「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

北鎌フランス語講座 - ことわざ編 I-2

やさしい諺(ことわざ) 2 ( F ~ J ) 


faire d'une pierre deux coups

【逐語訳】 「一つの石で二つの打つことをする」

【日本の諺】 「一石二鳥」
日本語の表現「一石二鳥」のルーツをたどると、このフランス語にぶつかります(下記【由来】の項目を参照)。

【単語の意味と文法】 「faire」は他動詞で「する」。その直接目的は「deux coups」なので、「d'une pierre」はカッコに入れるとわかりやすくなります。
「de」は前置詞で、ここでは手段を表し、「~で」。
「pierre」は女性名詞で「石」。
「deux」は数詞で「2 つの」。
「coup」は男性名詞で「打つこと、打撃」。

ですから、いわば「一石二打」という感じです。残念ながら、フランス語の諺では「鳥」は出てきません。

この表現は、主語と動詞を備えた「文」にはなっていません。この不定詞のまま使うこともできますが、状況に応じて主語を補い、動詞 faire を変化させて使うこともできます。
(例えば、次の【使用例】の真ん中あたりに出てくる例文では、主語が「Vous (あなたは)」で、時制は単純未来が使われています)。

あるいは、いっそのこと動詞 faire を抜かして言うこともあります。

  • D'une pierre deux coups

こうすると、より簡潔になって、「一石二打」という四字熟語の感じに近くなります。

【使用例】 冬季オリンピックで見かけるカーリング競技の「ストーン」はフランス語で pierre と言いますが、カナダのケベック州政府が作成したカーリング用語集のサイトは、「Faire d'une pierre deux coups avec la terminologie du curling (カーリング用語で一石二鳥)」と名づけられています。その説明の最後の部分で、「この用語集を読めば、カーリング競技に出てくる基本的な用語がマスターできると同時に、カーリングのことをもっとよく理解できるようになるでしょう」というような意味の文のあとで、次のように締めくくられています。

  • Vous ferez ainsi d'une pierre deux coups !
    逐語訳すると、「こうしてあなたは一つの石で二度打つことができるでしょう」。
    「ferez」は faire の単純未来 2 人称複数。「ainsi」は前の文を受けて「こうして」、「こうすることで」。

要するに、「一石二鳥ですよ!」という意味です。
と同時に、カーリング競技で 1 つのストーン(pierre)を投じて相手チームの 2 つのストーンを連続してはじき出す、いわゆる「ダブル・テイクアウト」という技を連想させる表現となっています。

日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【諺もどき】 状況に応じて、「deux (2 つ)」を trois (3 つ)や quatre (4 つ)に変えて言うこともあります。

  • faire d'une pierre trois coups (一石三鳥)
  • faire d'une pierre quatre coups (一石四鳥)

【由来】 1456 年のジャン・ミエロの諺集 N°144 に次のように書かれているのが初出のようです。

  • Il fait d'une pierre deux coups.
    彼は一つの石で二つの打つことをする。
    TPMA, Stein 12 で引用。原文は Internet Archive で閲覧可能。

1546 年に出版されたアストロラーベ(円盤状の天文観測儀)の解説書では、「世界の鏡」と呼ばれるアストロラーベ(16 世紀前半に発明された、二枚のディスクを回転させるタイプのアストロラーベ)を使えば、天体の状態と地球の状態が「両方同時に把握できる」という意味で、「d'une pierre faire deux coups」(一つの石で二つの打つことをする)という「よく知られた諺」が引き合いに出されています(Jacques Focard, Paraphrase de l'astrolabe, 1546, p.147)。

1570 年 4 月 30 日に、モンテーニュが大法官ミシェル・ド・ロピタル(1506-1573)に宛てた書簡の中でも出てきます(TLFi で引用)。関係する部分だけ訳してみます。

  • そのうえ、このささやかな贈り物は、もしお気に召すなら、一石二鳥となって、私があなたに抱いている尊敬と畏敬の念を証し立てることにも役立つでしょう。
    この「一石二鳥となって」の部分が、原文では「mesnager d'une pierre deux coups」となっています(原文は Gallica などで閲覧可能)。なお、Rey/Chantreau, p.719 でもモンテーニュに由来するように書かれています。

『エセー』(1580 年版)の中でも、第 1 巻第 25 章(版によっては第 26 章)に次のようにして出てきます。これは身ごもった女性に宛てて書かれた手紙の一節です(訳は岩波文庫『エセー(一)』、原二郎訳、p.290 による)。

  • 私はお子様を幼年時代から外国を遍歴させることを、そしてとくに、一石二鳥を狙って、近くの国で、しかもわが国の言葉ともっともかけ離れた言葉の国へやったらいいと思います。
    この「一石二鳥を狙って」の部分が、原文では「pour faire d'une pierre deux coups」となっています(例えば Googlebooks、p.190、下から 5 行目で閲覧可能)。

1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』付録(p. 17)では、「D'une pierre deux coups」という諺の説明として、「石を 1 回投げただけで 2 人を同時に、または相次いでやっつける人のように」と書かれているので、「鳥」ではなく「人」を(戦争などで)仕留めることがイメージされていたと思われます。

1611年のコットグレーヴの仏英辞典の coup の項目には、「D'une pierre faire deux coup.」というフランス語の表現が収録されており、英語の次の表現に相当すると書かれています。

  • To kill two birds with one stone.
    一つの石で二匹の鳥を殺す。

ただ、これよりも前から英語でも類似の表現があったようです。

例えば、1580 年のイギリスのジョン・リリーの物語『ユーフュイーズとイギリス』の中には、次のような文が出てきます(森 (1992), p.555 で「一打で二匹の蝿をつぶす」というオランダの諺に関連して指摘。日本語訳も同書から引用。下線は引用者)。

  • ほかの殿方を釣っているとき、貴方を射止めるとは思ってもいませんでした。でも今は、簡単に一個の豆で二羽の鳩を捕えたり、餌ひとつで種々の魚を釣り上げることもできるとわかりましたわ。
    原文は ...but I perceive now that with one beane it is easie to gette two Pigions, and with one baight to have divers bites. となっています(elizabethanauthors.org による)。「豆で鳩をつかまえる」というのは、おそらく「豆を餌にして寄ってきた鳩をつかまえる」という意味だと想像されます。この「一個の豆で二羽の鳩をつかまえる」という表現は、15世紀イタリアの詩人ルイージ・プルチ(1432-1484)に見られるそうです(TPMA, Taube, 9.1による)。

『オックスフォード英語諺辞典』第 3 版 p.423 では、英語における最初の用例として、1590 年の「hit two markes at one shoote」(一回投げただけで 2 つの的に当たる)という文が引用されています。

しかし、いずれにせよフランス語の用例(1456 年)のほうが早いので、文献上はフランス語のほうが早くから確認可能ということになります。

なお、英語の諺をフランス語に逐語訳すると、「tuer deux oiseaux avec une pierre」となりますが、この表現はあまり使われません。

【日本の「一石二鳥」のルーツについて】 「一石二鳥」は四字熟語なので、知らないと漢文が起源かと思ってしまいますが、実は明治以降に英語の諺の翻訳から生まれた表現です。これについては、例えば時田 (2000), p. 65 で次のように指摘されています。

  • 四字熟語なので、中国由来と思われがちだが、十七世紀のイギリスのことわざ To kill two birds with one stone. の翻訳。(...)古くは『英和対訳袖珍辞書』(1862年)に「石一ツニテ鳥二羽ヲ殺ス」と記され、明治中頃まで各種の英和辞典にほぼ同じ表現が載っている。

【言葉遊び】 「絵葉書」のページで、この諺をもじった「諺もどき」を取り上げています。

【似た表現】 これに似た次のような表現があります。

  • faire d'une fille deux gendres
    一人の娘から二人の婿(むこ)を作る

これについて、田辺 (1976), p.152 では【参考】として「一石二鳥」と書かれ、背景が次のように説明されています。

  • 中世には近世のフランスのように娘に持参金をつけてもらってもらうのではなく、娘は売買の対象であった。(...)相手の男が娘を買う金をもたぬと、二年三年と年期を切って半奴隷的に勤労奉仕をさせた。それで、二人の男に娘を約束して、両方から金や労力をせしめた。
    ただし、この表現には、こうした「一つの機会から二度利益を引き出す」という意味の他に、「二人に同じことを約束する」という意味もあり(『アカデミー辞典』第9版による)、リトレJ.-Y.Dournon (1986), p.155 ではこの「二人に同じことを約束する」という意味しか書かれていません。また、この表現は TLFi 等には載っておらず、使われる頻度はかなり低いようです。

Faute avouée est à moitié pardonnée.

【逐語訳】 「告白された過ちは半分許されている」

【諺の意味】 間違いを犯しても、正直に告白すれば、半分許されたも同然だ。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「Faute」は女性名詞で「過ち、罪、ミス」。諺なので無冠詞になっています。
「avouée」は他動詞 avouer (告白する)の過去分詞 avoué に女性単数を示す e がついた形。分詞として形容詞的に直前の名詞に掛かっており、直前の名詞に性数を一致して e がついています。「~された」と訳すことができるので、「Faute avouée」で「告白された過ち」となります。

「est」は être の現在3人称単数。
「moitié」は女性名詞で「半分」。「à moitié」で熟語で副詞的に「半分(だけ)」。
「pardonnée」は他動詞 pardonner(許す)の過去分詞 pardonné に女性単数を示す e がついた形。
「est」と「pardonnée」(être + p.p.)で受動態。être + p.p. は主語に過去分詞の性数を一致するので、ここでは「Faute」に合わせて e がついています。

「à moitié」は副詞扱いになり、副詞と同様、(ここは受動態なので)助動詞と過去分詞の間に置かれています。
なお、発音は「est」の後ろでリエゾンします。

【他のバージョン】「à moitié」と同じ意味の熟語「à demi」を使って次のように言うこともあります。

  • Faute avouée est à demi pardonnée.

faute(過ち)の代わりに péché(罪)を使うこともあります。
péché は主に宗教的な意味での罪を意味するので、avouer は単に「告白する」というよりも「告解する」(聖職者の前で自分が犯した罪を告げて赦しを乞う)という感じに近くなり、そうしたイメージに基づく比喩的表現になるかと思います。

  • Péché avoué est à moitié pardonné.
  • Péché avoué est à demi pardonné.
    (告白された罪は半分許されている)
    「Péché」は男性名詞なので、「avoué」にも「pardonné」にも e はつけません。

【由来】 マチュラン・レニエの『諷刺詩集』XIII に「Le péché que l'on cache est demi-pardonné.」と書かれています。
1690年のフュルチエールの辞典にも「これはレニエの詩の一行である」として載っています。

Faute de grives, on mange des merles.

【訳】「つぐみがいなければ黒歌鳥(くろうたどり)を食べる」

【諺の意味】「希望するものが得られなければ、得られるもので満足するしかない」
(←美味なつぐみが得られなければ、それに似た黒歌鳥で満足するしかない)

後半を省略して「Faute de grives...」だけでもよく使われます。

【つぐみと黒歌鳥について】「grive」は「つぐみ」。
茶褐色で胸に白っぽいまだら模様があるのが特徴です。
仏仏辞典には「食べるとおいしい鳥」(『アカデミー』第1~8版)、「肉は美食家に好まれている」(TLFi )などと書かれています。

「merle」も「つぐみ」の一種ですが、単に merle と言えば普通は merle noir(黒歌鳥、くろうたどり)を指します。

  • 昔の仏仏辞典で merle を引くと、「黒い羽の鳥」(『アカデミー』第1版)、「羽が黒く、嘴は黄色い鳥」(同第2~5版)、「フランスで最もよく見られる種は、羽が黒く、嘴は黄色い」(同第6~8版)などと書かれており、merle noir (黒歌鳥)がイメージされていたことがわかります。

実際の鳥の写真は絵葉書のページを参照してください。

【単語の意味と文法】「faute de ~」は熟語で「~がないので」「~がなければ」。
ここでは「~がいなければ」としておきます。

「grives」(つぐみ)が無冠詞になっているのは、前置詞 de の後ろでは不定冠詞の複数の des は必ず省略されるため。

「On」は漠然と「人は」という意味で、訳さないほうが自然になります。
「mange」は他動詞 manger(食べる)の現在3人称単数。
「des」は不定冠詞の複数の des

「grives」と「merles」は、どちらも複数形の s がついていますが、これは何羽も食べるという感覚によるものです。
ただし、「食べる」対象なので次のように部分冠詞を使うこともあります。

【由来】 19世紀以降にできた新しい諺のようです(Rey/Chantreau, p.481)。

19世紀の仏仏辞典のリトレ(初版第1巻第2部、1863)や十九世紀ラルース(第8巻、1872)では、表題の形と並んで、次の形も収録されています。

  • Faute de grives, on prend des merles.
    つぐみがいなければ、黒歌鳥(くろうたどり)をつかまえる。
    「prend」は prendre (つかまえる)の現在 3人称単数。

アカデミー』辞典では第8版(1932-1935)になって初めて収録されています。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

Goutte à goutte, l'eau creuse la pierre.

