「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-7

やさしい諺(ことわざ) 7 ( R ~ Z )


Rome ne s'est pas faite en un jour.

【逐語訳】 「ローマは一日で作られなかった」
(ローマは一日にしてならず)

【諺の意味】 「大きな仕事を成し遂げるには、長い時間が必要だ」。

西洋史の本などで、「ローマ帝国が広大な領土を獲得するまでには長い歳月を要した」ことの比喩として、よくこの諺が使われますが、それがこの諺の元の意味だったかどうかは大いに疑問の余地があります。

むしろ、中世にローマ教皇のお膝元として繁栄するローマの建造物や街並みを見た感想として生まれた言葉ではないかと想像するほうが自然ではないかと思われます。

  • ちなみに、この諺をもとに 「ローマ」を「パリ」に置き換えた「パリは一日にしてならず」というフランス語の諺が17 世紀頃にできましたが、「フランスは一日にしてならず」とはなりませんでした。また、ロシア語では「ロシアは一日にしてならず」ではなく「モスクワは一日にしてならず」と言います。ここから、「ローマ」という言葉が国名ではなく都市名としてイメージされていたことがわかります。

【由来その 1 : 16 世紀以前】 元は古代ローマの頃に作られたラテン語かと思ってしまいがちですが、たとえば柳沼 (2003), p.176 には「中世以後にできたことわざらしい」と書かれています。

実は、「ローマは一日にしてならず」はフランス発祥の諺だと言えます。少なくとも文献上はフランス語で一番古くから確認されます。

最も古いのは、12 世紀後半(1180 年頃)に古いフランス語で書かれた『百姓の諺』です。その第 98 番に、「Rome ne fu pas faite toute en un jour.」(ローマはすべて一日で作られたわけではない)と書かれています(原文は Internet Archive, p.43 で閲覧可能。 Morawski, N°2223 で引用)。 『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.683 でも、これが一番最初に記載されています。

同じ 12 世紀後半頃の『狐物語』にも出てきます。主人公のルナールが訴えられた裁判で、片一方の主張だけを聞いて結論を出すのではなく、よく証拠を調べ、じっくり双方の意見を聞いてから結論を出すべきである、という文脈です。

  • ローマは一日にして成らずの譬(たとえ)もござる。(...)短慮拙速によって双方を仲違いさせるようなことがあってはならぬ。
    鈴木・福本・原野訳『狐物語』、岩波文庫 pp.124-125 による。
    原文は古いフランス語で En un jor ne fist-l'en pas Rome.

15 世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°702)には次の形で収録されています。

  • Romme ne fust mie faicte toute en ung jour.
    「fust」は現代の綴りだと fut (être の単純過去)。「mie」は古語で「パンくず」の意味で、ne... mie で「ほんの少しも... ない」。「ung」は現代の綴りだと un (不定冠詞)。その他、古い綴りを含む。

ラテン語では、15 世紀にドイツで筆写された写本に、次のように書かれているのが文献上最も古いものとされています。(2013/5/17 加筆)

  • Roma sola die non fuerat edificata.
    ローマは一日では建設されなかった。
    これはドイツの修道院に残されていた15世紀の写本を活字化した本に記載されています(TPMA, Bd.9, p.354 による)。

いずれにせよ、この諺はフランス語として誕生し、のちにラテン語に訳されたと考えるのが自然です。
ヨーロッパ各国の聖職者の間で共通語だったラテン語に訳されたことで、フランス以外の国にも伝わったのではないかと想像されます。

下って、1543 年にイタリア人マンツォッリがラテン語で書いた長大な詩『人生の獣帯』の第 12 部「魚座」には、次のような一節があります。

  • Non stilla una cavat marmor, neque protinus uno est
    Condita Roma die..
    一滴の水が大理石を凹ませることはなく、同様にローマもすぐに
    一日では作られなかった...
    出典: Marcellus Palingenius Stellatus, Zodiacus vitæ, p.316 (Marcellus Palingenius Stellatus は Pier-Angelo Manzolli の筆名。Maloux (2009), p.406 で引用)。

その後、フランス語では、1568 年刊のムーリエ『金言宝典』(1581 年版 p.207)に、現代フランス語と同じ綴り・語法で次のように記載されています。

  • Rome ne fut pas faite en un jour.
    「fut」は être の単純過去(3人称単数)。単純過去の受動態で、過去分詞の性数の一致をしています。昔は主にこの形が用いられたようです。

【由来その 2 : 17 世紀以降】 「ローマは一日にしてならず」という諺は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』第 2部第 71章(1615年刊)に由来すると思われていたこともありますが、実際にはセルバンテスの原文には「ローマは一日にしてならず」という言葉は出てきません。岩波文庫(牛島信明訳)では次のようになっています(後篇(三)、p. 369)。

  • サモーラの市(まち)も一時間で陥落したわけではないからな。
    岩波文庫の旧版(高橋正武訳、続編(三)、p. 313)では「サモーラも一時間では落城せなんだぞ」。スペイン語原文は No se ganó Zamora en una hora. (山崎 (2005) による。スペイン語版 Wikisourceでは末尾 ...en un hora となっています)。これは「スペインの最も古い諺の一つ。マドリッドから北西約275 km、ポルトガルとの国境に近いサモーラ市は1072年カトリック教徒が回教徒から長い合戦の末に奪回した街である」(山崎・カルバホ (1990), p.151)。

スペインの「サモーラ」という地名が英語圏の読者には馴染みが薄いので、英訳するときに「ローマは一日にしてならず」に差し替えられたのが、誤解を生む原因となりました。夏目漱石の弟子の森田草平は、昭和 2~3年に、英訳(ピーター・モットゥー訳)版からの重訳の形で日本語に訳したために、「ローマは一日にしてならず」という言葉が『ドン・キホーテ』に出てくると勘違いされ、これが原文の確認作業を怠った一部の日本の諺辞典等にも取り上げられて、間違った説が広まったようです。
この間の事情については、旧岩波文庫版『ドン・キホーテ』の訳者の一人、高橋正武氏が 1983 年 11 月 25 日付の「朝日新聞」夕刊に書かれています(三浦一郎『西洋の故事成句おもしろ事典』、明治書院、p.154 にも記載)。

  • ピーター・モットゥー(Peter Motteux)訳『ドン・キホーテ』の該当箇所は、例えば 1884年版 Vol.4, p.451 (上から7行目)に Rome was not built in a day. と訳されているのが確認されます。

ちなみに、『ドン・キホーテ』前編を最初にフランス語に訳したことでも知られるセザール・ウーダンは、1605年に『フランス語に訳されたスペイン語の諺』という本を出版していますが、その中に、このスペイン語の諺が「En una hora no se gano çamora.」という形で収録されており(1612年版または 1614年版 p.79)、ウーダンは次のようにフランス語で注釈を付けています。

  • 一時間でサモラは攻略されなかった。サモラはスペインの町である。フランス語では Rome ne fut pas faite en un jour.

同じ 17 世紀初頭、1606 年のジャン・ニコ『フランス語宝典』の付録には次の形で収録されています(原文は Gallica で閲覧可能)。

1610 年のヨーロッパ各国の諺を集めたグルテルス『詞華選』 p.250 には、イタリア語の「In un giorno non si fe Roma.」と並んで、フランス語の「On ne fit pas Rome en un jour.」と「Rome ne fut pas faite en un jour.」が収録されています。
ただし、同じ本の p.434 には「Paris ne fut pas fait en un jour. (パリは一日で作られなかった)」という諺も収録されています。これは「ローマ」を「パリ」に差し替えた、恐らく最初期の用例の一つだと思われます。

【他のバージョン】 現代のフランスでは、「ローマ」を「パリ」に置き換えて言うほうが多いかもしれません。

⇒ Paris ne s'est pas fait en un jour. (パリは一日にしてならず)

【英語】 英語では 16 世紀中頃から次の形で確認されます(『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.271 等による)。

  • Rome wasn't built in a day.

