北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-3
やさしい諺(ことわざ) 3 ( La ~ Lem )
La faim fait sortir le loup du bois.
【逐語訳】「空腹は狼を森から外に出させる」
【諺の意味】「困窮や必要に迫られれば、通常は取らないような行動を取るものだ」(背に腹は代えられぬ)。
あるいは、「好奇心や誘惑に駆られれば、リスクを犯してでも大胆な(恥ずべき)行動を取る(本性を現す)こともある」。
【単語の意味と文法】「faim」は女性名詞で「空腹、飢え」。
「fait」は faire の現在3人称単数。faire は普通は英語の do と make を合わせた意味ですが、ここでは後ろに不定詞がきているので、英語の make と同様に「~させる」という「使役動詞」。
「sortir」は自動詞で「外に出る」。ここでは使役動詞と組み合わさっているので「外に出させる」。
「loup」は男性名詞で「狼(おおかみ)」。
「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形。
この前置詞 de は、ここでは「~から」(英語の from)。
sortir de~(~から外に出る)という使い方がベースにあります。
「bois」は男性名詞で「森」。
【他のバージョン】「fait sortir」の代わりに chasse を使うこともあります。
- La faim chasse le loup du bois. (空腹は狼を森から駆り立てる)
「chasse」は他動詞 chasser(駆り立てる、追い払う)の現在3人称単数。
また、「du」の代わりに hors du(「~から外に」という意味の前置詞句)を使って、それぞれ次のように言うこともあります。
- La faim fait sortir le loup hors du bois.
- La faim chasse le loup hors du bois.
前置詞 de には色々な意味がありますが、hors de を使えば意味は一つに絞られます。
【由来】中世から存在する諺です。
Le Roux de Lincy の本では13世紀の写本の古い形(La faim enchace le loup du bois)が紹介されており、また1317年頃の写本にも確認されます(Morawski, N°1000)。
1429年頃に詩人アラン・シャルチエがジャンヌ・ダルクによるオルレアン解放の頃に書いた「希望の書」にも出てきます(DMF, s.v. « saillir » による)。
有名なところでは、15世紀の詩人フランソワ・ヴィヨンの『遺言詩集』21 に出てきます。
- 窮乏が 人の行為を 誤らせ、
空腹が 狼を森から 踊り出させる。
日本語訳は鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』岩波文庫 p.59 による。
【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵があります。
La fin couronne l'œuvre.
【逐語訳】「仕上げが仕事に栄冠を授ける」
【似た諺】「有終の美」「画竜点睛」
フランス語では、
【英語の諺】The end crowns the work.
【単語の意味】「fin」は女性名詞で、ここでは「終わり」。「仕上げ」と訳すこともできます。
「couronne」は「栄冠を授ける」という意味の他動詞 couronner の現在3人称単数。
「œuvre」は「仕事」「作品」という意味の女性名詞。「作品」とも取れますが、とりあえず意味を狭めないように「仕事」としておきます。 œ は o と e がくっついた文字。
【他のバージョン】「La fin(終わり、仕上げ)」を強調するために、強調構文を使って次のように言うこともあります。
- C'est la fin qui couronne l'œuvre.
仕事に栄冠を授けるのは仕上げだ。
仕上げこそが仕事に栄冠を授ける。
もとの文の主語を強調しているので、「c'est ~ qui...」を使用します。
訳は、強調構文の訳し方により、2通り可能。
【フランス語の由来】15世紀前半の E. ルグリの諺集(éd. Langlois, N°358)に「La fin loe l'oeuvre.」(仕上げが仕事をたたえる)と書かれています(Morawski, N°1002 にも収録)。
La fin justifie les moyens.
【逐語訳】目的は手段を正当化する。
【意味と使い方】「崇高な目的のためには、時には汚い手段を使うことも許される」。自分の行為を正当化するときに使われます。
【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。
【単語の意味と文法】「fin」は女性名詞で、ここでは「目的」。
「justifie」は他動詞 justifier(正当化する)の現在3人称単数。
「moyen」は男性名詞で、ここでは「手段・方法」。
fin と moyens が韻を踏んでいます。
【似た諺】多少ニュアンスは異なるかもしれませんが、
- Qui veut la fin veut les moyens.
目的を望む者は手段を望む。
「Qui」は「celui qui の celui の省略」で、「celui qui」で「...な人は」。「veut」は vouloir(~したい)の現在3人称単数で、ここでは「欲する」という本動詞。
「目的を達成しようと望むなら、手段にこだわっているべきではない」という意味で、どらかというと多少汚い手段でも「使うべきだ」、「使う必要がある」という方に重点が置かれるようです (Cf. Rey/Chantreau, p.418)。
【英語の諺】 The end justifies the means.
【バリエーション】この諺は「目的のためなら何をやってもかまわない」というふうに濫用される危険をはらんでいます。
そこで、これに反対するために、否定文にして使うこともあります。
- La fin ne justifie pas les moyens.
目的は手段を正当化しない。
こうすると「目的が崇高だからといって、汚い手段を使ってもいいということにはならない」という意味になります。
こちらの方が好きだという人も多いのではないでしょうか。
La fortune vient en dormant.
【逐語訳】「財産は眠っている時にやって来る」
【日本の諺】「果報は寝て待て」
【単語の意味と文法】「fortune」は女性名詞で「財産」または「運」。
「vient」は自動詞 venir(来る)の現在3人称単数。
「dormant」は自動詞 dormir(眠る)の現在分詞。
「en + 現在分詞」でジェロンディフ。
ここでは、「眠りながら」というよりも、分詞構文の意味としては「時」の意味に取って「眠っている時に」としたほうが自然です。
細かいことを言うと、ジェロンディフ(あるいは一般に分詞構文)を作る分詞(ここでは dormir )の意味上の主語は、通常は主節の主語(ここでは La fortune )と同じにしますが、ここでは「財産が眠る」わけではないので、その意味では規則に反しています。特に昔はこの規則はあまり厳密ではなかったので、その頃の名残りです(英文法では「懸垂分詞」「懸垂分詞構文」とも呼ばれます)。
【他のバージョン】 「La fortune」の代わりに、同じ意味の Le bien を使って言うこともあります。
- Le bien vient en dormant.
「bien」は、ここでは名詞化した「善、財産」という意味。
【エピソードと図版】古代ギリシアのアテネの将軍ティモテウスは、「幸運の絶頂にあってやすやすと諸都市を攻略」(アイリアノス『ギリシア奇談集』第2巻第10章、松下・中務訳、岩波文庫 p.61)したので、「人々は眠っている彼が握っている網の中に、幸運の女神が街を押し入れている図を想像して描いた」そうです(Quitard (1861), p.140)。
17世紀中頃の J. ラニエの版画でも、男が眠っている間に、幸運の女神が城などの建物を網ですくい取ってくれている図が描かれています。
La montagne accouche d'une souris.