【逐語訳】 「一滴一滴、水は石をくぼませる」
(雨垂れ石を穿つ)

【諺の意味】 「小さな努力でも根気よく積み重ねれば目標を達成できる」。
しばしば「la persévérence(根気、辛抱強さ)」という言葉と結び付けて説明されます。

【単語の意味と文法】 「goutte」は「雫(しずく)」ですが、ここでは「goutte à goutte」で「一滴一滴」という熟語。熟語なので無冠詞になっています。発音は à の前でリエゾンします(「グタグゥットゥ」と発音)
ちなみに、このように前置詞 à を挟んで同じ名詞(無冠詞)を重ねるタイプの熟語表現としては、次のようなものがあります(いずれも à の前でリエゾンします)。

  • pas à pas (一歩一歩) (「パザパ」と発音)
  • mot à mot (一語一語) (「モタモ」と発音)

「Goutte à goutte」は、文の中では状況補語になっています。

「eau」は女性名詞で「水」。
飲む対象になると「一部を飲む」と捉えられるため部分冠詞 がつきますが、ここでは飲食とは関係なく、「水というもの」と概念化されているために定冠詞がついています。

「creuse」は他動詞「creuser(くぼませる、掘る)」の現在3人称単数。もともと形容詞 creux (へこんだ、空洞の)から来ています。
「pierre」は女性名詞で「石」。

【他のバージョン】 4 通りぐらい他の言い方があるようです。

1.  Goutte à goutte, l'eau use la pierre.
      (一滴一滴、水は石をすり減らす)

これは、動詞 creuser の代わりに user を使ったバージョンです。
user には次の 2 つ使い方があります。

  間接他動詞 user de ~ 「~を用いる」
  直接他動詞 user ~ 「~をすり減らす」

前置詞 de とセットで使う場合は英語の use (使う)に近い意味になりますが、 de がなければ「すり減らす」という意味になるため、注意が必要です。
ちなみに、普通に具体的な物を「使う」場合は

  se servir de ~ 「~を使う」

という熟語的な表現が最もよく使われます。

2.  La goutte creuse la pierre.
      (雫は石をくぼませる)

これは、だいぶ簡略化したバージョンです。

3.  L'eau qui tombe goutte à goutte cave la pierre.
      (一滴一滴落ちる水は石をくぼませる)

これは関係代名詞 qui を使用し、「qui tombe goutte à goutte (一滴一滴落ちる)」という部分が前の先行詞「L'eau (水)」にかかっており、「L'eau qui tombe goutte à goutte (一滴一滴落ちる水)」全体が大きな主語になっています。この「tombe」は自動詞 tomber (落ちる)の現在(3人称単数)。
「cave」はここでは他動詞 caver (くぼませる)の現在(3人称単数)。

4.  La goutte d'eau finit par creuser le roc.
      (一滴の水は、ついには岩をくぼませる)

「finit」は finir(終わる・終える)の現在3人称単数。ここでは自動詞ですが、「finir par + 不定詞」で「ついには~する」という意味になります。

【由来】 旧約聖書『ヨブ記』第14章19節。フランス語訳聖書(La bible de Jérusalem 版)では、「Comme... l'eau [finit] par user les pierres」(水がついには石をすり減らすように)となっています。

フランス語の諺集での早い用例としては、1531年のボヴェルの諺集に La goutte cave la pierre. (雫も石をくぼませる)と書かれています(原文はHathiTrustで閲覧可能)。

なお、「雨垂れ石を穿つ」という言葉は、これとはまったく別に、『文選』に収められた枚乗の「諫呉王書」に見えるようです(『故事俗信ことわざ大辞典』等による)。

Hâtez-vous lentement.

【逐語訳】 「ゆっくり急げ」

【日本の諺】 「急がばまわれ」

【単語の意味と文法】 「Hâtez」は他動詞 hâter(急がせる)の命令形現在形2人称複数と同じ形。
「se hâter」で「自分を急がせる」→「急ぐ」。命令形なので se が vous に変わっています(つまり、この「vous」は再帰代名詞)。
親しい相手に対して使う tu を用いた、
  Hâte-toi lentement.
という形もよく使われます。
日常会話では「se dépêcher(急ぐ)」のほうがよく使うので、

と言っても同じはずですが、諺としては上の単語を使います。
「lentement」は副詞で「ゆっくりと」。

【由来】 この言葉は、カエサルの跡を継いで古代ローマ帝国をまとめ、初代皇帝となったアウグストゥスの三つの座右の銘の一つだったことで知られています(スエトニウス『ローマ皇帝伝』(上)岩波文庫、p.119)。
ただし、アウグストゥスはこの言葉だけはギリシア語で座右の銘としていたらしく、『ローマ皇帝伝』ではギリシア語で Speude bradeos と書かれています(原文と仏訳の対訳は Bibliotheca Classica Selecta で閲覧可能)。

ラテン語では一般に次のように言います。

  • Festina lente. (フェスティーナ・レンテー)
    「Festina」は「急げ」。「lente」は「ゆっくりと」。

多少教養のあるフランス人(に限らずヨーロッパ人)は、この諺をラテン語(古典)の授業で習って知っているはずなので、このラテン語も覚えていて損はありません。

各国のさまざまな音楽の曲の題名にも、このラテン語が好んでつけられているようです。

【ボワロー】 この諺は 1674 年のボワローの『詩法』(作詩の心得を詩の形で述べた作品)でも取り上げられており、それに続く部分とあわせて、フランスでは次の 4 行の言葉が「ボワローの名言」として知られています。

  • Hâtez-vous lentement, et, sans perdre courage,
    Vingt fois sur le métier remettez votre ouvrage :
    Polissez-le sans cesse et le repolissez ;
    Ajoutez quelquefois, et souvent effacez.
    急がば回れの譬えあり 勇気を失うこともなく
    何度も何度も作品を 練り直しては練り直し
    絶えず磨いて磨きぬき 更に何度も磨くがよい
    加筆するのは程々で 削除するのは頻繁に
    この見事な七五調の日本語訳は守屋駿二訳『詩法』(人文書院)による。

このくだりは、詩に限らず、一般に入念な「推敲」を勧める文章作成術として受け止めることができます。

【フランス語の似た諺】「ゆっくり急げ!」と言われると、ゆっくりしたらいいのか、急いだらいいのか、わからなくなってしまいますが、次の諺と同じ意味だと説明されれば、そういう意味かと納得がいきます。

  • Il ne faut pas confondre vitesse et précipitation.
    速さと慌しさを混同してはならない。
    「Il ne faut pas」は「~してはならない」(禁止)。「confondre」は他動詞で「混同する」。「vitesse」は「速さ、スピード」、「précipitation」は「慌(あわただ)しさ、性急さ」。どちらも女性名詞で、通常なら定冠詞 la がつくべきところ。諺なので無冠詞だともいえますが、それほど古い諺ではないので、むしろ列挙・対比のために無冠詞になっているというべきかと思います。

Il faut battre le fer pendant qu'il est chaud.

【逐語訳】「鉄が熱い間に鉄を打つ必要がある」
(鉄は熱いうちに打て)

【諺の意味】 熱した鉄が冷めるのは早いように、すぐに状況は変化してチャンスはなくなってしまうものだから、「チャンスが到来したら速やかに行動に移すべきだ」。
仏仏辞典では次のように説明されています。

  • 「物事がうまく行っているときに追求する努力の手を緩めてはならない」
    (『アカデミー辞典』第 1 ~ 8 版)
  • 「好機を逃さずに行動せよ」(TLFi

ちなみに、ラルースの諺辞典でもこの諺は opportunité(好機)という項目に分類されています(Maloux (2009), p.377。日本語訳は『ラルース世界ことわざ名言辞典』、p. 156)。

【似た表現】「好機逸するべからず」

【日本での解釈について】 日本では、この諺は「年を取ると頭が固くなるから、頭の柔らかい若いうちに鍛錬せよ」という意味で使われることが多く、フランス語や英語とは意味が異なるので注意が必要です。

  • 北村『ことわざの謎』によると、大正十年から昭和十年まで小学四年生の教科書として使われていた『尋常小学国語読本』の「乃木大将の幼年時代」という話に、ひ弱だった乃木大将が両親に鍛えられて強くなったというエピソードに関してこの諺が使われたことで、この諺を「教育と関連づける日本的用法」が「確立された」(p.246)ようです。

【単語の意味】「Il faut」は「~する必要がある」
「battre」は他動詞「打つ」の不定形
「fer」は「鉄」。「le」がついているのでわかるように男性名詞です。
「pendant ~」は「~の間に」という前置詞もありますが、ここでは「pendant que... (...する間に)」という接続詞句
その後ろの人称代名詞「il」は男性名詞「fer(鉄)」を指しています。
「est」は être の現在(3人称単数)。
「chaud」は形容詞で「熱い」。

【ラテン語の由来】 C. de Méry (1828) (第3巻 p. 27)では、このフランス語の諺は次のラテン語の諺の訳であるとしています。

  • Oportet ferrum tundere, dum rubet.
    赤いうちに鉄を打つ必要がある。

Quitard (1842) (p. 383)では、セネカ(紀元前1年?-65年)も『アポコロキュントーシス』の中でこの諺を使っていると指摘されています。
実際、『アポコロキュントーシス』9節の末尾あたりに次のように出てきます。

  • 「ヘラクレスは自分の鉄が火の中で熱くなっているのを見た。
    岩波文庫『サテュリコン 古代ローマの諷刺小説』国原吉之助訳、p.322 による。同訳書の訳注では、これは「鉄が鍛冶屋の願いどおりの形に打たれるほど熱く焼けている、つまり自分の願いがかなえられそうになっているの意」だと書かれています。
    ラテン語原文は羅西対訳版 Apocolocintosi del diví Claudi: Epigrames, p.131 などで確認可能。

これを受け、日本で出版されているフランス語の諺に関する本では、いずれもこのフランス語の諺はセネカの言葉に由来するとしています。

しかし、フランスでは伝統的に、このフランス語の諺はセネカよりも2世紀ほど前のプラウトゥス(紀元前 254–184 年、仏語表記 Plaute)の喜劇『カルタゴ人』(Poenulus, 仏語対訳版は Google Books などで閲覧可能) 914 に出てくる次の言葉に由来すると考えられてきたようです。

  • Nisi dum calet hoc agitur.