【単語の意味と文法】 「Rome」は固有名詞(都市名)で「ローマ」。ちなみに「ローマ帝国」という意味はありません(ローマ帝国なら l'Empire romain といいます)。
Rome は女性名詞ですが、都市名なので無冠詞です。

  • 辞書を引いても、都市名は男性・女性の区別が書かれていないことが多いようです(ただし、『ロワイヤル仏和中辞典』には「Rome」は女性 (f) と記載されています)。いずれにせよ冠詞は無冠詞になるので困りませんが、性数の一致はするので、やはり男性・女性の区別は必要になります。一般に -e で終わる都市名は女性、それ以外は男性とされていますが、最近は -e で終わっていても(特にフランスの都市の場合は)男性扱いされることが多くなっているようです(朝倉『新フランス文法事典』 p.238左)。これは、都市名は無冠詞なこともあって男性・女性の意識が希薄になったために、すべて「男性」扱いにして、性数の一致をしないで済ませようとしているためかもしれません。

「ne... pas」で否定助動詞を使う場合は、助動詞(とその直前の代名詞)を ne と pas で挟みます(「est」が助動詞です)。

「s'」は再帰代名詞 se (後ろに母音がきたときの形)。
「est」は助動詞 être の現在(3人称単数)。
「fait」は他動詞 faire (する、作る)の過去分詞。ここでは「作る」の意味です。
再帰代名詞の se と組み合わさると、se faire で「自分を作る」→「作られる」という受身的な意味に変化します。
「est fait」で être + p.p. ですが、再帰代名詞と一緒に使われているので、être + p.p. で複合過去です。
「s'est fait」だけ取り出すと「作られた」となります。

さらに、「過去分詞の性数の一致(être + p.p. の場合)」の規則により、être + p.p. の場合は主語に性数を一致させるので、主語の Rome に合わせて過去分詞 fait に女性単数を示す e がついています。

  • フランス人でもこの e を付け忘れて書く人が結構いるので、要注意です。発音は「fait」単独では「フェ」、「faite」単独では「フェットゥ」ですが、次の「en」と続けて発音すると、どちらも「フェタン」という同じ発音になることも、つけ忘れの原因の一つかもしれません。あるいは、前述のように「男性」扱いにしているのかもしれません。

「en」は前置詞で、ここでは時間を表し、「~で」「~の中で」「~かかって」という意味。
「jour」は男性名詞で「日」。
「en un jour」で「一日で」「一日がかりで」となります。

【ローマに関する他のことわざ】

Tant qu'il y a de la vie, il y a de l'espoir.

【逐語訳】 「命あるかぎり希望がある」

【使い方】 「病気や不幸に直面し、絶望のふちに立たされた人にかける励ましの言葉」 Brunet (2011), p.139)
もちろん自分に言い聞かせることもできます。
落ち込んでいるときには、なかなか励みになる言葉です。

【単語の意味と文法】 「tant que...」は「...な限りは」という熟語。
「il y a ~」は「~がある、~がいる」
「vie」は女性名詞で「命」(英語の life)。
その前の「de la」は部分冠詞
ここでは「命」が分量のようなものとしてイメージされているので、部分冠詞がついています。
コンマを挟んで、前半が従属節、後半が主節。
最後の「espoir」は男性名詞で「希望」。
その前の「de l'」も部分冠詞です。
やはり、「希望」が分量のようなものとしてイメージされています。

この諺は部分冠詞の使い方が効果的で、部分冠詞を使うことで、命と希望が「分量」として捉えられ、例えば「ほんの少しでも」命が残っているなら、「多少なりとも」「わずかなりとも」希望は残っている、といった感じが うまく出ている気がします。

【英語】 英語では無冠詞になります。

  • Where there's life there's hope.

【ラテン語】 次のように「息をする」と「希望を抱く」という似た発音の言葉をうまく組み合わせた表現があります。

  • dum spiro spero.
    私が息をしている間は、私は希望を抱く。
    発音は「ドゥム スピーロー スペーロー」。この言葉は米国サウスカロライナ州のモットーとなっていますが、この形での出典は不明(Cf. 柳沼 (2003), p.104。下記エラスムスにもこの形では出てきません)。

これをフランス語に逐語訳した次の形も知られています。

  • Tant que je respire, j'espère.
    息をしているかぎり、私は希望を抱く。

【由来】 旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)第9章4節の次の言葉と関連づけられることもあります。

  • 命あるもののうちに数えられてさえいれば
    まだ安心だ
    犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
    新共同訳による(下線引用者、以下同)。ちなみに、最後の言葉は英語の A live dog is better than a dead lion.(死んだライオンよりも生きている犬のほうがいい)という諺の元になっています。これに相当するフランス語は "Chien en vie vaut mieux que lion mort", "Chien vivant vaut mieux que lion mort", "Mieux vaut chien vivant que lion mort" ですが、これは聖書の文句としては知られていても、諺としてはあまり使われないようです。

しかし直接的には、紀元前3世紀の古代ギリシアのテオクリトス『牧歌』第4歌41-43行の次の言葉に由来するとされています。

  • 元気を出さなきゃ、親しいバットス、あしたになれば良くなるさ。
    生きてる者に希望がある、死んでる者は希望がない。
    ゼウスもあるときはお天気だけど、あるときは雨を降らす。
    古澤ゆう子訳『テオクリトス 牧歌』京都大学出版会(2004年)p.40 による。

古代ローマでは、紀元前49年3月18日にキケロ(前106 - 前43年)がアッティクスに宛てた手紙に次のように出てきます。

  • (...)何らかの合意がなされ、一方がかかる犯罪に、他方がかかる醜行に走ると言う事態は避けられるだろうとの一縷の望みが私に余裕を与えていた。(...)病人にとっても生命のある間は希望があると言われる。同様に、ポンペイウスがイタリアに留まっている間は、私も希望を捨てなかった。まさにこれらのことが私の判断を誤らせた。
    高橋英海訳 キケロー書簡 177、『キケロー選集14 アッティクス宛書簡集II』岩波書店 p.45 による。ただし、「古代では『希望』という言葉がこのように『空しい希望』というネガティブな意味で用いられることが多い」(野津 (2010), p.84)そうです。

以上のテオクリトスやキケロの言葉は、エラスムス『格言集』 II iv 12 (1312) でも言及されています。

フランス語の表題の形は、部分冠詞(17世紀に確立)が使われているのでわかるように、それほど古いものではなく、表題の形で定着したのは比較的最近のようです(19世紀までの諺集には載っていません)。

【余談】 エラスムスはこの諺に関連して、ギリシア神話の「パンドラの箱」の話を引き合いに出しています。これは伝統的には次のような話として語られます。

  • パンドラの箱には、「老い」、「病気」、「戦争」、「飢餓」など、人類のあらゆる不幸が収められていたが、「希望」も入っていた。パンドラが箱を開けると、その中に入っていた多くの不幸が解き放たれたが、「希望」だけは箱の中に残ったままになった。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

Tel maître, tel valet.

【逐語訳】 「この主人にしてこの召使いあり」

【諺の意味】 「召使いは主人の習慣をまねるものだ」(『アカデミー辞典』第9版)

【図版】 この諺を題材にした19世紀の挿絵絵葉書があります。

【単語の意味】 「tel」は名詞の前に置く形容詞で、「このような、そのような」。
「maître」は「主人」。「valet」は「下男、従僕」という感じですが、「召使い」としておきます(どちらも男性名詞)。

この諺には動詞がなく、直訳すると「このような主人、このような召使い」という感じです。

【由来】 古代ローマの皇帝ネロに仕えたペトロニウスの『サテュリコン』 58節に、「この主人にしてこの奴隷あり」という言葉が出てきます(岩波文庫『サテュリコン』国原吉之助訳、p.100)。

フランス語での古い用例としては、16世紀のJean Gilles de Noyers の諺集(1558年版 p.112)に次のように書かれています。

  • Tel seigneur, tel mesnye.
    この主人にしてこの下男あり
    mesnyeはおそらく中世フランス語のmesnier(下男)の変形。

1568年に初版が出たムーリエ『金言宝典』(1581年版p.220)では、Tel père, tel fils.と並んで表題の形が出てきます(Lincy (1842), t.2, p.69で引用)。

『アカデミーフランセーズ辞典』でも第1版(1694 年)から最新の第9版(1992)まで、コンスタントに収録されています。

【似た諺 1 】 Tel maître, tel valet. は有名な諺ですが、valet(召使い)というものが現実にほとんどいなくなっている以上、少し使われる頻度が落ちているようです。むしろ次の諺のほうがよく使われるかもしれません。

【似た諺 2 】 古代ギリシアには、「この主人(女性)にしてこの犬あり」という諺があったそうですが(柳沼 (2003), p.119 による)、現代のフランスでも、「主人」をペットの「飼い主」の意味に取った、次の言葉がよく話題にのぼります。

  • Tel maître, tel chien.
    この主人にしてこの犬あり

犬の顔は、どうしたわけか飼い主によく似ることが多いので、そうした文脈でよく使われます。

しかし、むしろ飼い主のほうが犬に似ているように感じられる場合も少なくありません。その場合は、語順を逆にします。

  • Tel chien, tel maître.
    この犬にしてこの主人あり

Tel père, tel fils.

【逐語訳】 「この父にしてこの子あり」

【諺の意味】 仏仏辞典には次のように書かれています。

つまり、いい意味でも悪い意味でも使われます。

あるいは、「いい意味でも悪い意味でも似ている」場合に使われます。

【図版】 この諺を扱った絵葉書を見ると、この諺の使い方がわかります。

【似た諺】 Tel maître, tel valet.