【逐語訳】「山が鼠を出産する」
【日本の諺】「大山鳴動して鼠一匹」
- これは西洋起源のことわざなので、「泰山」ではなく「大山」と書くのが適当です(下記【由来】の項を参照)。
【諺の意味と使い方】「山が地響きを立てたので、さぞかし大きな事件が発生するだろうと思われたのに、結局鼠が一匹出てきただけだった」というイソップ物語の話から、期待に反して失望させられるような結果に終わった場合に使います。
例えば、長時間にわたる首脳会談で大きな成果が期待されたのに、ほとんど目ぼしい成果がなかった場合に、新聞記事のタイトルとして使われたりします。
【由来】広い意味でのイソップ物語に由来する諺のようです。
作品として残されているのは、イソップよりもあとの時代の、ラテン語で書かれたファエドルス(紀元前14年頃~紀元後50年頃、仏語表記 Phèdre)の次の短い4行の寓話です。
- 山が産気づいて、おそろしい呻き声をあげていたので、
国中で最大限の期待をこめて見ていたところ
なんと、その山が生んだのは鼠一匹。この話は君に捧げよう、
何かどえらいことを仕出来すような前ぶれをしておきながら、何もしなかったのだから。
訳は小堀桂一郎『イソップ寓話』、中公新書、p.269による。同書には、「これも他の多くの寓話と同様、本源を遡れば純正にイソップその人に発するものではないのだが、ファエドルス以後イソップ寓話と見做されるに至ったものである」と書かれています。
羅仏対訳は M. E. パンクーク版 (1864) 第4巻21話 などで閲覧可能。
ホラティウス(紀元前1世紀)も『詩論』の中で、叙事詩の出だしで壮大な言葉を使って語り始めた場合は、えてして竜頭蛇尾に終わるという意味で、次のようにこの諺を取り上げています。
- このように大口を叩くなら、どんな作品を世に出せばその約束を果たしたことになるだろうか。山が出産しようとしているが、生まれてくるのはこっけいな鼠一匹だろう。
訳は『アリストテレース 詩学 ホラーティウス 詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫p.238による。
16世紀のラブレー『第三之書』第24章にも、このホラティウスの記述を踏まえた話が出てきます。
17世紀にラ・フォンテーヌが『寓話』第5巻第10話「お産をする山 (La Montagne qui accouche)」を書き、この話が有名になりました。短い話なので、ざっと訳してみます。
- 陣痛に苦しむ山が
とても大きな叫びを上げていたので
誰もがその声を聞きつけて駆け集まり、
その山は間違いなく
パリよりも大きな街を産み落とすだろうと思った。
その山は一匹の鼠を産んだ。
この寓話は虚構ではあるが
意味的には真実を含んでおり、
私がこの寓話のことを考えるときに
思い浮かべるのは、次のように言ったある作者のことだ。
「これから私は歌おう、雷を支配する者 (*) に対して
巨人たちが挑んだ戦いのことを」。
ずいぶん大きな期待を抱かせる。しかしそこからしばしば出てくるのは何だろう?
風だ。
(*)「雷を支配する者」とは古代神話のゼウスないしジュピターのこと。下線をつけた「その山は一匹の鼠を産んだ」は、原文では Elle accoucha d'une Souris. となっています(原文は jdlf.com などで閲覧可能)。
最後の「風」は、ラ・フォンテーヌの原文では vent となっており、フランス語では「おなら、屁」という意味もあります。
- 岩波文庫の今野一雄訳(上巻 p.269)では「ガスのようなもの」と訳されています。
つまり、「大山鳴動しておなら一発」とも言えます。
【単語の意味と文法】「montagne」は女性名詞で「山」。
「accouche」は accoucher(出産する)の現在3人称単数。
この動詞は、基本的には前置詞 de と一緒に使う間接他動詞で、
accoucher de ~(~を出産する)
という使い方をします。
「souris」は女性名詞で「鼠」。
【他のバージョン】現在形ではなく過去形にすることもあります。
- La montagne a accouché d'une souris.
山が鼠を出産した。
「a accouché」は accoucher の複合過去。- La montagne accoucha d'une souris.
山が鼠を出産した。
「accoucha」は accoucher の単純過去。accoucher は第 1 群規則動詞なので、単純過去は a 型の活用をします。これはラ・フォンテーヌ『寓話』の原文の6行目とほぼ同じ形です。
また、『寓話』のタイトルを利用した次の言い方も使われます。
- C'est la montagne qui accouche d'une souris.
それは鼠を出産する山だ。
これは C'est ~ qui... という強調構文ではなく(「山」を強調しなければならない理由はないので)、単に「C'est ~(それは~だ)」という第2文型で、その属詞に関係代名詞が掛かっているだけです。ギユメ(引用符)を補って C'est « la montagne qui accouche d'une souris.» (それは「鼠を出産する山」だ) とすると、わかりやすくなります。
L'amour rend aveugle.
【逐語訳】「恋は盲目にする」
(恋は盲目)
【似た諺】「あばた(痘痕)もえくぼ(靨)」
【単語の意味と文法】「amour」は男性名詞で「愛」。
「rend」は他動詞 rendre の現在3人称単数。ここでは、
という使い方をしています。ただし、「rend」の後ろには「aveugle (盲目の)」という意味の形容詞一語しかありません。
実は、他動詞なのに例外的に直接目的が省略されています。全体の意味を変えずに直接目的を補うと、次のようになります。
L'amour nous rend aveugle. (恋は私達を盲目にする)
こうすると、「nous(私達を)」が A 、「aveugle(盲目の)」が B になります。
文の要素に分けると、「L'amour」が主語、「rend」が動詞、「nous」が直接目的、「aveugle」が属詞 の第6文型です。
「nous」は、とりあえず「私達を」と訳しましたが、「人を」と訳すこともできます(「恋は人を盲目にする」となります)。
なぜなら、不定代名詞 on には直接目的の形が存在しないので、nous で代用したと取ることもできるからです。
もともと不定代名詞 on は漠然と「人は」という意味で、本来あまり情報量の多い言葉ではないため、省略されたともいえます。
【他のバージョン】続けて、次のように言う場合もあります。これは、もとは 18世紀ドイツのリヒテンベルクの格言のようです(Maloux (2009), p.327 による)。
- L'amour rend aveugle, le mariage rend la vue.
恋は人を盲目にするが、結婚が視力を回復させる。
「mariage」は男性名詞で「結婚」。その後ろの「rend」は先ほどと同様に rendre の現在 3人称単数ですが、ここでは「返す、取り戻させる・回復させる」という意味で使っています。「vue」は voir の過去分詞 vu からできた女性名詞で、「見ること、視力、眺め」などの意味。英語に入ると view となります。
この諺ないし格言は、英語では次のように言います。
- Love is blind, but marriage restores its sight.
動詞は、前半で「is」、後半で「restores」を使用していますが、フランス語だと 2回とも「rend」を使えるので、語呂合わせ(押韻)の面では優れています。
【由来】 プラトン『法律』731e に次のように書かれています。
- なぜなら、愛する者は、愛の対象について盲目であり、自分のものを真なるものよりもつねに尊敬すべきだと考えて、その結果、正しいもの、善きもの、美しいものについての判断を誤るからである。
岩波文庫『法律(上)』、森進一、池田美恵、加来彰俊訳 p.291 から引用(下線引用者)。
L'âne frotte l'âne.