「だがいいか、鉄は熱い中に 叩かねえでいるとだめになるぞ。」と訳されています(東京大学出版会『古代ローマ喜劇全集』第3巻 p.398、鈴木一郎訳)。劇の中では「早く行動に移せよ」という忠告として出てきます。

このプラウトゥスの言葉は、おそらく日本ではあまり省みられることはありませんが、1538年のロベール・エチエンヌ『羅仏辞典』(初版 p.97)や 1606年のジャン・ニコ『フランス語宝典』(「chauld 」の項目)ではこの言葉が取り上げられ、フランス語の逐語訳がつけられています。
さらに 1606年版のコルディエのラテン語の教科書の付録(p. 623)では、このプラウトゥスの言葉の訳として、ほぼ表題と同じフランス語の諺が記載されています。
ラルースの諺辞典(Maloux (2009), p. 377)でも、このプラウトゥスの言葉が引用されています。

ちなみに、岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』では、上記のものとは異なる「dum ferrum candet, tundito. (鉄が熱したる間に、それを鍛えよ)」というラテン語の諺が載っています。

【フランス語の由来】13世紀末の写本に「Endementres que li fers est chauz le doit len natre.」、13世紀末~ 14世紀初頭の写本に、「Len doit batre le fer tandis cum il est chauz.」(どちらも「人は鉄が熱い間に鉄を打たなければならない」の意味)と書かれています(Morawski, N°645, 1449)。

1341年頃のギヨーム・ド・マショーの「運命の治療法」という作品には、次のように出てきます(DMF, s.v. «chaud» による)。

  • できるときに何もしない人は、しようと思ったときには何もできない。熱くなった鉄は、打たなければならないのだ。

14世紀のキュヴリエ(Cuvelier)の『ベルトラン・デュ・ゲクラン年代記』(仏語解題は ARLIMA にあり)の20862行目にも、「On doit batre le fer entreulx [pendant] qu'il est bien chaux」と出てきます(古い綴りを含む、リトレで引用、原文は Google Books, p.258 などで閲覧可能)。

16世紀ラブレーのラブレーの『パンタグリュエル』(1532 ?)第31章では、戦いに勝利したという知らせを受けて町中で祝盃を挙げたあとで、この機に乗じて一気に敵を攻めるべきであるとして、パンタグリュエルが述べる次のせりふの中に出てきます(岩波文庫、『パンタグリュエル物語(第二之書)』、渡辺一夫訳、p.226)。

  • 諸君、鉄は熱いうちに鍛えねばならぬものだが、これと同じく、これ以上寛(くつろ)ぐのはよしにして、乾喉人王国全土を攻略占領いたしたいと存ずる。

【図版】17世紀中頃の J. ラニエの版画にこの諺が描かれています。

【英語の諺】 英語では次のように言います。

  • Strike while the iron is hot.
  • Strike the iron while it is hot.
    『オックスフォード諺辞典』第5版, p. 305 では、この英語の諺の起源として、参考として上記13世紀のフランス語の写本の言葉を記載し、英語の初出は1386年頃のチョーサー『カンタベリー物語』としています。たしかに「メリベウスの物語」に出てきます(桝井迪夫訳『カンタベリー物語』岩波文庫、中巻 p.378)。

【参考】 セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇第6章に、次のようなくだりが出てきます。

  • しかし、すべては荒野に向かって説教し、冷たくなった鉄を打つようなものであった。それでも彼女たちは懸命になって説得したが、(...)
    牛島信明訳『ドン・キホーテ』後篇(一)、岩波文庫 p.102 による(下線引用者)。

この「砂漠で説教をし、冷たい鉄を打つ」という諺は、「何の成果も期待できない無益なことをする。無駄なこと」という意味だそうです(山崎 (2005) による)。

Il faut laver son linge sale en famille.

【逐語訳】「汚れた下着は家で洗え」

【諺の意味】「汚れた下着」は「家庭内の問題」「仲間うちでのもめごと」の比喩です。
それを「洗う」とは「解決する」「処理する」ことを意味します。

全体として、
  「家庭内の問題は外に(おおやけの場に)持ち出さず、家庭内で解決すべきだ」
  「内輪のもめ事は内輪で処理せよ」(『ロワイヤル仏和中辞典』の laver の項目)
という意味です。

「夫婦喧嘩は家でやってくれ」というような意味でも使われます。

【背景】 まだ洗濯機がなかった時代、女性たちは自然の湧水などを利用した共同の洗い場(lavoir)に洗濯物を持っていって手作業で洗っていました(lavoir の画像検索を参照。こうした昔の洗い場は、現在では観光・散策スポットとして人気を集めているようです。ちなみに洗剤も天然のものだったので、洗い流しても環境に悪影響はありませんでした)。
洗濯だけでなく、そこは世間話の場ともなっていました。「汚れた下着」を洗うついでに、つい口がすべって「家庭内の問題」を話してしまうと、すぐに噂が知れ渡ってしまいます。この諺には、こうした背景があるようです。

この諺の歴史は比較的浅く、19 世紀に入ってからできたようです。ちょうど上下水道が急速に整備されてきた時代です。
洗濯物を「家で洗う」ことができるようになったのと時を同じくして、この諺が広まったのではないかと推測したくなります(下記【由来】も参照)。

【単語の意味と文法】 「Il faut」は「~する必要がある」
「laver」は他動詞で「洗う」。
「son」は所有形容詞で「自分の」。上の【逐語訳】では省略しました。

「linge」は男性名詞で「下着」。
ちなみに、一枚一枚の下着ではなく総称として「下着類」という場合は lingerie となります。同じ綴りで英語にも入り、さらに日本語に入って「ランジェリー」となっています。

「sale」は形容詞で「汚い、汚れた」。
余談ですが、夏または冬に日本に来たフランス人は、デパートなどで至るところに目立つ文字で「汚い」と書いてあるのを不思議に感じるようです(「セール」の意味)。

「en」は前置詞で「~で」。ここでは場所を表します。
「famille」は女性名詞で「家族」。
前置詞 en の後ろなので無冠詞

直訳すると「汚れた下着は家で洗う必要がある」ですが、特定の相手を意識するなら、「汚れた下着は家で洗え」という一種の命令になります。

【他のバージョン】 「Il faut」をつけずに、「laver son linge sale en famille」だけを成句表現として使うこともよくあります。
その場合、状況に応じて「son (自分の)」を「votre (あなたの)」などに変えます。

【由来 1 :ヴォルテール】 「汚れた下着を洗う」という表現は、18 世紀のヴォルテール(1694-1778)が使用しています(Rey/Chantreau, p.550 等で引用)。
ただし、ヴォルテールはプロイセンのフリードリヒ 2 世が送ってきた詩を「添削する」という意味で使っており、この諺とは意味が異なるので除外しておきます。

【由来 2 :カザノヴァ】 18 世紀末にイタリア人カザノヴァ(1725-1798)がフランス語で書いた『回想録』(1789-1798)にもこの諺が出てくるとされることがあります(Rat (2009), p.234 など)。問題の箇所(第 12巻第 7章の末尾付近)を、カザノヴァの自筆原稿に忠実なブロックハウス版をもとに訳された窪田般彌訳『カザノヴァ回想録』(河出文庫第 12 巻 p.224)から引用してみます。

  • いかなる家庭も、その内部は、平和をかき乱す何らかの喜劇にわずらわされているものだ。その喜劇が公(おおやけ)にならないよう(...)世間の笑いものにされたり(...)世間の野次に好都合な冷やかしの種を与えないようにしなければならない(...)。

しかし、ここにはこの諺は出てきません。実は、カザノヴァの回想録は露骨な性的描写が含まれていることもあって、作者の死後、勝手に削除・加筆されてさまざまな版が出されてきました。そのうちの一つ、1838年刊のラフォルグ版では、上に引用した一節のすぐ後ろに次のような文が追加されています(原文は Google Books, p.221 で閲覧可能)。

  • Cette sagesse se nomme en France - savoir laver son linge sale en famille.
    こうした知恵は、フランスでは「汚れた下着は家で洗うことをわきまえる」と呼ばれている。

このように、実はカザノヴァ本人が書いたものではなく、編者ラフォルグが追加した文に出てきます(このことは、今回調べて初めて知りました)。
ただし、ラフォルグが編纂作業を行った 1838年当時のフランスでこの表現が流布していたことは間違いありません。

【由来 3 :ナポレオン】 ナポレオンは好んでこの諺を使ったようです。例えば、ロシア遠征に失敗して以来、戦いに敗れることが多くなり、フランス国内でもナポレオンへの批判が噴出し始めていた 1814年 1月 1日、ナポレオンは立法院を召集し、議員たちに向かって次のような有名な言葉を述べています(フランス語の百科事典『十九世紀ラルース』の linge の項目に収録されている文章から訳してみます)。

  • あなたがたは何を望んでいるのだ。権力の座につくことか? しかし権力の座について何をしようというのだ。あなたがたのうちの誰が権力を振るうことができるというのだ。 (...)そもそも今のフランスに必要なのは何なのか。それは議会ではない、演説家でもない、将軍だ。あなたがたの中に将軍がいるというのか。 (...)フランスを救うことができるのは、あなたがたではない。私なのだ。

威勢のよいせりふですが、そのすぐ後ろで、この諺が出てきます。

  • あなたがたの主張することの中にも、少しの真実は含まれているが、多くは誤りだ。 (...)もしあなたがたが告発したいというのなら、他の機会にすべきだろう。その機会を私自身が設定しよう。 (...)しかし議論はわれわれの間で行われるべきだ。なぜなら汚れた下着を洗うのは家の中においてであって、おおやけの場においてではないからだ。それだけではなく、あなたがたは私の顔に泥を投げつけようとした。だがいいか、私という人間は、殺されることはあっても、侮辱されることはないのだ。

つまり、批判・告発したいことがあったら、議会というおおやけの場ではなく、別の場所で議論すべきだと言っているわけです。

ちなみに、バルザックの小説『ウージェニー・グランデ』(1834)などにも、「ナポレオンは『汚れた下着は家で洗う必要がある』と言った」という言葉が出てきます。

アカデミーフランセーズ辞典』では、第6版(1835)までは収録されておらず、第7版(1878)から収録されています。

【英語の諺】 フランス語から英語に入った諺のようで、『オックスフォード英語諺辞典』第3版ではナポレオンの言葉を一番古い用例として挙げています。
英語では、「wash dirty linen in public (汚れた下着をおおやけの場で洗う)」という成句を否定にした次のような表現がよく使われるようです。

  Don't wash your dirty linen in public.
  One does not wash one's dirty linen in public.

Il faut manger pour vivre, et non vivre pour manger.

【逐語訳】 「生きるために食べるべきなのであって、食べるために生きるべきなのではない」

【単語の意味と文法】 「Il faut」は「~する必要がある」が基本ですが、ここでは長たらしくなるので「~するべきだ」と訳してみます。
「manger」は「食べる」。普通は他動詞ですが、ここでは自動詞として使っています(あるいは他動詞なのに例外的に直接目的が省略されているとも取れます)。
「pour」は前置詞で「~するために」。
「vivre」は自動詞で「生きる」。
このコンマの前までで、いったん文は完結しています。
「Il faut manger pour vivre」で「生きるために食べるべきだ(生きるために食べる必要がある)」となります。

コンマの後ろの「et non」は、et (そして)の前までの文を否定しながら受ける言葉で、「A et non B.」で「A なのであって、B なのではない」という意味です。
この諺を non を使わずに書き換えると、次のようになります。

  Il faut manger pour vivre, et il ne faut pas vivre pour manger.

【他のバージョン】 「et non」は pas を入れて「et non pas」と言うこともあるので、この諺も次のように言う場合もあります。

  Il faut manger pour vivre, et non pas vivre pour manger.

【用例】 1668 年のモリエールの喜劇『守銭奴』第 3 幕第 5 景では、この pas を入れた形で出てきます。
この諺を初めて耳にした主人公アルパゴンが、言い間違えて、逆にして

  • Il faut vivre pour manger, et non pas manger pour vi...
    食べるために生きるべきなのであって、生きるために食べるべきなのでは...

と言いかけて間違いに気づき、観客の笑いを取る場面があります(『守銭奴』岩波文庫、p.79。原文は Wikisource などで閲覧可能)。

【由来】 もとはソクラテスの言葉だとされています。次のような逸話が残されています。

  • 〔ソクラテス〕が金持たちを食事に招いたとき、クサンティッペ〔ソクラテスの妻〕がご馳走のないことを恥ずかしがっていると、彼はこう言った。「心配することはないさ。心得のある人たちなら、これで我慢してくれるだろうし、つまらない人たちなら、そんな連中のことをわれわれは気にすることはないのだから」と。
    彼はまた、他の人たちは食べるために生きているが、自分は生きるために食べているのだと言った。
    ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』、加来彰俊訳、岩波文庫 p.144。下線と 〔 〕 内は引用者。

【図版】 絵葉書のページを参照。

Il faut qu'une porte soit ouverte ou fermée.

