北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-6
やさしい諺(ことわざ) 6 ( Q )
Quand le vin est tiré, il faut le boire.
【訳】 「酒を樽から出したら、飲まなければならない」
【諺の意味その 1 】 「途中までやりかけたら、最後までやる必要がある」
(=「乗りかかった船」、「毒を喰らわば皿まで」)
この諺には 2 つの意味がありますが、この意味のほうが広く使われます。
この意味しか書いていない辞書も少なくありません。例えば、
- 「乗りかかった船」(『ロワイヤル仏和中辞典』)
- 「乗りかかった船、毒食わば皿まで」(『小学館ロベール仏和大辞典』)
- 「もはや躊躇したり尻込みしたりすべきではない、始めたのだからやり遂げなければならない」(リトレ)
- 「物事は進んでしまっているので、もはや引き返すことはできない」(TLFi)
その他、歴代の『アカデミー辞典』にも、この意味しか載っていません。
しかし実は、もう一つ意味で使われることもあります。
例えばラルースの『表現成句辞典』(Rat (2009), p.56)には、上の意味の他に、「ミスを犯したり馬鹿げたことをしたら、その報いを受けなければならない」という意味も記載されています。
また、『新スタンダード仏和辞典』にも、「乗りかけた舟だ、後へは引けない」と並んで、「自分でしたことの後始末はせねばならない」という意味も載っています。
この 2 番目の意味も知っていないと正しく理解できない場合もあります(後述)。
【似た諺】 2 番目の意味の場合:
On récolte ce qu'on a semé. (人は自分が蒔まいたものを収穫する)
Comme on fait son lit, on se couche. (人は自分のベッドを整えた通りに寝る)
【単語の意味】 「Quand」は接続詞で「...なとき(は)」。英語の when に相当し、「...したら」くらいの意味にもなります。
「vin」は男性名詞で、狭義では「ワイン」、広義では「酒」。フランスでは、いわばワインが酒の代名詞です。英語に入ると、少し綴りが変わって wine となります。
「est」は助動詞 être の現在 3人称単数。
「tiré」は他動詞 tirer (抜く)の過去分詞。 être + p.p. で受動態。
tirer は「抜く、引き抜く」という意味ですが、ここは正しくは「瓶の栓を抜く」という意味ではなく、「(樽からワインを)出す」という意味。
『ディコ仏和辞典』で tirer を引くと、「tirer du vin (d'un tonneau) 樽からワインを出す」と書かれています。載っていない辞書もありますが、詳しい仏仏辞典を引くと、tirer がこの意味で使われることが記載されています。
この諺の歴史は古く、ワインボトルが製造されるようになる以前から存在するので、酒樽の栓(コック)をひねって酒を出すというのが本来の意味。
ただし、実際の場面では、もちろんワインの瓶の栓(コルク)を抜きながらこのことわざを口にすることも可能です。
「Il faut」は「~する必要がある」。
「boire」は他動詞で「飲む」。その前の「le」は「le vin (ワイン、酒)」を指します。
一番直訳調に近づけると、「(樽から)酒を出したら、酒を飲む必要がある」。
【他のバージョン】 接続詞「Quand」を抜かして、次のように言うこともあります。
- Le vin est tiré, il faut le boire.
こうすると、文を 2 つ重ねただけの「重文」になります。
また、「Quand」の代わりに接続詞 puisque を使うこともあります。
- Puisque le vin est tiré, il faut le boire.
(酒を樽から出したのだから〔出した以上は〕飲む必要がある)
puisque は、相手もわかっている(=既知の)事柄を理由として引き合いに出す場合に使われる言葉で、「(あなたも知っているとおり、ご覧のように)...なのだから」「...である以上は」というようなニュアンスになります。
会話なら、「出したんだから、飲まなきゃ」という感じです。
【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。
【由来】 Quitard (1842) は、この「Quand」なしの形で紹介しており、もともと酒宴の席上、どれだけ飲んだか自慢しながら酒量を競うときに、相手を挑発して言う言葉だったとしています。「さあ酒をついだぞ、飲んでみろ」という感じだったのでしょう。
【用例 1 】 ルイ 14 世が 1667 年にネーデルラント継承戦争の一環としてフランドル地方のドゥエを攻めた時のエピソードが有名です(この話は C. de Méry (1828), t.3, p.19 や Maloux (2009), p.5 で紹介されています)。
- 勇敢なルイ 14 世は、味方の兵士を鼓舞するために、塹壕でわざと敵の砲火の当たる場所にいた。まわりの者たちは皆、危ないから身を隠すようにと進言し、それに従って王が安全な場所に移るかに見えた時、シャローという人物が、若い王の耳元でこの諺をささやいた。
「いまさら後に引いたらいけませんぞ」という意味でしょう。上記 1 番目の意味です。
Wikipédia の Guerre de Dévolution の項目には、まさにこのエピソードの模様を描いた絵が掲載されています(銃弾で馬が倒れている中、ルイ 14 世が平然と立っています)。
ちなみに、明治39年(1906)に出た藤井乙男『俗諺論』では、同じエピソードが漢文調で次のように語られています。「路易」で「ルイ」と読ませています。
- 千六百六十七年、路易十四世がネザアランドを攻めて、ドウエイに囲まるるや、激烈なる砲撃に恐れて、おぼえず敵に後を見せむとしたるに、モツシュウ、ド、シヤアロウ進みいでて、「酒はつがれたり、飲まざるべからず」と耳語せしかば、王忽ち勇気を恢復し、毅然として飛丸の中に立ち、王者の威厳を顕し、進退また宜しきを得たりといふが如き、片々たる一小俚諺にして、能く重大事件の死命を制するを見るべきなり。
出典:藤井乙男『俗諺論』冨山房、明治39年再版p.92(講談社学術文庫『諺の研究』ではp.87)。ここではルイ14世が「路易十四世」、ドゥーエが「ドウエイ」、シャローが「シヤアロウ」となっています(ちなみに「モツシュウ、ド、」はMonsieur de)。
ここでは、歴史的に重要な場面で、諺が大きな役割を果たした例として取り上げられています。
【用例 2 】 19 世紀の小説家ドーデの短編集『風車小屋だより』に収められた「キュキュニャンの司祭」という話にもこの諺が出てきます。
これは、ある村の司祭が夢の中で天国に寄ったついでに、自分の村の出身者が天国にいるかどうか探したが、誰もおらず、地獄に行ったら村人が全員いたのを見てショックを受け、村人たちがこれ以上、地獄に行かないようにしようと決意する、という話です。
当時は、悪い行いをしても司祭の前で告解(つまり懺悔)をして悔い改めれば、地獄に堕ちないですむと考えられていたので(現在のカトリックでもほぼ同様)、この司祭は村人たち全員に対して告解(懺悔)を行うことを計画します。村人を前にした説教の最後に、次のせりふが出てきます。
- ねえ、皆さん、麦が実った時は刈らなくてはなりません。ぶどう酒はせんを抜いたら飲まなくてはなりません。ここには汚れた下着類がございますから、洗わねばなりません。よく洗わねばなりません。
(岩波文庫『風車小屋だより』、桜田佐訳、p.98)
「麦が実った時は刈らなくてはなりません(quand le blé est mûr, il faut le couper)」という言葉は、「On récolte ce qu'on a semé. (人は自分が蒔まいたものを収穫する)」という諺を連想させます。その次の「ぶどう酒はせんを抜いたら飲まなくてはなりません」という言葉も、上記 2 番目の意味に取るのが自然です。どちらも、因果応報、つまり悪い行いをすれば地獄に堕ちるということの比喩だと思われます。
ちなみに、その次の「ここには汚れた下着類がございます」というのは、「皆さんの中には、悪い行いをした者がたくさんいる」ということの比喩で、それを「洗う」とは、「告解(つまり懺悔)によって悔い改める」(それによって地獄に堕ちないようにする)という意味だと思われます(ここでは、「汚れた下着は家で洗う必要がある」という諺とは直接は関係なさそうです)。
【古い用例】 15 世紀の詩人シャルル・ドルレアンの詩に「Puisqu'il est trait, il le fault boire (樽から出したのだから飲まなければならない)」と出てきます(リトレで引用)。
16世紀プレイヤッド派の詩人バイフの格言詩(1576)にも似たような形で出てきます(Le Roux de Lincy (1842), Maloux (2009) 等で引用)。
『アカデミーフランセーズ辞典』でも第 1版(1694)~第 9版(1992)まで、若干形を変えながらもコンスタントに収録されています。
Quand on parle du loup, on en voit la queue.
【逐語訳】 「狼について話をすると、その尻尾が見える」
【諺の意味】 日本の「噂をすれば影がさす」と同じです。
【省略形】 有名なことわざなので、前半だけ言って、後半は省略しても通じます。
- Quand on parle du loup...
こうすると、「噂をすれば...」または「噂をすれば何とやら」という感じになります。
【単語の意味と文法】 「Quand...」は接続詞で「...するとき」。
「on」は漠然と「人は」。訳さないほうが自然になります。
「parle」は parler (話す)の現在 3人称単数。
parler de ~ (~について話す)という使い方をすることが多い動詞です。
「du」は de と le の縮約形。
「loup」は男性名詞で「狼(オオカミ)」。
「en」は後回しにして、「voit」は他動詞 voir (見る)の現在 3人称単数。
「queue」は「尻尾」で、la がついているのでわかるように女性名詞。
ちなみに、この queue という単語は、英語のビリヤードの cue (キュー、突き棒)の語源です。
さて、この「en」は、「文法編」の中性代名詞 en の 2. 「de + 物」に代わる - 名詞に掛かる に該当します。
「en」を使わないで書き換えると次のようになります。
- Quand on parle du loup, on voit la queue du loup.
この 2 回目に出てきた「loup」およびその直前の「du」を de と le に分けたうちの「le + loup」を代名詞に置き換える場合、置き換えたい言葉の前に「de」があるので、「de」を含めて中性代名詞「en」に代わり、動詞の直前に移動したわけです。
直訳すると、「人が狼について話をすると、人はその尻尾を見る」。
なお、中性代名詞 en を使わずに、所有形容詞を使って次のように言うことも、ないわけではありません。
- Quand on parle du loup on voit sa queue.
