「北鎌フランス語講座 - ことわざ編」では、フランス語の諺の文法や単語の意味、歴史的由来などを詳しく解説します。

俗信のディクトン

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Araignée du matin, chagrin ;
Araignée du midi, souci ;
Araignée du soir, espoir.

【訳】 朝の蜘蛛(くも)、悲しみ。
昼の蜘蛛、気がかり。
夜の蜘蛛、希望。

【解説】 Pierron (2000), p.163 では次のように解説されています。

  • このディクトンは、俗信であると同時に観天望気でもある。朝に蜘蛛が現れると、それは雨になるしるしであり、雨は涙として捉えられている。蜘蛛がその習性に反して昼に姿を現すと、蜘蛛の巣を壊すような嵐になるしるしである。夜に蜘蛛が現れるのは、大気が安定していて晴天が続くしるしである。
    ビドー・ド・リール (1996), p.817 でもほぽ同様に説明されています。

つまり、観天望気(=天候予測)としては、「朝の蜘蛛は雨、昼の蜘蛛は嵐、夜の蜘蛛は晴れになるしるしである」という意味です。

ただし、ディクトンは覚えやすくするために語呂がよくなければならないので、韻(脚韻)を踏むために matin(朝)にあわせて chagrin(悲しみ)、midi(昼)にあわせて souci(気がかり)、soir(夜)にあわせて espoir(希望)という言葉が選ばれています。

こうした言葉が選ばれたことによって、「悪いこと・良いことが起きる前触れである」というような「俗信」、つまり「縁起かつぎ」も重ねられています。
つまり、
  「朝と昼に蜘蛛を見かけたらアンラッキー」
  「夜に蜘蛛を見かけたらラッキー」
という意味です。

2行目の「昼」は抜かして「朝」と「夜」だけでセットにすることもあります。

実際には、蜘蛛をみかけた時間帯によって、どれか一つだけを言うことも多いようです。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

Froides mains, chaudes amours.

【逐語訳】 「冷たい手、暖かい愛」

【意訳】 「手が冷たいのは愛している証拠」

【日本の諺】 「手が冷たい人は心が温かい」

【背景】 手相占いに由来するようです。Quitard (1861), p.285 では次のように解説されています。

  • 今日でも「彼は手が冷たいから、ずっと愛してくれるにちがいない」などと言うが、これは手相占いの格言によるものである。手相占いによれば、ひんやりとした冷たい手は、愛情のある気質を示す特徴的なしるしである。なぜなら、温かい血が手に通っていないのは、情熱の主要な器官であると考えられる心臓に血が集中している証拠だからだ。反対の諺に Chaudes mains, froides amours. 温かい手、冷たい愛(=手が暖かいのは、愛していない証拠)がある。

【単語の意味と文法】 「Froides」は形容詞 froid(寒い、冷たい)に女性複数を示す es がついた形。
「mains」は女性名詞 main(手)の複数形。
「chaudes」は形容詞 chaud(暑い、熱い、温かい)に女性複数を示す es がついた形。
「amours」は男性名詞 amour(愛)の複数形。

ただし、amour(愛)という単語は、16世紀までは女性名詞とされており、16~17世紀に(ラテン語にならって)男性名詞に変更されたため、男性扱いとすべきか女性扱いとすべきか、混乱が生じています(Cf. 朝倉『新フランス文法事典』 p.42右)。現代でも、特に詩や文学などでは、例えば premières amours 「初恋」のような女性複数の形を使った表現がよく用いられます(Cf. 「人はつねに初恋に戻るものだ」)。

この諺は16世紀前半には存在し(次項参照)、それ以降も詩や文学などでは(雅語のような雰囲気を伴って)女性複数が用いられてきたために、それほど違和感なく女性複数のまま語り継がれてきたのだと思われます。

【由来】 1528年に初版が出たグランゴールの諺集に表題とまったく同じ形で確認されます(Maloux (2009), p.312 ; Klein (2007), p.24 による)。

仏仏辞典では、1690年のフュルチエールの辞典に収録されており、少し舌足らずに次のように説明されています。

  • 人が激しく愛しているときは、体外の熱が体内に引っ込むことを示すために言う。

18世紀の諺辞典 Le Roux (1718) では、もう少しわかりやすく説明されています。

  • 手が冷たいのは、愛の激しさによって、熱が心臓に集中していることを示している。

アカデミー辞典』では、第1版(1694)から第7版(1878)まで一貫してこれと同じ形で載っていますが、第8版(1932-1935)以降はなぜか収録されていません。
俗信ということで切り捨てられたのかもしれませんが、もちろん現在でも使われる表現です。

【他のバージョン】 現在では、次のように言うほうが多いようです。

  • Mains froides, cœur chaud.
    冷たい手、暖かい心。
    このほうが形容詞が(現代の語法から見て)通常の位置(つまり名詞の後ろ)にくるので、違和感がありません。

【英語】 英語でも同じ表現をします。

  • Cold hands, warm heart.
    冷たい手、暖かい心。
    英語の初出は19世紀後半以降のようです。

これに関して、『英語常用ことわざ辞典』 p.32 に面白い説明が載っています。

  • 英米人は握手する習慣のせいか、手の印象が気になるようである。

【図版】 この諺を描いた、洒落た絵葉書があります。

Quand le chat se débarbouille
bientôt le temps se brouille.