【逐語訳】 「扉は開いているか閉まっているかでなければならない」

【諺の意味・使い方】 妥協点を探ろうとしたり、中途半端な解決策を取ろうとしては駄目だ。どちらかを選ぶべきだ。

【似た表現】 「旗幟(きし)を鮮明にせよ」(態度を明確にしろ)

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「Il faut」は「~する必要がある」
「Il faut que... (...する必要がある)」の que の後ろの動詞は接続法になるので、être の接続法現在 3人称単数の「soit」が使われています。
「porte」は女性名詞で「ドア、扉」。
「ouverte」は、もともと他動詞 ouvrir(開ける)の過去分詞 ouvert からできた形容詞「ouvert(開いている)」に、女性単数を示す e がついた形。主語の女性名詞「porte」に合わせて女性単数の形になっています。
「fermée」は、もともと他動詞 fermer(閉める)の過去分詞 fermé からできた形容詞「fermé(閉まっている)」に、女性単数を示す e がついた形。やはり主語の女性名詞「porte」に合わせています。
なお、どちらも「être + 形容詞」ではなく「être + p.p. で受動態」(逐語訳:「開けられている」「閉められている」)と取ることもできますが、要するに同じ意味になります。

【由来】 1691年の Brueys et Palaprat (ブリュエ / パラプラ共同作)の喜劇 Le Grondeur に出てきます。
1845年のアルフレッド・ド・ミュッセ(Alfred de Musset)の戯曲の題名にもこの諺が採用されています。

【英語バージョン】 英語では次のように言います。

Il faut rendre à César ce qui est à César.

【逐語訳】 「カエサルのものはカエサルに返す必要がある」
(皇帝のものは皇帝に返す必要がある)

新約聖書のイエスの言葉に由来しますが、英語では「有名な引用句」どまりである(イエスの述べた言葉として記憶されているだけである)のに対し、フランス語では「諺」になっている(聖書の文脈を離れて、比喩的に使われる)と言えそうです(Schapira (2000), p.89による)。

【諺の意味と使い方】 「何でも本来の持ち主に返す必要がある」

この諺を使った絵葉書を見ると、なんとなく使い方がわかります。

また、もう少し抽象的に使われることもあります。ヴェイユ/ラモー『フランス故事・名句集』 p.245 には次のような意味と用例が記載されています。

  • それぞれの人に返すべき分を返すこと、どの人にも応分の功績をみとめることである。たとえば、ある作家の作品を利用しておきながら、ちゃんと著者名をあげ、引用であることを明白にしていない文書を見つけて、腹が立ったら、「カエサルのものはカエサルに返さ」ねばならぬと叫んでもかまわないだろう。

このように、「引用するときは出典を明らかにする」という意味で rendre à César ce qui est à César と使われることも多いようです。

実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【由来】 新約聖書「マタイによる福音書」第22章21節のエピソードに由来します。

  • それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちを(...)イエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、(...)お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
    新共同訳による(下線引用者)。
    一般には、「政教分離」の原則を述べた言葉だと解釈されています。

この最後のイエスの言葉は、フランス語訳聖書ではほぼ次のように訳されています。

  • Rendez à César ce qui est à César, et à Dieu ce qui est à Dieu.
    「Rendez」は rendre (返す)の現在2人称複数とまったく同じ形ですが、ここでは主語がないので命令形。「et」と「à」の間に「rendez」を補うとわかりやすくなります。
    厳密に言うと、1550年のカルヴァンの La Bible de l'Épée の仏訳はこの通りの形ですが、他のほとんどのフランス語訳聖書では「Rendez」の後ろに「donc」という言葉(上の新共同訳の「では、」に相当)を入れています(参照:La Reference Biblique djep)。

このように、もとのイエスの言葉は命令形を使った「Rendez à César...」(...カエサルに返しなさい)ですが、「Il faut rendre à César...」(...カエサルに返す必要がある)としたほうが一般論のようになり、諺らしい感じがします。
実際、『アカデミー』『プチ・ラルース』などの仏仏辞典では「Il faut...」の形で諺として収録されています(ただし、実際にはあまり区別なく使われます)。

【単語の意味と文法】 「Il faut」は「~する必要がある」
「rendre」は他動詞で「返す」。
「à」は前置詞で「~に」。
このように分けて理解することもできますが、

  • rendre A à B で「A を B に返す」

という使い方をすると考えることもできます(第5文型をとる動詞)。
ここでは(A が長いので)「A」が後ろにきて rendre à B A という順で出てきており、B に相当するのが最初の「César」、A に相当するのが「ce qui est à César」です。

「César」は、ローマ帝国の基礎を築いたユリウス・カエサルを指す固有名詞(人名)のほかに、一般に「(古代ローマ帝国の)皇帝」を指す普通名詞にもなります。
イエスが活躍していた頃には、実際には第2代皇帝ティベリウス帝(在位:紀元後14-37年)が統治していたので、「皇帝」と訳すべきかもしれません。

  • ちなみに、12人のローマ帝国皇帝の伝記を記したスエトニウスの『皇帝伝』は、仏訳では Vie des douze Césars といい、逐語訳すると(「12人のカエサルの生涯」というよりも)「12人の皇帝の生涯」です。

ただし、日本語訳の聖書では、問題の箇所は長らく「カイザル」(カエサル)と訳されていたために、「カエサルのものはカエサルに」という言い方が広まっているようです。

「ce」は先行詞になると「...なこと・もの」
「qui」は関係代名詞。
「est」は助動詞 être の現在3人称単数。
「à」は前置詞で、ここでは「所有・所属」を表し「~の、~に属する」。

【他のバージョン】「est à」の代わりに「appartient à」を使うこともありますが、意味は同じです。

  • Il faut rendre à César ce qui appartient à César.
    「appartient」は appartenir(venirと同じ活用をする不規則動詞)の現在3人称単数。「appartenir à ~」で「~に属する」という意味。
    『アカデミー辞典』では、第2版(1718)以降、この形で収録されています。

【英語】 同じイエスの言葉は、英語では次のように言います。

  • Render unto Caesar the things which are Caesar's.

ただし、英語の諺辞典には載っていない場合も多く、前述のように、英語では十分には「諺化」されていない可能性があります。

Il faut tourner sept fois sa langue dans sa bouche avant de parler.

【逐語訳】 「話す前に口の中で七回舌を回す必要がある」

【諺の意味】 よく考えてから物を言う必要がある。
うっかり変なことを言って、あとで後悔することのないようにする必要がある。

【単語の意味と文法】 「Il faut」は「~する必要がある」。「tourner」は他動詞で「回す、回転させる」。
「sept」は数詞で「7」。「fois」は女性名詞で「~回」。

「sa」は所有形容詞「Il faut + 不定詞」を使うと主語が曖昧になるので、この「sa」は「自分の」という感じになります。
「langue」は女性名詞で、ここでは「舌」。
「dans」は前置詞で「~の中で」。「bouche」は女性名詞で「口」。

「avant」は前置詞で、時間的に「~の前に」ですが、後ろに不定詞がくる場合は

  avant de + 不定詞 (~する前に)

となります。「parler」は「話す」。

【他のバージョン】 「sa langue」と「sept fois」の位置を逆にして言うこともあります。

  • Il faut tourner sa langue sept fois dans sa bouche avant de parler.

「sept fois (7 回)」は副詞的な要素であり、副詞は置く場所が厳密に決められているわけではないからです。

【由来】 このフランス語の諺は比較的新しく、1775年にメロベール(Mairobert)という人が書いて当時のベストセラーになった、ルイ 15世の公妾デュ・バリー夫人についての本『デュ・バリー伯爵夫人についての逸話』第 2部で出てくるほかは、ほとんど 19世紀以降の使用例しかないようです。
『アカデミーフランセーズ辞典』 では 1835年の第 6版以降に収録されています。

この諺の起源は『旧約聖書』の「箴言」にあるとする説もありますが、ざっと見た限りでは、ぴったりのものは見当たりません。ただし、「箴言」には「口は災いの元」に似た内容のことは繰り返し書かれています。例えば、

  • 「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する」(10章19節)
  • 「軽率なひと言が剣のように刺すこともある」(12章18節)
  • 「自分の口を警戒する者は命を守る」(13章3節)
  • 「滑らかな舌はつまずきを作る」(26章28節)

などです(いずれも新共同訳)。
聖書では 7 という数字が頻繁に出てくるので、この諺の起源と関係がある気もします。

【似た諺】 「口は災いの元」

フランス語では、「舌禍(ぜっか)」つまり「よけいなことを口走ってしまい、わざわいを招くこと」に対する戒(いまし)めとして、次の諺があります。

  • Trop gratter cuit, trop parler nuit.
    (掻きすぎるとひりひりする、しゃべりすぎるとわざわいを招く)
    「nuit」は nuire(害を与える)の現在3人称単数。いわゆる「重文」で、独立した二つの文からなりますが、掻きすぎて「ひりひり」した感じが失言して後悔している感じと重なって、独特な効果が生まれている気がします。

これは、特に昔よく使われた諺です。たとえば権力者の悪口を言ったために処罰されたり、命を落とすようなことも、昔はあったのではないかと想像されます。

また、日本でも有名な

の「沈黙は金」の部分も、舌禍や多弁に対する戒めと解釈されることがあります。

Il ne faut jamais dire : « fontaine je ne boirai pas de ton eau.»

【逐語訳】「絶対に言ってはならない、『泉よ、おまえの水は飲まないぞ』とは。」

少し長いので、途中で止めることもよくあります。

  • Il ne faut jamais dire : « fontaine... »
    絶対に言ってはならない、「泉よ...」とは。

【諺の意味】「ある手段に訴えることはない、これこれのことはしない、などと誓ってはならない(なぜなら状況が変わって、せざるをえなくる可能性もあるのだから)」(Rey/Chantreau, p.430)。

あるいは、「いま拒否したり軽視したりしているものを、あとになって受け入れるはめに陥らないとは、誰にも言えない」(アカデミー第9版)。

仏和辞典でも、多くの場合、fontaine を引くとこの諺が載っています。例えば『小学館ロベール仏和大辞典』には次のように書かれています。

  • (「泉よ、おまえの水は飲まない」と言ってはらない→)世の中何が起こるか分からないのだから、将来のことはあまり口幅ったいことを言うものではない。注 特に、「私は結婚しない」と公言する人をたしなめて言うことが多い。

また、これに相当するスペイン語の諺についての次の説明も参考になります。

  • コレアス(Gonzalo Correas)によれば、世の中のことは巡り巡っているものであることを教える諺。明日に起こる事は誰にも分らず、何時どこで誰の、または何の世話になるかも知れない。従って如何なる人や物をも軽蔑してはならず、「自分には無用の長物」であるなどと断言すべきではない。
    山崎・カルバホ (1990), p.130から引用。ちなみに、ゴンサロ・コレアス(1571-1631)はことわざ集も残しているスペインの文法家。

【似た表現】次の表現と通じるところがあります。

  • Il ne faut jamais dire : « jamais. »
    絶対に「絶対」と言ってはならない。
    「絶対」という言葉を使うなと言っている文の中で「絶対」と言っているところが、矛盾していて面白い表現です。

ここで取り上げている諺は、 Il ne faut pas dire « fontaine je ne boirai pas de ton eau. » と言うこともありますが、この jamais を 2 回使った表現のイメージに影響されてか、 Il ne faut jamais dire... と言うことのほうが多いかもしれません。

【エピソード】この諺の元になっているのは、次のような小話だとする説があります。

  • 「わしは酒しか飲まない、絶対に水など飲まぬぞ」と公言していた呑ん兵衛が、酔っ払って噴水の泉の中に落ちて溺れ死に、不本意ながら、たらふく水を飲むはめになった。
    この話は Quitard (1842), p.403 で紹介されており、Rat (2009), p.185 や J.-Y.Dournon (1986), p.158 でも丸写しされています。

この小話は、16世紀前半に書かれたイタリアのアリオスト(1474-1533)の『狂えるオルランド』第14歌124 でも形を変えて出てきます。
戦闘の場面で、モスキーノという名の酒豪が、城の堀の中に落ちたときの話です。