通常、(例外もありますが)「de + 前に出てきた物(動物も含む)」は en に置き換わり、「de + 前に出てきた人」は所有形容詞に置き換わります。しかし、この区別は必ずしも厳密に守られるわけではありません。もともと動物は人と物との中間的な存在であることに加え、この諺は実際には人について使われるので、所有形容詞を使っても間違いとは言い切れません(通常は en を使います)。
【性的なニュアンスについて】 実はフランス語の「queue (尻尾)」という単語には、「男性性器」という意味もあります。
たとえばロベールの表現辞典には、少し遠回しに次のように書かれています(Rey/Chantreau (2003), p.558)。
- 方言では、on en voit les cornes (その角が見える)というバリエーションがある。これは狼の悪魔的な性格を物語っている。 queue (尻尾)であろうと corne (角)であろうと、使われているのは男性的な象徴である(たとえば「目が見える」とか「口が見える」などとは言わない)。これは、現代のフランス人がとてもよく感じていることであり、この表現は少なくとも両義に取れる(もちろん、この表現ができた当初は、queue という言葉にエロティックな意味は含まれていなかったのだが)。
「両義に取れる」(équivoque)というのは、queue という言葉が「尻尾」という意味にも取れるが、「男性性器」という意味にも取れる、という意味です。
この諺を描いた絵葉書では、queue が男性性器という意味に取られているようです。
この諺を前半だけ言って途中で止める(後半は省略する)ことが多いのは、queue (尻尾=男性性器)という言葉による卑猥な連想を防ぐためだ、ともいわれています(Brunet (2011), p.101)。
【侮蔑的なニュアンスについて】 この諺は、日本の「噂をすれば...」と多少違って、人をオオカミに喩えることになるため、昔は、話題の人がやって来たときにその本人の前で使うと失礼な感じを与えたそうです。
例えば、19 世紀の Quitard (1842), p.507 では次のように書かれていました。
- パリの人々は、Quand on parle du loup on en voit la queue. (狼について話をしていると、その尻尾が見える)という諺を、ほとんど非難の意味でしか使わない。礼儀正しくしたい場合や、賛辞の意味で表現したい場合は、いつでも必ず Quand on parle du soleil on en voit les rayons. (太陽について話をしていると、その光が見える)や Quand on parle de la rose on en voit le bouton. (薔薇について話をしていると、そのつぼみが見える)といった詩的な言葉に置き換える。
また、ロベールの諺辞典でも、「ほとんどつねに侮蔑的な意味で言われる」と書かれています(Montreynaud et al. (1989), p.23)。
しかし、「昔は侮蔑的なニュアンスがあり、さんざん悪口を言っていた人が現れたことを知らせるために用いられたが、現在ではむしろ、話題にしていた人物がやって来たことをその場の人に知らせるために、ふざけて使われる」(Brunet (2011), p.102)ようです。
つまり、現在では侮蔑的な意味は消えており、日本の「噂をすれば...」とほとんど同じ使い方をすると言えそうです。
【由来(古代)】 この諺はギリシア・ローマに遡ります。
『ギリシア・ローマ名言集』 p.89 では、ローマの諺として「話の中の狼(lupus in fabula)」という表現(「噂をすれば影がさす」という意味)が収録されています。
また、『ラテン語名句小辞典』 p.167 によると、「lupus in fabula(お話の中の狼)」は「ラテン語の古い諺で、例えばテレンティウスの喜劇『兄弟』では、デメアの息子クテシポと奴隷が父親の話をしていたら父親本人が姿を現したという場面で、奴隷が言った台詞になっている」とのことです。
1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』(1706. II, VIII, 6)でも取り上げられ、もとは古代ギリシアの諺だとされており、「喜劇や悲劇の中で、作者の技巧と仕掛けによって、話題になっていた登場人物が間髪を入れずに現れたときに、『狼について話をしただけでも(ラテン語で Etiam si lupi meminisses)』という言葉が広く使われた」と書かれています。
しかし、ここまでは「狼について話をすると、狼が現れる」という内容であり、「尻尾」は出てきません。 (2013/6/13加筆)
【由来(フランス語)】 「尻尾を見る」というのはフランス語の諺特有の表現です。
フランス語の最も古い用例は、13 世紀の写本に収録されている次の諺のようです。
- Qui de lou parole, pres en uoit la quoie.
狼について話をする人は、その尻尾を近くに見る。
Zacher (1859), N°260による(TPMA, Wolf 6.3で引用)。1317年頃の写本にもほぼ同じ形で記載されています(Morawski, N°1900による。Rey/Chantreau (2003), p.558で引用)。
15 世紀末の Jean de la Véprie の諺集には、すでに表題とまったく同じ形で収録されており(Le Roux de Lincy (1842), t. 1, p.117 による)、この諺集をベースに作られた Jean Gilles de Noyers の諺集の 1558 年版 p.86 にも確認されます。
1568 年のムーリエ『金言宝典』では、「狼について話をすると、その尻尾の先が見える」(Quand on parle du loup, de la queue on en void le bout. 〔古い綴り・語法を含む〕 )となっています(p.188)。
ほぼ同時代のエチエンヌ・パーキエの『フランス研究』第 8 部第 15 章でも、「狼について話をすると、その尻尾が見える」(Qui parle du Loup on en voit la queue. 〔古い語法を含む〕 )と書かれています。
『アカデミーフランセーズ辞典』 では、第 1 版(1694)から現在の第 9 版(1992)に至るまで、(ほぼ)表題と同じ形で収録され、「ちょうど話題にしていたときに、当の本人が現れたときに使われる」と書かれています。
【余談】 狼は、フランスでは 1930 年代~ 1940 年頃にいったん絶滅したものの、スペインとイタリアに生存していた狼が 1990 年代に再びフランス国境内に戻り、農村の過疎化、猟の規制、種の保護などによって増え、現在はフランス国内には数百頭の狼が生存しているそうです。
【英語の諺】 英語では「狼」ではなく「悪魔」と言うようです。
Talk of the devil and he is sure to appear.
Talk of the devil and he is bound to appear.
(悪魔について話をすると、必ず悪魔が現れる)
ちなみに朝鮮語では「狼」ではなく「虎」で、「虎の話をすれば虎が現れ、人の話をすれば当人が現れる」と言うそうです(『岩波 ことわざ辞典』による)。
Qui aime bien châtie bien.
【逐語訳】 「よく愛する者はよく罰する」
【諺の意味】 「深く愛するからこそ、厳しく叱る」。「愛の鞭だ」。
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」という意味。
「aime」は他動詞 aimer (愛する)の現在(3人称単数)。ただし、ここでは男女間の愛というよりも、むしろ親子間、師弟間の愛です。
2 回出てくる「bien」は副詞で「よく、とても、大いに、本当に」。「真に」「深く」とも取れます。
「châtie」は他動詞 châtier (こらしめる、罰する)の現在(3人称単数)。どちらかというと「肉体的な苦痛を与える」、「体罰を与える」というイメージです。この動詞は、もともとは corriger (矯正する)という意味がありました。
昔は、子供は(未開人と同様に)野蛮で矯正すべき存在だと考えられていたようなので、この châtier という動詞も、「体罰を加えて(子供や罪人を)正しい方向に導く」というイメージがあったようです。
aimer も châtier も他動詞ですが、直接目的が省略されています。どちらも直接目的語として「子供を」というような言葉が省略されています。
【諺のイメージ】 「スパルタ教育」のイメージがあります。どの仏和辞典でも châtier を引くとこの諺が載っており、例えば次のように書かれています。
- 「愛すればこその鞭」(『ロワイヤル仏和中辞典』)
- 「愛の鞭」(『ディコ仏和中辞典』)
フランスでは伝統的に、教育の一環として、 fessée (お仕置きのために子供のズボンを下ろして尻を叩く行為)が行われてきました(Wikipédia fr. の図を参照)。
そのため、近年ではこの諺は「子供に体罰を与えずに教育することは可能か」という文脈で使われることがよくあります。
fessée をするときは手で叩くこともありますが、昔は martinet と呼ばれる、細い数本の革の紐を束ねた鞭が使われていました(写真は Wikipédia fr. を参照)。
今では多分 SM の世界でしか使われないと思いますが、この鞭自体もフランスが発祥のようです(さすがはサディスムの元祖サド侯爵を輩出した国だけあります)。
実際、SM の世界でも、自分達の行為を正当化するために、この諺が使われることがあるそうです。
【図版】 17 世紀中頃の J. ラニエの版画に描かれています。
また、この諺を題材にした絵葉書があります。
【由来】 もとはラテン語の諺だった可能性があります。岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』では次のようになっています。
- qui bene amat, bene castigat.
(よく愛する者はよく罰す)
フランス語でも、古くはこのラテン語と同じ語順(bien が先)でした。
- Qui bien aime, bien châtie.
フランス語の最も早い用例としては、14世紀後半に遡ると思われる諺集(現存するものは 15世紀の写本)に次のように書かれています(Morawski, N°1836 による)。
- Qui bien ayme bien chastie.
「ayme」は「aime」、「chastie」は「châtie」の古い綴り。
15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°595)もほぼ同じ形。
1568 年のムーリエ『金言宝典』や 1611 年のコットグレーヴの仏英辞典でも、「Qui bien aime bien chastie.」(chastie は châtie の古い綴り)と出ています。
『アカデミーフランセーズ辞典』 でも、第 1 版(1694)から第 9 版(1992)までコンスタントに収録されていますが、すべて「Qui bien aime, bien châtie.」という順(bien が先)になっています。
ただ、現在では、ラテン語からの逐語訳の順序(bien が先)ではなく、フランス語の副詞として自然な位置に置いた、表題の順序(bien が後)で言うのが普通です。
【似た諺】 「かわいい子には旅をさせよ」
- ちなみに、この日本の諺は、『故事・俗信ことわざ大辞典 第二版』によると、「子どもがかわいければ、甘やかさずに世の中に出して、さまざまな経験をさせることが大切だというたとえ。(...)「旅」は、生家を離れ、世間に出て経験を積むことをいう」。
Qui court deux lièvres à la fois n'en prend aucun.
【逐語訳】 「二匹のうさぎを同時に追いかける者は、一匹のうさぎもつかまえない」
(→二兎を追う者は一兎をも得ず)
【単語の意味と文法】 「文法編」で解説されています。「文法編」の「中性代名詞の練習問題」とその答えを参照してください。
【由来(ラテン語) 】 岩波『引用語辞典』に、ラテン語で次のように記載されています。
- duos qui sequitur lepores, neutrum capit
二兎を追ふ者はいずれをも獲ず。
「lepores」はフランス語の lièvre (兎)の語源。「neutrum」(neuter)は「どちらも...ない」。「capit」は captiver (捕らえる、prendre と同じ意味)の語源。
しかし、出典が書かれていません。
紀元前 1 世紀の古代ローマのプブリリウス・シュルスの格言集に、ラテン語で次のように書かれているとされることもあります(たとえば柳沼 (2003), p.150)。
- Lepores duo qui insequitur, is neutrum capit.