【逐語訳】「ろばがろばをこする」
【諺の意味】「馬鹿が馬鹿にお世辞を言う」、
「たいしたことのない者どうしが大げさに褒めあう」
【補足】ろばは、体がかゆいと、他のろばに体をこすりつける習性があるそうです。
フランス語(およびその他の多くのヨーロッパ語)では、「ろば」という言葉は「馬鹿」という意味でも使われるので、「馬鹿」が褒めあう(お世辞を言いあう)さまを、「ろばが体をこすりあっている」と表現するわけです。
「こする」(frotter) とは、ここでは「お世辞を言う」(flatter) の比喩です。
どちらも、気分がよくなるという点で共通しています。
- なお、この諺は形式上は「文」になっていますが、内容的には比喩による状況説明なので、狭義の「諺」というよりも、むしろ「成句」だといえます。
【単語の意味と文法】「âne」は男性名詞で「ろば」。「馬鹿」という意味もあります。
「frotte」は他動詞 frotter(こする)の現在 3人称単数。
【ラテン語】 現代のフランス人は、次のラテン語も知っているはずです。
- asinus asinum fricat
ろばがろばをこする
発音は「アスィヌス アスィヌム フリカット」。
これは、仏仏辞典『プチ・ラルース』の「ピンクのページ」にまとめられている「ラテン語・ギリシア語・外国語の成句」の部に掲載されています(つまり、フランス人やフランス語学習者が暗記しておくべきラテン語の表現とされています)。
ただし、このラテン語は近代になってから作られたようです。
【由来(ラテン語)】古くは「ろば(驢馬)」ではなく「らば(騾馬)」(ろばと馬を交配してできた動物)を使った、次の形でした。
- Mutuum muli scabunt
らばが互いにこする
発音は「ムートゥウム ムーリー スカブント」。
紀元前1世紀のマルクス・テレンティウス・ウァロの『メニッポス風風刺詩』に確認されます(原文は ed. Riese, 1865 などで閲覧可能。 TPMA, Maultier 1 ; Érasme, Adages, éd. Les Belles Lettres, note du N°696 で引用)。
エラスムス『格言集』 I, vii, 96 (696) や『痴愚神礼讃』44章にも、これとまったく同じラテン語が出てきます。具体例として、『痴愚神礼讃』50章には、
- 「あなたはキケロよりも優れている」
「いやいや、あなたこそプラトンよりも頭がいい」
(原文:Bibliotheca Augustana)
などと相手をほめあっている「阿呆」が出てきます(『痴愚神礼讃』は、直訳すると『阿呆礼讃』ともいえます)。
【図版】この『痴愚神礼讃』の中に、二匹のらばがこすり合っている様子を描いた挿絵が出てきます。
【由来(フランス語)】このラテン語を受け、フランス語でも、もとは「らば」だったようです。1690年のフュルチエールの仏仏辞典には、次のように記載されています。
「らば」を「ろば」に置き換えた次の形は、18世紀頃に登場したようです。
- Un âne frotte l'autre.
ろばが他方のろばをこする。
18世紀の諺集である Le Roux (1718-) ; Panckoucke (1748) には、「Un mulet, ou un âne frotte l'autre」というように「らば」と「ろば」の両方が記載されています。
19世紀の D'Humières (1801) ; C. de Méry (1828) ; Ch. Cahier (1856) では「ろば」だけになっています。
ちなみに、キタール (1842)では次のようになっています。
- Un âne en gratte un autre.
ろばが他のろばを掻く。
この「en」は「中性代名詞」で、「文法編」の「後ろに un(e) autre や aucun(e) などの(冠詞+)形容詞が残る場合」に該当します。
アカデミー辞典では、第2版(1718) 以降、一貫して次の形で記載されています。
- Ce sont deux ânes qui se grattent.
あれは、掻きあっている二匹のろばだ。
最新の第9版(1992-)ではこの形は「古」とされています。
L'âne frotte l'âne. という形が登場したのは、19世紀になってからのようです。その最初期の用例の一つだと思われる『19世紀ラルース』では、ラテン語の「asinus asinum fricat」がそのまま見出しに載っており、次のように説明されています。
- L'âne frotte l'âne. を意味するラテン語の諺。互いに誇張した讃辞を贈りあう二人について言う。
これとまったく同じ説明は、上記『プチ・ラルース』にも受け継がれています。
現代では、 asinus asinum fricat = L'âne frotte l'âne. という形で定着していますが、この定着過程でラルースが果たした役割は決定的だったのではないかと想像されます。
【モリエール】この表現を意識した文学作品としては、ラ・フォンテーヌ『寓話』第11巻5話もありますが、むしろモリエールの喜劇『女学者』(1672年初演)第3幕第3場に出てくる、二人の作家がお世辞を言いあう場面が有名です。
そのまま引用すると長くなるので、適当に短くアレンジしてみます。
- 「あなたが作る詩は、本当にお美しい」
「いえいえ、あなたの詩こそ、愛と美の女神が宿っています」
「あなたの恋愛詩ほど、この世に甘美なものはありませんよ」
「いえいえ、あなたのバラードも絶品です」
といった調子で、えんえんと続くのですが、
- 「ところで、評判になっているあの詩については、どう思われますか」
「あれは箸にも棒にもかからない、実にくだらないものです」
「そんなことないでしょう、あれは私か作ったんですから」
「あなたが?」
「ええ、私が」
となって、今度は同じ二人がののしりあう場面に転じます。
La nuit porte conseil.
【逐語訳】「夜は助言をもたらす」
【諺の意味】急いで結論を出さずに、一晩寝かせた方がいい。一晩寝かせれば、いい考えが浮かぶ。
【使い方】思い悩んでいる人に向かって「あまり考え込まないで、もう寝たら? 寝れば、いい考えが浮かぶよ。『夜は助言をもたらす』って言うじゃない」という感じで使ったりします。
英雄ナポレオンも、この諺が好きだったようです。
【似た表現】Quitard (1842) は次のような表現を引き合いに出しています。
- consulter l'oreiller (枕に相談する)
所有形容詞を使って「consulter son oreiller」(自分の枕に相談する)ということもあります。
【単語の意味】「nuit」は女性名詞で「夜」。擬人化されています。
「porte」は他動詞 porter(もたらす)の現在3人称単数。
「conseil」は男性名詞で「助言」。例えば donner conseil à ~(~に助言を与える)などの決まりきった表現では無冠詞で使われることが多い言葉です。
【porter の意味について】porter はとりあえず「もたらす」と訳しましたが、実は「持つ・抱く、運ぶ、もたらす、はらむ・宿す」など、広い意味をもつ言葉で、この諺でも色々なニュアンスを含んでいるようです。たとえば Brunet (2011), p.92 では、この porter は contenir(含む)、receler(はらむ、秘める)、apporter(もたらす)を同時に意味すると指摘されています。つまり、「夜は助言をもたらす」だけでなく、次のような意味も合わせ持っているといえます。
- 夜は助言を含む(内包する)
- 夜は助言をはらむ(宿す)
擬人化された「夜」という女性が、母のようにやさしく包み込んでいるようなイメージさえ浮かぶ気がします。
ただ、後述のように、この諺の動詞の部分は歴史的にみると流動的で、昔は特に donner(与える)が使われていたことを踏まえ、諺の訳としては「porte」はとりあえず apporter の意味に取って「もたらす」としておきます。
【ラテン語の諺】このフランス語の諺は、次のラテン語の諺に由来します。
- in nocte consilium
夜において熟慮あり
訳は岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』による。たしかに羅和辞典で consilium を引くと「助言、忠告」の他に「熟慮」という意味も載っています。
このラテン語の諺はエラスムス『格言集』 II, ii, 43 (1143)でも引用されており、「重要な事柄については性急に結論を出さないほうがいい。夜は一人静かに考えることができる時間であり、眠ることで考えが変わることもある。俗に『一晩寝かせる』という通りだ」というような意味のことが書かれています。
【フランス語の諺の歴史】もとになった上記のラテン語の諺では、動詞が欠けています。そのため、これをフランス語に訳す過程で、動詞を中心に複数のバリエーションが生まれています。
一番古いと思われる15世紀前半の E.ルグリの諺集(éd. Langlois, N°360)には、「La nuit a conseil.」(夜は助言を持つ)と書かれています(Morawski, N°1017 にも収録。16世紀前半の Gilles de Noyers の諺集も同様)。
1531年のシャルル・ド・ボヴェルの諺の本では表題と同じ「La nuict porte conseil.」となっており(HathiTrustで閲覧可能)、これが porter を使った最初の用例かもしれません。
1611年のコットグレーヴの仏英辞典では「La nuict donne conseil.」(夜は助言を与える)〔古い綴り〕となっています。
1606年版のコルディエのラテン語の教科書では(上記とは少し異なるラテン語の諺に対して)未来形を使った「La nuict portera conseil.」(夜は助言をもたらすだろう)〔古い綴り〕というフランス語訳がつけられています。同じ本の1682年版では「La nuit conseille l'homme.」(夜は人に助言をする)となっています。
『アカデミー辞典』では、第1版(1694 年)から第5版(1798)までは「La nuit donne conseil.」(夜は助言を与える)と「La nuit porte conseil.」(夜は助言をもたらす)の両方が併記されていますが、第6版(1835)以降は「donne」(与える)は消えて「porte」(もたらす)のみが記載されています。
【英語の諺】Night brings counsel.