  • アンドロポーノにモスキーノ、狭間の上より
    濠の中へと投げ落とされたが、最初の者は僧にして、
    また後者、崇めるは葡萄酒のみにて、
    幾樽もいっきに飲み干す呑んべえだった。
    この者は毒や悪血を嫌うがごとくに、
    大いに水を嫌っていたが、死ぬに際して、
    このように水の中にて命を落とす
    羽目となりしを、なににもまして悲しんだ。
    脇功訳『狂えるオルランド』、名古屋大学出版会、上巻 p.240 から引用。 Quitard (1842), Ibid. で指摘されています。

溺れ死ぬこと以上に、「絶対に水など飲まない」という前言をひるがえすはめになったことのほうが悔しい、といわんばかりです。

ただし、この話とこの諺とを結びつける手がかりはなさそうです。

【図版】この諺を題材にした挿絵絵葉書があります。

【単語の意味と文法】「Il faut」は「~する必要がある」ですが、これを否定にすると、Il ne faut pas ~ で「~してはならない」という禁止の表現になります。
ここでは、ne... jamais(決して...ない、絶対に... ない) という強い否定が使われています。
「dire」は他動詞で「言う」。その直接目的が「ギユメ」の中全体です。

「fontaine」は女性名詞で「泉、噴水」。
ここでは、泉を擬人化して、泉に呼びかけています。「泉よ」という感じです。
このように、相手に呼びかける場合(これを難しい言葉で「頓呼(とんこ)法」、フランス語で apostrophe といいます)は、無冠詞になります。

「boirai」は他動詞 boire(飲む)の単純未来1人称単数。
この単純未来は、主語が1人称なので「意思」を表わします。
意思なので「飲まないだろう」というよりも、「飲まないぞ」という感じです。

その後ろの「de」は「部分、一部」を表わします。
辞書で de を引くと、例えば次のように載っています。

  • 『ロワイヤル仏和中辞典』だと、前置詞の四角の C「文法的機能」の黒丸 5 「部分を表す小辞」
  • 『ディコ仏和辞典』だと、前置詞の四角の 1 の黒丸 8 「部分」の末尾のダイヤモンド印の [de が単独で「部分」を表わす用法] 「...のうちのいくらか」
  • 『プログレッシブ仏和辞典』だと、右上に小さく 1 と書いてある de の四角の 2 の 3 《特定されているものの部分を表わす小辞》「...の一部」

実は、この de と定冠詞がくっついてできたのが「部分冠詞」です。つまり部分冠詞の元になった言葉です。泉の水を全部飲むわけではなく、その一部を飲むことを示す言葉ですが、「おまえの水」と言うために「ton」を使用したので、定冠詞は使われなかったと理解することができます。

「ton」は所有形容詞で「君の」。次の名詞は女性名詞ですが、母音で始まっているので ta ではなく ton となります。
「eau」は女性名詞で「水」。

なお、ギユメ終了時にピリオドを打つ場合は、 «  . » というように、先にピリオドを打つのが正しい書き方です。

【由来】フランス語の諺としての早い用例としては、1611年版のグルテルス『詞華選』の「フランスの諺」の部(巻末 p.390)に次のような形で収録されています。

  • Il ne faut pas dire ; fontaine je ne boyray jamais de toy.
    言ってはならない、泉よ、私は絶対におまえを飲まない、とは。
    一部に古い綴りを含む。これが恐らく初出かもしれません。

1615年に初版が出たセルバンテスの『ドン・キホーテ』後篇(=第2部)第55章にも出てきます。従者のサンチョ・パンサが、自分だって諺ぐらいいくつか知っていることを示すために、あまり脈絡なく諺を列挙する場面です。

  • 誰だって、こういう水は、わしゃ飲まねえって、言えねえだ
    岩波文庫の旧版(高橋正武訳、続編(三)、p.142)から引用。なお、岩波文庫の新版(牛島信明訳)後篇(三) p.110 では、元になった校本の違いから、この諺は出てきません。

この部分、スペイン語原文では次のようになっています(岩波文庫旧版の巻末の注 p.367 およびスペイン語版 Wikisource による)。

  • Nadie diga : desta agua no beberé.
    フランス語に似ていて面白いので、少し詳しく見てみると、「nadie」はフランス語の personne (誰も...ない)に相当する言葉。「diga」は decir (言う)の接続法現在3人称単数(一般に、スペイン語では3人称に対する命令には接続法が使われます)。「agua」は「水」。「beberé」は berber(飲む)の未来1人称単数。「desta」は、フランス語の de と同じ「de」と「esta」(この)がくっついた形のようです。通常は「desta」の部分は「de esta」というように分けて Nadie diga, de esta agua no beberé. とするようです。さらに、「文法的には現在、<la cacofonia> (耳障りな響)を避けるため、<esta agua> の部分は <este agua> と表記されるところ」(山崎・カルバホ (1990), Ibid.)なので、そうすると Nadie diga, de este agua no beberé. となります。

『ドン・キホーテ』のフランス語訳では、ここは次のようになっていす。

  • Que personne ne dise : Fontaine, je ne boirai pas de ton eau.
    誰も言わないように。「泉よ、私は絶対におまえを飲まない」、とは。
    「personne ne」は「誰も...ない」。「personne」が主語になっています。「dise」は dire (言う)の接続法現在3人称単数。Que + 接続法で「3人称に対する命令」になります)。
    ラルースの諺辞典では、あたかもこれが初出であるかのようにスペイン語の諺(の仏訳)として載っています(Maloux (2009), p.289)。

『アカデミー辞典』では、だいぶ遅れて第 5 版(1798)から収録されています。

『プチ・ラルース 2013』の「ピンクのページ」でも取り上げられている、有名な諺です。

Il ne faut pas courir deux lièvres à la fois.

【逐語訳】 「二匹のうさぎを同時に追いかけてはならない」
(二兎を追う者は一兎をも得ず)

【諺の意味】 二匹のうさぎを同時に追いかけても、どちらも逃がしてしまう結果になるので、2 つのことを同時に追求してはならない。

【単語の意味と文法】 「Il ne faut pas ~」は「~してはならない」という禁止の表現
「courir」は自動詞だと「走る」、他動詞だと「(走って)追いかける」。
「deux」は数詞で「2つ(の)」。
「lièvre」は男性名詞で「兎(うさぎ)」。
「à la fois」は「同時に」という熟語(英語の at the same time)。

【他のバージョンと使い方】 「deux (2 つの)」の代わりに「plusieurs」を使って言うこともあります。

  • Il ne faut pas courir plusieurs lièvres à la fois.
    複数のうさぎを同時に追いかけてはならない。
    「plusieurs」は辞書には「多くの、いくつもの」と記載されていますが、このように「複数の」と訳すとぴったりくる場合もあります。

その他、以下のように多くのバリエーションがあります。

これ以外にも、さまざまに使われるので、むしろ次のような「成句」表現だと捉えたほうがよいかもしれません。

  • courir deux (plusieurs) lièvres à la fois
    同時に 2 つの(複数の)ものを追いかける、
    同時に 2 つの(複数の)ことをする

文脈により、「両面作戦を行う」や「二足のわらじを履く」といった意味にもなります。
例えば tu (君は)を主語にすると、

  • Tu cours deux (plusieurs) lièvres à la fois.
    君は同時に 2 つの(複数の)ことをしている。
    「cours」は courir の現在(2人称単数)。

これは「どちらか一方に絞った方がいいんじゃないか」という意味で使われます。
あるいは、je (私は)を主語にして、

これは、例えば過去を振り返って、「私は同時に二匹のうさぎ( 2 つの目標)を追いかけてしまった」(どちらもモノにならなかった)と後悔する場合に使われます。

また、courir の前に vouloir (~したい)をつけた次の表現も多用されます。

  • vouloir courir deux (plusieurs) lièvres à la fois
    同時に 2 つの(複数の)ことをしようとする

いずれにせよ、「二匹のうさぎを同時に追いかけても、どちらも逃がしてしまう」という比喩がベースにあるので、基本的には「成功しない」、「失敗する」という否定的なニュアンスを伴って使われます。

【由来】 おそらく次の諺から派生したと推測されます。

フランス語の初期の用例としては、1668 年のラシーヌの『裁判きちがい』 第 3 幕第 3 景に次のようなせりふが出てきます。まわりの人々に、ああしろ、こうしろと言われて、登場人物がパニックになりかけて発した言葉です。

  • 一ぺんにあれもこれもできるはずがねえだ!
    鈴木力衛・鈴木康司訳、筑摩書房、世界古典文学全集48、p.159 による。

非常に達意の訳ですが、原文は On ne court pas deux lièvres à la fois. となっています(Wikisource などで閲覧可能)。

『アカデミーフランセーズ辞典』では第 2 版(1718 年)以降に「Il ne faut pas courir (chasser) deux lièvres à la fois」という形で収録されています。

【この諺のイメージについて】 ロベールの表現辞典では、この諺は二人の女性を追いかけ回す男について使われる場合が多い、と書かれています(Rey/Chantreau, p. 548)。

  • これは、もともとラテン語でうさぎのことを cuniculus 、女性性器のことを cunnus (フランス語の con などの語源)と言い、イメージが混同されてきたことと関係があるようです(同書 « lapin » の項による)。

つまり、フランス語では、この諺の「(狩の対象となる)うさぎ」には、「(追いかけまわす対象としての)女」というイメージがあるようです。

【言葉遊び】 19世紀の小説家バルザックの手帳には、この諺の courir (追いかける)を couvrir (覆う)に、lièvres (うさぎ)を lèvres (唇)に変えた、次のような言葉が書きとめられています。

  • Il ne faut pas couvrir deux lèvres à la fois.
    同時に 2 つの唇を覆ってはならない。

「同時に 2 人の唇にキスしようとしてはならない」という意味でしょうか。
元の諺に隠されていたイメージが前面に引き出されたような印象を受けます。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

Il ne faut pas réveiller le chat qui dort.

【逐語訳】「眠っている猫を起こしてはならない」

【使われ方】実際には、大きく2つの意味で使われるようです。

  • 1. せっかく収まっている過去のこと(忘れられていた不快な出来事など)を蒸し返してはならない(眠っている猫 =「過去の出来事」)。
  • 2. 避けることができる危険を、好き好んで求めてはならない。特に、関係ない静かにしている人に余計な手出しをして、悪意や怒りを呼びさましてはならない(眠っている猫 =「怒る可能性のある人」など)。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【表面上の意味】「眠っている猫を起こすと、爪で引っ掻かれる恐れがある」という意味だと解釈する人もいますが、実際に猫を飼った経験のある者からすると、眠っている猫を起こして爪で引っ掻かれるというのは想像しにくいところです。
野良猫であっても、引っ掻く前に、急いで逃げていくのではないでしょうか。

むしろ、人間ではなく鼠の立場から見て「天敵の猫が眠っていたら起こしてはならない」と取った方が自然であり、諺の意味も理解しやすいのではないかという気がします。

  • 以上は単なる主観です。なお、中世にはこの諺の「猫」は「犬」だったようなので(下記)、その場合は「人間」対「犬」になります。

【図版】この諺を題材にした19世紀の挿絵でも、鼠が猫にちょっかいを出しているところが描かれています。
この諺を題材にした絵葉書を見ると、実際の使われ方がわかります。

【単語の意味と文法】「Il ne faut pas ~」は「~してはならない」という禁止
「réveiller」は他動詞で「(眠っている人を)目覚めさせる、起こす」。比喩的な意味でも使われ、例えば『ロワイヤル仏和中辞典』では次のような例文が載っています。

  • réveiller la curiosité(好奇心を呼びさます)

同じ辞書で接頭語 r(「再び」を意味する re の母音の前での形)を省いた éveiller を引いても、似たような例文が載っています。

  • éveiller la curiosité(好奇心を呼びさます)

「chat」は男性名詞で「猫」。
「qui」は関係代名詞
「dort」は dormir(眠る)の現在3人称単数。

【他のバージョン】命令文にすることもあります。

  • Ne réveillez pas le chat qui dort.
    眠っている猫を起こすな。
    「réveillez」は réveiller の現在2人称複数と同じ形で、ここでは命令形