二兎を追う者は一兎をも得ず。
しかし、シュルスの格言集は、中世に写本を通じて伝えられる過程で、シュルス以外のものまでシュルスの本に混じって流布していたという歴史があり、現代的な校訂の基礎を築いたヴェルフリン (1869) は、この「二兎を追う者は一兎をも得ず」を偽と判定しており、最近の F. ド・ラシャペル版 (2011) にも含まれていません。
下って、西暦 1500 年に初版が出たエラスムスの『格言集』 III, iii, 36 (2236) に、ラテン語で次のように書かれているのは確実です。
- Duos insequens lepores neutrum capit.
二匹のうさぎを追うと、一匹もつかまえない。
エラスムスは、15 世紀のギリシア人、ミカエル・アポストリオスの『諺集』を引きながらこの諺を書き記しています。ラルースの諺辞典でも、この諺は「エラスムスが引用したギリシアの諺」として紹介されています(Maloux (2009), p.163、日本語訳は『ラルース世界ことわざ名言辞典』, p.131)。
以上から、このことわざが古代ギリシアまたは古代ローマから存在した証拠はなく、文献で確認されるのは 15 世紀以降ということになります。(2017/1/7加筆)
【由来(フランス語) 】 しかし、エラスムスよりも少し早く、1494 年にドイツ語で出版されたブラント『阿呆船』に、次のようなくだりがあります。
- 世俗と神の両方の
ご機嫌うかがう阿呆者、
二人の主君に仕えれば
仕えていないも同じこと。
何でもござれの職人は
えてして早くだめになる。
犬といっしょに狩に出て、
二兎をいちどに追う者は
一兎も手にはいれられず、
あぶれて帰るが関の山。
尾崎盛景訳『阿呆船』現代思潮社、上巻 p.73 「一八 二君に仕えること」から引用(下線引用者)。聖書に由来する言葉「何人も二人の主君に仕えることはできない」(仏語 Nul ne peut sevir deux maîtres à la fois.)と組み合わされています。
このブラントの『阿呆船』は当時ベストセラーとなり、3 年後の 1497 年にはフランス語訳が出ています。諺に最も関係のある部分だけ、現代の綴りに直して転写し、逐語訳を載せておきます。
- le chasseur qui s'efforce en un même instant d'un chien seulement prendre deux lièvres perd bien sa peine et le plus souvent ne prend rien
一匹の犬だけで同時に二匹のうさぎをつかまえようとする狩人は、骨折り損となり、多くの場合、一匹もつかまえない。
出典:La Nef des fols du monde, Traduction de P. Rivière, G. Balsarin (Lyon), 1499
仏仏辞典では、1690 年のフュルチエールの辞典(lièvre の項目)に「Qui chasse deux lièvres n'en prend pas un」、また 1718 年の『アカデミー辞典』第 2 版(およびそれ以降の版)に「Qui court deux lièvres n'en prend point (aucun)」と書かれています。
しかし、このフランス語の諺は、昔から本や辞書によって語句にばらつきがあり、「二匹のうさぎを追いかけると一匹もつかまえられない」という内容は知られていても、決まり文句としては定着しなかったようです。
古代に由来する、いわば少しエキゾチックな表現として意識されていたような印象を受けます。
むしろフランスでは、この諺から派生したと思われる、簡略化した次の表現のほうがよく使われます。
- Il ne faut pas courir deux lièvres à la fois.
二匹のうさぎを同時に追いかけてはならない。
さらに言えば、次の諺が一番よくよく使われます。
- Qui trop embrasse mal étreint.
抱きかかえすぎる者は、うまく抱きしめない。
【英語の諺】 英語では次のように言います。
- If you run after two hares, you will catch neither.
- If you chase two rabbits, you will lose them both.
- He who runs after two hares will catch neither.
- He that hunts two hares at once will catch neither.
英語で確認される最初の文献も、ブラントの『阿呆船』の英語訳(1509 年の A. Barclay 訳)のようです(『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.688 および同 第 5 版 p.274 による)。この英語訳の該当箇所は Project Gutenberg で閲覧可能。
【日本の諺】 「二兎を追う者は一兎をも得ず」
『岩波 ことわざ辞典』によると、江戸時代には「虻蜂(あぶはち)取らず」という諺が広く使われていたのが、明治時代になって英語の諺からの翻訳として「二兎を追う者は一兎をも得ず」という表現が広まり、これが名訳だったこともあって、「虻蜂取らず」の方は次第に影が薄くなっていったらしい、とのことです。
ちなみに、この諺はフランスよりも日本でのほうが圧倒的に有名なため、インターネットでフランス語で検索すると、間違って「proverbe japonais(日本の諺)」などと書かれている場合もあります。
Qui donne aux pauvres prête à Dieu.
【逐語訳】「貧者に与える者は神に貸す」
【意味】貧者に金銭を恵むことは、善行を積むことになる。
慈善を勧めることわざとして使われます。慈善団体の標語になっていたこともあるようです。
【文法】donner(与える)、prêter(貸す)は、どちらも他動詞ですが、直接目的が省略されています。ここでは「お金を」に相当する de l'argent などの言葉が略されていると考えられます(「de l'」は部分冠詞)。
【由来】旧約聖書『箴言』第19章17節に出てくる次の言葉に由来します。
- 〔新共同訳〕弱者(じゃくしゃ)を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
- 〔文語訳〕貧者(まづしきもの)をあはれむ者はヱホバに貸すなり その施済(ほどこし)はヱホバ償ひたまはん
ただ、主要なフランス語訳聖書にはこのままの形では出てきません。昔の権威あるフランス語訳聖書のサシ訳では次のようになっています。
- Celui qui a pitié du pauvre, prête au Seigneur à intérêt ; et il lui rendra ce qu’il lui aura prêté.
貧者を憐れむ者は、主(しゅ)に利息つきで貸す。主は貸したものを返してくださるだろう。
18世紀頃の聖書の解説書などでは、現在のことわざの形と同じ形で出てくるものもありますが、上のサシ訳聖書に基づき、おおむね「利息つきで」à intérêt という言葉がついて、次のようになっています。
- Qui donne aux pauvres, prête à Dieu à intérêt.
貧者に与える者は、利息つきで神に貸す
しかし、このことわざが現在の形で定着するようになったのは、19世紀前半の詩人ヴィクトル・ユゴーの果たした役割が大きいようです。1837年のユゴーの詩集『内なる声』Les Voix intérieures の第5篇「神はつねにそこにいる」« Dieu est toujours là » の中で出てくるからです。この詩は各行 8 音節で書かれているので、「利息つきで」à intérêt という言葉を入れると大幅に「字余り」になってしまいます。そこで、ユゴーは à intérêt を削って 8 音節とし、それが有名になって定着したのではないかと考えています(事実、19 世紀の本の中には、これを「ユゴーの言葉」としているものさえあります)。
【音楽】1963年の仏語圏ケベックの Willie Lamothe のアルバムに含まれている「ある乞食の祈り」« La prière d'un mendiant » というカントリー調の美しい曲の最後にも、この諺が出てきます(Cf.「Biographies d'artistes Québecois」)。
同じケベックの次の歌手による歌を聴くことができます。
- André Breton (YouTube)
(有名なシュールレアリストと同姓同名の歌手。Cf.「Rétro Jeunesse 60」)- André Barriault (YouTube) ; André Barriault, 2010 (YouTube)
フランス語の歌詞は WikiParoles 等に掲載されています。
ざっと日本語に訳しておきます。
- 私の一生の物語をお聞きください、/そうすればすぐに私が何者なのかがわかります。/隠しても何になりましょう、/私の過去の苦しみや困窮を。
- 私が小さな子供だった頃は/皆さん、あなたがた全員と同じでした。/しかし事故で片腕を失って/生計を立てていけなくなくなりました。
- 母は天国にいます。/父も行方不明です。/両親がおらず、一人だったので/こうして乞食になりました。
- 私は道すがら施しを乞う/哀れな乞食にすぎません。/こうして、ずっと苦しまなければならないのでしょうか。/おお神よ、私が死ぬことをお許しください。
- 私が歌うのを聞いた皆さんは/けっして施しを拒まないでください。/古くからのことわざをご存じでしょう、/貧者に与える者は神に貸す、という。
この最後の部分が Celui qui donne aux pauvres prête à Dieu. となっています。Celui を追加したのは、おそらく歌の調子にあわせて音節数を調整したため。最後の「プレタディユー」という部分のアンシェヌマンが印象的。
Qui dort dîne.
