「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

ドーミエ「ことわざと格言」

オノレ・ドーミエ「ことわざと格言」

19 世紀を代表する諷刺画家オノレ・ドーミエ Honoré Daumier は、当時の新聞に主に社会的な諷刺をきかせた多数のリトグラフ(石版画)を発表しており、けっして眺めて綺麗という絵ではありませんが、当時の風俗や、社会体制に対する人々の考え方なども知ることができる興味深い資料となっています。

このドーミエが 1840 年に日刊紙『シャリバリ』Le Charivari に「ことわざと格言」Proverbes et Maximes と題する 12 点の連作を掲載しているので、これについて取り上げます。もともと新聞紙に印刷されたものなので、裏面の活字が写り込んでいる場合があります。

最後に、週刊誌『カリカチュール』誌に発表された「家族のことわざ」Proverbes de famille と題する 2 点だけからなるシリーズも取り上げました。

ドーミエの版画は、当時の風俗を知らないと十分におもしろさを味わえなかったり、解釈に窮する場合もあるので、昔の作品目録の解説文(※1)を参照しました。



1. 腹が減っては聞く耳持たぬ

腹が減っては聞く耳持たぬ

初出:『シャリバリ』1840年6月21日

⇒ 腹が減っては聞く耳持たぬ(Ventre affamé n'a point d'oreilles.)の解説

窓の下の壁の部分には、薄い字で「レストラン ディナー」と書かれているのが読み取れます。
三人の流しのミュージシャンが生活費をかせごうと、必死になって声を張り上げ、音楽を演奏していますが、レストランの客は食べることに夢中になっていて、まったく聞こえていせん。



2. 自分自身ほどうまく世話を焼くことはできない

自分自身でやるほどうまく世話を焼くことはできない

初出:『シャリバリ』1840年6月28日

「自分自身ほどうまく世話を焼くことはできない」(On n'est jamais bien servi que par soi-même.)という有名なことわざを描いたもの。多少字句のバリエーションがあり、si を入れて On n'est jamais si bien servi que par soi-même. と言うことが多いようです。「人にやってもらうより自分でやったほうがよい結果になる」、「自分のことは自分でするに限る」といった意味です。

服が汚れないように首からナプキンを掛けて、男が自分で靴を磨いています。道ばたの靴磨きや他人にやってもらうよりも、自分の思いどおりの納得のいく仕上がりになるようです。



3. 忍耐はろばの美徳

忍耐はろばの美徳

初出:『シャリバリ』1840年7月2日

「忍耐はろばの美徳」(La patience est la vertu des ânes.)ということわざは、現在ではあまり使われなくなっていますが、ろばは不平も言わずにひどい扱いにも耐えることから生まれたようですアカデミー第5版による)
ただし、フランス語で「ろば」âne という言葉は「愚か者、馬鹿」という意味もあるので、「忍耐は愚か者の美徳」、「忍耐は馬鹿者たちの美徳」とも訳せます。

当時の辞典には、このことわざは「抜け出すことができるのに不愉快な状況にとどまり続け、我慢すべきでないことまで耐えるのは愚かなことだ」アカデミー第6版)という意味だと記載されています。

要するに、これは(過度の)忍耐や(無意味な)我慢を嘲笑することわざであり、その点で、道徳的な観点から我慢や忍耐を説く「我慢は知識にまさる」「忍耐と長い時間は、力よりも怒りよりも多くのことをする」とは反対の意味のことわざだといえます。

さて、ここでドーミエが描いているのは「ダゲレオタイプ」と呼ばれる初期のカメラで、銀板に画像が定着するまで数十分かかったので、撮影する側も撮影される側も、ずいぶん「忍耐」が必要だったようです。

この絵で懐中時計を見ながら時間を計っているのが写真家で、「それを橋の欄干に寄りかかった芸術家が皮肉な表情で眺めている」(※1)ところを描いたものだそうです。

とすると、この絵は、当時新しく出現した写真という技術を馬鹿にしている芸術家が、心の中でこのことわざを呟いているところを描いたものだといえそうです。

なお、隅に記された h D は作者オノレ・ドーミエ Honoré Daumier のイニシャルによるサインで、h は小文字が使われています。日本で書く筆記体とは少し異なり、h の最後が左に巻かれています(文法編の筆記体のページを参照)。



4. 人は自分のベッドを整えた通りに寝る

人は自分のベッドを整えた通りに寝る

初出:『シャリバリ』1840年7月10日

⇒ 人は自分のベッドを整えた通りに寝る(Comme on fait son lit, on se couche.)の解説

「自業自得」という意味のことわざ。悪いことをして、馬に乗った憲兵に連行されているところが描かれています。



5. もってくる人は大歓迎

もってくる人は大歓迎

初出:『シャリバリ』1840年7月12日

「もってくる人は大歓迎」(Bien venu qui apporte)は、現在では使われないことわざで、当時の辞典によると、「与えたり支払ったりする人はつねに大歓迎される」十九世紀ラルースという意味。