日本語の諺だと、「蛙の子は蛙」。

【単語の意味】 「tel」は名詞の前に置く形容詞で、「このような、そのような」。
「père」は「父」、「fils」は「息子」(どちらも男性名詞)。

この諺には動詞がありません。直訳すると、「このような父親、このような息子」となります。

なお、「fils」は発音が例外的で、 l を発音せずに、末尾の s を発音します。
ちなみに「糸」を意味する男性名詞 fil は、複数形だと fils と同じ綴りになります。

「糸」「息子」
単数形fil (発音:フィル)fils (発音:フィス)
複数形fils (発音:フィル)fils (発音:フィス)

【英語への逐語訳】 Such a father, such a son.

【英語の諺】 Like father, like son.

【他のバージョン】 父と息子の代わりに、母と娘を使って言うこともあります。

  • Telle mère, telle fille.
    (この母にしてこの娘あり)
    「mère(母)」も「fille(娘)」も女性名詞なので、telは女性単数のtelleになります。

あるいは、たとえば父親が大物政治家で、娘も政治家の場合は、次のように言うことも可能です。

  • Tel père, telle fille.
    (この父にしてこの娘あり)

いわゆる「二世議員」や、有名な歌手・芸能人などの子供だと使いやすいと思いますが、もちろん一般の人についても使えます。
数年前、Tel père, telle fille. という題名の映画が封切られました。

【由来】 もとは次のラテン語の諺に由来します(岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』 p.608に記載)。

  • Qualis pater, talis filius.
    この父にしてこの子あり

この言葉は、実はキリスト教の三位一体の教理を簡潔に説いた「アタナシオス信条」に由来するようです。
1500 年に初版が出たエラスムス『格言集』 IV, v, 63 (3463) に、ラテン語で次のように解説されています。

  • 「アタナシオス信条」を曲解した Qualis pater, talis filius. (この父にしてこの子あり)という言葉は、今日なお広く用いられている。

実際、「アタナシオス信条」には、ラテン語で次のような言葉が出てきます。

  • Qualis Pater, talis Filius, talis et Spiritus Sanctus.
    御父のあり給う如く御子もそのようであり、聖霊もそのようである。
    日本語訳の全文は例えばWikisourceに記載。この「talis et Spiritus Sanctus(聖霊もそのようである)」を抜かした部分が、この諺のラテン語とまったく同じです。

だとすると(エラスムスの説を信じるなら)、もともとは畏れ多くも「父」は神、「子」はイエス・キリストを指していたことになります。そして、アタナシオス信条の中の一部の文句が、いわば「一人歩き」して諺に転化したと考えられます。

フランス語での古い用例としては、次の諺集に収録されています。

『アカデミーフランセーズ辞典』では、第 8 版(1932-1935)までは記載されておらず、最新の第 9 版(1992)になって初めて収録されています。

Tous les chemins mènent à Rome.

【逐語訳】「すべての道はローマに通ず」

【諺の意味】ある目標へは、色々な方法で到達することができる。

【由来】この諺は、誤って次のラテン語に由来するとされることがあります。

しかし、これは岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』には載っておらず、『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫)には「中世以後にできたことわざらしい」(p.176) と書かれています。
事実、『オックスフォード諺辞典』第5版, p.269 には、次のような「中世ラテン語」が引用されています(ただし出典は書かれていません)。

  • mille vie ducunt hominem per secula Romam

実は、この格言が最初に確認される文献は、12世紀フランスの神学者・詩人アラン・ド・リールの Liber parabolarum(箴言の書)と題するラテン語で書かれた詩の中の次の一節(第5章7)です。

  • Mille vie ducunt homines per secula Romam,
    Qui Dominum toto querere corde volunt.
    何世紀も前から、心の底から神を探そうと願う人々を、
    千もの道がローマへと導いている。
    出典: Les Paraboles Maistre Alain en Françoys, éd. Tony Hunt, 2005, p.173
    TPMA, Bd.9, p.355 ; Bertrand Lançon, Les Romains, 2005, p.20 等で引用)

だとすると、この「ローマ」は「栄華を極めたローマ帝国の首都ローマ」ではなく「ローマ教皇のいる神に通じる聖地ローマ」がイメージされていたことになります。

つまりこの諺は、よく世界史の説明で引き合いに出されるような「古代都市ローマを中心に放射状に四方八方に整備されていた立派な街道」(アッピア街道など)というよりも、(そうした道も含まれますが)むしろ「キリスト教の最大の巡礼地の一つローマに向かう、ヨーロッパ各地から巡礼者が通る道」がイメージされていたことになります。

一般に、中世には「ローマ」といえば、何よりもカトリックの総本山として、またキリスト教の聖地として人々にイメージされており、中世のフランスで生まれたこの諺も例外ではありません。

現代の諺辞典 Rey/Chantreau (2003), p.178 でも、この諺について「巡礼の道が暗に意味されている」と書かれています。

ちなみに、ローマを巡礼地として捉えた諺としては、ほかに次のものがあります。

フランス語の形では、17世紀ラ・フォンテーヌ『寓話』の一番最後の話である「裁判官と病院長と隠遁者」(Le Juge Arbitre, l'Hospitalier, et le Solitaire)に出てきます。これは次のような話です。

  • 人々の争いをなくそうとした裁判官、病人の苦しみを和らげようとした病院長、一人で森の中に住む隠遁者は、三者三様、手段は違うけれども魂の救済という同じ目的のために努力していた。しかし裁判官と病院長は、人々の不平不満に疲れ果て、隠遁者のもとに相談に行った。そこで二人は、澄んだ水にしか自分の姿が映らないように、静かなところでしか自分自身を知ることはできないと隠遁者に諭され、三人とも隠遁生活を送ることになった。

この話の冒頭の「三者三様、手段は違うけれども魂の救済という同じ目的のために努力していた」ことに関連して、Tous chemins vont à Rome(すべての道はローマに通ず)という言葉が格言として出てきます。

【単語の意味と文法】「Tous」は「すべての」という意味の形容詞 tout の男性複数の形英語の all と同様、冠詞の前に置きます
「chemins」は男性名詞 chemin(道)の複数形。
「mènent」は他動詞 mener(導く)の現在3人称複数。
前置詞「à」は、ここでは場所を表して「~に」「~へ」。
「Rome」はイタリアの都市「ローマ」。前述のように、巡礼地としてのローマがイメージされています。都市名は無冠詞です

なお、「mènent (導く)」は他動詞なのに直接目的語がなく、「何を」導くのか、「誰を」導くのかが明示されていません。他動詞なのに例外的に直接目的が省略されています。
文の意味を変えずに、あえて直接目的語を補うと、次のようになります。

  • Tous les chemins vous mènent à Rome.
    すべての道はあなたをローマに導く。

この「vous」は、このように「あなたを」と訳すこともできますが、on(人は)の直接目的・間接目的は nous または vous で代用するので、「人を」と訳すこともできます。そうすると「すべての道は人をローマに導く」となりますが、要するに「すべての道はローマに通ず」という意味になります。

【他のバージョン】主語を単数形にして言うこともあります。

あるいは自動詞 aller を使って言うこともあります。

【英語】 All roads lead to Rome.

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

Tout ce qui brille n'est pas or.

【逐語訳】すべての輝くものが金ではない
(光るもの必ずしも金ならず)

【諺の意味】見かけは派手に金色に輝いていても、金メッキ(うわべだけの見せかけ)かもしれず、中まで金(金無垢、内実を伴ったもの)であるとは限らない。
外見は当てにならない。外見に惑わされないようにする必要がある。

むしろ「人」について使われることが多いようです。

【単語の意味と文法】「Tout」は形容詞で「すべての」。
「qui」は関係代名詞。「ce」は先行詞になると、「...なこと・もの」という意味。「qui brille」はカッコに入ります(関係詞節になります)。
「brille」は自動詞 briller(輝く)の現在3人称単数。
「Tout ce qui brille」で「すべての輝くもの」。

「est」は être(~である)の現在3人称単数。
「n’」と「pas」で否定になっていますが、「tout(すべての)」は ne... pas と組み合わせると部分否定になります

「or」は男性名詞で「金(きん)」。属詞なので無冠詞になっています。

【他のバージョン】ひと昔前までは、briller の代わりに、同じ意味の自動詞 reluire(輝く)を使って次のように言うことが多かったようです。

  • Tout ce qui reluit n'est pas or.