【逐語訳】 「眠る者は食事をしている」
【諺の意味】 「眠っていれば空腹を忘れる」
- 現代では、主にこの意味に受け止められています(Rey/Chantreau、TLFi 、小学館ロベール仏和大辞典、ロワイヤル仏和中辞典その他の仏和辞典等に記載)。
【似ているようで似ていない諺】 日本の諺「寝る子は育つ」が連想されますが、上記の Qui dort dîne. の意味とはだいぶ異なります。
- ただし、昔はフランス語の Qui dort dîne. も「寝る子は育つ」に似た意味で使われていたこともあります(下記【由来】の項目を参照)。
【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「dort」は自動詞 dormir (眠る)の現在(3人称単数)。
「dîne」は自動詞 dîner (夕食をとる、ディナーを食べる)の現在3人称単数。
ただし、昔は dîner は朝食(もう少し時代が下ると「昼食」)をとることを意味し、「夕食をとる」は souper を使いました。
たとえば TLFi には次のような昔の例文が載っています。
- (朝)6時に起きて(午前)9時に dîner し、(夕方)6時に souper して(夜)9時に寝れば、99才まで生きられる(=長生きできる)。
そのため、ここでは単に「食事をする」としておきます。
【由来】 「眠っていれば空腹を忘れる」という考え方自体は、古代ギリシアの喜劇作家メナンドロスに遡ることが可能なようです。メナンドロスの断片に、「眠りは食べる物がない者を養う」と書かれていると、ラルースの諺辞典で指摘されています(Maloux (2009), p.494。Rey/Chantreau, p.327 でも引用)。
中世には、この言葉は宿屋(旅館)の文句として、「眠る(=宿泊する)人は食事もする」のが決まりだ、つまり「素泊まりお断り」という意味で使われていたとする俗説もあります (Cf. Schapira (2000), p.87-88 ; Brunet (2011), p.47 ; Planelles (2014), p.420 等で紹介)。
しかし、おそらく俗説の域を出るものではありません。これは、フランス人にとっても「眠る者は食事をする」というのはやや奇妙な表現なので、その違和感をもとに、誰かがこじつけて考え出したのではないかという気がします。
このことわざは古くから存在したらしく、16世紀のラブレー「第五之書」第5章に「食べる」を「飲む」に変えた形が出てくるので、引用しておきます。
- 「(...)四日の間、ここで、絶えず飲み且つ食っていただきましょうぞ」
「その間、ちっとも眠らぬのですかいな?」とパニュルジュは訊ねた。
「それは皆々様の御自由に」と番蔵師は答えた。「即ち、良く眠る者は良く飲む、でございますからな」
訳は渡辺一夫訳『第五之書 パンタグリュエル物語』(岩波文庫)p.36による。ただし句読点の処理を若干変更しました。2015/8/19追加
また、1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集第1部には Qui dort il souppe.(眠る者は夜食をとっている)と書かれています。ジャン・ル・ボンは当時の著名な医師で、この諺集にも医学(養生訓)的な諺が相当数含まれているので、この諺もその一つだったのかもしれません。
1578年に医師ローラン・ジュベールが刊行した医学的な俗信について書かれた本には、「なぜ人は、特に子供について『眠る者は食事をしている』 Qui dort disne. と言うのだろうか」と書かれています(Laurent Joubert, Erreurs populaires au fait de la medicine et regime de santé, 1578)。
当時、おそらく「寝る子は育つ」に近い意味で使われていたのではないかと推測されます。
1672年のモワザン・ド・ブリウーの表現辞典(p.105)では、胃袋が食べ物でいっぱいになったら少し休んで消化させる必要がある、という医学的な教訓から生まれた諺であると書かれています(Quitard (1842), p.319 でも引用)。
1685年に出版された、あるお姫様の疑問に答える問答集という体裁をとる本の中でも出てきます。お姫様の「なぜ蛇は、特に冬の間は、長い間何も食べないの?」という質問に対する答えとして、寒いと食欲がなくなって眠くなるけれども、「諺にも言うように『眠る者は食事をしている』のですよ」と書かれています(Gédéon Pontier, Les Questions d'une princesse sur divers sujets avec les réponses, p.217)。
以上の文例では、諺の意味は必ずしも明確ではありませんが、17世紀末になると、仏仏辞典や諺辞典において、はっきりと諺が定義されるようになります。
仏仏辞典『アカデミー辞典』では、第 1 版(1694年)から第9版(1992)までほぼ同じ形で収録されており、「眠りは食事の代わりになる」という定義が一貫して採用されています。ただ、「代わりになる」というのがどのような意味なのかは、今ひとつ明確とはいえません。
それに対して、1690年のフュルチエールの辞典では、この諺は次のように明快に定義されています。日本の「寝る子は育つ」に似た意味です。
- 「眠ることは人を太らせる」(disner の項)
- 「食べることと同様、眠ることによっても人は太る」(dormir の項)
この定義は、フュルチエールを引き継いだトレヴーの辞典のほか、De Backer (1710) や P-J. Le Roux (1718)でも踏襲されています。
19世紀のリトレの辞典では、上記のアカデミー辞典とフュルチエール / トレヴーの辞典の定義が踏襲されていると同時に、この諺は「ものぐさを責めるために、『働かないと夢の中でしか食事ができなくなるぞ』という皮肉な意味で、怠け者に対して使われる」(dormir の項)と書かれています。
アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』(1844年)の第8章にも出てきます。どういう場面かというと、昼をすぎて「腹が減ったので、食事にしませんか」と言ってきた従者プランシェに対し、主人公ダルタニャンが「腹が減っているなら寝ていろ」(諺に言うように「寝ていれば空腹がやり過ごせる」のだから、寝て我慢しろ)という意味でこの諺を使っています。生島遼一訳では「ひもじい時は眠るべし」と訳されています(岩波文庫、上巻 p.131)。 2015/8/20加筆
もともと、Qui dort dîne. というのは、少し舌足らずな表現なので、このように色々な意味に受け止められる余地があるといえそうです。
とはいえ、語調に優れており、一度聞いたら忘れることは困難です。
『プチ・ラルース 2013』の「ピンクのページ」にも載っている、有名な諺です。
Qui sème le vent récolte la tempête.
【逐語訳】 「風を蒔(ま)く者は嵐を収穫する」
【諺の意味】 「争いごとの種をまく者は、(その自分が蒔いた種が育って)大きくなった争いごとに巻き込まれ、痛い目にあうことになる」。
仏仏辞典等では次のように定義されています。
- トラブルを巻き起こす者は、自分自身がいっそう大きなトラブルの犠牲になる。不和の種をまく者は、不和が大きくなって自分の身にふりかかることになる。(『アカデミー辞典』第 9 版)
- 暴力に訴える者は、その論理的結果を受けなければならない。(Rey/Chantreau (2003), p.905)
ラルースの諺辞典では、「choc en retour(反動、あおり、揺り返し)」の項目に分類されています(Maloux (2009), p.89)。
【図版】 有名な諺なので、この諺を描いた絵葉書があります。
【フランス語の似た諺】 新約聖書の「ガラテヤ書」に由来する次の諺に似ています。
【由来】 旧約聖書「ホセア書」(Osée)第 8 章 7 節に由来します。フランシスコ会訳では次のようになっています。
- 彼らは風を蒔き、嵐を刈り入れる。
麦には穂がなく、麦粉もできない。
できても、他国の者がそれを食べ尽くす。
新共同訳では、「彼らは風の中で蒔き/嵐の中で刈り取る」(下線引用者)となっていますが、「風の中で」、「嵐の中で」とするのは新共同訳の特殊な解釈であり、通常は「風を」、「嵐を」と理解されているようです。文語訳でも「かれらは風をまきて狂風(はやち)をかりとらん」となっています。各種フランス語訳聖書を比較対照できる La Référence Biblique djep で検索しても、すべて「風」や「嵐」は直接目的語になっています。
フランス語訳聖書の中で歴史的に最も影響力の強いサシ訳では、次のようになっています。
このように、「収穫する」という言葉に moissonner を使っています。もともと récolter という単語は 18 世紀以降にできた「新語」(リトレ)であり、それ以前は「収穫する」という意味では moissonner や recueillir などが使われていたようです。
この聖書の言葉は、キリスト教関係の本ではかなり前から確認されますが、キリスト教の文脈を離れて諺として使われるようになったのは、それほど昔ではなさそうです。
『アカデミー辞典』では、第 4 版(1762)までは載っておらず、第 5 版(1798)になって初めて次の形で収録されるようになります(moissonner の項)。
- Celui qui sème le vent moissonnera la tempête.
第 8 版(1932-1935)以降は、これと並んで「Qui sème le vent récolte la tempête.」という表題の形も併録されるようになり、むしろこちらの言い方のほうがよく使われる、と記載されています。
【英語】 同じ聖書に由来する、似たよう表現があります。
- They that sow the wind shall reap the whirlwind.
- Sow the wind and reap the whirlwind.
Qui se ressemble s'assemble.
【逐語訳】 「似た者は集まる」
(類は友を呼ぶ)
【諺のイメージ】 ラルースの諺辞典では Fréquentation (つきあい)という項目に分類されています(Maloux (2009), p.220)。
どちらかというと、悪者同士が集まるという意味で使われることが多いようです(Academie 6-8e ; Littré ; Larousse XIXe ; TLFi ; Brunet (2011), p.118 による)。
ただし、特に悪いイメージを伴わずに使われることもあります。
【由来】 古代ギリシア・ローマ時代から存在します。
有名なところを 4 つほど挙げてみます(下線引用者)。
ホメロス『オデュッセイア』(紀元前 8 世紀末頃):
- いやはや、卑しい奴が卑しい奴を連れてゆくぞ。相変わらず神様は似たもの同士を合せられるのだな。おい、可愛げのない豚飼よ、その豚野郎を何処へ連れてゆく。
訳は松平千秋訳、岩波文庫、下巻、p.129 による(第 17 歌)。ここで「豚野郎」呼ばわりされているのは、わけあって乞食の格好をした英雄オデュッセウスのこと。各種の諺辞典では、これが最初に挙げられています。
プラトン『饗宴』(紀元前 4 世紀前半):
- この老齢を、愛の神(エロース)は、性、うとんじ、(...)若さを友となし、若さとともに過すのです。けだし、昔(いにしえ)のかの言や、またよし、曰く - « 相似たるもの、常に相近づく » と。
訳は森進一訳、新潮文庫、p.75による(195 B)。岩波文庫では p.89。
アリストテレス『弁論術』(紀元前 4 世紀):
- 同類のものや類似したものはすべて、一般に快い。例えば、人間は人間にとり、馬は馬にとり、若者は若者にとり、快いというふうに。こういうところから、「同年輩の者同志は悦び」とか、「似たものは常に似たものと」とか、「獣は獣を識る」とか、「鳥は鳥と連れだつ」というような諺や、その他この種のことが口にされているのである。
訳は戸塚七郎訳、岩波文庫、p.121(1371b)による。
キケロー『老年について』(紀元前 44 年):
- 古い諺にもあるように、似た者同士はややもすれば集まるものだが、わしも同年輩の集まりの席で、しばしば繰り言を耳にした。
訳は中務哲郎訳、岩波文庫、p.15 による(第3章冒頭)。
ルネッサンス期のエラスムスの『格言集』 I, ii, 20 (120) ~ I, ii, 24 (124) では、以上を含むギリシア語・ラテン語の似たような文が多数引用されています。
フランス語では、この諺は意外にもそれほど古くはなく、18 世紀頃から次の形で確認されるようです。
- Ceux qui se ressemblent se rassemblent. または
- Qui se ressemble se rassemble.
このほうが ressemble(nt) と rassemble(nt) の発音が類似しているので、韻を踏むと言う点では優れています。ただし、少し長たらしいので、簡潔化することが優先され、 se rassemble(nt) は同じ意味の s'assemble に変わったといえそうです(Brunet (2011), p.117)。
仏仏辞典『アカデミー辞典』では第 5 版(1798)以降に収録されています。
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」。
「celui qui」で「...な人は」。
「se」は再帰代名詞で、ここでは「相互的」の意味で「互いに」。しかし日本語としては、ここでは「互いに」は省いてもあまり変わらない気がします。
この「相互的」の意味の場合は、主語は複数になるのが普通です。そのため、(現代の感覚からすると諺ではなくなってしまいますが)主語を複数形にして次のように言うこともできます。
- Ceux qui se ressemblent s'assemblent.