また、réveiller の代わりに上記 éveiller を使うこともあります。

  • Il ne faut pas éveiller le chat qui dort.
    眠っている猫を起こしてはならない。

  • N'éveillez pas le chat qui dort.
    眠っている猫を起こすな。

【由来】ラテン語では「猫」ではなく「酔っ払い」だったようです。

  • Temulentus dormiens non est excitandus
    眠っている酔っ払いを起こしてはならない。
    R. Tosi, No.687 ; Loubensの引用による。

岩波『ギリシア・ラテン 引用語辞典』では「酔える人は刺激せらるべからず」(temulentus non est irritandus)となっています。

フランス語のこの諺は、中世には「猫」ではなく「犬」だったようです。例えば、

  • Il fait mal éveiller le chien qui dort.
    眠っている犬を起こすのは良くない。
    13世紀の写本の形。Le Roux de Lincy (1842), t. 1, p.108 による。以下、古い綴り・語法を含む。
  • N'eveillez pas le chen qi dort.
    眠っている犬を起こすな。
    Le Roux de Lincy (1859) 2e éd, t. 2, p.479 による
  • N'esveillez pas lou chien qui dort.
    眠っている犬を起こすな。
    13世紀末~14世紀初めの写本の形。Morawski, N°1387による。

リトレの辞典では、「起こしてはならない門番は犬なのだから、何かの間違いで『犬』が『猫』となったに違いない」と注記されています(chat の項目の末尾)。実際、発音が似ているためか、中世には chien(犬)と chat(猫)が混同されるケースも少なくなかったようです。

「猫」としては、15世紀シャルル・ドルレアンの詩(ロンド N°19)に「Sans resveiller le chat qui dort」(眠っている猫を起こさずに)と見えるのが古い用例です(リトレで引用)。
16世紀ラブレーの第三之書(1546)第14章にも「Esveiller le chat qui dort」(眠っている猫を起こす)が諺として出てきます。
ほぼ表題の形で見えるのは、ムーリエの『金言宝典』(1568)が恐らく最初のようです。
仏仏辞典『アカデミーフランセーズ』では第1版(1694)~第9版(1992)までコンスタントに収録されています(諺の意味の説明は多少変化しています)。

【英語の諺】英語では「犬」です。

  • Let sleeping dogs lie.
    眠っている犬は寝かせておけ。

【日本の諺】日本語では乳幼児(赤ん坊)です。

  • 寝た子を起こすな

せっかく寝つかせたのに、起こすとまた泣き出したりして、手がかかって大変だからです。

場合によっては、このフランス語の諺は「藪蛇(やぶをつついて蛇を出す)」、「触らぬ神にたたりなし」に近いかもしれません。

Il ne faut pas vendre la peau de l'ours avant de l'avoir tué.

【逐語訳】「殺す前に熊の皮を売ってはならない」

【日本の諺】「とらぬ狸(たぬき)の皮算用」

(日本だとタヌキですが、フランスだと熊なので、いわば「とらぬ熊の皮算用」です)

【使い方】 表題の形の他、次のような成句表現でも使われます。

  • vendre la peau de l'ours
    熊の皮を売る

これで「早合点して不確実な成功で得意になる、持っていないものを処分する」という意味になります(Rat (2009), p.298)。

この成句表現を応用した絵葉書があります。

【使用例】実際の日常会話での使用例については、こちらの本をご覧ください。

【単語の意味と文法】 「Il ne faut pas ~」は「~してはならない」という禁止の表現
「vendre」は他動詞で「売る」。その直接目的が「la peau de l'ours(熊の皮)」です。
「peau」は女性名詞で「肌、皮、皮革」。
「ours」は男性名詞で「熊」。この単語は最後の s も発音して「ウルス」と発音します。

「avant de ~」は「~する前に」。後ろに不定詞がきます。
「l'」は「l'ours(熊)」を指しています。
「tué」は他動詞 tuer(殺す)の過去分詞。
ここで avoir + p.p. になっているのは、内容的に(論理的順序で)考えた場合、「売る」行為よりも「殺す」行為のほうが先に完了しているからです。
例えば、avoir + p.p. の複合過去(英語の現在完了)を使った次のような文がベースにあると考えることもできます。

  • J'ai tué l'ours. (私は熊を殺した)

ただ、「殺した前に」というのは日本語として変なので、「殺す前に」としておきます。

【由来】 ラ・フォンテーヌの『寓話』 第5巻第20話「熊と二人の友人(L'Ours et les deux Compagnons)」で有名になった諺です。これは次のような話です。

  • 二人の友人がお金に困り、まだつかまえていない熊の毛皮を毛皮商人に売ることにし、毛皮の値段と引渡し日を決めてから、熊を探しに森に行った。
    しかし、実際に熊に出会ったら二人とも肝をつぶし、一人は木の上に上り、もう一人は死んだふりをした。熊は死んだふりをしていた者に近づいて何か言ったのち、去っていった。
    木の上から下りてきた者が、死んだふりをしていた者に、「熊は何と言ったんだ?」と聞くと、死んだふりをしていた者は次のように答えた。
    「熊は私に言ったんだよ、まだ打ち倒していない熊の皮を決して売ってはならない、とね」。

もとはイソップ物語に出てくる話です(岩波文庫『イソップ寓話集』、p.68「旅人と熊」)。ただし、熊が言ったことを伝える最後のせりふが異なり、イソップ物語では「熊は私に言ったんだよ、危険なときにそばにいてくれない友人とは、一緒に旅をするな、とね」といったような内容になっていて、この諺は出てきません(ただし、イソップ物語タウンゼント版では、違う話(122話)でこれに類する諺が出てきます)。

また、ラ・フォンテーヌよりも 2 世紀ほど前、ルイ11世に仕えたフィリップ・ド・コミーヌ (Philippe de Commynes、1447 - 1511) の『回想録』(Mémoires )第4巻(1490年刊)第3章でも、すでに同じ話が語られ、ラ・フォンテーヌとほぼ同じフランス語の形でこの諺が出てきます。
当時(15世紀終わり)、フランス王ルイ11世、ドイツ王フリードリヒ3世、ブルゴーニュ公シャルル豪胆公が覇権を争っていた頃、ルイ11世の外交官がドイツ王フリードリヒ3世に対して、ブルゴーニュ公の土地をドイツとフランスで分け合うことを提案したところ、それに対してドイツ王フリードリヒ3世がこの話を持ち出した、とこの『回想録』に書かれています(原文は Googe Books、p. 245 や Antoine Mechelynck 氏のサイト などで閲覧可能)。

【英語の諺】同じイソップ物語に由来する諺があります。

  • Don't sell the skin till you have caught the bear.
  • Catch the bear before you sell its skin.

【似た諺】「もし空が落ちたとしたら、多くの雲雀が捕らえられることだろう

Il n'y a pas de fumée sans feu.

【逐語訳】 「火なくして煙はない」
(火のないところに煙は立たぬ)

【諺の意味】 噂が立つからには、多少なりとも真実が含まれているはずだ。
根も葉もないところに噂が立つはずはない(「煙」は「噂」の比喩)。

【日本語の諺】 「火のない所に煙は立たぬ」
『岩波 ことわざ辞典』(p. 516)には、「翻訳臭さのない表現であるが、明治時代に西欧から入ってきたことわざと見られる」と書かれています。

【単語の意味】 「Il n'y a pas」は Il y ane... pas で挟んで否定にした表現。
「de」は冠詞の de で、「否定文では直接目的には冠詞 de をつける」ことによるものです(Il y a の後ろは直接目的であるため)。
「fumée」は女性名詞で「煙」。
「feu」は男性名詞で「火」。
「sans」は前置詞で「~なしに」(英語の without に相当)。

【逆のバージョン】 「feu (火)」と「fumée (煙)」が入れ替わった次のような諺もあります。

  Il n'y a pas de feu sans fumée. (煙なくして火はない)

「煙なくして火はない」というのは、裏を返せば「火があれば必ず煙を伴う」ということです。この場合の「feu (火)」は「激しい情熱」の比喩で、要するに「心の中で火(熱い情熱)が燃えていたら、どんなに隠そうとしても、隠せるものではない」という意味になります。
ただし、現代では使われる頻度は高くはありません。

【ラテン語の諺 1 】 この諺は古代ローマ時代に遡りますが、出典は 2 つあります(どちらも Maloux (2009), p.79 で引用)。
1 つ目は、プラウトゥス(紀元前254–184年、仏語 Plaute)の喜劇『クルクリオ』に出てくる次の諺です。

  Flamma fumo est proxima. (炎は煙の最も近くにある)

劇の中では、遊女屋の娘に恋して通いつめる若者が、その娘はキスをしただけなので純潔だと主張したのに対して、忠告する言葉として出てきます。「炎」は「純潔を失うこと」の比喩、「煙」は「キスをすること」の比喩で、平たく言えば、キスをしたら純潔を失うまではわずかな距離しかない、という意味です(参考:『ラテン語名句小辞典』 p.110)。

エラスムス『格言集』の I, v, 20 (420) では次のように解説されています(仮訳)。

  • 「この格言は、危険から素早く逃げるようにと私達に警告している。災難を避けたいと思う者は、その原因となるものを避ける必要がある。例えば、道を踏み外したくなかったら、良くない付き合いを避ける必要がある。女と寝たくなかったら、キスをしてはならない」

これを見ると、諺の意味・使い方は現代のフランス語とは異なっていたことになります。

エラスムスより 1 世紀前後あとのジャン・ニコ『フランス語宝典』(1606 年)やコルディエのラテン語の教科書(後述)では、このラテン語の諺がフランス語の諺と結びつけられています。

【ラテン語の諺 2 】 もう一つのラテン語の諺は、紀元前 1 世紀の古代ローマのプブリリウス・シュルスの格言集に出てくる次の諺です。

  Numquam ubi diu fuit ignis, defecit vapor.
    (長い間、火が燃えたところでは、煙が立たないことは決してない)

イタリア文学の最高傑作『神曲』の著者ダンテの師匠にあたる(そしてその名が『神曲』にも登場する)ブルネット・ラティーニ(Brunetto Latini)は、13世紀後半にフランス語で Li livres dou trésor(『宝典』)という本を書きましたが、この本に見られる「Là où li feus a demoré longement, tozjors i seront les fumées」(古い綴り、原文は Gallica, p.360 で閲覧可能、リトレで引用)という表現は、このシュルスの諺をフランス語に訳したものではないかと想像されます (ラティーニ自身はセネカの言葉としていますが、J. Vignes (2005), 193 にも書かれているように、中世にはシュルスの諺はセネカの諺として流布していました)。

【中世~ 17 世紀の用例】 フランス語では 13 ~ 14 世紀の写本に確認され、Morawski の本には類似の諺が複数収録されています(N°745, 1364, 1405, 1566)。なかでも次の N°1405 の諺は、『オックスフォード諺辞典』第 5 版, p.291 などの英語の諺辞典でも引用されています(古い綴りを含む)。

  Nul feu est sens fumee ne fumee sens feu
    (煙なくして火はなく、火なくして煙はない)

その他、15 ~ 17 世紀の用例を拾っておきます。

【2 つの諺の使い分けの歴史】 前述のように、2 つの諺は次のように意味の使い分けがなされています。

  • Il n'y a pas de fumée sans feu. (火なくして煙は立たない)
    =「噂が立つからには、多少なりとも真実が含まれているはずだ」
  • Il n'y a pas de feu sans fumée. (火があれば必ず煙を伴う)
    =「隠そうとしても激しい情熱は隠せない」

しかし、昔は両者はしばしば混同されていたようです。例えば、コルディエのラテン語の教科書では、上記ラテン語の「Flamma fumo est proxima.」のフランス語訳として、

  1606 版では「Il n'est jamais feu sans fumée.」
  1682 版では「La fumée n'est jamais sans feu.」

というように逆の形の諺があてられています。

それでは、2 つの諺の使い分けがいつ確立されたのか、歴代の『アカデミーフランセーズ辞典』を参照して探ってみましょう(ちなみに、昔は ne... pas ではなく ne.. point が使われていました)。