しかし、reluire という動詞が、もっぱら「(洗ったり磨いたりした食器・家具・床などが)ぴかぴかに光る」という意味で使われるようになったために、現在では、もっと一般的な briller が使われるようになったようです(Brunet (2011), p.23)。

【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵絵葉書があります。

【由来】1022-1024 年頃のエグベール・ド・リエージュ『満載の舟』にラテン語で次のように書かれています(これがこの諺の全言語を通じての文献上確認可能な最古の用例といえそうです)。(2013/6/9加筆)

  • Aes, quodcumque rubet, non credas protinus aurum.
    赤く光るすべての銅を金だと思うな。
    TPMA, Gold 7.1 で引用。原文は Ernst Voigt 版 v. 121 で閲覧可能。

12 世紀フランスの神学者・詩人アラン・ド・リールの Liber parabolarum(箴言の書)と題するラテン語で書かれた詩(第3章冒頭)にも出てきます(Maloux (2009), p.36 ; Rey/Chantreau (2003), p.658)。

  • Non teneas aurum totum quod splendet ut aurum
    金のように輝くすべてのものを金だと思うな。
    出典: Les Paraboles Maistre Alain en Françoys, éd. Tony Hunt, 2005, p.165

岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』 p.481 では次のようになっています。

  • Non omne quod nitet aurum est.
    輝くものすべてが黄金にあらず。

フランス語では、1180年頃の『百姓の諺』第229番に次のように書かれています。

  • N'est mie tout ors quanqu'il luist.
    輝くものすべてが金なわけでは決してない。
    原文は Tobler版で閲覧可能。

また、1208年頃のギヨ・ド・プロヴァンの諷刺詩『ギヨの聖書』(Guiot de Provins, Bible Guiot )の1208行目に、修道士の「偽善」について書いた文の直後に、次のように出てきます(TLFi で言及)。

  • N'est pas tout ors qu'en voit relure.
    輝いて見えるすべてのものが金ではない。
    古い綴りを含む。原文は Les oeuvres de Guiot de Provins, poète lyrique et satirique, éd. par John Orr, 1915, p.47 で閲覧可能。ちなみに書名の「聖書」は「真実を語ったもの」という意味だと思われ、中世の諷刺的な作品の題名に用いられています。この諺は、シトー会修道士が槍玉に挙げられる文脈で出てきます。

1285年に没した詩人リュトブフの「フランシスコ会修道士ドゥニーズ坊の話」という題のファブリオ(小話)の中にも、 L'habit ne fait pas le moine.(服装が修道士を作るわけではない)という諺と前後して出てきます(この諺の【由来】を参照)。どちらの諺も、「外見は当てにならない」という点で共通しています。

13世紀末の写本(Morawski, N°1371 による)や 15世紀前半のエチエンヌ・ルグリの諺集(éd. Langlois, N°129)にも収録されています。

【英語の諺】英語でもほぼ同じ表現があります。

  • All that glitters is not gold.
  • All is not gold that glitters.

英語の初出はフランス語よりも若干遅く、1220年頃とされています(『オックスフォード諺辞典』第5版, p.130 による)。

14世紀後半、フランスの『薔薇物語』を英訳したことでも知られるチョーサーの『カンタベリー物語』にも出てきます(桝井迪夫訳、岩波文庫、下巻、p.119 から引用)。

  • 金のように輝いているものが全部金であるとは限らないんです。わたしはそういう言葉を聞いたことがあります。あるいはまた、目に美しいりんごが皆いいりんごだとは限らないんです。(...)最も賢いように見える人が(...)最も愚かなものなんです。(...)一番信頼がおけるような人が盗っ人なんです。

Toute médaille a son revers.

【逐語訳】「どのメダルにも裏がある」

【諺の意味】「どんな物事にも悪い面がある」

【背景】「昔のメダル(硬貨)は、非常に美しいものであっても、裏面はほとんどどれもなおざりにされていたことから生まれた諺」(Quitard (1842), p.530)。

【単語の意味と文法】「Toute」は「すべての」を意味する形容詞 tout の女性単数形。
ただし、ここでは単数・無冠詞なので、「あらゆる、どの(~も)」(英語の every に相当)

「médaille」は女性名詞で「メダル」。基本的には、通貨としては使用されない、硬貨と同じ形をしたものを指します。具体的には、スポーツ競技の金・銀・銅メダルのほか、軍人や功労者に与えられる勲章、聖母マリアなどの像を刻んだペンダントなどを指しますが、古代ギリシア・ローマなどの昔の歴史的な硬貨(つまり蒐集品・古美術品としての古銭)を指すこともあります。
語源的には、15世紀にイタリア語 medaglia から生まれた言葉で、当初は「金貨」を意味していたようです。

「a」は助動詞 avoir(持つ)の現在3人称単数。
「son」は所有形容詞で「その」
「revers」は男性名詞で「裏」。
一番逐語訳に近づけると、「あらゆるメダルはその裏面を持つ」。

【由来】モンテーニュ『エセー』(1580-1592)第3巻第11章(岩波文庫では第6巻 p.64)で引用された、次のイタリア語の諺が起源です(Maloux (2009), p.54)。

  • Ogni medaglia ha il suo riverso.
    原文は Wikisource などでも閲覧可能。
    ちなみに小学館『伊和中辞典』第2版では、最後の単語の綴りが少し異なる「Ogni medaglia ha il suo rovescio.」という形で、諺として収録されています。

このイタリア語を素直にフランス語に逐語訳したのが、表題の諺です。
フランスでは古くから定着したようです。

例えば1690年のフュルチエールの仏仏辞典では、« médaille » の項目に表題と同じ形で収録され、「何にでも良い部分と悪い部分を見ることができるものであり、どのような物事にもメリットとデメリットがある」という意味だと書かれています。
また、« revers » の項目には次のような諺も記載されています。

  • Il n'y a point de medaille qui n'ait son revers.
    裏側のないメダルはない。

これは「どのような物事にも二つの面があり、良い面と悪い面の両面から見ることができる」という意味だと書かれています。

アカデミーフランセーズ辞典』では、第1版(1694)から第5版(1798)までは「Toute」の代わりに「Chaque(各々の)」を使った次の形で収録されています。

  • Chaque médaille a son revers.

第6版(1835)になって初めて「Toute médaille a son revers」という形でも同時に記載されるようになり、第6版と第7版(1878)では「Chaque...」と「Toute...」が並存しています。第8版(1932-1935)以降は「Toute...」のみとなっています。

【英語訳】英語に訳すと次のようになります。

【似た表現】「物事の悪い面」という意味の次の表現も昔から存在します。

  • revers de la médaille
    メダルの裏側
    1694年の『アカデミー』第1版から、現代の Rat (2009), p.255 や『ロワイヤル仏和中辞典』まで広く記載されている表現。

Un malheur ne vient jamais seul.

【逐語訳】「不幸は決して単独ではやって来ない」

【日本の諺】「泣きっ面に蜂」、「弱り目にたたり目」

【単語の意味と文法】「malheur」は男性名詞で「不幸」。
「ne... jamais」は「決して... ない」という否定。
「vient」は自動詞 venir(やって来る)の現在3人称単数。
「seul」は「唯一の、単独の」という意味の形容詞ですが、ここでは副詞的に使われています

【他のバージョン】動詞 venir の代わりに arriver を使うこともあります。

  • Un malheur n'arrive jamais seul.

【由来】13 世紀の詩人リュトブフの「嘆き」(La complainte)という詩に「Li mal ne seivent seul venir」(古い綴り)と出てきます(原文は Wikisource で閲覧可能)。
この詩は1950年代にシャンソン歌手レオ・フェレが現代の綴りに直して歌い、有名になりました(YouTube で視聴可能)。歌の中では、 Le mal ne sait pas seul venir という形で出てきます。

15世紀の写本にも古い綴りで確認されます(Morawski, N°2454)。

16世紀ラブレーの『パンタグリュエル』第33章冒頭には次のようにして出てきます。渡辺訳と宮下訳を並べてみます(下線引用者)。

  • それからほどなくして、パンタグリュエルは病の床に臥す身となったが、胃の腑の工合が非常に悪くなり、飲むことも食うこともできなくなったが、災厄はたった一つだけでやってくるものでは決してないために、痳疾にも罹ってしまい、諸君の想像以上に苦しんだ。(渡辺一夫訳、岩波文庫、p.236)

  • しかしながら、それからまもなく、パンタグリュエルは病気になってしまった。胃をひどくやられてしまい、飲むことも、食べることもできなくなったのである。そればかりか、「弱り目にたたり目」などというように、淋病〔直訳すれば「熱いおしっこ」〕にまでかかってしまい、とにかく、みなさまがお考えになる以上に、苦しめられたのであります。(宮下志朗訳、ちくま文庫、p.372)

【似た諺】 Un malheur en appelle un autre.(不幸は不幸を呼ぶ) (文法編)

または、

Jamais deux sans trois.(二度あることは三度ある)

【英語の諺】 英語では次のように言います。

  • Misfortunes never come singly.
    不幸は決して単独では来ない。
    この諺はフランス語のほうが早くから確認され、『オックスフォード諺辞典』第5版, p.211 でも、一番最初にフランス語の諺が挙げられています。

【図版】この諺をもとにした絵葉書があります。

Une fois n'est pas coutume.