互いに似る人々は集まる。
しかし、先行詞を省略して qui だけで celui qui の意味にする場合は、動詞は単数形を使うのが決まりです。
内容的には複数の人が集まるはずなのに、単数形が使われているのは、たしかに奇妙に映ります(Brunet (2011), p.117 で指摘)。しかし、こうした文法的な制約があるので、仕方がないところです。
「ressemble」は ressembler(似ている)の現在3人称単数。この動詞は、
ressembler à ~ 「~に似ている」
という使い方をします(前置詞 à とセットで使う間接他動詞)。
ここでは、「前置詞 à + 人」は、代名詞に置き換わると間接目的一語になり、 à は消えるという規則により、「à ~」(~に)の部分が「se」(互いに)に置き換わっています。つまり、この「se」は間接目的です。
「assemble」は他動詞 assembler(集める)の現在3人称単数。
この前に再帰代名詞「s'」(母音の前で e がアポストロフに置き換わった形)がつくことで、自動詞的な意味に変換され、「集まる」となります。この「se」は直接目的です。
【反対の諺】 「反対同士は引きつけあう」という、磁石の N 極と S 極を思わせる諺は、フランス語で次のように言います。
- Les contraires s'attirent.
- Les opposés s'attirent.
「contraire」は「反対の」という意味の形容詞に冠詞がついて名詞化したもので、「反対のもの」。
「opposé」は他動詞 opposer(対立〔対置〕させる)の過去分詞 opposé(対立〔対置〕させられた)が、やはり形容詞に冠詞がついて名詞化したもので、「対立〔対置〕させられたもの」、つまりこちらも「反対のもの」という意味になります。
この 2 つは、本項目の Qui se ressemble s'assemble. とは正反対の意味の諺なので、よく両者が対比されます。
【英語の諺】 英語では次のように言います。
- Like will to like.
「like」はどちらも名詞で「似たもの」。
【日本の諺】 「類は友を呼ぶ」
- 時田 (2000), p.638 によると、『易経』に由来する「類を以って聚(あつ)まる」は『太平記』にも確認され、「よく用いられてきたが、悪党の方が群れやすいのであろうか、用例は多く悪人の集まりについて言っている。(...)現代では、江戸時代に派生した「類は友を呼ぶ」という同義の言い回しの方が、<悪>の響きが感じられないためであろうか、善悪の区別なくよく用いられている」。
夫婦について言う場合は、「似たもの夫婦」。
【図版】 絵葉書のページを参照。
Qui s'excuse s'accuse.
【逐語訳】 「言い訳をする人は自分を告発している」
【意味と使い方】 仏和辞典等に書かれている通りです。
- 「言い訳するのはやましい証拠」(ディコ、プログレッシブなど)
- 「弁解するのはやましい証拠」(『ロワイヤル仏和中辞典』)
- 「言い訳をするのはうしろ暗いところがある証拠だ」(『改訳 フランス語の成句』 p.79)
- 「あまりつべこべ弁解して潔白を証明しようとするもののほうが臭い」(田辺『ふらんすの故事と諺』 p.195)
つまり、「弁解すると、かえって怪しいと思われる(犯人ではないかと疑われる)」という意味です。
言いかえれば、「無実な人はしつこく自分を正当化しようとしてはならない」(Dournon (1986), p.138)。
逆に言えば、たとえ実際には犯人であっても、堂々としていたほうが疑われないで済む、ということになります。
「この諺は、大胆不敵な、厚かましい態度をとるようにと犯人に勧める。政治家はこの諺を金科玉条としているように思われる」と、ロベールの表現辞典には書かれています (Rey/Chantreau, p.387)。
【日本の諺】 少々卑近な例では、次のような諺があります。
- 屁(へ)は言いだしっ屁(ぺ)
こっそりしたつもりでも、むしろ黙っていたほうが不自然なほど匂ってきたとき、「私じゃないよ」と弁解すればするほど怪しまれる、という意味のようです(Cf. 並松 (1986), p.405)。
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「excuse」は他動詞 excuser (許す)の現在3人称単数。
次の表現で頻繁に使われます。
- Excusez-moi.
逐語訳すると「私を許せ」。英語の Excuse me. に相当します。
「-moi」については「文法編」の説明を参照。
excuser は、「許す」のほかに「(人を)弁護する、かばう」という意味もあります(一見するとこの意味が載っていない辞書でも、よく見るとこの意味で解釈可能な例文が載っているはずです)。
その直前の「s'」は再帰代名詞で、「excuse」の直接目的になっているので「自分を」。「自分を弁護する、自分をかばう」というところから、「s'excuse」で「言い訳をする、弁解する」という意味になります。
「accuse」は他動詞 accuser (告発する、告訴する)の現在3人称単数。
「s'」は「自分を」。「s'accuse」で「自分を告発する」となります。
「excuse」と「accuse」が韻を踏んでおり、非常に語調がよくなっています。
【由来(ラテン語)】 ウルガータ(ラテン語聖書)を作った聖ヒエロニムス(340年頃 - 420年)のものとされる書簡に見える、次のラテン語に由来するとされています(『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.234、Maloux (2009), p.174 による)。
- dum excusare credis, accusas
あなたが許していると思っているとき、あなたは訴えている
これは Migne版 PL全集第30巻の書簡 4 (p.60 下から12行目)で確認可能です。
岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』では、「dum excusare velis, accusas. 汝が宥さんと欲するとき、汝は訴ふ」となっています。
【由来(フランス語)】 フランス語で最初に確認されるのは、1450 年頃のアルヌール・グレバン『受難の聖史劇』のようです(Rey/Chantreau, p.387 で指摘)。
その 30772-5 行目に次のように出てきます(強調引用者)。
- car quand meschant homme s'excuse
et en e'excusant il s'accuse
c'est petite excusacion
bien digne de pugnicion
なぜなら、悪人が弁解をする時、
そして弁解をすることによって自分を告発している時、
その小さな弁解は
罰するに値するものだからだ
Arnould Greban, Le mystère de la passion, éd. Paris/Raynaud (1878), p.403
1557 年のボヴェルの諺の本 p.14 には、次のように書かれています。
- Tel s'excuse, qui s'accuse.
古めかしい表現ですが、意味は同じです。
1568 年のムーリエ『金言宝典』(1581 年版 p.223)でも同じ形で収録されています(Le Roux de Lincy (1859) で引用)。
しかしその後、あまり使われなくなり、19 世紀になって、またよく使われるようになったようです。
例えば、スタンダールの小説『赤と黒』(1830)第 64 章で、言い訳ばかりする恋人マチルドに対して主人公の「私」がかえって怪しく思い、この諺を連想する場面が出てきます。
仏仏辞典『アカデミーフランセーズ辞典』では、第 1 版(1694)~第 8 版(1932-1935)には収録されておらず、最新の第 9 版(1992)にのみ収録されています。
【英語の諺】 この諺は、フランス語から英語にも入っています。
英語の諺の初出は、1611年のコットグレーヴの仏英辞典のようです(『オックスフォード諺辞典』第 5 版 p.104 による)。その excuser の項目に、上の【由来】で取り上げたボヴェル(1557)やムーリエ(1568)と同じフランス語が掲載されており、これが(あまり諺らしくなく)単に英語に訳されています。
現代の英語では、次のように言います。
- He who excuses himself, accuses himself.
- He who excuses, accuses himself.
上が『オックスフォード英語諺辞典』第3版の形、下が同 第5版の形。
特に上の形は、いかにもフランス語からの逐語訳という感じがします。
さらに英語では「フランス語にこういう諺がある」と前置きして使われることもあり、少なくとも一部の英語圏の人にとっては、これはフランス語の諺だと意識されているようです。
たとえば、『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.1423 では、次のようにフランス語のまま掲載されています。
- Qui s'excuse s'accuse. (Fr.)言い訳する人はその人自身の罪を認めている。即ち、弁解するのはうしろ暗い証拠、という意味の諺。
Qui s'y frotte s'y pique.
【逐語訳】 「手出しをする者は刺される」
【諺の意味】 「危険を冒す者は後悔する」(『プチ・ラルース 2013』)。
手出しをするのは、やめておいたほうがいいぞ、と「誰かに警告するために使われる」(『アカデミー辞典』第9版)ことが多いようです。
【似た諺】 「触らぬ神にたたりなし」、「君子危うきに近寄らず」
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「y」は中性代名詞で「それに」。
「frotte」は他動詞frotter(こする)の現在3人称単数。
再帰代名詞 se と組み合わさると、se frotter で「自分をこする」。他の物をこする(例えばマッチを擦る)のではなく、「自分の体(の一部)をこする、こすりつける」。言い換えれば「強めに動かして触る」ということなので、ほとんど「触る」と同じだとすると、「それに触る者は」と訳すこともできそうです。
ただし、辞書をよく見ると書いてあるように、「手出しをする」(ちょっかいを出す)などの比喩的な意味もあります(この意味は昔から存在し、例えば1611年のCotgrave仏英辞典にも書かれています)。
ちょうど日本語の「手出しをする」というのも、「手を出す」という即物的な意味に基づく比喩的な意味として使われるので、この訳語がぴったりな感じがします。
前半を直訳すると「それに手出しをする者は」。
「pique」は他動詞 piquer(刺す)の現在3人称単数。
再帰代名詞 se と組み合わさると、se piquer で「自分を刺す」。受身的に「刺される」という感じです。
その直前の「y」はさきほどと同様、「それに」。
後半を直訳すると「それに刺される」。
【由来】 もとは、歴代のオルレアン公、フランス王ルイ11世、ロレーヌ公ルネ2世、ルイ12世(シャルル・ドルレアンの息子)などがモットーにしていた言葉です。
モットー(devise)とは、紋章に添える座右の銘のことで、昔は座右の銘と組み合わせる図柄も含めたものを指したようです。
先祖代々受け継がれる家紋(盾の紋章)とは異なり、モットーは各個人が自分の好きな言葉を選ぶことができました。
もともと歴代のオルレアン公(ducs d'Orléans)は、ヤマアラシ(porc-épic, 敵に襲われると針を突き刺す動物)の図柄と組み合わせて、次のラテン語をモットーとしていました。
- non inultus premor
罰〔または報復〕を受けずに私に触ることはできない
百年戦争(1337-1453)後まもなく即位し、フランス国土の統一に腐心していたルイ11世(在位1461-1483)も、いばらの束(fagot d'épines)の図柄と組み合わせ、この言葉をモットーに採用しました。
1477年、このルイ11世の最大の強敵だったブルゴーニュ公のシャルル豪胆公(le duc de Bourgogne Charles le Téméraire)がロレーヌ地方(現在の独仏国境近く)に攻め入りますが、その地を治めていたロレーヌ公ルネ2世(le duc de Lorraine René II)がナンシーの戦い(Bataille de Nancy)で豪胆公を破り、豪胆公は戦死します。勝って独立を守ったルネ2世は、ルイ11世のモットーを受け継ぎ、Ne me touche pas, je pique. (私に触るな、刺すぞ)と訳しました。
この勝利を記念し、ロレーヌ地方の中心都市だったナンシー市は、上記のラテン語 non inultus premor とそのフランス語訳(意訳)である Qui s'y frotte s'y pique. を市のモットーに採用することをロレーヌ公から許可され、現在に至るまで刺(とげ)のある植物の薊(あざみ、chardon)が市の紋章となっています(Cf. Roig (2007), p.64)。
このように、Qui s'y frotte s'y pique. は特定の王侯または市のモットーとして使われていたのが、19世紀初頭になって初めて諺として一般に使用されるようになったようです(Rey/Chantreau, p.448 による)。
実際、仏仏辞典『アカデミー辞典』では、第5版(1798)にもこの言葉は載っていますが、porc-épic(ヤマアラシ)の項目にルイ12世のモットーとして記載されているのみで、諺としては記載されていません。
ところが、第6版(1835)以降では、きちんと諺として収録されています。
【図版】 この諺を描いた絵葉書を見ると、イメージをつかむことができます。
ミシュランの「タイヤのイラスト劇場」でも、この諺が登場します。
Qui trop embrasse mal étreint.