噂が立つからには、
多少なりとも真実が
含まれているはずだ
隠そうとしても
激しい情熱は隠せない
Il n'y a point de
feu sans fumée

(火があれば必ず煙を伴う)
1a, 1b, 2a, 2b, 3a, 3b,
4a,
1a, 1b, 2a, 2b, 3a, 3b,
4a, 4b, 5b, 6b, 7b, 8b, 9b
Il n'y a point de
fumée sans feu

(火なくして煙は立たない)
4b, 5b, 6b, 7b, 8b, 9bなし

(表中の数字の後ろの a は « feu » の項目、 b は « fumée » の項目に記載されていることを示します。例えば「1a」は「第 1 版の « feu » の項目」を意味します)

これにより、次のことが明らかになります。

  • 第 1 版(1694)~第 3 版(1740)では ...feu sans fumée しか収録されておらず、この表現は第 4 版(1762)までは 2 つの意味を兼ねていた。
  • 第 4 版で初めて別途 ...fumée sans feu という形が登場した。
  • 第 5 版(1798)になって両者の使い分けが確立された。

ちなみに、Georges De Backer (1710)Panckoucke (1748) でも ...feu sans fumée だけ収録され、両方の意味が記載されています。

次に、『フュルチエールの辞典』(1690)と『トレヴーの辞典』(1704-1771)でも、2 つの諺の使い分けの歴史を確認してみましょう。

『フュルチエール』(1690)と『トレヴー』の第 5 版(1752)までは feu sans fumée の形だけが収録され、両方の意味が記載されています。
正確には、« feu » の項目では「Le feu ne va point sans fumée 」(『トレヴー』では第 2 版第 2 巻 p.1768、第 5 版第 3 巻 p.1519)、«fumée» の項目では「Il n'y a point de feu sans fumée 」(同じく第 2 版第 2 巻 p. 2068、第 5 版第 3 巻 p.1945)という少し違った形で収録されていますが、どちらにも両方の意味が載っています。

ところが『トレヴー』第 6 版(1771)になると、« feu » の項目(第 4 巻 p.122)では「Le feu ne va point sans fumée 」として両方の意味が記載されていますが、«fumée» の項目(同書 p.348)を見ると「Il n'y a point de fumée sans feu 」と「Il n'y a point de feu sans fumée 」という 2 つの形が記載され、意味が使い分けられており、ちょうど『アカデミー』第 4 版(1762)と同じような状態になっています。

以上により、『アカデミー』第 4 版(1762)と『トレヴー』第 6 版(1771)では半分混乱を残したまま使い分けられており、『アカデミー』第 5 版(1798)で完全に使い分けが確立されたと結論づけられます。

【英語の諺】 No smoke without fire. (There's no smoke without fire.)

なお、英語でも smoke と fire を入れ替えた No fire without smoke. という表現もあり、これは『ブルーワー英語故事成語大辞典』(p. 1634)によると、「いかなる良いことにも必ず悪い反面があるものだ、という意味」だそうです。だとすると、フランス語の ...feu sans fumée とは全然意味が異なります。

【スペイン語の諺】 No hay humo sin fuego.

ちなみに、明治時代のことわざ集『英和対訳 泰西俚諺集』(1889年)には「Where there's fire there's smoke. 火のある処必ず煙あり(西)」(「西」はスペインの意)と記されているそうです(『岩波 ことわざ辞典』(p. 516)による)。とすると、日本にはスペイン語経由で入ってきたのかもしれません。

Il n'y a pas de roses sans épines.

【逐語訳】 「とげのない薔薇はない」

【諺の意味】 「苦しみのない喜びはない」。「まったく悲しみが混じらないような喜びは存在しない」。
「とげ」は「苦痛」、「薔薇」は「喜び」の比喩と受け止められているので、この諺は次の表現と同じ意味だと説明されます。

  Il n'y a pas de plaisir sans peine. (苦痛のない喜びはない)

あるいは、「この世に完璧な幸福は存在しない」(ホラティウス)という言葉を引用して説明されることもあります(D. ルーバン)。

【日本の諺】 「楽あれば苦あり」

【単語の意味と文法】 「Il n'y a pas」は Il y ane... pas で挟んで否定にした表現。その後ろの「de」は冠詞の de で、「否定文では直接目的には冠詞 de をつける」ことによるものです(Il y a の後ろは直接目的であるため)。
「rose」は女性名詞で「薔薇」。
「sans」は前置詞で「~なしに」。前置詞 sans の後ろは無冠詞になりやすいので、ここも「épines」は無冠詞になっています。

「épine」は女性名詞で「とげ」。
「épine」の語源はラテン語の spina (とげ、背骨)です。背骨は、とげのような突起状になっているから、「とげ」も「背骨」も同じ単語で表すのでしょう。英語に入ると spine (背骨)となります。

【他のバージョン】 否定の ne... pas の代わりに ne... point を使って次のように言うこともあり、こちらのほうが昔ながらの言い方です。

  Il n'y a point de roses sans épines. (とげのない薔薇はない)

さらに格調高い表現だと、Il y a の意味で Il est を使用することもできるので、次のように言う場合もあります。

  Il n'est point de roses sans épines. (とげのない薔薇はない)

【英語の諺】 No rose without a thorn.

【由来】 1611年のコットグレーヴの仏英辞典に Nulle rose sans espine. (「espine」は épine の古い綴り)が英語の「No rose without a prickle.」の意味だと書かれているのが古い用例。

ほぼ同時期、聖フランシスコ・サレジオは次のように書いています。

  • まことに、主よ、この地上においてあなたの意思が行われますように。何らかの苦しみが混じらずに私たちが快楽を持つことはなく、とげなくして薔薇はなく、夜が続かずに昼が来ることはなく、冬を経ずに春が来ることのない、この地上において。主よ、慰めが稀で、なすべき仕事が多いこの地上において。
    聖フランシスコ・サレジオ(François de Sales、1567–1622)は、16~17世紀初めに、カトリックの聖職者としてジュネーヴの司教に任ぜられながら、プロテスタントの拠点となっていたジュネーヴには入れずにその手前のフランスの町アヌシーを拠点に活躍した人。上に訳した一節はTraité de l'amour de Dieu (『神愛論』)第9巻第1章に出てきます。下線部は point de roses sans espines となっています。原文は Google Books(1620年刊、p.484)またはスイスのサンブノワ修道院のサイトで閲覧可能。

1690年のフュルチエールの辞典の espine の項目には Il n'y a point de roses sans espines. として収録されており、『アカデミーフランセーズ辞典』第1版(1694)と第2版(1718)では Il n'est point de roses sans espines. 第3版(1740)以降では Il n'est point de roses sans épines. という形で記載されています。

【その他】 「rose sans épines (とげのない薔薇)」と言うと、「欠点のない美しさ」を意味し、古くから聖母マリアの象徴としても使われてきました。
この場合、「とげ」は「欠点」、「薔薇」は「美しさ」の比喩です。

なお、トルコには「バラを愛する者はトゲを我慢する」という諺があり、これは「美人なら欠点を許容せよとの教えである」そうです(『遊牧民族の知恵 - トルコの諺』、p.146)

Il y a anguille sous roche.

【逐語訳】 「岩の下にうなぎがいる」

【単語の意味】 「Il y a ~」は「~がある、~がいる」。「anguille」は女性名詞で「うなぎ」。
「sous」は前置詞で「~の下に」〔英語 under 〕。「roche」は女性名詞で「岩」。

anguille と roche は諺なので無冠詞になっていますが、普通に情景描写として「(その)岩の下に(一匹の)うなぎがいる」と言うなら、次のようになります。

  Il y a une anguille sous la roche.

「une」は不定冠詞で「ひとつの」。「la」は定冠詞で「その」。

【諺の意味】 「なんだか怪しい」。「どうも何かありそうだ」。陰謀や危険が隠れているような気がする時に使われます。

【anguille の語源】 anguille (うなぎ)の語源は、ラテン語の anguis (蛇)です。もともと、うなぎが蛇だったとすれば、危険なのも納得できます。

また、この諺が「なにか陰謀の企てられている象徴なのは、古い guiller という動詞がだますことを意味しているから」(『フランス語の成句』、p.105)です。

【由来】 ラテン語には、anguis (蛇)という単語を使った次のような諺があります。

  latet anguis in herba (蛇が草の中に隠れている)

これは「悪意ある敵や罠、思いがけない欠陥や障害が見えない場所に潜んでいることを警告する言葉」(『ラテン語名句小辞典』、p.161)でした。

フランス語では、この諺は中世から存在したと推測されます。
1670 年のモリエールの『町人貴族』第 3 幕第 7 景には次のようにして出てきます(原文は WikisourceSite-Molière.comTOUTMolière.net などで閲覧可能)。

  Je crois qu'il y a quelque anguille sous roche.
  「なんだか様子がおかしいようで。」 (岩波文庫、鈴木力衛訳、p.63)

このように「quelque (何らかの)」をつけると、「何かしら」変だという感じになります。

【他のバージョン】 否定疑問文にして、次のように言うこともあります。

  N'y a-t-il pas anguille sous roche ?
    (岩の下に、うなぎがいるのではないだろうか?)

これは Il y a の疑問文の Y a-t-il を、否定の ne... pas で挟んだ形です。

【余談】 鰻は現代のフランス料理ではあまり使用されていないようですが、それでも料理辞典を見ると色々な調理法が記載されており、例えばラルース料理辞典によると、最も伝統的な調理方法は赤ワイン煮(matelote、マトロット)だそうです。
中世には「うなぎのパテ(pâté d'anguille)」として食べられていたようで、15 世紀の笑劇(farce、ファルス)の一つ Le Pâté et la Tarte などにも出てくるほか、17 世紀のラ・フォンテーヌ の『コント』(第 4 部第 11 話)にもご馳走の象徴として(どんな美女でも毎晩だと厭きることの比喩として)登場し、「またウナギのパテか!(Toujours pâté d'anguille !)」という言葉が有名です(原文は Wikisource で閲覧可能。邦訳『愛の神のいたずら』、社会思想社 教養文庫、p.186)。

Il y a loin de la coupe aux lèvres.

【逐語訳】 「盃(さかずき)から唇までは遠い」

【諺の意味】 酒の入った盃を口に運ぶ途中で、不意の出来事によって飲めなくなってしまうこともあるように、まさに実現しそうに思われたことが、あと一歩のところで実現できないこともあるものだ。

より抽象的に言えば、「欲望と実現の間には、さまざまな出来事が起こりうるものだ」(『プチ・ラルース2013』)。
あるいは、「欲望から満足までは遠い」(『アカデミー辞典』第9版)。

「de la coupe aux lèvres」(盃から唇まで)だけでも、「あと一歩のところで手が届かない」という意味になります。

【背景】 背景には、古代ギリシア・ラテン人の食事の習慣があるようです。ラルースの表現成句辞典には次のように書かれています(Rat (2009), p.130)。

  • 古代人は半分寝そべりながら食事をし、大きめの低い盃を使って酒を飲んでいたので、唇に運ぶ前に酒がこぼれることがよくあった。そこから、ごく自然に生まれた諺である。

【ギリシア神話】 この諺は、ギリシア神話に出てくるアンカイオスの話に由来します。高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』には次のように書かれています。

  • 彼〔アンカイオス〕は葡萄を植えたが、召使の一人が彼はその葡萄酒を飲む前に死ぬと言った。実った時、葡萄を搾ったが、召使は「盃と唇とのあいだは遠い」と言い、アンカイオスは酒を飲まないうちに、猪に殺された。

『ブルーワー英語故事成語大辞典』 p.50には、もう少し詳しく書かれています。

  • 彼〔アンカイオス〕は酷使された奴隷から、己のブドウ畑で作られたブドウ酒を生きて味わうことは決してないだろう、という予言を受けた。そして、その後自分のブドウから作られたブドウ酒が目の前に用意されたとき、アンカイオスはその奴隷をそばに呼んで、以前の予言のことであざ笑った。しかし、奴隷は答えていった。「杯と唇の間には多くの災難の見落としがあるものです」と。ちょうどそのとき、使いが来て、カリュドンのイノシシがアンカイオスのブドウ畑を荒らしていることを告げた。アンカイオスは杯を置くと、イノシシを殺しに出かけて行き、そのイノシシに遭遇して命を落とした。
    英語原文(1898年版)は bartleby.com などで閲覧可能。