【逐語訳】「1 回は習慣ではない」
( 1 回ぐらいなら習慣にはならない、今回は特別に)

【意味】「単発的な行為には目をつぶることができる」(Rat (2009), p.134)。
よく使われる諺ですが、少しわかりにくいので、次に使用例を挙げてみます。

【使用例】 3 つぐらいに分けてみます。

1. 自分で決めた規則を破る言い訳にする場合
  =「今回だけだから」、「たまにはいいか!」

  • 例えば、ダイエット中に甘いものが食べたくなった場合、「一回ぐらい食べても太らないから」という言い訳として、この諺を使います。
    または、いつも倹約している人が、特別な日に高価なものを買う場合に「今日は特別だから」という意味で、この諺を呟きます。
    あるいは、インターネット中毒の人が、あえて今日はインターネット抜きで生活してみよう、と思い立ったときに、「たまにはインターネットなしでもいいじゃないか」という意味で、この諺を口にします。

2. 特別に相手に許可を与える場合
  =「今回だけだよ!」、「今回だけは大目に見ておきましょう」

  • 例えば、早退したいと申し出てきた部下に対して、この言葉を言えば、「わかった。でも、今日は特別だぞ。あまり頻繁に認めるわけはいかないぞ」という意味になります。
    あるいは、『小学館ロベール仏和大辞典』には、「夜更かししてもかまわないが、一晩だけだよ」という例文が載っています。このように、「今晩だけだよ」という意味で使います。
    また、ホームレスにお金を渡すときにこのせりふを言えば、「今回だけだよ。いつもあげるわけではないよ」という意味になります。

3. いつもと違うことをする場合
  =「今回はいつもと違って」、「例外的に」、「ちょっと気分を変えて」。

  • 毎回そうするわけではないけれど、たまにはいつもと違う風に、という意味で使われます。「自分の殻(から)を破って」というようなニュアンスになることもあります。
    例えば、いつもは髪を下ろしている女の人が、イメージチェンジをして後ろでまとめてみた場合に、「今回は雰囲気を変えて」という意味で、この諺を使います(ファッション誌 Puretrend の例)。
    このように、いつもと違うことをする(した)場合に、挿入句的によく使われます。
    「exceptionnellement (例外的に)」や「pour une fois (今回は)」とほとんど同じような、軽い意味です。

実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【単語の意味】「fois」は女性名詞で「~回」(もともと s で終わる言葉)。
「est」は être の現在3人称単数。ne... pas で否定

「coutume」は女性名詞で「慣習」(英語に入ると綴りが変わって custom)。この諺では、本来は「慣習法」という意味ですが(次の【由来】の項目を参照)、現代では通常は「習慣」という意味(habitude と同じ意味)だと理解されています。

【由来】古い例では、1577年頃のジャン・ル・ボンの諺集に確認されます。
しかし、このことわざが有名になったのは、1607 年刊のアントワーヌ・ロワゼルの「慣習法」に関する諺(法諺)を集めた Institutes coutumières 第5部第5章IX(1846年版第780番)において表題の形で取り上げたことがきっかけです。
そのため、この諺の「coutume」も、もとは「慣習法」(=法律の条文として明文化されているわけではないが、法としての効力を有する慣習)という意味だと一般には理解されています。同書1846年版の注釈によれば「一度しか起こらなかったことを慣習法だと主張することはできない」という意味です。

ちなみに『フランス法辞典』では、この諺の意味が次のように解説されています。「法的に慣習(法)としての価値が認められるためには、一定の範囲の人々の間で社会生活上共通に反復して行われ、そのためそれらの人々の間で規範的な拘束力が感じられることが必要である」。

『アカデミーフランセーズ辞典』 では、第1版(1694)から現在の第9版(1992)まで、一貫してまったく同じ形で収録されています。

Une hirondelle ne fait pas le printemps.

【逐語訳】「一羽の燕(つばめ)は春をつくらない」
(一羽だけ燕がやって来たからといって、春が来たことにはならない)

【諺の意味】「たった一つの出来事だけでは、結論を導き出すには不十分だ」。「喜ばしい知らせでも、よく確かめないうちは、早とちりしすぎて喜ばないほうがよい」。

【使用例】たとえば「若干の経済指標が改善されたからといって、景気が良くなったと結論づけるのはまだ早い」という意味で使われます。

日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【背景】燕は基本的には渡り鳥で、ヨーロッパの場合、アフリカ大陸で越冬したあと、毎年春になるとヨーロッパに飛来するそうです。

フランスでは春を告げる鳥とイメージされているので、おそらく日本の鶯(うぐいす)のような位置づけかもしれません。

ただし、一年中フランスや日本に留まり続ける「越冬ツバメ」も存在するようです。その場合は、この諺は成り立ちません。

【単語の意味】「Une」は不定冠詞数詞で「一つの」つまり「一羽の」。
「hirondelle」は女性名詞で「燕(つばめ)」。
「fait」は faire の現在3人称単数。
ne... pas は否定
「printemps」は男性名詞で「春」。ちなみに、語源は premier temps(最初の季節)。

【他のバージョン】 最近は、不定冠詞数詞の Une の代わりに定冠詞をつけて言うことも増えているようです。

  • L'hirondelle ne fait pas le printemps.

しかし、こうすると「一羽の(...だけ)」というニュアンスが消えてしまい、諺の意味が不明瞭になってしまいます。

【英語の諺】 英語では「春」ではなく「夏」となっています。

  • One swallow does not make a summer.
    一羽の燕は夏を作らない。

ただし、イギリスでも実際には燕は春にやってくるそうです。イギリスの定評ある諺辞典 English Proverbs Explained, p.135 には次のように説明されています。

  • 燕は渡り鳥で、イギリスには 4 月にやって来て、9 月になると暖かい地方に向けて去っていく。イギリスに関して言うなら、「夏」というよりも「春」と言ったほうが正確である。

これについて、北村・武田 (1997) では次のように説明されています。

  • 渡り鳥のツバメは、イギリスの初夏の風物詩となっている。しかし、飛来するのは四月だから、厳密には spring だが、季節を夏冬の二シーズンでとらえる意識が強いので、見出しの表現が定着している。

ドイツ語の諺でも「夏」(Eine Schwalbe macht noch keinen Sommer.)、スペイン語の諺でも「夏」と言います(山崎・カルバホ (1990), p.254 ; 並松 (1986), p.328, 448)。

古代ギリシアでは、イソップ物語では「夏」、アリストテレスでは「春」と書かれています(下記)。

【由来】『イソップ物語』に「放蕩息子と燕」という話があります(岩波文庫『イソップ寓話集』、中務哲郎訳、p.137 から引用)。

  •  放蕩息子が親譲りの財産を食い尽くし、残るはマント一枚となったが、季節はずれの燕が現れたのを見ると、はや夏が来て、もうマントも要らないと考え、これまで持ち出して売ってしまった。しかし、この後冬が戻り、凍てつく寒さの中を若者はうろついていたが、燕が落ちて死んでいるのを見つけて言うには、
     「燕よ、お前のお蔭で私もお前もお終いだ」
     時節はずれになされることはすべて失敗する、ということをこの話は説き明かしている。
    フランス語のシャンブリ版は Wikisource でも閲覧可能。

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第1巻第7章でも、ほぼこの諺と同じ文が出てきます。岩波文庫『ニコマコス倫理学』(上)では p.34 に記載されていますが、ここでは柳沼重剛訳を引用します。

  • 一羽の燕、ある一日が春をもたらすのではなく、同様に至福な人、幸福な人も、一日で作られるわけではない。

ただし、諺の意味・用法は、現代のフランス語や英語とは異なっていたらしいことが、この引用文からも理解されます。

このギリシアの諺は、1500年に初版が出たエラスムス『格言集』 I, vii, 94 (694) では、Una hirundo non facit ver. というラテン語に訳され、紹介されています。これが各国語に訳され、広まったのかもしれません。

フランス語では16世紀から「Une arondelle ne faict pas le printemps」(古い綴り)などの形で確認されます。
仏仏辞典では1690年のフュルチエールの辞典に表題と同じ形で収録されています。

【似た表現】「一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)す」



Un sou est un sou.