【逐語訳】 「抱きかかえすぎる者は、うまく抱きしめない」
【諺の意味】 一度に多くのことに着手する人は、何一つ成功させることができない。
あれもこれもと欲張りすぎると、すべてを失ってしまう。
「多くの人と付き合いすぎる人は、友情も愛情も稀薄になってしまうという意もある」(『現代ことわざ辞典』 p.180)。
【似た諺】 「虻蜂取らず」、「二兎を追う者は一兎をも得ず」。
フランス語だと、
Il ne faut pas courir deux lièvres à la fois.
Qui court deux lièvres à la fois n'en prend aucun.
【諺のイメージ】 一度に多くのものを運ぼうとして落としてしまう、という絵が、17 世紀の版画にも、19世紀の挿絵にも、現代の絵葉書にも描かれています。
【単語の意味と文法】 「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「trop」は副詞で「あまりにも、...しすぎる」〔英語 too 〕。
「embrasse」は他動詞 embrasser の現在 3人称単数。もともと「中に」を意味する接頭語「em」と、「腕」を意味する男性名詞「bras」がくっついてできた言葉なので、もともと「腕の中に抱く」というような意味です。現代では、会話では「キスをする」という意味で使われるのが普通ですが、キスをせずに腕の中に「抱擁する、抱きかかえる」だけのこともあります。
また、昔(この諺ができた当時)は、「(物事を)企てる、着手する」( = entreprendre)という意味でも使用されていました(現在でも文章語で使用)。そのため、「Qui trop embrasse」は「多くのことを企てすぎる者は」という意味にも理解できます。
「mal」は副詞で、「悪く」または「良く...ない、うまく...ない」(= ne pas bien)。
「étreint」は他動詞 étreindre (抱き締める、締めつける)の現在 3人称単数。 peindre (絵を描く)と同じ活用をする不規則動詞です。
embrasser も étreindre も他動詞ですが、直接目的が省略されています。
この諺は少し語順が古めかしく、通常の語順に直すと次のようになります。
- Qui embrasse trop étreint mal.
このように、副詞は単純時制の場合は動詞の直後に置くのが一般的です。
【発音】 「trop」の p の後ろでリエゾンします。特に、諺や改まった文の朗読などでは、beaucoup と trop の後ろではリエゾンをします。
ラルースの仏英辞典で embeasser を引き、2 の意味の例文として挙げられているこの諺上の単語をクリックし、出てきたスピーカーのマークをクリックすると、発音を聞くことができます。
【由来】 14世紀前半(1337頃?)のルノー・ド・ルーアンの『メリベとプリュダンス』に、次のように書かれています。
- Qui trop embrasse, pou estraint.
1392年の『パリの家事』(1846 年版 p.203 (Internet Archive) から引用。リトレで言及。なお、これとまったく同じフランス語は、15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°683)にも記載されています(Morawski, N°2175 にも収録)。
このルノー・ド・ルーアンの『メリベとプリュダンス』は、14世紀後半にイギリスのチョーサー(1343?-1400)が英訳し、『カンタベリー物語』に組み込んで「メリベ(メリベウス)の物語」としていますが、この中で次のように英語に訳されています。
- He that to muche embraceth, distreyneth litel.
桝井迪夫訳『完訳カンタベリー物語』(中)岩波文庫p.396に出てきます。
これは中世英語ですが、現代の英語の諺 Grasp all, lose all. (すべてを摑めば、すべてを失う)よりも、むしろフランス語の諺に似ています。チョーサーが忠実に英訳していることがわかります。
16 世紀のラブレーでは『ガルガンチュワ』第 46 章に次のように出てきます。
- これは望みが大きすぎるな。(とグラングゥジエは言った。)二兎を追う者は一兎をも得られぬものじゃ。 (渡辺一夫訳)
原文は「Qui trop embrasse peu estrainct (étreint の古い綴り)」となっています。
1557 年のシャルル・ド・ボヴェルの諺集(fol. 30)でも、「非常によく使われる有名な言葉」だと書かれています。
17 世紀中頃の J. ラニエの版画では、この諺がわかりやすくイメージ化されています。
【言葉遊び 1 】 19世紀の小説家バルザックの手帳には、この諺をもじった次のような言葉が書きとめられています(発音はほとんど同じです)。
- Qui trop embrasse a mal aux reins.
抱きかかえすぎる者は、腰を痛める。
【言葉遊び 2 】 embrasser という単語は、やはりフランス人の間では「キスをする」というイメージが強いようで、「キスをしすぎる者は...」という意味を思い浮かべてしまうようです。
この諺の後半をもじった、次のような表現があります。
- Qui trop embrasse manque le train.
(キスをしすぎる者は列車を逃がす)
manquer は自動詞だと「欠けている」ですが、ここでは他動詞で「(列車やチャンスなどを)逃がす」。「train」は男性名詞で「列車」。
「プラットホームで夢中になってお別れのキスをしていると、電車に乗りそこなう」という意味です。
昔から有名だったようで、この言葉が書かれた昔の絵葉書があります。
Qui va à la chasse perd sa place.
【訳】「狩に行く者は席を失う」
【諺の意味】「留守をすると居場所を取られる」(『小学館ロベール仏和大辞典』 chasseの項)。
職場で使うなら、「勝手に勤めを離れる者は職を奪われる」(『ディコ仏和辞典』)。
「自発的に離れたのち、他人によって占められてしまった席(比喩的に役職、状況など)を再度要求する人を、からかうために使われる」(Rey/Chantreau, p.727)こともあります。
【使用例】この諺を題材にした19世紀の挿絵では、コンサート会場などでトイレに行ったすきに席を取られている絵が描かれています。
この諺を題材にした絵葉書では、狩に行ったすきに妻を寝取られている絵が描かれています。
【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「va」は自動詞 aller(行く)の現在3人称単数。
「à」は前置詞で「~に」。
「chasse」は女性名詞で「狩」。
「perd」は他動詞 perdre(失う)の現在3人称単数。
「sa」は所有形容詞。ここでは、省略されている「celui (...な人)」を指すので、訳す場合は「自分の」とするとぴったりきます。
「place」は女性名詞で「場所、場、席、立場、地位」などの意味があり、どのような状況でこの諺を使うかによって、どの意味にもなります。
とりあえず「席」としておきます。
一番逐語訳に近づけると、「狩に行く者は、自分の席を失う」。
【起源】この諺の起源については、主に2つの説があるようです。
一つは、旧約聖書『創世記』第27章の次の話に由来するという説です。
- イサクは、年をとって目が見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せ、獲物を獲ってくるように頼み、その料理を食べたら、跡継ぎとして祝福するつもりだと告げた。それを耳にした双子の弟のヤコブは、兄が獲物を探しに行って留守にしている間に、兄のふりをして料理を差し出し、まんまと跡継ぎとして祝福を受けてしまった。
エサウは長男だったのに、狩に出かけたすきに跡継ぎとしての地位を失ってしまった、という話に由来する、というわけです。
もう一つ、ポーム競技に由来するという説もあります。
ポーム競技では、ボールが地面で2回バウンドすることを「シャス」と呼び、その場合は競技者はサーブ権を失い、場所を交代するというルールになっているようです。
「シャス」をすると有利な「立場を失う」というところから生まれた、というわけです(フランステニス連盟傘下のフランス短距離ポーム委員会の HP などに記載)。
- ちなみに、ポーム競技(jeu de paume、ジュ・ド・ポーム)は、フランスで中世から行われていた球技で、15世紀に百年戦争でイギリスに捕えられたオルレアン公がイギリスに持ち込み、これがテニスの起源となったようです。パリでも至る所にポーム競技用の球戯場が作られ、ヴェルサイユ宮殿に設けられた球戯場では、フランス革命の発端となった「テニスコートの誓い」と呼ばれる事件が起きましたが、これはフランス語で Serment du Jeu de paume といいます。直訳すると「ポーム競技場の誓い」です。
しかし、どちらの説も、この諺が古くは違う形だったことを無視しており、現在標準的となっている形の字づらにとらわれた、牽強附会の(つまり「こじつけ」た)俗説だといえる気がします。
これについて以下で考察してみます。(以下 2014/11/20 一部加筆)
- なお、次の項目で引用する1629年の使用例を見ると、このことわざがポーム競技に由来する可能性は高く、結果的に上の二番目の説は正しいといえるかもしれません。
【由来】古くは、次の形だったようです。
- Qui quitte la partie la perd.
試合を離れる者は負ける(勝負を投げる者は負ける)。
「partie」は「試合」または「勝負」。
この表現は、少なくとも17世紀初めから確認されます。
例えば1629年に刊行されたある人の書簡集では、妻がヒステリーを起こして困っている友人に宛てた手紙の中で、次のようなアドバイスが書かれています。
- 雷を告げる稲妻を見たら急いで避難する人々のようにしなさい。あなたの奥さんの機嫌が悪くなり始めたら、すぐに逃げなさい。ポーム競技では、試合を離れる者は負ける。ところが、この件に関しては勝つのです。
出典:Sallard, Lettres meslées, 1629, p.387 (手紙を書いたサラールという人については、1591年頃にPoitiersで生まれたこと以外はほとんど知られていません)
ここから、この諺はポーム競技で使われていた表現だったことがわかります。
1690年の仏仏辞典 Furetière では、同じ諺について次のように解説されています。
- 競技(jeu)から離れるときだけでなく、宮廷、職場、利点の多い仕事から立ち去るときにも使われる
「jeu」には「遊び、ゲーム、競技、競技場、賭け」など色々な意味がありますが、ポーム競技の「競技(場)」の可能性が高いかもしれません。
ついで、同じ17世紀には次の形も登場します。
- Qui quitte sa place la perd.
席を離れる者は席を失う。
1640年刊のウーダンの諺集『フランス奇言集』には次のように書かれています。
- Il est aujourd'huy Saint Lambert, qui sort de sa place il la pert
cela se dit en se mettant à la place d'un qui se leve de dessus sa chaire, vulg.