これとほぼ同じエピソードは、夏目漱石が1898年(明治31年)に雑誌「ホトトギス」に寄稿した「不言の言」(『漱石全集第10巻初期の文章及詩歌俳句』所収) p.261にも出てきます(戸田 (2003), p.294)。漱石はギリシア語の「アンカイオス」を英語読みにして「アンシーアス」と言っています。

  • 塞翁の馬の向こうには「アンシーアス」の盃なる故事あり。其源を尋ぬるに、昔希臘に「アンシーアス」と呼ぶ人あり。其僕(しもべ)嘗て之に告げて曰く、御宅には葡萄畠もあり葡萄酒も出来ますが到底此酒を召し上がる訳には参りませんと。主人信ぜず。既にして葡萄熟し醸成って一瓶の美酒主人の卓に上る。主人此時なりと僕を呼び、兼ての失言を詰りしに、僕服せずして曰く、唇と盃の距離は短きがごとくなれども其間にて種々の失敗あるべしと。言未だ訖(おわ)らず、忽ち人ありて主人に告ぐるに一頭の野猪あり園中に闖入して其葡萄を荒らし去るを以てす。主人盃を挙ぐるに及ばず、蹶然(けつぜん)として起って野猪を追う。不幸にして其牙に罹って死し、僕の言遂に讖(しん)を為す。

漱石は、1870年(明治3年)にロンドンで初版が出た『ブルーワー』を読んで、この話を書いたのかもしれません(この後、漱石は1900-1902年(明治33-35年)にイギリスに留学しています)。

しかし、さらに元をたどると、この話は1500年に初版が出たエラスムス『格言集』 I, V, 1 (401) にほとんどまったく同じ形で書かれています。
つまり、
  エラスムス→ブルーワー→夏目漱石
という順で、ほぼ同じ形でギリシア神話が語り継がれています。

【単語の意味と文法】 「Il y a ~」は「~がある、~が存在する」
ふつうは Il y a ~ の「~」の部分には名詞が来ますが、ここでは「loin」(遠くに)という副詞がきています。
辞書(多くの場合 avoir の最後のほうに記載)で il y a を引いてよく見ると、「距離」という項目があり、たとえば『ディコ仏和辞典』には次のような例文が載っています。

  • Combien y a-t-il d'ici à la gare ?
    ここから駅まで、どれくらいありますか?
    「Combien」は副詞で「どれくらい」。「y a-t-il」はil y aの疑問形。「Il y a ~」の「~」に相当する部分が「Combien」です。
    このように、「~」の部分に副詞がくることもあります(参考:朝倉(2002), p.253)。

「loin」は副詞で「遠くに」。
「de」は前置詞で「~から」(場所の起点)。
「coupe」は女性名詞で「盃(さかずき)」。
ここでは夏目漱石の文章にならって「杯」ではなく「盃」と表記します(引用文は除く)。

「aux」は前置詞 à と定冠詞 les の縮約形
この「à」は前置詞で「~に、~まで」(到着点)。
「lèvre」は女性名詞で「唇」。上下あるので、普通は複数形で使われます。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【諺の由来】 2 世紀の古代ローマのアウルス・ゲッリウス『アッティカ夜話』に、大カトー(紀元前3-2世紀)が語った言葉として次のように書かれています。

これをフランス語に訳したと思われる諺が、12世紀後半の『狐物語』に次のような形で出てきます(Quitard (1842) p.167)。

1568年に初版が出たムーリエ『金言宝典』にも次のような諺が収録されています。

  • De la main à la bouche, se perd souvent la soupe.
    手から口へは、しばしばスープがこぼれる。
    1581年版 p.65による(現代の綴りに直して引用)。倒置になっています。

ただし、以上の諺は「食べ物を食べる」形になっています。

元のギリシア神話にあるような「盃で酒を飲む」形になったのは、エラスムスが直接ギリシア神話を紹介して以降のことのようです。
つまり、「盃」という言葉を使った表題の諺は、直接的にはエラスムスを通じてフランス語や英語に入ったと考えられます。
ロベールの表現辞典にも、「この諺的表現はすでに古代ギリシアで使われており、ルネッサンス期にフランス語に訳されたに違いない」と書かれています(Rey/Chantreau, p.260)。また英語の諺も、エラスムスの格言集の英訳本(1539)が初出です(『オックスフォード諺辞典』第5版 p.203による)。

「盃」という言葉を使ったフランス語の諺の早い用例としては、1690年のフュルチエールの辞典(boucheの項)に次の形で記載されています。

  • Il arrive beaucoup de choses entre la bouche et le verre.
    口と盃の間には多くのことが起こる。
    「il」は「後出の名詞を指す仮主語の il」で、意味上の主語は「beaucoup de choses」。

もっと表題の形に似た初期の用例としては、1832年にアルフレッド・ド・ミュッセが La coupe et les lèvres (盃と唇)という劇を発表しており、作品の冒頭に次の言葉が諺として引用されています。

  • Entre la coupe et les lèvres il reste encore de la place pour un malheur.
    盃と唇の間には、まだ不幸の起こる余地が残されている。
    この「il」も「後出の名詞を指す仮主語の il」で、意味上の主語は「de la place」。この「de la」は部分冠詞

仏仏辞典『アカデミー辞典』では、第7版(1878)(lèvreの項)に次の形で載っており、「一瞬にして変わることがある人間の物事の不確かさを表現するのに使われる」と書かれています。

  • Entre la coupe et les lèvres il peut se passer bien des choses.
    盃と唇の間には多くのことが起こりうる。
    この「il」も「後出の名詞を指す仮主語の il」で、意味上の主語は「bien des choses」。「bien de + 定冠詞 + 名詞」は「多くの~」。

第8版(1932-1935)からは表題と同じ Il y a loin de la coupe aux lèvres. という形で載っており、第8版では「目的に達したと思っても、まだ目的から遠いということもよくあるものだ」、第9版(1992-)では前記のように「欲望から満足までは遠い」という意味だと書かれています

【他のバージョン】 次の諺も、同じギリシア神話に由来し、語調がよいこともあって広く使われています。

  • Vin versé n'est pas avalé.
    つがれた酒は、飲まれたわけではない。
    古くは1752年の『トレヴーの辞典』第 5 版(第7巻および補遺t.2)に確認されます。

【英語】 英語では次のように言います。

  • There is many a slip between the cup and the lip.
    盃と唇の間で、何度もすべり落ちることがある。
    「many a slip」は many slipsに同じ。
    『オックスフォード諺辞典』第5版 p.203では無冠詞のThere's many a slip between cup and lip. という形で収録され、『ブルーワー』 p.449ではbetweenの古い形 'twixtを使ったThere is many a slip 'twixt cup and lip. という形で収録されています。

【日本の似た諺】 日本の諺には、ぴったり相当するものがなく、何に似ているとするかは、仏和辞典・諺辞典等によってばらつきがあります。

元のギリシア神話を踏まえるなら、この中では「一寸先は闇」に似ている気がします。ちなみに、上記の夏目漱石の文章では「塞翁の馬」(人間万事塞翁が馬)と対比されています。

【フランス語の似た諺】 「まだ成功していないのに喜ぶのは早い」という点では、次の諺に似ています。

Jamais deux sans trois.

【逐語訳】 「3 なしに 2 は絶対ない」
( 2 があれば必ず 3 がある)

【日本の諺】 「二度あることは三度ある」

【英語への逐語訳】 Never two without three.

【諺の意味・用法】 日本のことわざと同じ意味です。

しばらく前の新聞記事では、「チュニジアとエジプトで民主化運動が起こった。二度あることは三度ある。今度はリビアの番だ」という意味で使われていました。

日常会話では、どちらかというと悪い出来事(ついていない、アンラッキーな事柄)が続く場合に使われることが多いようです。

少し変わった使い方としては、本を 2 冊買うと、もう 1 冊無料でもらえるというキャンペーンで、「2 冊買えば 3 冊差し上げます」という意味で、キャッチコピーとしてこの諺が使われていたこともあります。
日本の「二度あることは三度ある」とは違って、フランス語の諺には「度」に相当する言葉がないので、そのぶん応用範囲が広いようです。

【単語の意味】 「Jamais」は普通は ne とセットで使われ、ne ...jamais で「絶対に ...ない」 という意味ですが、ここは省略した表現で、jamais だけで強い否定を表しています。
「deux」、「trois」は数詞で「2」、「3」。

「sans」は前置詞で「~なしに」〔英語 without〕。
ちなみに、sans と発音が同じ単語に cent (数字の「百」)があります(原則として語尾の s や t は発音せず、an と en は発音が同じため)。

【由来】 この諺は、昔から存在したように感じてしまいますが、意外なことに文献上確認できるのは、19 世紀の若干の用例を除けば、20 世紀以降です。
仏仏辞典『アカデミーフランセーズ』でも、第 8 版(1932-1935)までは収録されておらず、第 9 版(1992)になって初めて採録されています。
ただし、表現が口語的なので書物には記載されなかっただけで、実際は古くから人々の間で語り継がれてきた表現のような気もします。

この諺の起源をめぐっては、さまざまな推測・憶測がなされています。

例えば、13 世紀の諺に「tierce fois, c'est droit」(逐語訳すると「三度目、それが法だ」)という表現があり(Morawski, N°2378 には古い綴りで「Tierce foiz c'est droiz」と記載)、これは「物事は三回正しく行われなければ成功したことにはならない」 という意味だったようですが、これが変化したとする説。

あるいは、昔よく行われていた遊び(ゲーム)の規則に起源があり、その遊び自体は忘れ去られたものの、遊びで使われていた表現だけが残ったとする説。

変わったところでは、戦争中、夜中に兵士が煙草を吸うとき、1 本目の煙草の火をつけると敵の兵士がそれに気づき、2 本目の火をつけるとそれに向かって銃の照準を合わせ、3 本目の火をつけたときに銃を発射して仕留める、といったことがよくあり、「敵の陣地で煙草をつける火が 2 回見えたら、必ず 3 回目もあるはずだ」というのが諺の起源だ、とする俗説などもあります。

【余談】 この諺を聞いたときにフランス人がよく思い浮かべるのは、フランスの自動車メーカー、プジョーの車の名前です。
プジョーの車は、「プジョー 308」や「プジョー 203」など、真ん中に 0 が入る 3 桁の数字が名称に採用されています。例えば「203」は日本語では「ニーマルサン」と呼びますが、フランス語では「deux zéro trois」ではなく「deux cent trois」(二百三)と発音します。これが実は諺の「deux sans trois」とまったく同じ発音になります。
そのため、この諺は「Jamais 203 ! 」と言っているように聞こえ、「(プジョー)203 は絶対ダメだ!」という意味を思い浮かべてしまうフランス人も多いようです。

ちなみに、「プジョー 203」というのは、戦後生産されていた、こんな感じ(画像検索)の古い車です。

【言葉遊び】 フランス語の r の発音は喉の奥でかすれるような音なので、ほとんど聞こえないくらいの時もあります。 trois から r を抜かすと「トワ」となり、 toi (君)と同じ発音になります。これを使ったのが次の言葉遊びです。

  • Jamais deux sans toi.
    君なくして絶対に二(人)ということはない。

つまり「あなた以外の人とは一緒になるつもりはない」というような意味です。

この言葉遊びはよく知られており、昔の絵葉書などにも使われています。

また、次のような題名のフランスのテレビ・ドラマもありました。

  • Jamais deux sans toi...t

この場合は、 toi (君)に、さらに同じ発音の男性名詞 toit (屋根)が掛けられており、上の意味に加えて、「一つの屋根の下に住まなければ、カップルではいられない」、「一緒に住まなければ嫌だ」という意味も掛けられています。











⇒ やさしい諺(ことわざ) 1 ( A ~ D )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 2 ( F ~ J )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 3 ( La ~ Lem )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 4 ( Les ~ Lo )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 5 ( M ~ P )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 6 ( Q )
⇒ やさしい諺(ことわざ) 7 ( R ~ Z )







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