasse de race. 〔水色〕
    良い犬は血統で狩をする
    (=血筋は争えない)
  • Nul n'est prophète en son pays. 〔ベージュ色〕
    自分の故郷では誰も預言者ではない

まだ本ホームページで取り上げていない諺もありました。

次に、右側を拡大してみます。

諺の樹(右上)

上から順に、次のように書かれています。

  • Nul ne peut servir deux maîtres. 〔黄色〕
    何人も二人の主人に仕えることはできない
  • Chat échaudé craint l'eau froide. / La nuit porte conseil. 〔ピンク色〕
    やけどをした猫は冷たい水を恐れる / 夜は助言をもたらす
  • Ventre affamé n'a pas d'oreilles. 〔緑色〕
    空腹は耳を持たない
  • Bonne renommée vaut mieux que ceinture dorée. 〔水色〕
    良い評判は金の帯にまさる
    (=名声は富にまさる)
  • Qui compte sans son hôte compte deux fois. 〔ベージュ色〕 (*)
    主人抜きで勘定をする者は二度勘定をする
    (=当事者に相談せずに事を進めようとすると、計算どおりにいかないものだ)
  • Il n'est pas de roses sans épines. 〔黄色〕
    とげのない薔薇はない

     (*) これは比較的使用頻度が少ない諺。これ以外はどれも有名です。

また、幹に巻かれた紙には次のように書かれています。

  • Les Proverbes Sont la Sagesse des nations.
    諺は諸民族の知恵である。

諺の樹(幹)

この「諸民族の知恵」という言葉は、少し特別な意味があります。
別のページで掘り下げて考察しましたので、そちらを参照してください。

⇒「諸民族の知恵」について

「諸民族」 (nations) は複数形になっています。
実際、よく見ると、絵の左奥にターバンを巻いた人がいるなど、多民族の人が混じって描かれているのがわかります。

しかし、それにしても、「諺の樹」の両側に立つ人は、いったい誰でしょうか。

私も最初はよくわかりませんでしたが、しばらく考えたのち、謎が解けました。

【向かって右側の人物】

サンチョパンサ

最初見たときは、衣装や顔つきからして、スペイン人らしいなと感じただけでした。帽子は、スペインの帽子「ソンブレロ」の一種のようです。

実際、この『百の諺』にはスペインに由来する諺が多く含まれており、特に『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンサが口にした諺が相当使われています。

そこで、これはサンチョ・パンサその人を描いたものだと思い当たりました。
サンチョ・パンサは、このように水筒代わりの瓢箪を腰にぶら下げた姿で描かれることも多いようです。

実は、あまり有名ではありませんが、グランヴィルは『ドン・キホーテ』の挿絵もいくつか描いており、1847年にグランヴィルが没したあとに Furne版『ドン・キホーテ』(1877年刊)で使われた挿絵(Gallica) を見ると、やはり瓢箪をぶら下げています。ただし、やや表情が硬く、上の絵のようなユーモラスな感じには欠けています。

むしろ、同じ Furne版『ドン・キホーテ』(1866年刊)で G. Roux が描いた挿絵(Internet Archive)のほうが、服装や雰囲気がよく似ています。

その他、 (以下のリンク先の画像はwikimediaによる)

などを見ると、サンチョ・パンサがどのようにイメージされていたかが、だいたいわかります。

上の絵でサンチョ・パンサがシャベルを持っているのは、「諺の樹」に肥料を与えようとしているからでしょうか。

諺という「諸民族」の共通財産に、多くの諺を追加した功績をたたえ、このように描かれているのでしょう。

【向かって左側の人物】

ソロモン

この王様も、最初は誰だかわかりませんでした。
普通、王様を描く場合は、紋章などが描き込まれることが多く、人物を特定する手がかりになるものですが、そうした手がかりがありません。
王冠を見ても、ごくシンプルなもので、国や時代を特定するような特徴に欠けています。むしろ時代を超えた、おとぎ話に出てきそうな感じさえ受けます。

そこで、絵から推測するのはあきらめて、内容的に考えてみることにしました。

この「諺の復権」を謳っているともいえる野心的な本において、その巻頭を飾る扉絵で、目立つように前面に描かれ、「諺の樹」に水をやっている... このように描くのにふさわしい、歴史的に見て重要な役割を果たした、諺に関係の深い王様といえば、誰か... 