【余談】ロンドンの労働者のために作られた夜間大学であるバークベック大学(ロンドン大学バークベック校)のモットーに、このラテン語の諺「in nocte consilium」が採用されています。昼間は働いて「study by night」(夜に勉強しろ)と解釈されているようです。
【諺もどき】この諺をもじった表現としては、次のものがあります。
- La nuit porte sommeil.
夜は眠気をもたらす。
La nuit, tous les chats sont gris.
【逐語訳】「夜にはすべての猫が灰色だ」
【諺の意味】 次の2つの意味があります。
- (1)「夜には美しい女性と醜い女性の区別はなくなる」「夜には醜い女性でも十分だ」
- (2)「夜にはすべての物が似たように見え、区別しにくくなる」「混乱・錯綜した状況では、間違いを犯しやすくなるものだ」
昔は (1) の意味で使われましたが、現代ではまじめな辞典では (2) の意味しか記載されていません(下記【由来】を参照)。ただし、実際には (1) の意味で使われることもあるようです(下記【隠された意味】を参照)。
【単語の意味と文法】「nuit」は女性名詞で「夜」。
「La nuit」は、時を表す名詞が副詞(状況補語)として使われており、前置詞なしで副詞のように機能しています。
「tous(すべての)」は特殊な形容詞で、冠詞の前に置きます。
「les」は定冠詞の複数。
「chat」は男性名詞で「猫」。
「sont」は être の現在3人称複数。
「gris」は「灰色の」という形容詞で、もともと s で終わるため、単複同形。
【英語の諺】 All cats are grey in the dark.
この英語の諺は、1549年の John Heywood の諺の本に「When all candles be out, all cats be gray.」という表現が見られるのが初出のようです(『オックスフォード諺辞典』第5版, p.48 による)。
ただし、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)が「なぜ年配の女性をベットに誘うのか」と聞かれて、この言葉を発したという逸話が有名なようです(wiktionary)。
【由来】もとは英語の諺のようです。
Maloux (2009), p.293 でも英語の諺として紹介されています。
フランス語では、古くは1585年の本の中に出てきます(後述)。
17世紀のウーダンの『フランス奇言集』 (1640年版 p.69 ; 1656年版 p.87。Le Roux de Lincy (1842) で引用)では、この諺に関して「toutes les femmes sont belles à l'obscurité」(暗闇ではすべての女性が美しい)と注がつけられています。
1690年のフュルチエールの辞典でも、「夜には女性が美しいか醜いかはまったくわからない」という意味だと書かれています。
1748年のパンクークの諺辞典でも「toutes les femmes ont assez de beauté la nuit.」(夜にはすべての女性が十分な美しさを持っている)と説明されています。
1775年のボーマルシェの喜劇『セビリアの理髪師』第3幕第5景の冒頭では、登場人物(男)が次のような歌を歌います(岩波文庫、進藤誠一訳、p.80)。
- おいらはチルシにゃおよびもないが、
それでも夜の暗やみならば、
まだまだ捨てたもんじゃない。
暗いところじゃ立派な猫も、
鼠色ではないかいな。
さて、この諺の意味は、上記【諺の意味】の (1) から (2) に変わっていきますが、このことは歴代の『アカデミーフランセーズ辞典』の説明によって確認することができます。
- 第1版(1694)、第2版(1718)、第4版(1762):
「夜には美女と醜い女は区別できない」- 第5版(1798):
「夜には心地よい物とそうでない物とは区別できない」- 第6版(1835)、第7版(1878)、第8版(1932-1935)(2つ意味を記載):
「夜には見た目では醜い人と美しい人はまったく違いがなくなる」
「夜には間違えやすくなり、話している相手が見分けにくくなりやすい」- 第9版(1992)(2つ意味を記載):
「暗闇ではすべての物が灰色になり、人も物も見分けられなくなる」
「状況によっては違いが見分けにくくなり、間違いやすくなることがある」
このように、模範的な使い方を記した真面目な辞典では(1)の意味は消えて(封印されて)いきますが、他方で実際には(1)の意味も現代に至るまで根強く生き延びているように思われます。なぜかというと...
【隠された意味】 実は、フランス語の chat(猫)には、俗語で「女性性器」という意味もあります。これは、「針の穴」を意味する chas という単語とたまたま発音が同じため、「穴」という連想から生まれた意味です。
そのため、chat(猫)という言葉を含むフランス語の成句表現では、暗に「女性性器」という意味が重ねられることが少なくありません(このことは、日本語では『改訳 フランス語の成句』 p.109-110 や『フランス成句の宝庫』 p.52-53 にも記載されています)。
ちなみに、仏和辞典で chat(猫)を引いてもこの意味は載っていませんが、chatte(雌猫)を引けば多くの辞書に載っています(辞書によっては chat の女性形として記載)。
この諺でも、「猫」がそうした意味で意識されることもあります。
つまり、「夜にはすべての『穴』が灰色だ」というわけです。
例えば、この諺のフランス語での初出文献かもしれない1585年刊のコリエールという人の短編集 Les Neuf Matinées 第5話「醜い女と美しい女」に出てくる次の言葉は、こうした文脈で初めて理解可能になります(Rey/Chantreau (2003), p.173 で引用、初版原文は Gallica で閲覧可能、古い綴りを含む)。
- 快楽は同じですよ。夜はすべての猫が灰色で、すべての穴は穴なんですから。
(la jouissance est égale; de nuict tous chats sont gris, et tous trous sont trous)
【日本の諺】上記 (1) の意味に対応する、次の日本の諺があります。
- 夜目 遠目 笠の内(よめ、とおめ、かさのうち)
(暗いところで見た場合、遠くから見た場合、顔が隠れている場合には、どんな女でも美しい)
【図版】この諺を題材にした絵葉書があります。
La parole est d'argent et le silence est d'or.