【逐語訳】「1 スーは 1 スーだ」
(1円は1円だ)

【似た諺】「塵も積もれば山となる」「一円を笑う者は一円に泣く」

【諺の意味】仏和辞典で sou を引くと、熟語欄に次のように書かれています。

  • 『ディコ仏和辞典』:「無駄遣いはするな」
  • 『ロワイヤル仏和中辞典』:「わずかな金も大事にせよ」
  • 『プログレッシブ仏和辞典』:「一円を笑う者は一円に泣く」
  • 『小学館ロベール仏和大辞典』:「一銭たりともむだにするな」

また仏仏辞典 TLFi には「たとえ小額でもお金は浪費してはならない」という意味だと書かれており、例文として「1スーは1スーであり、1日1スーでも1年では18フランになる」というような意味の文が載っています(たしかに1スー=5サンチームとすると、5サンチーム×365日= 1825サンチーム=18.25フランとなり、18フランを超え、つもりつもって大金となります)。

Rey/Chantreau, p.843 では、このことわざは小市民(プチ・ブルジョワジー)的な倹約の原理の一つを示すものだと指摘されています。また、節約の礼賛という意味で Il n'y a pas de petites économies.(小さな倹約というものは存在しない)という他のことわざと共通しており、逆に守銭奴的な(ケチケチしすぎている)態度を批難するような意味の les économies de bouts de chandelle(ろうそくの端の節約、日本の「爪に火をともす」に相当)という成句表現とは反対のニュアンスをもつというようなことが指摘されています。

【使い方】現在では、お金に細かすぎる人に対して、皮肉っぽく使われることもあります。
つまり、上で触れた les économies de bouts de chandelle(ろうそくの端を節約する)に似た、否定的なニュアンスでも使われるようになっているといえそうです。(以上 2015/8/1 一部加筆)

【背景】「スー」は昔の貨幣単位。
sou という言葉の語源は古代ローマの solidus(ソリドゥス金貨)にさかのぼり、これが中世フランス語で sol に変化し、17~18世紀頃に sou に変化したようです。
大昔は1スー硬貨は金貨でしたが、次第に銀貨になり、銅貨になり、最終的にはごくありふれた安価な合金製になっていきますが、それを見てもわかるように時代とともにスーは貨幣価値が下がっていったようです。

フランス革命時に「フラン(franc)」が主要貨幣単位に採用されると、1フラン(franc)= 100サンチーム(centime)となり、1スーは5サンチーム相当とされます。
(ちなみに centime は centième(100分の1)という意味で、主要貨幣単位の100分の1であることを表し、現在は100分の1ユーロを意味します。英語の cent(セント)が100分の1ドルなのと同様)。

1スー硬貨は1940年で鋳造中止になりますが、大きく5Cと書いてあって(Cはサンチームの略)、真ん中に穴が開いていたので、日本の5円玉のような感じだったようです。そのため、本当は「5円は5円だ」と訳したい気もします。

【図版】この諺を扱った絵葉書があります。

【単語の意味と文法】「sou」は男性名詞で前述の貨幣単位の「スー」(前置詞 sous(~の下で)と同じ発音)。
「est」は être の現在3人称単数。

次のように言うこともあります。

  • Un sou, c'est un sou.
    逐語訳すると「 1 スー、それは 1 スーだ」。
    これは細かく言えば文頭の「Un sou」を「c'」で受け直す一種の「遊離構文」

【諺の由来】比較的最近できた諺のようです。19世紀までの諺の本には見当たりません(恐らく19世紀後半以降に広まり始めた表現のようです)。
『アカデミーフランセーズ辞典』では第8版(1932-1935)に記載されています。

【英語の似た諺】A penny saved is a penny earned.
    (節約した1ペニーは稼いだ1ペニーと同じだ)

Un train peut en cacher un autre.

【逐語訳】「ある列車は他の列車を隠していることがある」

【意訳】「気をつけろ 列車のあとに また列車」

【背景】もともと、線路横断中の事故をなくすための交通スローガンです。
フランスの踏切には、この表現を記した看板が設置されています(passage à niveau(踏切)という言葉を Google で画像検索すると、この看板の写真がいくつか出てきます)。

実際問題として、同じ方向から続いて 2 つの列車が来ることはありえないので、「片方からくる列車が目の前を通過している間に、それに隠れて、反対方向から列車が近づいてくることがある」という意味です。

そのため、「単線」の路線の踏切には、おそらくこの看板は設置されておらず、上り線と下り線の二本の線路がある「複線」の踏切だけに設置されているはずです。

電車が接近すると、遮断機の丸いランプが赤く点滅します。日本のように、どちらの方向から列車が来るのかを示す矢印はついていないので、横断する人は左右を見渡す必要があります。

【諺の意味】比喩的に次のような意味で使われます。

  • 「ある現実が他の現実を見えなくさせていることがある」 (TLFi)
  • 「見かけの事柄が本当の状況や原因を隠していることがある」(Rey/Chantreau, p.882)
  • 「これにはとんでもない裏があるかもしれない」(『ディコ仏和辞典』

【フランス語の似た諺】次の諺に似ています(Duchesne (2003), p.94で指摘)。

  • Les apparences sont souvent trompeuses.
    しばしば見かけは人をあざむく。
    「trompeuses」は形容詞 trompeur の女性複数の形。
    こちらも「見かけは当てにならないことが多い」という意味の有名な諺ですが、文字通りの意味で、あまり解説のしがいがないので、本ホームページではまだ取り上げていません。

【単語の意味と文法】「train」は「列車」。英語にも同じ綴りで入っています。
「peut」は pouvoir(~できる)の現在3人称単数。
「cacher」は他動詞で「隠す」。

その前の「en」は、後ろに「un autre」があるのでわかるように、「文法編」の「中性代名詞 en その 2:不特定の同類の名詞を指す en」「後ろに un(e) autre や aucun(e) などの(冠詞+)形容詞が残る場合」に該当します。
en を使わないで書き換えると次のようになります。

  • Un train peut cacher un autre train.
    ある列車は他の列車を隠すことがある。

英語に直訳すると、次のようになるでしょう。

  • One train may hide another one.

英語の「another one」は、フランス語では中性代名詞の en を使用し、「en... un autre」という言い方をします。
「autre」は形容詞で「他の」。

なお、Attention ! (「注意!」「気をつけろ!」という意味)を前につけて言うこともよくあります。

  • Attention ! Un train peut en cacher un autre.
    「 ! 」を省略し、「Un」を小文字にして、つなげて言うことも可能。

【由来】もとは、線路横断時の事故をなくすために、フランス国鉄(SNCF)が採用したスローガンです。
現在のような遮断機のある踏切が広まる以前、まだ蒸気機関車が走っていた頃に作られたようです(関連する絵葉書の絵を参照)。

この交通スローガンが非常に広まったために、比喩的な文脈でも使われるようになり(Rey/Chantreau, p.128)、「諺化(ことわざか)した」(Schapira (2000), p.87)、つまり「諺としての価値を持つようになった」(Duchesne (2003), p.94)表現です。

【日本の似た表現】 次のような交通スローガンに似ています。

しかし、この日本のスローガンは、文字どおりの意味でのみ使われ、比喩的に使われることはないようです(つまり、日本では「諺化」していないようです)。
そのため、日本の諺辞典には載っていません。

【諺もどき】「train」(列車)の代わりに他の名詞を入れ、この諺を踏まえた表現を作ることも広く行われています。代表的なものを挙げてみます。

  • Un problème peut en cacher un autre.
    ある問題は、他の問題を隠していることがある。

  • Un scandale peut en cacher un autre.
    あるスキャンダルは、他のスキャンダルを隠していることがある。
    よくニュースなどで、「またまたスキャンダルが発覚」という場合に使います。

  • Un mensonge peut en cacher un autre.
    ある嘘は、他の嘘を隠していることがある。
    これに似た他のフランス語の諺に、Qui dit un mensonge en dit cent.(1つ嘘をつく者は100の嘘をつく)というのがあります。

他にも色々作ることが可能です。注意点としては、

  • 主語が女性名詞なら Une ... peut en cacher une autre. とします。
    次の【諺をもじった映画】の項目の文を参照。

  • 主語が複数名詞なら Des ...peuvent en cacher d'autres. とします。
    この「d'」は、後ろに形容詞が残る場合にその前につく de であるともいえますが、「複数の形容詞+複数の名詞」の前では、不定冠詞 des は de になるという規則によるものだとも説明できます。例えば、上記の最初の例の主語を複数形にすると、Des problèmes peuvent en cacher d'autres. となります(これを「en」を使わないで書き換えれば Des problèmes peuvent cacher d'autres problèmes. となります)。

【諺をもじった映画】1983年に、次のような題名の映画が公開されました。

  • Attention ! Une femme peut en cacher une autre
    気をつけろ! ある女は、他の女を隠していることがある

この映画は、夫が行方不明になったのちに再婚した女性が主人公で、再婚後に前の夫が現れ、二重生活を送ることになった話がコミカルなタッチで描かれています。

つまり「女はもう一つの隠れた顔を持っていることがある」というような意味です。

Un verre, ça va, trois verres, bonjour les dégâts.