今日は聖ランベールの日。席を去る者は席を失う。
これは、椅子から立ち上がった人の代わりに腰かけるときに言う。俗語
出典:Antoine Oudin, Curiositez françoises, 1640, p.494
「聖ランベールの日」とは9月17日を指します。毎年この時期になると、夏の農作業の大変な時期は終わっているので、日雇いで働く季節労働者は、いったん仕事をやめると二度と職にありつけなくなる、という意味だとする説もあります(Bidault de l'Isle (1952), t.2, p.44 ; Pierron (2000) p.133)。しかし、この日付には深い意味はなく、「失う」という意味の pert(ペール)と語呂を合わせるために「ランベール」と言っているだけだとする説もあります(Littré)。ちなみに、1690年のフュルチエールの辞典(perdreの項)にもほぼ同じ言葉が記載されています。
【子供の遊び】この表現は、子供の遊びで広まったらしく、2世紀以上経った19世紀に民俗誌的な観点からフランス各地の表現を集めた雑誌にも、ほぼ同じ次のような表現が収録されています。
- セーヌ県
C'est aujourd'hui la saint Lambert
Qui quitte sa place la perd.
— C'est aujourd'hui la saint Laurent
Qui quitte sa place la reprend.
今日は聖ランベールの日。
席を離れる者は席を失う。
今日は聖ローランの日。
席を離れる者は席を取り戻す。
3行目冒頭のマイナスのような記号は「ティレ」(tiret)と呼ばれ、会話の主体の交代を意味します。つまり最初の2行のせりふを誰かが言ったら、それを受けて他の人が次の2行のせりふを口にするわけです。「聖ローランの日」は8月10日。ここも「reprend」(取り戻す)と語呂を合わせるために「Laurent」が選ばれています。これとまったく同じ表現は、19世紀の仏仏辞典リトレにも取り上げられています。- オルレアン(ロワール地方)
Qui va à la chasse perd sa place.
Qui revient trouve un chien.
狩に行く者は席を失う。
戻ってくる者は、犬を見つける。
以上の出典:Mélusine, Vol. 1, 1878, p.52. (民俗学者アンリ・ゲド Henri Gaidoz が創設した雑誌)
ここで現在標準となっている Qui va à la chasse perd sa place. という形が出てきましたが、この形は19世紀に広まったらしく、1856年のシャルル・カイエの諺集が最初期の用例の一つです。
【音の偶然によって生まれた諺】このように、この諺は古くは「試合を離れる者は負ける」または「席を離れる者は席を失う」という形であり、「狩」という要素が入ってきたのは、ごく最近(ざっと19世紀以降)のことです。
それでは、なぜ「狩に行く者は席を失う」と言われるようになったかというと、chasse(狩)という単語は place(席)という単語と音が似ており(どちらも「アス」という音を含む)、語調が非常によいからだと思われます。
上に見たように、この諺は「わらべ歌」のような形で口承で広まったようであり、誰か(わらべ歌の作者を含む)が偶然 chasse(狩)という言葉を使って言ったところ、これがとても語調がよかったので、この形が急速に広まったのではないかと想像されます。
つまり、この現代の諺は、音の偶然によって生まれたといえるのではないかと思います。
だとするなら、「なぜ『狩』なのか」を追求することは、あまり意味のあることではないことになります。
しかし逆に、音の偶然によって意味が決まったものであるがゆえに、「狩」であることの必然性に乏しく、そのために「なぜ『狩』なのか」という疑問が人々の間で湧いてきて、上に挙げたような 2 つの俗説を誘発することになったといえるのではないでしょうか。
ちなみに、フランス北部では次のような形で言われるそうです(Rey/Chantr., p.727 等による)。
- Qui va à la ducasse perd sa place.
村祭に行く者は席を失う。
ducasse(デュカス)とは、フランス北部・ベルギーの守護聖人祭(村祭)のことで、やはり「アス」という音を含み、place(席)と韻を踏んでいます。
【諺の続きについて】現代でも、この諺の続きには色々なバージョンがあります。代表的なものを挙げておきます。
- Qui va à la chasse perd sa place,
qui va à la pêche, la repêche.
狩に行く者は席を失う。
釣りに行く者は再び釣り上げる(=取り戻す)。
pêche(釣り)と語呂を合わせるために repêcher(再び釣り上げる)という言葉を使っていますが、「(拾い上げて)取り戻す」というような意味。- Qui va à la chasse perd sa place,
qui va à la montagne, la regagne.
狩に行く者は席を失う。
山に行く者は再び手に入れる。
こちらも montagne(山)と語呂を合わせるために regagner(再び手に入れる)という言葉を使っています。
他にも沢山ありますが、いずれも語呂がよいのが特徴で、口承によって伝えられ、色々な表現が生まれたようです。
Qui va doucement va sûrement.
【逐語訳】「ゆっくり行く者は確実に行く」
【日本の諺】「急がばまわれ」、「せいては事を仕損じる」
【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「va」は自動詞 aller(行く)の現在3人称単数。
「doucement」は副詞で「静かに、ゆっくりと」。aller doucementで「ゆっくり行く」。
doucement は lentement と同じ意味なので、次のように言うこともよくあります。
- Qui va lentement va sûrement.
ゆっくり行く者は確実に行く。
「sûrement」は副詞で「確実に」(または「安全に」)。
【由来とバリエーション】この諺は、古くは1568年のガブリエル・ムーリエ『金言宝典』 (1581年版 p.170)に収録されています(Le Roux de Lincy (1842), t.2, p.312で引用)。
しかし、もとは次のイタリア語の諺のようです(Quitard (1842), p.584 ; Rey/Chantreau, p.710 ; Le Petit Larousse illustré 2013 等による)。
- Chi va piano va sano.
イタリア語の「Chi」はフランス語の Qui と同じ。「va」は andare(行く)の現在3人称単数(フランス語とまったく同じ形)。「piano」は副詞で「ゆっくりと」(ちなみに、音楽だと「フォルテ(強く)」の反対が「ピアノ(弱く)」で、「ピアニッシモ」だと「とても弱く」)。「sano」は形容詞で「健康な、堅実な」(ここでは副詞的に使用)。
「行く」の現在3人称単数が、たまたまイタリア語とフランス語でまったく同じ形になることもあって、このイタリア語はフランス人には馴染みやすく、イタリア語のままでもよく使われます。
『プチ・ラルース2013』の「ピンクのページ」でも、外国語のまま使われる表現のリストの中に、このイタリア語が記載されており、そのフランス語訳として表題の形が載っています。
ちなみに、すでに1610年のグルテルス『詞華選』には、
「イタリアの諺」の部(p.141)に Chi va piano va sano.
「フランスの諺」の部(p.248)に Qui va doucement va sûrement.
が載っています。
フランスでは、イタリア語の Chi をフランス語風に Qui に変えただけの次の形もよく使われます。
- Qui va piano va sano.
こうすれば、「sano」以外はフランス語にも存在する単語になります。
また、イタリア語の「sano」の逐語訳として「sainement」を使うこともあります。
- Qui va doucement va sainement.
以上の諺は、次のように言葉を続けて言うこともあります。
- Chi va piano va sano e va lontano. (伊)
- Qui va doucement va sûrement et va loin. (仏)
ゆっくり行く者は確実に行き、また遠くへ行く。
イタリア語の「e」はフランス語の et と同じ。「lontano」は副詞で「遠くへ」。小学館『伊和中辞典』第2版にはこの形で掲載されています。
または次のように重文にすることもあります。
- Chi va piano va sano, chi va sano va lontano. (伊)
- Qui va doucement va sûrement, qui va sûrement va loin. (仏)
ゆっくり行く者は確実に行き、確実に行く者は遠くへ行く。
城山三郎の『静かに健やかに遠くまで』という本の題名はこのイタリア語に由来するそうです。たしかに「piano」は「ゆっくり」の他に「静かに」という意味もあり、また「sano」は「確実な」のほかに「健康な、健やかな」という意味もあります。
この最初と最後をくっつけて縮めた次のような表現もよく使われます。
- Chi va piano va lontano. (伊)
- Qui va doucement va loin. (仏)
ゆっくり行く者は遠くへ行く。
その他、距離的に「遠く」の代わりに、時間的に「長く」として次のように言う場合もあります(持続した感じが出ます)。
- Qui va doucement va longtemps.
ゆっくり行く者は長く行く。
これは、イタリア語の lontano(遠くに)がフランス語の longtemps(長く)に発音が似ていることによる混同ではないかという気もします。
【図版】 この諺を描いた絵葉書があります。
【英語の諺】「急がば回れ」に類する諺はいくつかありますが、ここで取り上げた表現に一番近いのは、次の諺です。
- Fair and softly goes far.
「まあまあそう早まらずに」は遠くまで行く。
日本語訳は大塚・高瀬(1995)による。Fair も softly も副詞なのに、「Fair and softly」全体が主語になっています。ちなみに、1670年のイギリスのジョン・レイの諺集(初版 p.87)では、これに in a day.(一日で)という言葉がついた Fair and softly goes far in a day. という形で載っており、上記とほぼ同じイタリア語の諺が説明の中で取り上げられています。
【似た諺】 本ホームページで取り上げた中では、次の諺が類似しています。
Qui veut noyer son chien l'accuse de la rage.
【逐語訳】「飼い犬を溺れさせたい人は、その犬が狂犬病だと言って非難する」
【諺の意味】「誰かを厄介払いしたい(クビにしたい)ときは、何とでも理由(言いがかり)はつけられるものだ(口実は簡単に見つかるものだ)」
『フランス故事ことわざ辞典』(p.322)には次のように解説されています。
- 「昔は犬を殺すとき、首へ大きな石をつけて川へ投げこむのが定法であったので、この諺になった。この諺は嫉妬心から他人の仕事にケチをつける場合にもつかう。
【参考】『理屈と膏薬はどこへでもつく』」
【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「veut」は vouloir(~したい)の現在3人称単数。
「noyer」は他動詞で「溺れさせる」。
「son (彼の)」は省略されている「celui」を指します。「彼の」というより「自分の」と訳したほうがぴったりきます。
「chien」は男性名詞で「犬」。「son chien」で「自分の犬」ですが、要するに「(自分が)飼っている犬」「飼い犬」。
「accuse」は他動詞 accuser(非難する)の現在3人称単数。
この動詞は第5文型をとる直接他動詞(2)のタイプの動詞で、基本的に
accuser A de B (A を B で非難する、A が B だと言って非難する)
という使い方をします。A の部分に「人」、B の部分に「非難する内容」がきます。
この諺では A に相当するのが代名詞の「l'」(「son chien (彼の犬)」を指す)、B に相当するのが「la rage」。
「rage」は女性名詞で、普通は「怒り」(怒り狂ったような激しい怒り)ですが、ここでは「狂犬病」という意味。
【他のバージョン】「noyer」の代わりに「tuer(殺す)」を使うこともあります。
- Qui veut tuer son chien l'accuse de la rage.