【訳】 「猫が顔を洗うと
まもなく雲行きが怪しくなる」

【単語の意味と文法】 「Quand」は接続詞で「...とき」。
「chat」は男性名詞で「猫」。
特に雄・雌を区別しないときは、雌猫も含みます。

「débarbouille」は他動詞 débarbouiller (~の汚れを落とす、~の顔を洗う)の現在3人称単数。
その前の再帰代名詞「se」は、ここでは「再帰的」な意味で、「自分の顔を洗う」。

ちなみに、猫が「顔を洗う」とは、猫が自分の前脚を舐めながら(唾液で濡らしながら)、顔をこすることをいいます。

「bientôt」は副詞で「まもなく」。
「temps」は男性名詞で「時、時間」、「時代」、「天気」。

「brouille」は他動詞 brouiller (~をかきまぜる、~を曇らせる)の現在3人称単数。
これに再帰代名詞「se」がつき、ここでは「他動詞を自動詞的な意味に変換」する働きにより、「自分を曇らせる」、つまり「曇る」。
「le temps se brouille」で「天気が曇る」ですが、「雲行きが怪しくなる」としておきます。

本当は曇るだけでなく、「(曇って)雨になる」と言いたいところですが、「débarbouille」と韻を踏むために「brouille」という言葉が選ばれていると考えられます。

【派生バージョン】 実際には、猫が「顔を洗う」のは、ありふれた(おそらくほとんど毎日行う)動作なので、この諺が正しいとすると、毎日雨になってしまいます。

そのためかどうかわかりませんが、もう少し条件をつけて、「顔を洗う」ときに前脚を大きく動かして耳を越えた場合には雨、と言うこともあります。

  • Quand le chat se débarbouille,
    avec sa patte de velours,
    s'il va par-dessus l'oreille,
    il pleuvra avant trois jours.
    猫がそのビロードの脚で
    顔を洗うとき、
    耳を越せば
    3 日以内に雨が降るだろう
    このバージョンは Pierron (2000), p.166 等に記載されています。 1行目と3行目の末尾、2行目と4行目の末尾がそれぞれ韻を踏んでいます。「pleuvra」は pleuvoir の単純未来3人称単数

【日本の諺】 日本にも、「猫が顔を洗うと雨」という俗諺があります。

大後美保『天気予知ことわざ辞典』によると、「猫が顔を洗うと雨」という諺が「最も広くいわれている」(p.232)そうですが、同書にはまったく逆の「猫が顔を洗えば天気」(p.315)という諺も載っています。

また、脚が耳を越した場合は、次のように雨になるとする地方もあれば、晴れるとする地方もあるようです(同書 p.232, 315)。

  • 猫が顔を洗う時、耳以上を洗うと雨が降る (岡山県)
  • 猫が顔を洗う時、耳を越えれば晴 (福島県その他)

Tête de fou ne blanchit jamais.

【訳】 「馬鹿は白髪にならない」

【諺の意味】 「馬鹿は悩んだり苦労したりしないので、白髪にならない」。

ちなみに、「白髪になる」というのは比喩的に「賢くなる、成熟する」という意味も併せ持つとする説もあります(Richelet, éd. 1759, «blanchir» )。

また、昔の仏仏辞典には、「普通は狂人は長生きしない」(早死にする)という意味だとする説も紹介されています(『アカデミー辞典』第 1 版 (1694) ~第 4 版 (1762), «teste» ; «tête» )。

【図版】 この諺を題材にした絵葉書があります。

【単語の意味と文法】 「Tête」は女性名詞で「頭」。
昔からある諺なので、無冠詞になっています。
「fou」は形容詞で「頭が狂った、馬鹿な」という意味もありますが、ここでは名詞で「狂人、気違い、馬鹿」。
「ne... jamais」は「決して... ない」
「blanchit」は blanchir (他動詞で「白くする」、または自動詞で「白くなる」。ここでは自動詞)の現在 3人称単数。

直訳すると、「馬鹿の頭は決して白くならない」。

【似た日本の諺】 日本語で、「馬鹿は禿げない」というのは聞いたことがある気もしますが、諺辞典のたぐいには載っていないようです。

「馬鹿は風邪ひかない」というのは有名かと思いますが、こちらは逆にフランス語の諺にはなさそうです。

Ventre pointu n'a jamais porté chapeau.