【逐語訳】 「1 杯なら大丈夫でも、3 杯飲めば大惨事」

【諺の意味】 「お酒の飲みすぎには要注意」

【由来】 現在の INPES(Institut national de prévention et d'éducation pour la santé、国立予防・健康教育研究所)の前身である政府機関 CFES(Comité français d'éducation pour la santé、フランス健康教育委員会)が 1984 年に展開した節酒キャンペーンのスローガンです。テレビ CM で盛んに流されたため、今や誰もが知っている言葉となっています。ほとんど諺といえるでしょう。

もともとは「3 杯」ではなく「2 杯」で、

  • Un verre, ça va, deux verres, bonjour les dégâts.
    1 杯なら大丈夫でも、2 杯飲めば大惨事

だったようで、1970 年代に飲酒運転撲滅のために作られたようです。
このスローガンを作った人の意図は、車を運転するときに「1 杯なら飲んでもよい」という意味ではなく、多分「1 杯ぐらいなら大丈夫と思って飲み始めても...」と言おうとしたのでしょう。

【発音】 INA(フランス国立視聴覚研究所)のユーモラスな動画で、発音も聴くことができます。

【日本の似た諺】 「3」という数字に着目すれば、一見するとまったく異なる次の日本の諺と発想が似ているといえるかもしれません。

  • 仏の顔も三度まで

【単語の意味】 「verre」は女性名詞で「ガラス、グラス(コップ)」。
「un verre」で「1杯」ですが、特にお酒「一杯」という意味でよく使われます。
「trois verres」で「3 杯」。

「ça va」はフランス語会話を習うと最初に出てくる言葉で、

  « Ça va ? - Ça va.» (「元気?」 「元気だよ」)

という意味でよく使われますが、「大丈夫」という意味にもなります。
「va」は自動詞 aller (行く)の現在(3人称単数)なので、「ça va」は辞書で aller を引くと熟語欄に載っています。

「dégât」は男性名詞で「被害、損害」。主に複数形で使われる単語です。

「bonjour」は「こんにちは」。その後ろに人名などを置けば、「こんにちは、~さん。」となりますが、人名ではなく普通名詞を置いて「bonjour + 定冠詞 + 名詞」とすると、少し変わった意味になり、あまり出会いたくない事柄(「こんにちは」したくない事柄)について皮肉な意味で使われます。仏和辞典で bonjour を引くと、次のように記載されています。

  • 『プログレッシブ仏和辞典』:《皮肉に》「結構な ...だよ」(予想に反してひどい目に遭ったときに言う)
  • 『クラウン仏和辞典』:(災厄、困難の到来に対して)「とんだ ...だ」
  • 『ディコ仏和辞典』:「ひどい ...が生じる」

この最後の訳を使ってこの諺を直訳すると、「1 杯、大丈夫、3 杯、ひどい被害が生じる」となります。

さらに言えば、bonjour les dégâts で熟語と取ることもでき、例えば『クラウン仏和辞典』で dégât を引くと、熟語欄に「危険だぞ、ひどいことになるぞ」と書かれています。
ただし、いろいろな訳が可能で、例えば「大惨事になる」、「大惨事を招く」、「惨憺(さんたん)たる結果になる」ともいえます。
例えば、『ディコ仏和辞典』では例文として、

  • Ce matin, il y avait du verglas sur l'autoroute : bonjour les dégâts.
    今朝は高速道路が凍結して、あちこちひどい事故だった。

と書かれていますが、場合によっては「大惨事だった」とも訳せます。

【諺もどき】 Wikipédia の « Liste de faux proverbes » (諺をもじった言葉遊びを集めたもの)に、次のような言葉が載っています。

  • Un verre, ça va, trois verres, ça va, ça va, ça va !
    1 杯、大丈夫、3 杯、だいじょぶ、だいじょぶ、だいじょぶ!

3 回繰り返される「ça va」は、ろれつが回らなくなっている酔っ払いの言葉を思わせます。

【図版】 この諺を扱った絵葉書があります。

Ventre affamé n'a point d'oreilles.

【逐語訳】 「空腹は耳を持たない」

【意訳】 「腹が減っては聞く耳持たぬ」

  • この訳は今野一雄訳『ラ・フォンテーヌ 寓話(下)』岩波文庫 p.198 から拝借しました。日本の「腹が減っては戦はできぬ」を連想させるという点で名訳といえます。

【諺の意味】 「腹が減っている人に向かって、何を言っても無駄だ」

【由来】 古代ローマの執政官だった大カトー(紀元前234-149年、仏語 Caton l'Ancien)の言葉とされています。贅沢に慣れていたローマ人の暮らしを非難したカトーは、また弁論に優れていたことでも有名で、紀元後 1~2 世紀のギリシア人プルタルコスは『対比列伝』の中でカトーの逸話として次のような話を書きとめています。

  • かつてローマの民衆が時ならぬ折に穀物の分配を要求したとき、これを阻止しようとして次の句で始まる演説をした。「市民諸君。耳をもたぬ胃の腑に向って語るのはむずかしいことであるが。」
    プルタルコス『英雄伝』、ちくま学芸文庫、中巻、p.264、村川堅太郎訳による。ちなみに、同じプルタルコスの『ローマ人の金言』198dには、大カトーの言葉として、「腹にむかってものを言うのはむずかしい。あいつには耳がないので」が収められています(柳沼 (2003), p.65による)。また、岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』のラテン語の部には、venter famelicus auriculis caret.(飢えたる腹は耳を欠く)という大カトーの言葉と並んで、このフランス語の諺に近い venter non habet aures.(腹は耳を持たず)も載っています。

1500 年に初版が出たエラスムスの『格言集』 I, viii, 84 (1784) にも Venter auribus caret (腹は耳がない)が収録されており、このカトーの言葉はプルタルコス等によって有名になったと書かれています。

フランス語では、エラスムスを愛読したラブレーの『第三之書』第15章に次のように出てきます。

  • 飢えし腹に耳あるためしなし、とも申しましてな。
    『ラブレー第三之書 パンタグリュエル物語』、渡辺一夫訳、岩波文庫 p.104 による。原文は Le ventre affamé n'a poinct d'aureilles. という現代とほとんど同じ形になっています。『ラブレー第四之書』第63章にも「飢えた胃腑には耳がない故に、人の言うことはとんと聞えぬものだからな。」という言葉が出てきます(渡辺一夫訳、岩波文庫 p.283)。

17世紀のラ・フォンテーヌは、この諺をイソップ寓話に由来する夜鳴き鶯(ナイチンゲール)の話と重ね合わせました。
ラ・フォンテーヌ『寓話』第9巻18話は次のような話です。

  • あるとき、夜鳴き鶯が鳶(とんび)にとらえられてしまった。夜鳴き鶯は、「美しい歌をお聴かせしますから、どうか私を食べないで、歌を聴いてください」と命乞いをしたが、腹が減っていた鳶は「腹が減っては聞く耳持たぬ」と言って、食べてしまった。
    夜鳴き鶯(英語:ナイチンゲール、和名:サヨナキドリ)はフランス語で rossignol (ロスィニョル)といい、日本の鶯(うぐいす)に匹敵する美しい声で鳴くヨーロッパの鳥。ラ・フォンテーヌの原文は jdlf.com などで閲覧可能。ちなみに、元になった『イソップ寓話集』の「ナイチンゲールと鷹」(岩波文庫 p.24)では、話は似ていますが教訓の部分が異なり、この諺は出てきません。

このラ・フォンテーヌの話が有名になり、『寓話』の原文で出てくる夜鳴き鶯のせりふとまったく同じ形が定着し、現在に至っています。

アカデミーフランセーズ辞典』では、第 1 版(1694)から第 8 版(1932-1935)までは一貫してラ・フォンテーヌとまったく同じ形で収録されていますが、最新の第 9 版(1992)では point の代わりに pas を使った次の形になっています。

  • Ventre affamé n'a pas d'oreilles.

【単語の意味と文法】 「Ventre」は男性名詞で「腹」。
「affamé」は形容詞で「飢えた、ひどく腹が減った」と辞書に載っていますが、もとは他動詞 affamer (飢えさせる、ひどく空腹にさせる)の過去分詞で、これは女性名詞 faim (空腹、飢え)という基本的な単語から派生しています。
「Ventre affamé」で「飢えた腹」「ひどく減った腹」ですが、要するに「(ひどい)空腹」です。

「n'... point」で「まったく... ない」
ただし、昔(特に 17 世紀)は ne... pas の代わりに ne... point が普通に使われていたので、「まったく」は訳す必要はないかもしれません。
現代では、point の代わりに pas を使うこともありますが(前述)、しかし上記のラ・フォンテーヌの話が有名なこともあって、依然として point もよく使われています(『プチ・ラルース 2013』など)。

「a」は他動詞 avoir (持っている)の現在(3人称単数)。
「d'」は、「否定文では直接目的語には de をつける」ことによる冠詞の de
「oreille」は女性名詞で「耳」。左右2つあるというイメージから複数形の s をつけますが、この諺は「oreille」を単数形にして次のように言うこともあります。

  • Ventre affamé n'a point d'oreille.
  • Ventre affamé n'a pas d'oreille.