「戸をあけた女がほほ笑みかけているのは、メロンを抱えてやってきた太ったブルジョワ」(※1)です。その後ろから階段をのぼってくる男が肩に担いでいる重そうな荷物は「牡蠣(かき)の籠」(同)を描いたものだそうです。
女は、まんざらではなさそうな顔をしています。



6. 住みかのない男は巣のない鳥と同じ

住みかのない男は巣のない鳥と同じ

初出:『シャリバリ』1840年7月17日

「住みかのない男は巣のない鳥と同じ」(Un homme sans asile est comme un oiseau sans nid.)ということわざは、asile の代わりに同じ意味の abri を使うことが多かったようですが、いずれにせよ今では使われなくなっています。

所持品は小さな荷物だけという貧しい男が、野原で雨に降られていますが、傘も持っていません。



7. ささやかな贈り物が友情を保つ

ささやかな贈りものが友情を保つ

初出:『シャリバリ』1840年7月24日

「ささやかな贈り物が友情を保つ」(Les petits présents entretiennent l'amitié.)は、現在でもよく使われる文字どおりの意味のことわざです。
(絵の下に présens と書かれているのはミスで、présents が正しい綴り。ただし、現在では cadeau という言葉を使って Les petits cadeaux entretiennent l'amitié. ということが多いようです)。



8. 良い猫には良い鼠

良い猫には良い鼠

初出:『シャリバリ』1840年8月4日

⇒ 良い猫には良い鼠(À bon chat, bon rat.)の解説

フランス革命後も歴然と身分社会が残っていた19世紀当時、ここに描かれているのは下層階級に属する二人の女で、鬼気せまる形相で取っ組みあっており、一歩も譲りません。

なお、国立西洋美術館のホームページ(作品検索)のキーワード欄に「ドーミエ ことわざ」と入力して検索すると、この一連のシリーズがヒットしますが、この À bon chat, bon rat. は、なんと「はっけいよい残った」と訳されています。名訳というべきか、迷訳というべきか...



9. ベルトランを愛する者はその犬も愛す

ベルトランを愛する者はその犬も愛す

初出:『シャリバリ』1840年7月22日

このことわざは、いくつかバリエーションがあり、一番一般的なのは「われを愛する者はわが犬も愛す」(Qui m'aime aime mon chien.)ですが、日本の「太郎」のようなありふれた名前を使った「マルタンを愛する者はその犬も愛す」(Qui aime Martin aime son chien)や、ここで出てくる「ベルトランを愛する者はその犬も愛す」(Qui aime Bertrand aime son chien)という形も存在します(使用頻度は高くありません)。
発想としては日本の「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」に近く、それに引っかけていえば「坊主好きなら袈裟まで愛す」のような意味のことわざです。

  • 2つめの「aime」は命令形(正確には接続法による「三人称に対する命令」で que を用いない古語法)と取って「ベルトランを愛する者はその犬も愛せ」という意味だと解釈することも可能Quitard (1861), p.126 ; Ac. 1 éd., s.v. chien)

なお、版画の作者ドーミエは、当時流行した『アドレの宿』L'Auberge des Adrets という大衆演劇の主人公であるロベール・マケール Robert Macaire とその相棒のベルトラン Bertrand という二人組を自分の描く版画に好んで登場させています(※2)。ドーミエの描くベルトランは痩せていてワシ鼻で、帽子の後部に羽根飾りのようなものを挿していることが多いのが特徴ですが、ここでもことわざの「ベルトラン」に掛けて、たまたま同じ名の(当時の『シャリバリ』紙の読者にとってはお馴染みの)ベルトランを登場させています。



10. 木と皮の間に指を入れてはならない

木と皮の間に指を入れてはならない

初出:『シャリバリ』1840年7月26日

「木と皮の間に指を入れてはならない」(Il ne faut pas mettre le doigt entre le bois et l'écorce.)は「夫婦喧嘩に口をはさむな」という意味のことわざ。
(一般には Entre l'arbre et l'écorce il ne faut pas mettre le doigt. という形が多く使われます)。

夫婦喧嘩に口を出したために、殴られて鼻血を垂らしています。

しかし、まだ喧嘩は終わったわけではなく、奥では夫が妻を蹴飛ばしています。



11. 自分のものは見つけたところで取り返す

自分のものは見つけたところで取り返す

初出:『シャリバリ』1840年8月6日

「自分のものは見つけたところで取り返す」(On reprend son bien où on le trouve.)は、今では使われないことわざです。

この絵は「代金を支払わなかった客に出会った仕立て屋が、無理やり客から服を奪おうとしている」(※1)ところを描いたもので、左の標石の上に乗っているのは、仕立て屋が置いた生糸の束のようです。