【逐語訳】 「言葉は銀で、沈黙は金だ」
【意訳】 「雄弁は銀、沈黙は金」
【単語の意味と文法】 「parole」は女性名詞で「(口に出して言う)言葉」。
「est」は être(~である)の現在3人称単数。
「argent」は「銀」。
- ちなみに、南米の国アルゼンチンはフランス語で Argentine と言いますが、もともとアルゼンチンという国名の由来は「銀」が産出されたことに関係しています。
「argent」は無冠詞になっていますが、これは「de + 名詞」が一語の形容詞のように意識 されているからです。つまり、「d'argent」で一語の形容詞 argenté(銀の)と同じように意識されています。
「silence」は男性名詞で「沈黙」。
「or」は男性名詞で「金」。ここもやはり、「d'or」で一語の形容詞 doré(金の)と同じ意味のように意識されるため、無冠詞になっています。
【発音】 ラルース仏英辞典の parole の項目( 1 の意味の最後の例文)に載っているこの諺をクリックし、現れたスピーカーのマークをクリックすると発音が聞けます。
【他のバージョン】 et(そして)の代わりに mais(しかし)を使うこともあります。
- La parole est d'argent, mais le silence est d'or.
こうすると、「言葉は銀だが、沈黙は金だ」という感じになります。
【図版】 この諺を題材にした絵葉書では、「言葉で『愛している』などと色々言うよりも、黙って抱きしめたほうがいい」というような意味で使われています。
【由来(カーライルについて)】 この諺は、1836年刊のイギリスのトーマス・カーライルの『衣装哲学』第3巻第3章(Fraser's Magazine誌 1834年6月号掲載分)に次のように出てくるのが初出とされています(『オックスフォード諺辞典』第5版 p.298、『イエール引用句辞典』 p.619 による)。
- Speech too is great, but not the greatest. As the Swiss Inscription says: Sprechen ist silbern, Schweigen ist golden (Speech is silvern, Silence is golden); or as I might rather express it: Speech is of Time, Silence is of Eternity.
言語も偉大である、併し最も偉大ではない。スウィスの銘文にあるやうに、「言語は銀、沈黙は金」である。いや私は寧ろかう言つた方がよいと思ふ。「言語は時間に属し沈黙は永遠に属す」と。
日本語訳はカーライル『衣服哲学』、石田憲次訳、岩波文庫、p.297による。このように、英語原文では「言語は銀、沈黙は金」に相当する部分はイタリック体でドイツ語で書かれ、カッコ内に英訳が付されています。なお、silvern は古語・詩語なので、現代では主に silver に置き換えて Speech is silver, silence is golden. と言うようです。
ただし、もともとこのカーライルの作品は虚構の枠組みに基づく作品であり、「スイスの銘文のあるように」というのもフィクションの可能性が濃厚です。
- カーライル(正確にはこの本の登場人物)が「私はこう思う」と言うよりも、「スイスの銘文に書かれている」と言ったほうが、この言葉に箔(はく)がつく(いわば「伝説」化されやすい)と思って、そうしたのかもしれません。
というのも、これに似た内容のことを、カーライルは繰り返し、しかももっと以前から述べているからです。例えば 1830年の日記には次のように記しています。
- Speech is human, Silence is divine; yet also brutish and dead: therefore we must learn both arts, they are both difficult.
言葉は人間のものであり、沈黙は神のものである。しかし 〔沈黙は〕 同時に粗野で死んだものでもある。それゆえ、両方の技を学ばなければならない。どちらも難しいのだ。
出典:Two note books of Thomas Carlyle from 23rd March 1822 to 16th May 1832, ed. by Charles Eliot Norton, 1898, pp.176-177
あるいは、カーライルが1838年頃に書いた文章に次のような一節が出てきます。
- Under all speech that is good for anything there lies a silence that is better. Silence is deep as Eternity; speech is shallow as Time.
何かしら良いあらゆる言葉の下には、さらに良い沈黙が横たわっている。沈黙は永遠のように深く、言葉は時間のように浅い。
出典:Critical and Miscellaneous Essays (1888), Vol.6, p.25. originally in The Westminster Review, Oct.1837 - Jan.1838, Vol. VI and XXVIII, 1838
【西洋の価値観との関係について】 よく「『雄弁は銀、沈黙は金』というのは東洋的な価値観であり、西洋の価値観にはそぐわない」と言われることがありますが、そうとは決めつけられないはずです。それに対しては、とりあえず二つの反論が可能かと思います。
まず第一に、たとえばカトリックの修道院などでは言葉を慎み沈思黙考(瞑想)する伝統があることからもわかるように、特に信仰の場では、西洋にも「沈黙は金」という考え方が脈々と存在します(Cf. J_Eishun Website)。
これは、敬虔なキリスト教徒だったパスカルの次の言葉(『パンセ』)にも見て取ることができます。
- La vraie éloquence se moque de l'éloquence.
真の雄弁は雄弁を軽蔑する。
平たく言えば、「ぺらぺらしゃべるのは嘘っぽい」ということかもしれません。
第二に、「雄弁は銀、沈黙は金」に似た内容のフランスのことわざは、ほかにもあります。ラ・フォンテーヌ『寓話』第8巻第10話に出てくる次のことわざが有名です。
- Il est bon de parler, et meilleur de se taire.
(話すのは良いことだが、黙ることはもっと良い)
また、「沈黙は金」の部分は、多弁に対する戒めと解釈されることがありますが、そうした「舌禍(ぜっか)」に関する言葉は他のフランスのことわざにもいくつか存在します。たとえば、
- Trop gratter cuit, trop parler nuit.
(掻きすぎるとひりひりする、しゃべりすぎるとわざわいを招く)- Il faut tourner sept fois sa langue dans sa bouche avant de parler.