そう考えたとき、ソロモン王だとひらめきました。まちがいありません。
旧約聖書の『箴言』の作者に擬せられているソロモン王です。

旧約聖書の『箴言』に収められている格言は、現在でこそ無名の教育者が作ったとされていますが、以前は長らくソロモン王自身が作ったと考えられてきました。

このホームページで取り上げたフランスの諺で、旧約聖書の『箴言』と関連がありそうなのは、「不正に獲得された財産は決してためにならない」や「話す前に口の中で7回舌を回す必要がある」くらいしかありませんが、聖書に収められている以上、その影響力は計り知れません。
ちなみに、フランス語で「諺」を意味する proverbe は、大文字・複数形で Proverbes と書けば旧約聖書の『箴言』を指します(英語の Proverbs も同様)。

特に中世には、ソロモン王は古代ローマのカトーやセネカと並んで、多くの諺の作者に擬せられ、たとえば『マルクールとソロモンの対話』(マルクールはおそらくカトーのこと)と題される、架空の対話の形式による格言集がもてはやされるなど、いわば別格扱いを受けてきました。

紀元前 10世紀頃の王なので、もちろん当時の絵や図像は残っていませんが、後世になって想像で描かれたソロモン王の絵では、こうしたシンプルな冠をかぶり、ゆったりとした衣服をまとって描かれることが多く、ここに描かれている絵とまったく矛盾しません。

特に、中世に建てられたフィレンツェのサンジョヴァンニ洗礼堂の「天国の扉」に彫刻された名高い「シバの女王を迎えるソロモン王」をイメージして描かれているようにも思われます。
(あるいは、19世紀末の聖書カード「ソロモンと第一神殿の設計図」などは、王冠の形だけでなく、草履のようなものを履いて足の先が見えている点でも似ています)。

上の挿絵では、水をやるソロモン王はいわば「諺の父」、肥料をやるサンチョ・パンサはいわば「諺の母」と位置づけられているとも言えそうです。

なお、上の二人をサンチョ・パンサおよびソロモンと特定することに関しては、このちょうど20年後に描かれたジルベール・ランドン「図解ことわざ」の最後の絵によっても確認されます。

猿と賢者

この『百の諺』は、大雑把にいって、諺をテーマとしてグランヴィルが描いた絵 50枚と、他の諺をテーマとして 4人の文筆家が分担して書いた小話 50篇で構成されています。50枚の絵で扱われている諺と、50篇の小話で扱われている諺は異なるため、これらの絵は「挿絵」というよりも、文章からは完全に独立した作品となっています(このページでは増補改訂版からカラーで紹介)。

  • この 50枚の絵とは別に、50篇の小話には小さな挿絵が添えられています(このページの白黒の挿絵)。しかし、やはり基本的には文章とは異なる内容が描かれています。

ふつう、「挿絵」は文章の内容を補足して視覚化するだけの、いわば文章に「従属」した存在ですが、それとは対照的に、この本で描かれている絵は文章と「対等」な関係を築いています(これこそ画家グランヴィルの理想だったようです)。

この「絵と文章との対等な関係」を象徴的に示しているのが、巻末の目次の上に描かれた、次の絵です。

猿と賢者

出典:Gallica

左側の「猿」は、よくピエロや道化(どうけ)がかぶる、先端に鈴のついた帽子をかぶり、デッサン用の鉛筆 (crayon) を抱え、絵を描いています。
これはイラストレーター(画家)を表しています。

右側の「賢者」を思わせる重厚な風貌の人は、文筆家の象徴で、鵞ペン (plume) で文字を書いています。

  • 19世紀中頃は、まだ万年筆がなく、鵞鳥(がちょう)の羽の先端にナイフで切れ目を入れ、時々インクを浸しながら書く「鵞ペン」(がぺん)が使われていました。

グランヴィルがあえて道化の帽子をかぶった猿の姿によって自分を表現しているのは、一見するとコミカルでありながら、実は絵はカリカチュア(諷刺)による破壊力も秘めていることを示そうとしているのかもしれません。

(Cf. Keri Yousif, Balzac, Grandville, and the Rise of Book Illustration, p.169)

なお、本の上の「ふくろう」はローマ神話の「ミネルヴァのふくろう」で、寓意的に「知恵」を表します。

「一つの縁なし帽に三つの頭」

この『百の諺』の初版の表紙は、次のような奇抜なものとなっています。

一つの縁なし帽に三つの頭

題名と作者名の部分を訳すと、次のようになります。

百の諺
グランヴィル
および
〔絵〕
による

この〔絵〕「一つの縁なし帽に三つの頭」という成句表現を表しています。

この表現は古くから存在し、たとえばアミアンの大聖堂の彫刻(16世紀初頭)や、ラニエの版画(17世紀中頃)にも取り上げられています。

1808年(グランヴィル 5才の時)に出た俗語辞典(D'Hautel (1808), vol.1, p.107)では、次のように説明されています。

  • 「あれは一つの縁なし帽に三つの頭だ」。これは仲がよく、いつも同じ意見の 3人について言う。また悪い意味で、ぐるになっている 3人について言うこともある。

上の絵に描かれている縁なし帽の先端には、鈴がついています。これは道化がかぶる帽子です。とすると、これは(ぐるになった)「道化三人組」です。「道化」は「阿呆」に通じることから、「阿呆三人組」のような意味だともいえます。
(フランス語の fou は「道化」、「狂人、気違い、阿呆」などの意味があります)。