辞書で oreille を引くと、単数形で使われる表現(特に熟語表現)が色々載っています。これは、通常、耳を傾けようとすると片方の耳をそばだてるイメージがあるからかもしれません(また「聴覚」という抽象的な意味でも単数形を使います)。

【英語訳】 英訳すると次のようになります。

  • A hungry belly has no ears.
    ただし、18世紀のAbel Boyerの仏英辞典に表題のフランス語の英訳として載っている以外は、現代の英語の諺辞典にはほとんど載っておらず、英語としてはあまり一般的ではないようです。

【図版】 「絵葉書」のページを参照。

Voir Naples et mourir.

【逐語訳】 「ナポリを見ること、そして死ぬこと」
(ナポリを見てから死ね)

【諺の意味】 ナポリを見ることができたら、あとは死んでも悔いはない。
死ぬ前に(一生に)一度はナポリを訪れるべきだ。それほどナポリは素晴らしい。

【単語の意味と文法】 「Voir」は他動詞で「見る」。
「Naples」はイタリアの都市ナポリ(のフランス語での言い方)。
「et」は接続詞で「そして」。
「mourir」は自動詞で「死ぬ」。

「Voir」と「mourir」は、どちらも不定詞ですが、命令を表わします。
もともと不定詞は「~すること」というように、動詞を名詞化する働きがありますが、日本語でも「~すること」という表現が命令の意味になることがあるのと同様、フランス語の不定詞も、(目の前にいるのではない)「不特定多数の人に対する命令」の意味で使われることがあります。
この用法は、例えば道路標識や取扱説明書などで多用されます。
あるいは、例えば「Voir page 33」は、直訳すると「33 ページを見ること」ですが、「33 ページを参照」、つまり「33 ページを見なさい」という、不特定の読者に対する一種の命令になります。

【由来】 もとはイタリア語の諺です。イタリア語では、次のように(2人称単数に対する)命令形を使って言います。

  • Vedi Napoli, e poi muori ! (ナポリを見ろ、そして死ね)

『プチ・ラルース 2013』(ピンクのページ)でも、このイタリア語のまま掲載されています。
フランス語に逐語訳すると、次のようになります。

この諺の背景としては、次のような説があります(『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.1181 による)。

  • イタリアの古くからの諺で、ナポリ以上に美しいところはこの地上に残っていない、という意味であるが、別のしゃれにもなっていて、かつてナポリは腸チフスとコレラの流行の中心地であったということが示唆されている。

もう一つの説としては、ナポリのヴェスヴィオ(ヴェズーヴィオ)火山のふもとにモリーレ(Morire)という町があり、この「Morire」というのはイタリア語で「死ぬ」という意味なので、「ナポリに行ったら、次にモリーレに行き、ヴェスヴィオ火山を見ろ」という意味が掛けられている、とする説もあります。

1787 年にドイツの文豪ゲーテが『イタリア紀行』の中で次のようにこの諺を書き留めたことで、イタリア以外の国でもこの諺が有名になったようです(相良守峯訳、岩波文庫、中巻、p. 23)。

  • ずいぶんとたびたび書き立てられ、褒めそやされたこの町の風光や名所については、改めて記すことはなかろう。 „Vedi Napoli e poi muori !" と土地の人は言っている。「ナポリを見てから死ね!」

フランス語では、19 世紀の小説家アレクサンドル・デュマの作品に表題の形で何度か出てきます。

【他のバージョン】 「ナポリ」が本家本元ですが、代わりに他の都市名を入れて言うこともあります。

  Voir Rome et mourir. (ローマを見てから死ね)
  Voir Venise et mourir. (ヴェニスを見てから死ね)

フランス語では特にヴェニス(ヴェネツィア)がよく使われます。これは、ヴィスコンティの映画(原作はトーマス・マンの小説)『ヴェニスに死す』(仏題 Mort à Venise )の連想からかもしれません。

また、「パリ」にすることもあります。特にロシア人にとっては昔からパリはあこがれの街なので、ロシアでは次のように言うこともあるようです。

  Voir Paris et mourir. (パリを見てから死ね)

こうなってくると、日本の都市名も入れたくなりますが、死ぬほど美しいと思える街でないと、なかなかサマになりません。例えば、

  Voir Kyoto et mourir. (京都を見てから死ね)

【日本の似た諺】 「日光を見ずして結構と言うなかれ」
(東照宮の建築の美しさを言ったもので、いうまでもなく「日光」と「結構」が韻を踏んでいます)

【諺もどき】 この諺をもじって、都市名の代わりに、絵画や映画の作品名・作者名を入れることもできます。

  Voir la Joconde et mourir. (モナリザを見てから死ね)
  Voir Steven Spielberg et mourir. (スティーブン・スピルバーグを見てから死ね)

【図版】 この諺を扱った絵葉書があります。

Vouloir c'est pouvoir.

【逐語訳】 「望むことは、できることだ」

【日本の諺】 「精神一到何事か成らざらん」

日本のことわざ辞典や仏和辞典では、のきなみ「精神一到何事か成らざらん」という訳が宛てられており、その漢文調の勇壮な語感と知名度から、このフランス語の諺は、特に日本人に人気のある諺となっているようです(フランス人でも、この諺は勇気づけられるから好きだという人は少なくありません)。

ただ、元のフランス語の諺は「望めばできる」程度の意味であり、「精神一到何事か成らざらん」に匹敵するような勇壮な語感を持っている(なおかつ好まれている)のは、むしろ次の【似た諺】で挙げる諺かもしれません。

【似た諺】 A cœur vaillant rien d'impossible.

【単語の意味と文法】 「Vouloir」は、普通はいわゆる「準助動詞」で「~したい」という意味ですが、ここでは本動詞として使われており、「~を欲する、~を望む」という意味です。ただし、他動詞なのに「~を」に相当する直接目的語が例外的に省略されています。
「Vouloir」は不定詞なので、「~すること」という意味になります。
文全体の中では、「Vouloir」は文頭に「遊離」しており、これを指示代名詞「c'」で受け直しています。
「欲すること、それは...」というのが一番元のフランス語に近い感じです。
「est」は être の現在(3人称単数)。
「pouvoir」は「~できる」。 vouloir と同様、普通は「準助動詞」として使いますが、ここでは本動詞として使われており、やはり「~を」に相当する直接目的が例外的に省略されています。

【英訳】 To want to is to be able to.

【他のバージョン】 次のように言うこともよくあります。

【英語の諺】 Where there's a will there's a way. (意思があるところには道がある)

【由来】 主に19世紀になってから使われ出したようです。

最初期の用例としては、1835年にアルフレッド・ド・ミュッセが「両世界評論」誌に発表した『バルブリーヌ』第1幕第4場に、次のような言葉が出てきます(TLFi で引用)。

  • 世の中で成功するためにはですな、ローゼンベルグ侯、この三つの金言をよく肝に銘じて置くべきですよ。つまり、見るは知る也。望むは出来る也。あえて行うは得る也とな。
    加藤道夫訳『マリアンヌの気紛れ 他一篇』 岩波文庫p.94による(この「他一篇」が『バルブリーヌ』です)。下線引用者。

関連する部分の原文と逐語訳は次のとおりです。

  • voir, c'est savoir ; vouloir c'est pouvoir ; oser, c'est avoir.
    見ることは、知ることだ。望むことは、できることだ。あえて行うことは、持つことだ。

この文自体が「ミュッセの名言」として引用されることもありますHarbottle & Dalbiac (1904), p.235など)

ただし、ミュッセの戯曲は、もともと読むために書かれたもので、上演されたのはずっとあとになってからなので、この諺が社会的に広まるきっかけになったかどうかは、微妙なところです。

むしろ、この2年後の1837年、アンスロ(Jacques-François Ancelot, 1794-1854)とコンブルース(Alexis de Comberousse, 1793-1862)の合作による、その名もずばり Vouloir c'est pouvoir という題名の2幕喜劇が上演されています。
こちらのほうが、文学性はともかく、この諺が広まる上で大きな役割を果たした可能性が考えられます。

アカデミー辞典』では、第8版(1932-1935)になって初めて収録されています。












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