(話す前に口の中で七回舌を回す必要がある)
さらに言えば、こうした考えは旧約聖書の昔から存在します(「話す前に口の中で七回舌を回す必要がある」の解説を参照)。
【由来(フランス語)】 フランス語での形は、カーライルの数十年後には確認されます。
(ただしカーライル以外のルーツも考えられるので、この項は改稿の可能性あり)
例えば、1866-67年に、ピエール=ジュール・ヘッツェルという人が P.-J. スタールという筆名で「教育娯楽雑誌」という雑誌にこの諺についてのコラムを掲載しているので、少し訳してみます。
- この諺は文字どおりに受け取ってはならない。これは「手当たり次第におしゃべりをするな、よく言葉を選べ」という以上のことは言っていない。(...)黙っていれば正しいということにはならない。(...)もしそうだとしたら、言葉を持たない動物は人間よりも優れているということになるだろう。(...)沈黙が金だとするなら、うまく用いられた言葉はダイヤモンドだ。
出典: P.-J. Stahl, « Si le silence est d'or ? », Magasin d'education et de recréation, 1866-67, 6ème vol., p.360. 著者ピエール=ジュール・ヘッツェル(Pierre-Jules Hetzel)は、ジュール・ヴェルヌなどの文豪の作品を多数出版したことで知られています。
なお、『アカデミーフランセーズ辞典』では第8版(1932-1935)までは収録されておらず、最新の第9版(1992-)になって初めて収録されています。
【日本への移入】 日本では明治になってからこの諺が日本語に訳されており、明治22年(1889)の『英和対訳泰西俚諺集』で「多言は銀なり沈黙は金なり」と訳されたのが最初のようです(小学館『故事・俗信ことわざ大辞典 第二版』による)。
【映画】 第二次大戦後まもない1947年、フランス映画の巨匠と呼ばれたルネ・クレールは、諺の後半だけを使った Le silence est d'or と題する映画を製作し、興行的に大成功を収め、日本でも『沈黙は金』として公開されました。
この映画は、ありふれた三角関係の話ですが、20世紀初頭のパリの映画制作の現場が舞台となっており、当時の「無声映画」へのオマージュがもうひとつのテーマとなっています。
つまり、「無声映画は素晴らしい」というような意味をかけて「沈黙は金」という題がつけられています(この映画の 1 シーンは mySkreen などで視聴可能)。
こうしたことがあると、諺の知名度もぐんと上がります。
L'appétit vient en mangeant.
【逐語訳】「食欲は食べながらやって来る」
(食欲は食べるにつれて出てくる)
【諺の意味】「食欲は食べるにつれて出てくる」という文字通りの意味のほかに、比喩的に「ある物を手に入れると他の物も欲しくなる」、「欲望はきりがない」という意味にもなります。
【単語の意味と文法】「appétit」は男性名詞で「食欲」。
「vient」は自動詞 venir (来る)の現在(3人称単数)。
「mangeant」は manger(食べる)の現在分詞。
manger は第1群規則動詞と似ていますが、語尾 a, o の前では e が余計に入ります(ガ、ゴと読ませずにジャ、ジョと読ませるため)。
「en + 現在分詞」でジェロンディフです。
この諺は、文法的には、前述の諺「La fortune vient en dormant.」とほとんど同じです。
この諺でも、「食欲が食べる」わけではないので、「ジェロンディフ(あるいは一般に分詞構文)を作る分詞の意味上の主語は、通常は主節の主語と同じにする」という規則は守られていません。
【出典】 1534年のラブレー『ガルガンチュワ』の第5章(原文は Wikisource で閲覧可能)に出てきます。
【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。
La raison du plus fort est toujours la meilleure.
【逐語訳】「最も強い者の理屈がつねに最もよい理屈」
【諺の意味】「最も強いものの言い分がつねに最も正しい」
【似た諺】日本の諺では「勝てば官軍、負ければ賊軍」「長いものには巻かれろ」など。
「弱肉強食」といった言葉も浮かびます。
フランス語の諺では、
- La force prime le droit.
力は正義にまさる。
【単語の意味と文法】「raison」は女性名詞で「理由、理屈、理性」〔英語の reason〕。
「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形で、これに含まれる le と plus で最上級。
「fort」は形容詞で「強い」。ここでは最上級が名詞化しており(「最も~なもの」)、「最も強いもの」。
「est」は être の現在3人称単数。
「toujours」は副詞で「つねに」。
「meilleure」は、形容詞 bon(良い)の比較級・最上級 meilleur に女性単数の e がついた形。ここでは、前に定冠詞 la がついているので、最上級。
定冠詞が la(女性単数)で、meilleur にも女性単数の e がついているのは、女性名詞「raison」に一致しているため。
【由来】イソップ物語に次のような話があります(岩波文庫『イソップ寓話集』 p.129)。
- 狼が言いがかりをつけて仔羊を食べようとすると、仔羊はもっともな理由を挙げて反論するが、狼はさらに滅茶苦茶な言いがかりをつけて仔羊を食べてしまった。
17世紀にこれをフランス語に翻案したラ・フォンテーヌの『寓話』第1巻第10話「狼と仔羊」に、この話の教訓として出てくる言葉が、このフランス語のことわざです。
L'argent n'a pas d'odeur.
【逐語訳】「お金は臭いを持たない」
(お金は臭わない)
【諺の意味】「不正な、不法な、恥ずべき方法で得たお金でも、その出どころが明らかになることはない」(Rey/Chantreau, p.31)。
つまり、「どのような手段でお金をかせいだかは関係ない」。
【単語の意味と文法】「argent」は男性名詞で「お金」。
「a」は他動詞 avoir(持っている)の現在3人称単数。
「ne... pas」で否定。
「d'」は、「否定文では直接目的語には de をつける」ことによる冠詞の de。
「odeur」は女性名詞で「匂い、臭(にお)い」。いい匂いについても、不快な臭いについても使います。
【逸話】 この諺は、紀元後1世紀のローマの皇帝ウェスパシアヌスの逸話に由来します。内戦を経てウェスパシアヌス帝が皇帝ネロの跡を継いだ時、「皇帝ネロの途方もない浪費によって、国庫は空になっていた」(Klein (2006), p.12)ようです。
ウェスパシアヌス帝は財政を立て直そうとして色々なものに税をかけ、公衆便所で集めた尿にまで税金をかけた逸話が有名です。スエトニウス『ローマ皇帝伝』に次のように書かれています。
- ウェスパシアヌスが屎尿(しにょう)税 ※ までとりたてることを思いついたとき、息子のティトゥスが咎(とが)めると、最初に徴集した税の中から金(かね)をとり出して息子の鼻にあてがい、「どうだ、臭いか」と問い質(ただ)した。息子が否定すると父は言った、「でもこれは糞尿からとりあげた金だよ」
※屎尿税 - 公衆便所の尿を洗濯屋や皮なめし工が使用していたので、それに税をかけたものらしい。(岩波文庫『ローマ皇帝伝』(下)、国原吉之助訳、p.289)
ちなみに、このウェスパシアヌス帝(フランス語では Vespasien、ヴェスパズィヤン)の逸話にちなんで、19世紀前半にパリにできた男子用の公衆便所は、vespasienne(ヴェスパズィエンヌ)と名づけられました(Google 画像検索結果を参照。形容詞の女性形になっているのは、円柱状で、もともと colonne vespasienne と呼ばれていたからです。現在ではパリでは撤去され、男女共用の公衆便所になっています)。
【ラテン語の諺】上で引用したスエトニウス『ローマ皇帝伝』とほぼ同時代のユウェナリス『諷刺詩』第14歌にも、この逸話を踏まえた言葉が出てきます。
- どんなものからでも、手に入る儲けはいい匂いがするものだ。この金言は(...)いつも口の中で唱えているがいい。「その財産をお前がどこからどうやって手に入れたか、誰も問う者はいないのだ。肝心なことは、お前がそれを持つことだ。」
(岩波文庫『ローマ諷刺詩集』、国原吉之助訳、p.308)
ただし、表題の「お金は臭わない」という、そのままずばりの形では出てきません。
通常、ラテン語では、この諺は次のように表現されます。
- pecunia non olet
お金は臭わない
しかし、『ローマ皇帝伝』にも『ローマ諷刺詩集』にも、この形では出てきません。また、古代ギリシア・ローマの諺を集めたエラスムス『格言集』にも出てきません。おそらく、これは近代以降に作られたラテン語だと思われます。
【フランス語の由来】 フランス語による表題の表現は、19世紀になってからできたようです。前述の男子用公衆便所 vespasienne ができ始めたのは1830年代以降のようですが、その前後から確認されます。
例えば、これが初出かどうかはわかりませんが、1831年刊の A. C. パスカン(筆名ヴァレリー)の『イタリア歴史文学紀行』という本では、欲深い人々からはお金を受け取ろうとしなかった高潔な聖職者について、次のように書かれています。
- この善良な聖職者たちは、かのローマの皇帝のように、そして現代の私達のように、「お金は臭いを持たない」などとは思っていなかったのだ。
Antoine C. Valery, Voyages historiques et littéraires en Italie, 1831, p.403
原文は「L'argent n'a point d'odeur.」となっています。
1842年のキタールの諺の本にも、同じ形で収録されています(Montreynaud et al. (1989), p.121 では、あたかもこのキタールの本が初出であるかのように書かれています)。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、第8版(1932-1935)から(表題と同じ形で)収録されています。
【英語の諺】英語でも、フランス語と同じ形で使われます。
- Money has no smell.