つまり、この表紙を見ると、「作者:グランヴィルおよび阿呆三人組」と書かれているような印象を受けます。ずいぶん人を喰った本です。

ただし、実際には、この本の文章を書いたのは、オールド・ニック(本名エミール・フォルグ)、タクシル・ドロール、アメデ・アシャール、アルヌー・フレミという 4人の文筆家であることが知られています。いずれも、一流の文学者として後世に名を残すほどの作品は書いていませんが、当時はパリのジャーナリスムの世界(文壇)で活躍した、そこそこ名の通った人たちだったようです。

  • このうち、エミール・フォルグは『赤と黒』で有名なスタンダールの友人で、イギリスのディケンズらとも交友があり、エドガー・ポーなどの英米の小説の仏訳もしています(筆名「オールド・ニック」は英語で「悪魔」の意味)。タクシル・ドロールは雑誌「シャリヴァリ」の編集長。アメデ・アシャールはのちのアレクサンドル・デュマにつらなる剣豪小説の創始者の一人。

本当は4人なのに「三つの頭」という、あたかも3人であるかのようなペンネームを使用しているのは、わざと韜晦(とうかい)の度合いを強めている(わかりにくくしている)からだともいえるでしょうし、そもそも諺として「一つの縁なし帽に四つの頭」という言い方は基本的にはしないので「三つ」と言っているだけだともいえるでしょう。

この「一つの縁なし帽に三つの頭」の絵は、次に取り上げる「白い壁、狂人の紙」の挿絵に出てくる道化棒と見比べるなら、全体として三面の道化棒になっていることが理解されます。

  • 道化棒とは、王の権威を示す笏杖(しゃくじょう)のパロディーで、先端に鈴のついた帽子と並ぶ、宮廷道化師の象徴的な小道具。長さは 50 cm 前後またはもう少し長い程度で、先端には人面その他の飾りがついています。

「白い壁、狂人の紙」

初版第44話「白い壁、狂人の紙」 « Muraille blanche, papier de fou. » には、次のような挿絵が添えられています。

白い壁、狂人の紙

Annie Renonciat, J.J. Grandville, coll. Poche Illustrateur, 2006, p.121
(C) 2006, Delpire Editeur, Paris

壁に落書きをしている男は、道化棒を抱え、またフードに鈴がついているのでわかるように、「道化」=「狂人」です。
この男が抱えている道化棒は、上の「一つの縁なし帽に三つの頭」の絵とそっくりです。

この男は、実はグランヴィルの自画像だと考えられており、右手でJ.J. Grandville とグランヴィルの署名が落書きされています。それだけでなく、左側にはグランヴィルの助手の名が反転して書かれていることが、グランヴィルの著名な研究家ルノシンアによって指摘されています。

しかし、先日、上のような鮮明な写真を掲載した本を入手し、この落書きを見ていたら、上記 4人の作家の名も書き込まれていることに気づきました。

  • グランヴィルの右膝の右上(両手を広げた人の角の左右)には Old Nick
  • その 2 行くらい上(グランヴィルの右脇の右下)には Delord
  • グランヴィルの左肩の左(道化棒の左下)には Achard
  • その右下(子供の頭の右側)には Frémy

「4人の名はこの本のどこにも見当たらない」(*) と専門書には書かれていますが、こんなところに落書きされていたわけです。
   (*) Annie Renonciat, La vie et l'oeuvre de J.J. Grandville, 1985, p.183

実は、この挿絵が添えられた第 44話「白い壁、狂人の紙」は、純真な女が耳に挟んだ話をぺらぺらと話してしまったために秘密が露見し、逃亡者が捕まってしまうという話です。 いわば「真実は 3種類の口からのみ出てくる。子供の口と、酔っ払いの口と、狂人の口だ」という言葉(エラスムス『格言集』 I, VII, 17)を地でいくような内容となっています。

この挿絵も、落書きをしているのは「狂人」であり、狂人であるがゆえに真実を暴露している、という趣向になっているといえます。
だからこそ、この本の表紙の「一つの縁なし帽に三つの頭」に似た道化棒を持ちながら、このペンネームの本名が白い壁に落書きの形で暴露されているのだと思われます。

ちなみに、この第 44話の本文と挿絵は、増補改訂版では削除されています。理由は不明ですが、もしかして本名が暴露されていて都合が悪かったからかもしれません。











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