12. 取るべきものは取っておくべきもの

取るべきものは取っておくべきもの

初出:『シャリバリ』1840年10月20日

この絵の解釈は少々面倒です。

まず、このことわざの元になったのは「取るべきものは戻すべきもの」(Ce qui est bon à prendre est bon à rendre.)ということわざで、これは当時は間違って取ったものを戻す(返す)ときに弁解の言葉として使ったそうですリトレによる)
これを逆の意味にしたのが「取るべきものは取っておくべきもの」(Ce qui est bon à prendre est bon à garder.)ということわざで、これは「一度もらったものは返さない」という意味だそうです(同)。つまり、

  • もらったものは(もし間違っていたなら)返すべきだ
  • もらったものは(もし間違っていたとしても)返すべきではない

という、二通りの態度を表している正反対のことわざだといえます(どちらも19世紀当時はよく使われたようですが、現在では使われません)。

実は、フランス語で「取る」prendre という言葉は「食べる」という意味もあります。また、「戻す」rendre という言葉は、「返す」という意味のほかに、日本語の「もどす」と同様「げろを吐く」という意味もあります。
ドーミエの絵では、ことわざの「取る」「戻す」が「食べる」「げろを吐く」の意味で解釈されています。

右手の壁ぎわでは、男がせっかく食べたものをもどしていますが、これは「取るべきものは戻すべきもの」ということわざを実践しているともいえます。

版画の下をよく見ると、薄い字で次のように書かれています。

  • おや、また一人お人よしがいるぞ! おれはと言えば、次のことわざの意見に賛成だ。
    「取るべきものは取っておくべきもの」。

ここで「お人よし」と呼んだのは、げろを吐いている男はせっかく食べた(取った)ものを、みすみす律儀に(素直に)もどしているから、こう呼んだのでしょう。
それを尻目に、前面の男は、食べた(取った)ものをもどそうとせずに、だいじそうに腹の中に詰め込んだまま、よろめきながら歩いています。

鼻が赤い(色が濃くなっている)のは、酔っ払っている証拠です。



オノレ・ドーミエ「家族のことわざ」

以上の「ことわざと格言」シリーズのほかに、ドーミエは『カリカチュール』誌(より正確には同誌が 1835 年に廃刊になったあとで出た後継誌)に「家族のことわざ」Proverbes de famille という 2 点だけからなるシリーズを発表しているので、取り上げておきます。

刈り取るためには種をまく必要がある

刈り取るためには種をまく必要がある

初出:『カリカチュール』1840年5月31日

絵の下には「伯父と甥。刈り取るためには種をまく必要がある。」と書かれています。

「収穫」と「種まき」は因果応報の比喩としてよく使われますが、この「刈り取るためには種をまく必要がある」(Il faut semer pour recueillir.)ということわざは、日本の「まかぬ種は生えぬ」に近く、「苦労しなければ何も得られない、あらかじめ準備をしなければ結果を手にすることはできない」TLFiという意味で使われます。しかし、19世紀当時の辞書を見ると、もう少し適用範囲が狭く、「報酬やご褒美を受け取る権利を手に入れるためには、仕事をする必要がある」リトレ等となっていて、「労働と(その対価としての)金銭的報酬」という意味あいが強かったようです。

さて、この石版画では、伯父は歩くのも大変そうで、病気をわずらっているらしく、杖をついて甥につかまりながら何とか歩いています。しかし甥のほうはというと、伯父に腕を貸していますが、明らかに嫌々ながらという様子で、退屈そうに大きくあくびをしながら、しかたなく伯父につきあっています。

これが上のことわざと、どう関係があるのでしょうか。

実は、この絵はバルザックの小説などで出てくる 19 世紀の「遺産相続」のテーマを前提としないと解釈できないようです。親ならともかく、伯父から遺産を手に入れるためには、多少なりとも「ごま」をすって気に入ってもらわなければなりません。「刈り取るためには種をまく必要がある」ということわざどおり、甥は遺産を「刈り取る」ために、嫌々ながらも伯父に取り入って「種をまいて」いるわけです。

ここには、遺産相続をめぐる現金な社会風潮に対する強烈な諷刺(カリカチュア)が見て取れ、諷刺画家としてのドーミエの面目躍如といったところです。



よく愛する者はよく罰する

よく愛する者はよく罰する

初出:『カリカチュール』1840年6月14日

父親が子供を叱りつけており、絵の下には次のように書かれています。

  • 「おい、こら、よくもぬかしおったな、わしが古いメロンだと? わしの髪はかつらだと? よく愛する者はよく罰する、だ!」

父親が後ろに持っているのは、昔、子供を叱るときに尻などを叩くために使われていた「マルティネ」と呼ばれる細い革を束ねた鞭です。

⇒ よく愛する者はよく罰する(Qui aime bien châtie bien.)の解説







参考文献

  • (※1)N.-A. Hazard & Loÿs Delteil, Catalogue raisonné de l'œuvre lithographié de Honoré Daumier, N.-A. Hazard, Orrouy (Oise), 1904, pp.518-520
  • (※2)Cf. 喜安朗編『ドーミエ諷刺画の世界』, 岩波文庫, 2002, p.50  ⇒ amazon










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