ただし、この英語の諺の初出は20世紀に入ってからなので(『オックスフォード諺辞典』第5版, p.213 による)、フランス語のほうが早くから存在することになります。
【言葉遊び】トリスタン・ベルナール(Tristan Bernard, 1866-1947)という作家が次のような言葉を残しているそうです(Pierron (2000), p.269 による)。
- L'argent n'a pas d'odeur, mais à partir d'un million il commence à se faire sentir.
お金は臭わない。しかし100万(フラン)を超えると臭い始める。
辞書で sentir を引くと、熟語欄に se faire sentir で「〔物が主語で〕感じられる、顕著になる」と書いてあります(元はこのfaireは使役動詞)。
La vérité est au fond du puits.
【逐語訳】 「真実は井戸の底にある」
【諺の意味】 真実は見つけるのが難しい。
「真実を見出すには、長く深い探求が必要だ」(『アカデミー辞典』第 9 版)
【単語の意味と文法】 「vérité」は女性名詞で「真実」。
「est」は être の現在(3人称単数)。ここでは「繋合(けいごう)動詞」(=主語と属詞をイコールで結ぶ動詞)ではなく、「ある、存在する」という意味で使われています。
「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形(英語の of the に相当)。
「puits」は男性名詞で「井戸」。もともと s がついた単語です。 t も s も発音しないので、まったく別の puis という単語(「それから」という意味の副詞)と同じ発音になります。
【由来】 紀元前 5~4 世紀の古代ギリシアの哲学者デモクリトスの言葉とされています。ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』に、次のような懐疑論的なデモクリトスの言葉が取り上げられています。
- しかし真実には、われわれは何も知らないのだ。真理は深淵のなかにあるのだから。 (岩波文庫、下巻、p. 161)
この「真理は深淵のなかにある」という部分が、この諺の源になっています。
ただし、権威ある古代ギリシア語の辞典(LSJ)で調べても、ギリシア語原文で「深淵」に相当する単語には、「井戸」という意味はありません。また仏語訳(昔の 1668 年の Gilles Boileau 訳、原文は Google Books, p. 721 で閲覧可能)を参照しても「井戸」という言葉は出てきません。
ところが、ラテン語で書かれた 3~4 世紀のラクタンティウスの『神の教程』第 3 巻「哲学者たちの偽りの知恵について」第 28 章には、「真実は井戸に(in puteo)沈んで横たわっていると、デモクリトスは言った」と書かれています(羅仏語対訳は remacle.org で閲覧可能、『オックスフォード諺辞典』第 5 版, 329 で引用)。
このように、「深淵」が「井戸」に置き換えられ、「真実は井戸の中にある」(ラテン語で「Veritas est in puteo」)という形で広く知られるようになったようです。
フランス語では、1690 年のフュルチエールの辞典では「La vérité est cachée au fond du puits. (真実は井戸の底に隠れている)」という形で収録され、これと並んで「le puits de Democrite(デモクリトスの井戸)」という表現も載っています。
『アカデミーフランセーズ辞典』では、すでに第 1 版(1694)に表題と同じ形で収録されています。ただし、第 6 版(1835)~第 8 版(1932-1935)は、次のように「puits (井戸)」には定冠詞ではなく不定冠詞がついています。
La vérité est au fond d'un puits.
どの井戸でもかまわない任意のものとしてイメージするなら、不定冠詞がつきます。『ロワイヤル仏和中辞典』でも puits を引くと、不定冠詞がついた形でこの諺が載っています。
しかし逆に、真実が隠された「デモクリトスの井戸」というように特定化してイメージするなら、定冠詞がつきます。
実際、最新の『アカデミー辞典』第 9 版(1992)では、元通り定冠詞に戻っています。
【英語バージョン】 英語では、次のように不定冠詞をつけるほうが多いようです。
Truth lies at the bottom of a well.
【似た表現】 次のような表現もあります。
C'est le puits de Démocrite. (それはデモクリトスの井戸だ)
これも「真実は見つけるのが難しい」という意味です(C. de Méry (1828) に記載)。
ちなみに「デモクリトスの井戸」という言葉は、カントの『純粋理性批判』の末尾(岩波文庫、下巻、p.142)や、エドガー・ポーの短編小説(『リジイア(ライジーア)』、『メエルシュトレエムに呑まれて』)などにも出てきます。
【諺もどき】 この諺をもじって、ふざけて「井戸」の代わりに「グラス」や「瓶」と言うこともあります。
La vérité est au fond du verre. (真実はグラスの底にある)
La vérité est au fond de la bouteille. (真実は瓶の底にある)
もちろん酒のグラス、酒の瓶のことです。次の諺「La vérité est dans le vin. (真実は酒の中にある)」に引き寄せて解釈しているといえます。
ちなみにキタールは、次の諺と対比させ、「あるときは『真実は水の中にある』と言い、あるときは『酒の中にある』と言うのは、本当は真実はどこにあるのか分からないと白状しているのに等しいのではなかろうか」と述べています(Quitard (1842), p.686)。
La vérité est dans le vin.