(飼い犬を殺したい人は、その犬が狂犬病だと言って非難する)
また、「Quand(...な時は)」を使って次のようにいうこともあります。
- Quand on veut noyer son chien, on dit qu'il a la rage.
(飼い犬を溺れさせたいときは、その犬が狂犬病だと言うものだ)
2 回出てくる「on(人は)」は訳さないほうが自然です。「dit」は dire (言う)の現在3人称単数。「il」は「son chien」を指します。「a」は他動詞 avoir(持っている)の現在3人称単数。「avoir la rage」で「狂犬病にかかっている」という意味。
【由来】12世紀後半(1180年頃)の『百姓の諺』第118番に次の形で確認されます。
- Qui son chien veut tüer, la rage li met sus.
metre sus は古フランス語で accuser または imputer (罪を負わせる)の意味。
13世紀末~14世紀初頭の写本にもほぼ同じ形で確認されます(Morawski, N°2146)。
1528年の Gringore の諺集(fol. 8v, 5)にも確認されます。
- Qui veult tuer son chien dit que ha la raige.
飼い犬を殺したい人は、その犬が狂犬病だと言う。
古フランス語で「ha」は avoir の現在3人称単数。
1672年のモリエールの喜劇『女学者』(『学者きどりの女たち』)第2幕第5景にも表題と同じ形で登場し、これがこの諺が広まるのに役立ったと思われます。
- 「やれやれ! 昔の人が言ったとおりでさ。邪魔な飼犬を殺したいときにゃ、気違い犬にすればよい、ってな。奉公人稼業(かぎょう)は一代かぎりでたくさんでごぜえますよ。」
「なんだい、そりゃ? いったいどうしたんだ、マルチーヌ?」
(...)
「わたしゃ、きょう、おひまを出されたです、だんなさま。」
「おひまを?」
「はい、奥様が出て行けって。」
鈴木力衛訳『モリエール全集4』中央公論社、p.260から引用(下線引用者)。
原文は Wikisource, Site-Molière.com, TOUTMolière.net などで閲覧可能。
Qui veut voyager loin ménage sa monture.
【逐語訳】「遠くへ旅しようとする者は自分の馬をいたわる」
【諺の意味】高く遠い目標に到達しようと思ったら、余力を残しながら進む必要がある。
【使い方】たとえばマラソンなどの競技で、「最初から飛ばしすぎると途中で息切れするから、自分のペースを守ることが大切だ」という意味で使ったりします。
あるいは、より一般的に、「年を取るまで長く仕事を続けていこうと思ったら、日頃から体調管理をする必要がある」という意味で使ったりします(これらの例では、「monture」は「自分の肉体」の意味に解釈しています)。
少し変わった文脈では、車好きの間で、「車に長く乗るには、日頃のメンテナンスが大切だ」という意味で使ったりします(この場合は「monture」=「車」)。
あるいは、例えば自転車でツーリングする場合に、「旅に出かける前に、装備を入念に点検しよう」という意味で使ったりします(これは、「ménager」には「準備する・しつらえる」という意味もあるからです。この場合は「monture」=「自転車」)。
【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「veut」は vouloir(~したい)の現在 3人称単数。
「voyager」は自動詞で「旅する、旅行する」。
「loin」は副詞で「遠くに」。
「ménage」は、ここでは男性名詞の ménage(家事)ではなく、それに由来する他動詞 ménager の現在3人称単数。 ménager には、「いたわる・大事にする」(= soigner)、「準備する・しつらえる」などの意味があります。
「sa」は「彼の、彼女の、その」という意味の所有形容詞(ここでは「自分の」という感じ)。直後の「monture」(女性名詞)に合わせて「sa」となっています。
「monture」は monter(乗る)という動詞に由来する女性名詞で、乗るための動物、特に「馬」を指します。
【他のバージョン】 「voyager」の代わりに自動詞 aller(行く)を使って次のように言うこともあり、こちらもよく使われます。
- Qui veut aller loin ménage sa monture.
【由来】1668年のラシーヌの『裁判きちがい』(Les Plaideurs )第1幕第1景に、この諺が出てきます。
- 率直に申し上げますが、旦那はいつも、朝が早過ぎます、
千里の旅路を目指す者は、まず、乗ってる馬をいたわるちゅう話ですよ。
何はともあれ、飲んで食って寝て、身体に精をおつけなせえまし。
日本語訳は鈴木力衛・鈴木康司訳、筑摩書房『世界古典文学全集48』p.137による。原文は Wikisource (27行目)などで閲覧可能。
この『裁判きちがい』は 12音節の「アレクサンドラン」と呼ばれる詩の形式になっており、この諺も 6 音節+6 音節です。諺にしてはやや長めながら、独特な語調のよさが感じられるのは、そのためです。
【言葉遊び】この諺をもじった次のような表現があり、比較的よく知られています。
- Qui pisse loin ménage ses chaussures.
遠くに小便をする者は、自分の靴をいたわる。
「pisse」は自動詞 pisser(小便をする)の現在3人称単数。
「chaussure」は女性名詞で「靴」。
近くにすると靴が濡れて革が傷むからです。
Qui vivra verra.
【逐語訳】「生きている者は分かるだろう」
(生きていればわかるでしょう、そのうちわかるさ)
【諺の意味】「時がたてばわかるだろう」というのが基本的な意味です。
仏和辞典で voir を引くと熟語欄にこの諺が載っており、次のように書かれています。
- 「時がたてばわかるだろう」(小学館ロベール、プログレッシブ)
「時がたてばわかることだ、未来が判断してくれるだろう」(ロワイヤル)
しかし、次の『ディコ仏和辞典』の定義は、少し違っています。
- 「(生きている者は分かるだろう→)あとはなりゆきに任せよう」(ディコ)
実際、この諺はかなり一般的な内容であるため、さまざまな状況で使うことが可能である(それがこの諺が非常に広まる一因となった)と、ロベールの表現辞典には書かれています(Rey/Chantreau (2003), p.917)。そのため、状況によって、色々なニュアンスを伴うようです。
特に、下記で触れる「ケ・セラ・セラ」という歌では、「ケ・セラ・セラ」(なるようになる)という言葉とセットで(あたかもそのフランス語訳であるかのようにして)この諺が使われています。
この歌が非常に有名になったことで、この諺は「なるようになる」というニュアンスが強まったように感じられます。上の『ディコ仏和辞典』の定義も、それを反映したものなのかもしれません。
【単語の意味と文法】「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。
「vivra」は vivre(生きる)の単純未来3人称単数。
「verra」は voir(見る)の単純未来3人称単数。
voir は、英語の see(見る)と同様、「わかる」という意味にもなります。
例えば、「なるほど」と相づちを打つとき、英語では I see. (直訳すると「私はわかる」)と言いますが、フランス語では Je vois. (「vois」は voir の現在1人称単数)と言います。
【由来】13 世紀末の写本に次のように書かれています(Morawski, N°1321)。
- Moult voit qui vit.
生きていれば多くのことを見る。
「Moult」は古語で「多く(の)」。
15世紀末の『諺詩集』(Frank/Miner (1937), p.50, L)には次の形で出てきます(古い言葉・語法を含む)。
- Celluy qui vit, il voit.
生きている者は見る。
これとほぼ同時代の1495年の諺集 Proverbes communs では、表題と同じ形で収録されています(Le Roux de Lincy (1842), t. 2, p.314 ; Dournon (1986), p.401 ; Maloux (2009), p.55 等による)。
1752年の『トレヴーの辞典』第5版補遺第2巻や、1932-1935 年の『アカデミー辞典』第8版など(いずれも vivre の項目)にも記載されています。
【余談】個人的な話で恐縮ですが、むかし草津温泉に行ったとき、ぶらぶらと道を歩いていたら、温泉まんじゅうを売るおばさんに試食用のまんじゅうをもらい、翌日おなじ道を通ったら、またおなじおばさんに温泉まんじゅうを差し出されました。
「昨日もらったから、いいですよ。」
と遠慮すると、
「昨日は昨日、今日は今日。」
と言われ、以来、これはお気に入りの言葉となって、ときどき思い出されます。
……しかし、これは「過去にはこだわらない」ということの(卑近な?)例ではありますが、もっとこの諺に近く「未来のことを(必要以上に)思い悩まない」という点では、
というキリストの言葉がさすがに説得力があります。
フランス語版「ケ・セラ・セラ」の歌詞全文と日本語訳・解説のページに移動しましたので、そちらをご覧ください。
Qui vole un œuf vole un bœuf.
【逐語訳】 「卵を盗む者は牛を盗む」
【諺の意味】 小さなものを盗む者は、いずれ大きなものを盗むことになる。盗みはエスカレートする。
【日本の似た諺】 「嘘つきは泥棒の始まり」
【単語の意味と文法】 「qui」は関係代名詞で、 celui qui の celui の省略。
celui は関係代名詞の先行詞になると、「...な人」という意味。
「vole」は他動詞 voler(盗む)の現在 3人称単数。
「œuf」は男性名詞で「卵」(「œ」は o と e がくっついた文字)。
「Qui vole un œuf」で「卵を盗む人は」。
その後ろの「vole」はまた「盗む」。
「bœuf」は男性名詞で「牛」。英語の beef(ビーフ)の語源。
【韻について】 「卵」というからには、「牛」ではなく「鶏」のほうがぴったりくる気もしますが、ここは œuf (卵)と bœuf (牛)で韻を踏んでいるため、意味・内容よりも発音・語呂合わせが重視されています。
【卵と牛を使った他の表現】 œuf(卵)と bœuf(牛)の発音が似ていることを利用した表現は昔から色々あったようですが、現在でもよく使われるものとしては、次の慣用句があります。
- donner un œuf pour avoir un bœuf
逐語訳:牛を得るために卵を与える=卵を与えて牛を得る
日本の「蝦(えび)で鯛(たい)を釣る」に相当する表現です。
【諺もどき】 Wikipédia の « Liste de faux proverbes » には諺をもじった文(言葉遊び)が集められており、結構笑えるものもあります。そのうちの一つに、次のような文が載っています。
- Qui vole un boeuf est très très fort !
牛を盗む者は、すごくすごく力持ちだ!
⇒ やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 2 ( F ~ J )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 3 ( La ~ Lem )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 4 ( Les ~ Lo )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 5 ( M ~ P )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 6 ( Q )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 7 ( R ~ Z )
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