【訳】 「尖ったおなかが男の子をはらんだためしはない」

ここでは chapeau(帽子)は「男」という意味です(後述)。

【諺の意味】 「妊婦のおなかが尖った形をしていると男の子は生まれない(つまり女の子が生まれるしるしである)。

(逆に、おなかが丸々と太っていると男の子が生まれる)

俗信(迷信)ですが、フランスでは、よく妊娠した若い女性がこの諺を気にするようです。

【単語の意味と文法】 「Ventre」は男性名詞で「腹、おなか」。
「pointu」は形容詞で「尖った」。
point(点)や pointe(先端)から派生した言葉です。
n'... jamais」は「決して ...ない」。
「a」は助動詞 avoir の現在 3人称単数。

「porté」は他動詞 porter (持つ、身につける)の過去分詞。
porter は「〔帽子を〕かぶる」という意味もあり、porter chapeau で「帽子をかぶる」。しかし、「尖ったおなかが帽子をかぶる」では、意味がよくわかりません。
実は、辞書をよく見ると、porter には「〔妊婦・腹が子供を〕はらむ」という意味もあります。とすると、「帽子をはらむ」ですが、ますます意味がわかりません。
これについて、以下で説明を試みてみます。

「chapeau」は男性名詞で「帽子」。
今でこそ男女問わず chapeau(帽子)をかぶりますが、昔はしっかりとした縁のついた chapeau(帽子)をかぶるのは男性だけで、女性は coiffe(かぶりもの)をかぶっていました。
そのため、この chapeau(帽子)という言葉は、比喩(換喩)によって「男の子」を意味すると取ることができます。つまり、chapeau(帽子)= garçon(男の子)です。
porter chapeau で「男の子をはらむ」となります。

しかし普通は、porter chapeau といえば「帽子をかぶる」という意味に取りたくなります。これは辞書の熟語欄にこそ載っていませんが、詳しい辞書を見れば用例として載っています。 chapeau が無冠詞なのは、やや熟語化しているからであり、よく使われることを物語っています。
この porter(かぶる)と chapeau(帽子)は、いわば日本の古文でいうところの「縁語」のような、潜在的に密接な関係にあります。
しかし、この 2 語がそうした関係にあるからこそ、「男」を意味する比喩として、ことさら chapeau という言葉が選ばれたといえると思います。

要するに、「帽子をかぶる」と「男の子をはらむ」を掛けた表現だといえます。

「a porté」で avoir + p.p. なので複合過去
ここでは複合過去は「経験」を表し、「(これまで)男の子をはらんだことがない」、つまり「男の子をはらんだためしがない」という感じです。

【由来】 1823 年の La Mésangère の諺辞典では次のように説明されています。

  • 妊婦についての諺。お腹が丸々としていなければ、女の子しか生まれない。
    アカデミー辞典第 6 版補遺(1842)でも似たような説明がなされています。

十九世紀ラルース(第 3 巻 « chapeau »、1866)にはこのディクトンについて次のように書かれています。

  • 妊娠した女性のおなかが尖っていると、男の子は生まれない。ただし、この観察が正しいかどうかは保証しかねる。

現代のラルースの諺辞典では、「ディクトンとは何か」を説明した中で、典型的なディクトンの例の一つとしてこの表現が取り上げられています(Maloux (2009), p.VI)。

【似た表現】 「おなかが尖っていると女の子が生まれる」という意味で、次のような表現もあります。

  • Ventre pointu, sexe fendu.
    尖ったおなか、裂けた性器。

直接的すぎる表現ですが、「pointu」(尖った)と「fendu」(裂けた)でうまく韻を踏んでいるために、下品になりすぎるのを免れているともいえます。

もっとストレートに次のように言うこともあります。

  • Si le ventre est pointu, c'est une fille. S'il est rond c'est un garçon.
    おなかが尖っていたら、女の子だ。おなかが丸かったら、男の子だ。

しかし、言い伝えによっては、まったく逆に、

  • Si le ventre est pointu, c'est un garçon. S'il est rond c'est une fille.
    おなかが尖っていたら、男の子だ。おなかが丸かったら、女の子だ。

ということもあるようです。
おそらく地方によっても異なるかもしれません。
フランス人も、「私は母からこう聞いた」、「うちではこう言う」などと、違いを楽しんでいるようです。



その他

Pomme du matin
Tue le médecin.

朝の林檎(りんご)は
医者を殺す。

もちろん「朝の林檎は健康によい」という意味です。

これは Pierron (2000), p.200 に書かれている、恐らく古くからある形ですが、現在は次のように言うほうが多いかもしれません。

  • Pomme du matin
    Éloigne le médecin.
    朝の林檎は
    医者を遠ざける。

いずれにせよ、「matin」(朝)と「médecin」(医者)が韻を踏んでいます。

【英語の諺】 英語では(色々なバージョンがあるようですが)次の形が一番ポピュラーなようです。

  • An apple a day keeps the doctor away.
    一日一個の林檎は医者を遠ざける。

日本だと「柿が赤くなると医者は青くなる」でしょうか。



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