【逐語訳】 「真実は酒の中にある」
(酒中に真実あり)
【諺の意味】 酒は本心を明らかにする。酔っ払うと、つい本当のことをしゃべってしまう。
【単語の意味と文法】 「vérité」は女性名詞で「真実」。
「est」は être の現在 3人称単数。ここでは「繋合(けいごう)動詞」(=主語と属詞をイコールで結ぶ動詞)ではなく、「ある、存在する」という意味で使われています。
「dans」は前置詞で「~の中に」。
「vin」は男性名詞で、狭義では「ワイン」、広義では「酒」。
「vin (酒)」の前には、定冠詞「le」がついています。
飲み物なので部分冠詞がつくのではないかと思われるかもしれませんが、ここでは飲む対象として捉えられているのではなく、例えば「水」や「牛乳」などではなく「酒というもの」というように概念化されているので定冠詞がついています。
【由来】 もとは次のラテン語の諺です。
ほとんどのフランス人は、このラテン語も知っています。
- in vino veritas
直訳すると「酒の中に真実」。フランス人は「イン ヴィーノ ヴェリタース」と発音します。
『プチ・ラルース 2013』(ピンクのページ)でも、フランス語の諺の部ではなく、ラテン語の表現の部に、ラテン語のまま載っています。
各国のワインのラベルなどにも in vino veritas と書かれている場合があります。
このラテン語は、1500 年に初版が出たエラスムスの『格言集』 I, VII, 17 (617) に見える言葉です(『ギリシア・ラテン 引用語辞典』や『ラテン語名句小辞典』に記載あり)。
この中でエラスムスは、この諺は、「酔いは魂の隠れ蓑を取り払い、心の底に隠しているものをすべて白日のもとにさらす」という意味だと書いた上で、この諺に関連して色々な言葉を紹介しています。例えば、
- 真実は 3 種類の口からのみ出てくる。子供の口と、酔っ払いの口と、狂人の口だ。
- 真実を引き出すには拷問に訴える必要はない。なぜなら、そのためには酒のほうがもっとよい手段だからだ。
拷問にかけなくても、酒を飲ませれば、洗いざらい真実をしゃべる、というわけです。
【英語バージョン】 英語では次のように訳されています。
- There is truth in wine.
ただし、英米人の間でも「エラスムスの格言集で使われているラテン語のバージョンは広く知られており、おそらく英語の諺よりも頻繁に使われる」そうです(『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.328 による)。
Le mieux est l'ennemi du bien.
【逐語訳】「最良は良いものの敵」
(最良のものは良いものの敵だ)
【諺の意味】一見するとわかりにくい表現ですが、「一番良いもの」を求めすぎると、今ある良いものまで台無しになってしまうことがある、という意味。つまり、今ある良いもので満足する必要がある。
【使用例】 例えば、
- 少しまとまったお金が入って、何とか生活に困らないくらいになった。しかし、「これを元手に、もっともうけよう」と思って、変な金融商品に手を出すのはやめたほうがいい、という忠告として、この諺を使ったりします。
【似た諺】「足るを知る(足ることを知る)」(老子)
【単語の意味と文法】 「mieux」は bien の比較級・最上級。ここでは前に定冠詞 le があるので最上級。
最上級が名詞化され、「最も良いもの」という意味になっています。
- ただし、これは比較級だと取ることも可能です。「2 つの中で ~が最も ...だ」というように「2 つの中で」比較する場合でも最上級を使用するからです。その場合、「よりよくしようとしてかえってよい状態を台なしにすることがある」(朝倉, p.307 左)となります。ただし、「しばしば優等比較級、最上級のいずれにも解釈される」(小学館ロベール, mieux 男, 2)ので、どちらに解釈することも可能です。
「ennemi」は「敵」。「エンヌミ」と発音します(語頭の en は鼻母音にはなりません)。
「du」は前置詞 de と定冠詞 le の縮約形。つまり「bien」の前に le がついているので、ここでは「bien」は名詞だとわかります。
「bien」を辞書で引くと、最後の名詞の項目に、「善」「良いこと」「幸福」「財産」などの意味が載っていますが、ここは「良いこと」「良いもの」。
もともと bien(良い)という形容詞に le がついて形容詞が名詞化し、定冠詞 le + 形容詞で「~なこと・~なもの」という意味になるため、「le bien」は「良いこと」「良いもの」というのが元の意味です。
この諺では、「Le mieux(最も良いもの)」と「le bien(良いもの)」が対比されています。
【他のバージョン】 断定口調を和らげるため、副詞「parfois(時には)」〔英語 sometimes〕や「souvent(しばしば)」〔英語 often〕を入れて、次のように言うこともあります。
- Le mieux est parfois l'ennemi du bien.
- Le mieux est souvent l'ennemi du bien.
このように、通常、副詞は(単純時制なら)動詞の直後に置きます。
【英語訳】 The best is the enemy of the good. (The perfect is the enemy of the good.)
【由来】 18世紀の思想家ヴォルテールが 1764年刊の『哲学辞典』に収められた「演劇」(Art dramatique)の項目の末尾にイタリア語で「Il meglio è l'inimico del bene」と書いたのが最初のようです(Google Books、p.608 や Wikisource などで閲覧可能)。
ついで、ヴォルテールは 1768年 9月 3日の La Motte Geffrard 宛書簡でフランス語でこの諺を記し(Google Books、p.309 などで閲覧可能)、さらに 1772年のコント La Bégueule (Google Books などで閲覧可能)の冒頭でこの諺を引用しています。
Le monde appartient à ceux qui se lèvent tôt.
【逐語訳】「世界は早く起きる(早起きをする)人々のものだ」
【日本の諺】「早起きは三文の得」
【単語の意味と文法】「monde」は男性名詞で「世界」。
「appartient」は不規則動詞で、前半の「appar」を省けば「tient」となります。「tient」は tenir (持つ・つかむ)の現在(3人称単数)なので、これに「appar」がついた「appartient」は appartenir の現在(3人称単数)ということになります。
appartenir は、語源的には a (方向性) + part (部分) + tenir (持つ・つかむ)で、「一部をつかんでいる」というのが元の意味です。これは前置詞 à とセットで使う間接他動詞 で、「物」が主語になり、
appartenir à ~ 「~に属する」「~のものである」
という意味・使い方をします。
「ceux」は関係代名詞の先行詞になると、「...な人々」という意味になります。
「lèvent」は lever の現在(3人称複数)。 lever は mener と同じ活用をします。
lever は「(横になっていたもの・寝ていたものを)起こす、持ち上げる」という意味の他動詞。再帰代名詞がつくと、
se lever 「自分を起こす」→「起きる」
という意味になります。
「tôt」は副詞で「早く」。ちなみに、反対語は「tard (遅く)」で、反対語をセットにした熟語「tôt ou tard (遅かれ早かれ)」(リエゾンするため「ト トゥ タール」と発音)を覚えておくと役に立ちます。
【他のバージョン】 「世界」の代わりに、「未来」、「人生」、「パリ」などの単語を使うこともあります。
- L'avenir appartient à ceux qui se lèvent tôt.
未来は早起きをする人々のものだ。- La vie appartient à ceux qui se lèvent tôt.
人生は早起きをする人々のものだ。- Paris appartient à ceux qui se lèvent tôt.
パリは早起きをする人々のものだ。
夜型の人は、「早起きをする」という部分を「夜ふかしをする」に変えて使ったりします。
- Le monde appartient à ceux qui se couchent tard.
世界は夜ふかしをする人々のものだ。
「couchent」は他動詞 coucher (寝かせる)の現在3人称複数。「se couchent」で「自分を寝かせる」→「寝る」。「tard」は「遅く」。「遅く寝る」で「夜ふかしをする」。
⇒ やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 2 ( F ~ J )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 3 ( La ~ Lem )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 4 ( Les ~ Lo )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 5 ( M ~ P )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 6 ( Q )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 7 ( R ~ Z )
aujourd'hui : 4 visiteur(s) hier : 2 visiteur(s)
本サイトは、北鎌フランス語講座 - 文法編の姉妹サイトです。あわせてご活用ください。